2024年1月16日火曜日

浅田彰へのインタビューを読む

 

<私は もっぱら言葉的なものから成る環境と文化の中で、生まれ育ち、教育された わたしは、自分を規制しているその条件から、自分を解放するために、描く>(1994.9)


 図書館でコピーをとろうとしたのだが、著作権があるので、そのインタビュー記事全文はコピー申請できないと言われたので、館内閲覧だけですました。ので、引用的なものは、記憶による。


浅田彰の久しぶりのインタビューが文芸誌『新潮』「アイデンティティ・ポリティクスを超えて」(2024.2月号)に乗っているのを新聞広告で知って、読んでみた。世界情勢的なものは、田中康夫との対談を、スマホニュースで、たまに目を通していた。が、情勢確認程度な話なので、いつしかそれもなくなっていた。

 

が今回、思想的な水準の話になるのだろうと、図書館で読んでみることにしたのだ。が、『構造と力』の文庫化にあたるその件についての話であるためか、あるいは、やはりネット時勢になっているためか、当たり障りのない言い方になっているように思われ、私が若いころのような、啓発的な勉強にはならなかった。

 

が、いくつか、私にとって、問題意識が重なってきたところをメモしておこうと思った。

 

まず一つ目は、「承認」ということ。

 

確かに誰もが表現してもいいしできることだとはいえ、やはり水準というものはあるので、そこには精神分析でいう「去勢」は必要だろう、たとえば、柄谷行人にとってはアメリカでのポール・ド・マンからのVサインの合図が知的水準の「承認」だったろう。ネット上の「いいね」レベルの「承認」を「去勢」していく必要性もあるだろう、というような発言。

 

私も、「去勢」の必要性を認める。とくには子育てにおいて、母子密着的な母親の暴走には、父親の(第三者でもいいのかは、また別問題として――)介入はあったほうがいいと経験する。しかし少年サッカークラブでの、パパコーチ体験の知見からすると、いまはほとんどの「夫」は黙っている。以前、昭和年代は、むしろ妻(母)が黙っていた傾向が強かったと印象受ける。司馬遼太郎が、昭和は日本ではないというように、軍事的緊張の中で、父権的地勢が強まり、その軍隊教育を受けた一般の庶民の間で、戦後、会社や部活、家庭の中に広まっていったのだろうと思う。が、やはり日本の地は、双系的なものなので、より平時がつづくと、母(妻)の力が回復されてくるのだろう。インテリ上層階級では、父権的な家庭雰囲気が残っているだろう。

ちなみに1958年生まれの私の妻いく子が、同世代的な犯罪事件として反応していたのが、金属バット殺人事件、それと、東電OL殺人事件(被害者は1957年生まれ)である。そこには、父権の強さが刻印されている。で一方、母の強さの中で、秋葉原事件が発生してきたのでは、と思われる。その中途経過の犯罪として、酒鬼薔薇事件があるようにも思う。そしてそれから、映画『ジョーカー』を模した拡大自殺事件。いまは、次なる様相に変貌していきそうにみえるが。

 

しかし、「去勢」が、ハイレベルな水準での「承認」と重ねあわされるとき、私のこのブログでも追及してきた、思想的文脈では、ある種の危険性なり陥没が予測される。いわばその「承認」とは、男同士の、ライバルの間での「承認」ということに収れんされやすいからだ(北野武の映画『首』での感想でも触れた問題系)。柄谷の交換論の、交換A(贈与)の高次元での回復という交換Dの提唱とは、氏族社会を生きた侍魂の高次元反復とかいう話になるが、私は、この理論を、唯物論的作為、だと思っている。エマニュエル・トッドが、アメリカでの核家族社会下でのLGBT的な運動に、人類史始まって以来の母権性的な方向での可能性を示唆しているように、私は、トッドの側をとる。

 

*ちなみに、だいぶ依然、浅田彰は、トッドのような見方を批判していた。いまトッドをもてはやしている佐藤優も、トッドのロシアのなんとかという部族の家族分析はまちがっていて、その統計的見方は嘘だ、と批判していた。

 

が、二つ目として、そのLGBT問題。最近はこれに、Q+、と足すらしい。がならばそこに、私は引っかかりを持ったのだが、浅田もそのQにこそ、話をすすめた。

 

浅田は、Qというのは、クイアーというのは、「変態」ということなんだ、そう「である」ではなく、そう「なる」ということなんだ、とその言葉を肯定的に把握しなおす。その文脈で、ジャニーズ問題に触れてくれるのかとおもったが、そういうネット炎上危険があるような話題には、ふれなかった、のが残念だった。

 

私が若いころ読んだ、たしか、ドゥルーズ=ガタリの共著だったと記憶するが、そこでは、ブルジョワの家庭が可愛い子息を育ててくれるので、その子供少年たちを性的にちょうだいしてしまうのは革命的な実践になる、みたいな記述があって、なんともいえぬ気持ちを持ったことがある。だから、ジャニーが、ブルジョワ社会を揺るがす「革命」戦士を意識していたなら、リベラル派は、それを肯定する言論でもだすのなかな、と思ったりもしたのだった。「変態」になる、とは、そういう水準での、思想的実践性が、かつての思潮の中には、孕まれていたんではなかったっけ、と。おそらく、下層階級的な環境で育っていた少年たちは、すでに、そうした性的世間を見知っていただろう、と私は思う。が、よい家庭で育って、子や孫が有名人の世界に入れるかもとなって、お金をつぎこめる、そんな家庭環境での少年たちは、免疫なく、相当なトラウマを被ったのだろうな、とも。

 

日本のマスメディアでは、ゲイパレードなど、当たりさわりのない映像しか流さないが、私には、気味の悪い部分もたくさんあるようにうかがえる。世界の富豪が、ペニスケースだけつけて素っ裸、天使の羽をつけて行進する……自由って、そんなことなの、と、私は思わざるを得ない。

 

私は、精神的に安定してきたら、妻が残した、本人の文献の解読をしていくことになると思うが、それは、私自身が、女になる、いく子になっていく試みであり、そうすることで、私自身が、より「変態」し、たぶん、「高次元」などではなく、なにか違った人格に変成していく試みなのだろう、試みになるのだろう、と、予感している。

0 件のコメント: