2020年3月27日金曜日

新型ウィルスをめぐる(3)

小説家の多和田葉子論での、唯物論からの唯物(常識)批判の文脈で、現今のコロナ騒動に言及しはじめたわけだが、その際、お金持ち世界が「人工削減」でもたくらんでいるのではともらした。と昨夜、10年前にYouTubeで公開されたという動画がヒットしてきて、そんな陰謀が計画されていた、とある、中国からはじめて、と。しかも、なんで、彼ら支配階級が急いでいるようなのか、の理由が、宇宙人(隣人)とのコンタクトで、真実を知ってしまったからだろう、という。50万人近くが視聴している、おそらく、スピリチュアル系の番組だろう。

「アングロサクソン・ミッション」;

https://youtu.be/_o8hYXBPFn8

多和田氏の作品も、世界終末後の人類の倫理を模索している一面が強くなっているのだか、その想像力の在り方は、支配階級のものと似ている。同じ必要には駆られているのだろう。が、たとえば、多和田氏の「地球にちりばめられて」は、おそらく、津島佑子氏の「ジャッカ・ドフニ 海の記憶の物語」を下敷きにしている。これは、隠れキリシタンといっしょに日本脱出の歴史を生きたアイヌの少女の話である。支配階級の妄想に対する、庶民の現実の話である。あるいは、宇宙人(隣人)は未来からだけではなく、過去(死者)からもくるという啓発なのだ。

2020年3月15日日曜日

文学をめぐる


柄谷 その場合、「マルクス系」の方は、あまりマルクス的ではないという感じがするな。
渡部 「マルクス」はもちろん言い過ぎでしたが、でも、なかなか頑張ってますよ。若い世代は、その東さんから入って柄谷さんに遡行するという格好が主流で、そこに対抗軸として、山城経由の小林モードが復活ってとこでしょうか。大雑把な観察ですけれど。
柄谷 そうですか。ただ、今の批評は、現代の思想の先端には届かなくなってしまっているのではないですか。(柄谷行人・渡部直己対談 起源と成熟、切断をめぐって「週刊読書人WEB」)

渡部直己氏の早稲田大学解任問題をうけて、私も「文学」をめぐる持論を確認してみたいとおもった。

50歳代の私は、20歳代のとき、ほぼ自費で、二冊の小説を出版している。『曖昧な時節の最中で』、というのと、『書かれるべきでない小説のためのエピローグ』、とタイトルされたものだった。

前者は、プルーストの『失われた時を求めて』のパロディーを意図したもので、マルクスの「労働時間」という定義をリアリズム風に描写したものだった。マルクスのいう「労働時間」とは、24時間のことであって、ゆえに時短などという労働運動は理論定義上は意味をもたないのであるが、それは、時計的に計測し得る近代的な時間であるとともに、日が昇って沈みまた昇るまでという、「一自然日」としてのおおよその24時間でもあるという、「両義的な(曖昧な)」性質をもたされた概念だった。私は、プルーストの、あるいはベルクソンの、純粋持続的な内的な時間に対し、ありきたりな24時間を対置させてみたかったのである。フリーターとして大卒後生きていた私には、そんな「労働時間」しかない、窓辺で紅茶にマドレーヌを食べながら回想、などという悠長な時間を持てていなかったからである。そうした文学を批判するために、当時の、南米を中心とした移民労働者と一緒に働いていた佐川急便の夜勤務の一日を、24時間かければ一日で読み終える、原稿用紙で1000枚を超える長編という形式的にもリアリズムをまとった、プロレタリア小説、、私小説、全体小説を試みたのだ。

後者は、小説への別れを刻印したものである。発表はしていないとはいえ、私の文学動機のはじまりは、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を日本の文脈で書きたい、というものだった。それ自体(三部作)は、実は、『曖昧な――』より先に書き上げていた。早稲田の文芸創作科にいた私の卒論は、その三部作の二作目を提出していたものだった。タイトルは、おもいだせない。一部目は、『家庭』というものだった。そしてたぶん、三部作目が、この『書かれるべきでない―』にあたるものだったろう。(―いや、ほかに三部目があって、その小説(一般)への「エピローグ」としても企図されたものだったか、これも記憶が曖昧だ。技量が未熟すぎると思ったので、「カラマーゾフ」の日本版続編三部作は、自費でもだせると思えなかったのだ。)

しかし「エピローグ」というのは、間違えてしまって、本当は、「プロローグ」としたかったのだった。あとで気づいたが、どっちみち、もうそうは書けない、という覚悟で提出したものだった。「文学は終わった」、その柄谷が説き始めた認識を、私は、私の実存として生きるほかなかったからだ。が、内心の気持ちとしては、なんとか書ける道筋をつくりたい、と感じていた。だから、「プロローグ」という抑圧された無意識があったということなのだ。

が、いまだ、私は、書けないでいる。このブログは、ドストエフスキーの「作家の日記」のようなものを企図している、というより、意識している。『書かれるべきでない―』は、ドストエフスキーの『地下室の手記』をなぞってもいるのだが、私の場合、最初に「カラマーゾフ」があり、次に卒論の「白痴」にあたるものがあり、で、「地下室」とくるのだから、近代文学を逆行し、で、書けなくなる、という道行きになっている。書きたいもの(内容)ははっきしている、これまでのことだ、が、形式、文体、言葉の質が、定まらない。どう書けば、この私に集約してくる実質に、それに即した、近い形を与えることができるのか? どんな、かたち、なのだ? この定まりのなさを、ブログで模索しているのだが、これは、私だけの問題であるとはおもっていない。言葉の付置が、時代的に、揺らいでいるのだ。江藤淳は、1600年前後、文学史が空白だった、と指摘している。世の価値の底が割れ、どう書いていいのかわからず途方に暮れていた時代があった、ということなのだ。それが、「文学は終わった」、という認識と結びついていると、私はおもっている。だから文学をはじめる、とは、次の歴史をつくっていく、その下地なり素描を思い描いていくことと同義なのだ。私ひとりの問題ではない。

渡部直己の解任問題で出てきた「文学」の問題も、この歴史問題と関わっている、と私は認識する。以下は、おそらく、時代空白下におきる、象徴的な対立意見だろう。

○福嶋亮大「文壇の末期的症状を批判する」(REALKYOTO)
○北村紗衣「あなたに文学が何だか決める権利はない――福嶋亮大「文壇の末期的状況を批判する」批判」(WEZZY)

私の早稲田大学時代の創作科の、当時は講師という資格だったかもしれない渡部直己氏に、私は、自著『曖昧な―』を送っている。返信はない。が、文芸創作に興味のある私の兄に、当時、渡部氏が、「むやみに小説なんか書くより、ペルー人といっしょに働いていたほうがいいんだ」と言っているんだが、それは、おまえのことか? と尋ねられたことがある。私は知らないが、だとしたら、渡部氏は私の作品を読んでいて、どこかで、エールを送ってくれていた、ということだろう。聞き伝えなので、言葉は正確ではないが、「むやみに書くな」という意見を、渡部氏に近い上の福嶋氏も述べている。

<そもそも、私はこれまでも、文芸系の知り合いの編集者に会うたびに「若い作家のケツを蹴り飛ばしてどこかに取材でも行かせたらどうか」と言ってきた(もちろん編集者が真に受けた様子はなかったが)。作家たちを高い店で接待するくらいならば、アゴアシつけて社会勉強に送り出し、ルポルタージュでも書かせたほうがよほど建設的だろう。世界を知らない作家がアタマを捏ね繰り回したところで、ろくな作品が出てくるはずもない。だったら社会に謙虚に学んだらどうなのか。>

こうした意見は、たしかに、真の書く契機、動機、いわば書く以前の実存をつかんでこい、ということで、近代的な個人(内面)を根拠前提にした狭い文学観として理解されやすい。北村氏の反論も、そうした理解に基づく。そこから、近代以前の言語営為の多様性と寛容性をモデルに、近代批判をおこない、より広義な文学観を確認していく。理性的な相対主義、といおうか。しかしこれは、たとえば夏目漱石の営為を参照するまでもなく、狭い近代観である。近代を創始しはじめた偉人たちは、近代以前の多ジャンル性、雑居性の意義と思想性を系譜するがゆえに、それを忘却してリアリズムな作風思想に収れんしていった時代の動きを批判する文脈を内属させて創作していた、というのが、柄谷氏らが説いていたことであり、洋風思想的にも、その再帰的な自意識を自覚した運動が、「モダニズム」ということであって、それは、単なる「プレモダン」「モダン」「ポストモダン」といった時代区分とは別次元の実質である、とされてきたのではなかったろうか? 冒頭引用の柄谷・渡部対談でも、焦点となっているのは江戸時代であり、とくに、渡部氏は、この対談での柄谷氏の意見に啓発されて、解任後の文壇活動再開後、中国の白話文学と江戸戯作者との影響関係を文献的に追及しだす、ということをはじめている。北村氏の批判は、今においても狭い時代区分的近代文学をなぞっている作家群にしかあてはまらず、同時に、広義の文学を導入することで、そういう人たちをも擁護している、あるいは、言葉の営みをつづけている人一般の暗黙の支援が前提とされるような理論の枠組みであろう。そうした理性、良識は、何かを生産するのか? 本当にそこに、認識や洞察があるのか?

私は、書けない、なお、まだ書けていない。それでも、なんとか書こうとあがいている。私の力では無理かもしれない。いや、私の世代(時代)では無理なのかもしれない。が、だとしても、次の世代の参考に、ヒントになるような痕跡を残していきたい。安吾は、文学とは生きることだ、といった。私は書けていないが、それでも、この生き方は、文学なのだ、と思っている。というか、文学にであわなければ、今のような、生き方、生活するとは次元の違う葛藤を抱えて日々生きる、ということはありえなかったであろう。この近代個人の自意識過剰さ、再帰的な意識は、不可逆であって、そうであるよう努力しなくてはならない、というのは思想であるだろう。二度とあやまちはくりかえしませぬから、ということだ。

私は、ランボーの言葉を繰り返したい。「断じて近代人でなければならぬ。くたばればいい、たおれればいい、おまえがたおれたそこから、次なる労働者がやってくるだろう。」

*本当は、冒頭引用に関連した、現代思想的な話にもっていきたかったのだが、個人的な話が長くなったので、今回は終わる。

2020年3月11日水曜日

新型ウィルスをめぐる(2)

科学なのかオカルトなのか、唯物論なのか神秘主義(スピリチュアリズム)なのか、もう私にはよくわからない前回ブログに関連する「In Deep」のOka氏の記事3つを紹介する。

(1)宇宙の波動をめぐる; 「ビッグバン以来の宇宙史上で最大の爆発」の光景を眺めながらホピの予言と第四世界あるいは第五の太陽の時代の終わりを思う」

(2)ウイルスをめぐる; [究極のウイルス]人類を破滅に導くパンデミックは、エボラやSARSのような凶悪な病原体ではなく「発症しづらく致死率の低い軽い風邪のような病原体」だと2年前にジョンス・ホプキンスの科学者が警告していた」

(3)人類の進化をめぐる; [特報]ダーウィンの進化論が崩壊 : かつてない大規模な生物種の遺伝子検査により「ヒトを含む地球の生物種の90%以上は、地上に現れたのがこの20万年以内」だと結論される。つまり、ほぼすべての生物は「進化してきていない」

・私も、地球文明は、何回か絶滅に近い経験をしてきているのでは、と疑っている。温暖化で、南極大陸の氷が溶けると、現在文明以前の痕跡がでてくるのでは、と思っている。地底人やUFO基地は存在しないと思うが。宇宙人をめぐっても、それは、カントや夏目漱石に影響を与えた、スウェーデンボルグが見たというような霊的存在なのでは、と思う。無農薬リンゴを実現した木村秋則氏の話によると、青森県のリンゴ畑では、よくUFOがとんできて、宇宙人の子供が隠れんぼしてあそんでいるのを、地元の農家の人はよく目にするそうだが、彼らは、並行宇宙論が説くように、隣から訪れ、観光目当てにやってくる人たちのまえには、決して現れないそうだ。私は、田んぼを手入れする農家にとっては隣人である、絶滅危惧種のトキみたいだな、とおもう。植木屋が毎年恒例なような作業をやっていても、渡り鳥は、人懐っこく近づいてくる。

2020年3月8日日曜日

新型ウィルスをめぐる


「キュビズム以降の芸術の展開の核心にあったのは唯物論である。
 すなわち物質、事物は知覚をとびこえて直接、精神に働きかける。その具体性、直接性こそ抽象芸術が追求してきたものだった。アヴァンギャルド芸術の最大の武器は、抽象芸術の持つ、この具体的な力であった。」
「…そのスケッチは高次元の存在からのスピリチュアルな閃きに導かれ、半ば自動記述的に生み出されたとクリント(世界最初の抽象表現創出者――引用者註)自身は説明していた。重要なのは、これらの作品を制作していたときクリントが盲目となった母の看護のために外界とほとんど接することがなかったということと、また制作中からクリントは≪一〇の最大物≫を展示するスパイラル状の建築堂を計画していたという二つの事実である。ここから示唆されるのは、視覚的に把握される形態ではなく、視覚を通さずとも理解されうるだろう、あらゆる形態が生成される原理にこそクリントの関心があったことである。たとえば花びらはどのように開くのか? 円はどのように描かれるのか。その生成の運動を把握することで、形態の差異は視覚を通さずとも理解されうるし、またそれらの形態の違いはそれが生成する運動性として原理的な共通性、普遍性をも持ちうる。
 すなわちそれらはクリントが説明した通り、より大きな統合的な世界の生成原理に属すということだ。」(『抽象の力』岡崎乾二郎著 亜紀書房)

もしかしたら、海の向こうでは、ホロコーストのようなことがおきているのかもしれない。

ナチスのときも、もれ伝わってきただろう話を、そのまま信じられうる人は、少なかったのではないか?

誰が悪いというのではない。わたしたち人類が、地球人が、しょうもない習性から抜け出せないでいる、ということだ。

一次大戦前、ヨーロッパの国々を中心に、霊媒現象が数々報告された。それは、写真術の普及とあいまっているかのようだった。そうした現象を扱う研究の一説によると、それは、若者をも巻き込んでたくさんの人が死んでしまう世界的惨事を見越して、高次元の霊界に集う人類史上の偉大な魂たちが、なんとか自分たちの子孫を救おうと討議し計画した、メッセージの試みだったという。

私には、今回のウィールス騒動が、そうしたメッセージの類いのような気がしてならない。

テレビや新聞といったマスメディア報道を受けての私の疑問は、以下の二点だった。
(1) 致命傷になるのは、老人と持病持ちといいながら、あちらで4億人閉鎖といい、また世界各国での厳格な処置、その認識と対処の落差は、どういうことなのか?
(2) 2週間待機させて検査陰性でも、さらに2週間自宅待機などさせ、そして本当に、再検査で陽性の人がでてくる――普通は、一度治ったら、免疫抗体できて2度とかからないのに、この新型の性質は、何なのか?

というものだっだ。
この疑問に応答しうる合理的な情報をスマホでさぐると、次のような見解になる。

<このウィールスは、エイズやエボラやサアズなどを合作した作りかけの生物兵器が拡散してしまったもので、ゆえに、ワクチンもなく、若者はただちには発症しなくても、中年になってから突然免疫不全になる可能性があるから恐ろしく、ゆえに戒厳令的な対処が必要になってくる>、と。

以下は、参照したWeb、YouTube。

・田中宇の国際ニュース解説;「長期化するウイルス危機」
     http://tanakanews.com/200306virus.htm

・【新型肺炎⑩】中国の医師が語る隔離の重要さと風邪・インフルの違い。最先端で治療にあたる医師が配信 …: https://youtu.be/nvmORGDDCKQ
・上海の医療関係がアメリカへ脱出武漢の現場について: https://youtu.be/kwFoFZG3INc
・【武漢に中国軍集結】新型コロナウイルスを湖北省の中国人ごと消すのか?真実は?サイバー部隊、ミサ…: https://youtu.be/ap9VcxiAO5Y
・【真実を検証】新型コロナウイルスの正体を暴く!エボラ、HIV、SARS・・・感染拡大は止めれない…: https://youtu.be/bKb4-CXg00I
・【新型コロナ速報⑤完】「現役医師Dr.林が答えるPCR検査の落とし穴」“陽性率40%”って何?個人…: https://youtu.be/OMA81hVNDAQ
・【新型コロナ速報①】人為的に操作された痕跡?医師が指摘する「武漢肺炎/COVID-19の疑惑」 -…: https://youtu.be/ZOB5I_ADF9I


アメリカが、何千億円も予算を組んで、ワクチン開発に乗り出す、という報道もなされた。世界人類が感染するのだとしたら、ぼろ儲け、か、金持ちだけに注射して、世界人口の調整ということも企画できるのかもしれない。

が、自然の狡知は、ネアンデルタール人からクロマニヨン人に交代していったように、この新型ウィールスに感染して生き延びた子孫の中から、環境変化した地球に適応できる文字通りな新人類が、発生してくる、ということなのかもしれない。

静かに耳をすますと、何が聞こえてくるのか?
宇宙の波動を、世の気勢を、わたしたちは、感じとることができるのだろうか?