2021年5月27日木曜日

コロナと労働

 


ゴールデンウィークあけから、練馬区のほうの街路樹刈込の作業にはいっている。エンジン・バリカンで、オオムラサキやサツキの生垣を刈っていくのだが、歩く距離のながいこと。70過ぎの職人さんと二人で、刈っては竹ぼうきで掃除、を繰り返していく。もう何キロ、歩いていることか。まだ、まだ、ある。夏には、10メートルほどの高さのユリノキの街路剪定もやってくれ、という。2年ぶりだかに落札できた役所仕事を、練馬区にある会社の若社長が、とりあえず義理で私のほうにまわしただけだろう、とおもっていたが、そうでもないらしい。「爺さん二人でじゃ、無理だよ。」と言うのだが、なんとか手伝いをみつけてやってくれ、という。自分のいる会社の若社長のほうの、新宿区のプラタナスも連続してやるはめになったら、つづけざまに200本以上、ひとりで毎日、のぼらなくてはならなくなる。「みな仕事がないなかで、うれしい悲鳴ですよね。」とも言われるのだが、体がもつのか。

 

今の街路樹作業には、まだ二十代も後半であろう若いガードマンがついている。本来は、倉庫でフォークリフトなども操作する運転手なのだそうだが、コロナで休みになり、知り合いの紹介で、この業務についているという。いまは、下水からもコロナが検出されているから、水道とかの工事現場もなくなって、ガードマンの仕事も減っているのだそうだ。

 

一服時のジュース代をだしてやって、道路に座りこみ、話している。勝手に車はよけていくから、パッカー車の後ろに立っての規制などいいから、休め、と言ってやる。ひとり業務なのに、一服時間があったり、そのジュース代をだしてもらえることじたい、めずらしいのだろう。15年前くらいまでは、現場の責任者の親方が、他の職人たちのぶんまでジュース代をだして、若いものに、ひとりひとり注文をとらせて、買いにいかせていた。10人以上いたら、その注文を覚えるのが大変だが、現場に参加できてくると、その一人一人と一対一の関係で注文の品を結びつけるようになるので、暗記はいらなくなる。現場の環境が、態度をかえさせ、それ自体が、訓練なのだった。がじきに、各業者ごとに自らの一服代を負担するように申し合わせができる。私も親方から、うちの職人以外の一服代の請求をだすな、と言われもした。若社長ともなると、10時と3時の一服時間さえもあやしくなる。まして、よそから派遣されてくるガードマンのことなど、かまわない。現場からは、一体感がなくなり、ガードマンも、いわれたことしかしなくなる。みな、バラバラだ。職人的な徒弟制というよりは、仕事によってかかわるだけの経営者と従業員としての、ヒエラルキーだけが浮かび上がる。それが、自明化される。だから、この若いガードマンは、びっくりしたのだ。そういう世の中もあるのか、現場の責任者とジュースを飲める時間があるということがありうるのかと。私はあえて、というか、世の変化への抵抗をこめて、自腹を切って一息コーヒーを買ってやっている。いやこの歳になると、若いものに、違う世の中がありうるのだと知らせる、教育的実践をしている、感じだ。ガードマンは、気づいたことを、自らやるようになる。

 

が、販売機もコンビニも近くにない道路では、勝手に休んで、と100円硬貨だけわたすことになる。若いガードマンは、コーヒーなどは買わず、そのまま着服しているようだ。コロナ状況がつづいて、生活費を稼ぐのも、大変になっているのだろう。

 

私の身の回りでも、陽性反応がでたりで、コロナが近づいてきていると認められる。埼玉の春日部の叔母家族が、みな陽性者になったときいた。しかし、統合失調の診断を受けて引きこもっている40歳にはなるだろう、私の従弟から発熱症状がでたというのだから、奇妙な話である。そして、一緒に仕事をしている職人さんの娘が一昨日だか、陽性と結果のでた友人の濃厚接触者ということで、自宅待機になったそうだ。娘さんに症状がでたり陽性反応がでたら、私もコロナにかかった、と認識すべきだろう。職人さんと同じハンドルを握って運転してもいるのだから。

 


日本では、陽性者を増やすと面倒になるので、検査をしない。関わりたくないという事なかれ主義だ。が、スウェーデンなどでは、一緒にすごしていたらかかっているのが当たり前だと認識すべきなので、わざわざ検査などしない、という。しなくても、その保証の対象者になる。身近なまわりものたちも、誰もがかかりうる風邪みたいなものと接してくるそうだ。がこちらでは、かかわりたくないと、排除の気配だ。

 


私は、お店にはいるときや、電車やバスにのるとき以外は、ほぼマスクをつけない。暑くて、やっていられない。人通り多い、でかい団地街のど真ん中で刈込仕事をしているが、まだ誰も文句はいってこない。職人さんは、仕事中、運転中でもマスクをしている。娘さんがうるさくて、こわいんだよ、と言っていたが、そのコロナを警戒していたはずの娘さんが、濃厚接触者となった。奥さんは、糖尿病で、インシュリンを打つ生活だ。職人さんも、心臓の薬を毎日のんでいる。2LDK暮らしだ。

 

個人の気のゆるみがあるから緊急事態になったのだのと、政府や都知事や、街中をぶらついている者の街角インタビューでも答えている。なんとも、ふざけた話だ。自然を、なめている。毛虫の猛威がわからなくても、どこにでも生えてくる雑草の勢いをみればわかるだろう。個人になど、人間の力など、どうにもならない。遺伝的相性(環境)がよかったら、ウィルスは増殖をはじめ、悪かったら、場所をかえていくだろう。そもそも、中国の奥地でまどろんでいたコロナにとっては、いい迷惑な話だ。いきなり都会にひきずりだされて、パニックになっている。ワクチンは、パニックをあおっているだけかもしれない。場所(人)を替えるだけでなく、自らを変えていく。

2021年5月5日水曜日

コロナ下の哲学


 まだこのブログ上で言及はしていなかったが、私が、コロナをめぐる論考で一番いいとおもったのは、國分功一郎氏と大澤真幸氏との討議『コロナ時代の哲学』(左右社)。

とくに、國分氏が、かつて、大澤氏が別問題でとりあげていたチンパンジーの科学実験を呼びおこして、コロナ禍でのソーシャルディスタンスがかかえこむかもしれない類的現実への考察は、鋭い。

その國分氏が、東大にはいるかもしれない高校生なりへの一般講義が、youtube上で公開されたようだ。

上記作と重なるところもあるが、やはり、ここでメモしておこう。


<國分功一郎「新型コロナウイルス感染症対策から考える行政権力の問題」ー高校生と大学生のための金曜特別講座>