2012年3月9日金曜日

技術の差異

「おそらく、「疎外」は克服されない。「疎外」は、人間の「手」が歩行の手段という「自然」から解放=疎外され、技術が手の代補であり、原発もその技術の連鎖の果てに出現したものである限り、まぬがれることができないものなのだ。原発だけが特権的に危険なわけではなく、プロメテウスが神から盗んで人間に与えたという火が、すでに「危険」なのである。/それゆえ、農業が危険であれば、自動車も飛行機も危険だろう。それらは、結局、リスクの多寡に還元されてしまう。反原発の思想は、そのことを踏まえて出発しなければならない。」(すが秀美著『反原発の思想史』 筑摩書房)

きちんと体系的な知識教養があるわけではない私は、スガ氏の上のことばを注意深くきいた。ここでいう「注意」とは、その解答が教養理解的に正しいかどうかの真偽、そして、その教養理解の枠を越えて、どれくらい思考を策動させてくれるかという検討、ということである。前者のような他愛ない疑義をもさしはさむ必要があると感じるのは、たとえばスガ氏がベンヤミンの「複製技術」にまつわる「アウラ」という概念を端的に誤読しているという芸術家(たち)からの指摘をきかされたときがあるからである。スガ氏は「複製技術」作品にアウラはないと言っているが、ベンヤミンはあるといっているんだよ、とアーティスト系の会合できかされたのである。そういう間違いが、ここでもあるような匂いがする、ということだ。しかし、教養のない私には、その真偽をここで確認することはできない。それゆえ、後者にうつって考え検討してみる。

上引用の理解が正しいとすると、「日本の大転換」でみせた中沢新一氏のような、生態圏には相容れない放射能物質を発生させるウラン(太陽の破片)を用いた原子力技術と他の技術との差異を考慮する理解前提は、欺瞞的、ということになるだろう。スガ氏の中沢氏への批判は、要はその欺瞞によって(つまり確信犯的に)、「ニューエイジ」的な神秘が、超歴史的な連続性が導入され、神道と仏教を混淆した日本文明の生成と似ている脱原発社会の原理がたてられてしまう、というところにあるのだろう。またそこに差異を認めるか否か、という理解態度の違いは、低線量被曝をめぐって、生命はずっと放射能とつきあってきて免疫機構も培われている、とする科学者と、いや生命はようやくのこと宇宙時間的な放射性物質を生態圏から排除してかろうじて自らの循環構造を保って生き延びているのだ、という科学者、との違い、とも平行しているようにみえる。「手」という人間特異的な技術上の問題(差異)だけでなく、生命という免疫技術の進化(歴史)自体の連続と変化(差異化)をみる立場、ということでである。しかしこの科学的な真偽は、私素人ではなくとも、決着がつけられるような問題ではないのではないか、というのがこのブログでの主張であった。「神秘」というなら、どっちも神秘だ。ならば肝心は、その差異のあるなしが、どのように思考の有意義をみせてくれるか、という注意力だろう、ということだ。そこの技術に差異はないとするより根源的な思考と、そこに差異をみる作為(欺瞞)的な思考の両者は、まず何を明確にしようとし、何を実践させようとしているのか?

とりあえず私は、そこの技術に差異を認める言葉のほうに説得力を感じているので、こちらのほうを考えたい。というか、スガ氏が指摘するような問題は、今回はじめてでくわした、知ったようなものなので、なおよく考えられない。私がこの差異ということで想起するのは、「スコップで掘った土と、ユンボで掘った土は違う」といった中上健次氏の言葉である。植木屋として植え穴を掘っていると、この差異には日々直面する。もちろん「スコップ」も道具だけれども、「手」に近い道具である。ユンボとなると、そうは感じない。なにせ掘りすぎる、余分な土がですぎる、土の塊がでかいので、現場の見た目がまさに荒廃した感じになる、低周波の音がうるさい……こうした差異は、技術のあり方として程度の違いで、考慮する必要もないことなのだろうか? しかし私は、親方やそのほかがすぐに「ユンボ」を導入し、人力での作業を忌避し、それが作業効率も悪いというのを尻目に、密かにスコップ作業で仕上げている。実は、人力を前提にしかるべきときにそれを導入することを段取っておいたほうが効率もいい、早く作業はおわる。最近も、わざわざ親方の息子がレンタルしたユンボをほぼまったく使わずに、計画以上に団地まわりの移植作業をおわしてきた。「ユンボ、ユンボ」と口だけ達者なもう一人の作業員を相手にせず、ただひたすら一人で穴をほり、植えてきた。体力も能力もない口先連中、職人などではぜんぜんない。……私がこの例でいいたいのは、同じ人間の技術でも、その延長に理論原理的にはあるとしても、そこには差異がある、ということはこういうことだ、こういうふうに存在していることがありうる、ということである。だから、原発とそれ以外の差異、ということも、ありうる、説得的、と感じている、ということである。

スコップでの土堀りは、腰痛にいい。木にばかりのぼっていると、おそらくその微妙なバランスのとり方が姿勢に負担をかけて、腰にくるようだ。人には尻尾がないからだろう、と今ではおもっている。サルは、尻尾を上手に枝に巻きつけて、木上でエサをとったりしている。尻尾のない人には、もはや無理がたたるのかもしれない。決して重いものをもつから、というわけではない。しかし、「手」が解放されて土の上を直立歩行するようになった人間は、重い脳髄を骨盤で支えなくてはならない。それ(立つ、歩く)だけで、すでに無理な姿勢なのかもしれない。スコップでの穴掘り、足の裏を痛めないように角を丸めたスコップの尻に片足を乗せて土に刺す、蹴る、という人体への余分な負荷は、ぎっくり腰で力が抜けたような状態を、しゃきんとさせてくる。スコップで足を蹴るとき、人体はどうしても垂直的な姿勢になって重力を利用した力の入れようになるからかもしれない。無理(姿勢)を正す筋肉が補強されてくるからだろうか? ……しかし私はこの腰痛(日常)が、骨折という事故(震災・原発災害)よりもより根源的ではないのか、と前回ブログで述べた。それらに差異はない、もっと根本的に問うてみる必要がある、ということも可能(説得文脈をもつ)かもしれないが、そこにある差異から、後者(ユンボ、原発)を嫌悪してもいいのではないのか? いやそれは嫌悪という趣味の問題であって、思想ではない、とスガ氏は言っているのだろうか?……そうした錯綜を、スガ氏の『反原発の思想史』を読みながら、近いうちに整理してみたいとおもっている。日本の事情にも教養の不足しすぎている私には、自分の言葉がどこからきているのか、その見当と検討をしていくためにも、スガ氏の作業は、とても役に立つのではないかと思っている。