2021年1月24日日曜日

量子コンピューターへ向ける科学と哲学――量子論をめぐる(4)


「このように、及ぶ影響が複雑で大きい「実在」という言葉を、物理学の論文で問うのは熟慮に欠けていたようにも思える。この原稿自体はアインシュタインが書いたものではなく、彼自身EPR論文の記述には不満もあったようである。しかしそれから七十数年経って、本書でも述べるように様々な問題が煮詰まってくると、まさに量子力学は哲学的に実在の意味を問うていると言えるのである。このことは本書の主題でありその広がりを提示するのが目的であるが、それは従来の認識論の線上だけでなく科学制度論に拡大されるべきと思っている。…(略)…何れにせよEPRは、二〇世紀における科学の変貌を測定する物差しになり得るのである。そして我々は、このように科学の世界に起った現実、社会の中での制度科学と従事者のメンタリティーの変貌といった事柄に着目する感覚が必要だ、と筆者は今考えている。二〇世紀物理学の開拓者であるアインシュタインの量子力学を巡るこの“大いなるねじれ”は二〇世紀の物理学の歴史の描き方の問題とも関連するし、今後の物理学の展開の見通しにも関係してくる。それが本書の動機である。単なるアインシュタイン絡みの歴史秘話ではなく、科学の今後が絡む現実的に重大な問題であると筆者は考えている。」佐藤文隆著『アインシュタインの反乱と量子コンピューター』京都大学学術出版会)

ようやく、量子論における問題を、その大枠において、自分なりに理解・整理できると感じられてきた。自分の思った疑問が、思いつきな独り言ではなかったのだな、と上引用者の著作にふれて、安心した。時間があるとき、上著作にからめる形で、これまで読んだ本からの引用文のカード化編集ができたらと思ってもいる。がなお、量子論関連の読書はつづく。もっと細かな具体的なところで、追跡してみたいところがあるからである。が、大枠的な理解は、以下のようなものだ。スポーツにたとえて、描写する。

量子世界への科学的探索が直面した問題は、相手がいるスポーツ(正確には、相手がいなくても、またスポーツでなくてもよく、人あるいはおそらく、生物でよければいいのだが――)での試合での進行、在り方の理解と、並行的な類似を示している。量子論が突き当たった「観測問題」とは、試合中における、試合の流れ、と比喩的に語られているものである。慣習的(古典物理学的)には、熟練した選手にとって、試合の流れは、見える、という感じでそこに在る。0対0で試合が進行しているなかでも、勝ちの流れと、負けの流れが、重なっていて、波のように変化していることを感じ取っている。あるいは、たとえある時点で、試合に勝っていても、そこに、負ける可能性が、ここでつまらないミスをしたら流れが変わってその可能性が現実になることを意識している。逆に負けている場合でも、辛抱強く粘っていれば、勝ちへの流れが引き寄せられてくる可能性が十分にあると感じられていたりする。その手はずも、具体的な戦略で持てている場合もあるだろう。もちろん、点差が開いてしまって、もとある実力差から、勝ちの見込みはほとんどない、天変地異でもおきないかぎりない、と観念することもあるだろう。今では(新物理学=量子力学では)、試合中における、個々のデータを取得・解析して、各ケースがどう勝負にむけた、得点の取得や失点につながるかの重なり合いをシュミレートし、つまり微分的に解析されたデータを積分的に総合して、ゲーム中のベンチからの指示や、ハーフタイムでの戦術修正がおこなわれる。訓練の行き届いたチームでは、ひとりの中心選手だけが、そんな試合の流れを読み、各選手に伝えて動かすというだけでなく、むしろ、全ての選手が同じ流れを読み、共有した戦術イメージを同期的に実践していく。今は、そこにデータ解析のバクアップがつくが、昔は直観とチームワークで、その同期性が実現されていた、ということになる。そして、その試合そのものの要因というよりは、他の社会的なものとの関連において、試合は終了することになる。いつまでも、その勝負の重なり合いがつづくわけではない。どこかで、終息させなくてはならない。しかしそれでも、優秀な選手や監督は、勝負の結果以上に、その過程を重視する。勝っても負けても、そこを分析解析し、次に向けて修正していくよう備えるだろう。短絡的なフロントやスポンサーは、結果が全てのような圧力をかけるだろう。

さて、以上の試合の話を、量子論に絡めるとどうなるか?

試合の流れを読みこませてくる各ケースの、各データは、波なのか、粒子なのか? 直観的に処理していた昔は、波だった、今は、物質として扱っている、と言えるだろう。その場合、各データ自体は、総合的ではありえない。つまり、ハイゼンベルクの不確定性原理が成立する。運動量(速度)と位置が同時に計測できないように、見るべきポイント間では矛盾もでる。サッカーでいえば、サイドでのボール喪失率が高いが、パスの成功率やドリブルの成功率が高かったりする。サイド部分の勝負は、一概には計測結論できない。が、個々のデータの足し算総合から、勝敗の確率の上下を予測することはできるので、全体(勝敗)に絡めた戦術を立て直すことはできる。つまり、シュレディンガーの波動方程式のように、各データという確率分布の総合から、波が粒子として実現しやすい場所なり運動量を、予測的に観測手配することができるのだ。この戦術変更の、各選手の共有、同期といったものが、コヒーレント、という物理現象にあたるだろう。みなが同じ方向とイメージを共有できるという不可思議さを、現在開発中の量子コンピューターが実装しようとしている、と言える。バラバラなイメージと方針で各選手が勝ってに動くのではなく、一つのイメージと方針のもとに、一人一人の情報が常時的に総合的に勝負という目的へと向けられていくのだ。もちろん、その実現は、容易ではない。実際のサッカーでも、イメージが共有できたチームプレーが成立したのは数プレーだったりする。現在の量子コンピューターでも、かろうじて一瞬間での成立なのが普通なようだ。しかも、選手とおなじように、量子でも、暑いとへばってなおさら同期はできない。絶対零度のマイナス270度以下のような世界でないと、難しいとされる。常温でも大丈夫そうな物質が開発中らしいが。つまりは、その多くのコヒーレント状態は、デコヒーレント、いわば収束(収縮、ともいう)してしまう。各選手間でもそうだが、全体的な試合の流れ、勝負の別れ目になる波も、現れてはかつ消えていく。そして最終的には、様々な波=流れの決着として、波動は一つの終着点としての物体に落ち着く。この世の現象が、デコヒーレントによってその物質的な堅固さをもっているとされる状況だ。アインシュタインは、月は見ているときにしか無い、とでも量子力学はいうのか、と問うたわけだ。観測する(見る)とは、コヒーレント(波)であった状態に、見る側は関与、影響を与えてしまって、デコヒーレントな状態に変質させてしまう、ととりあえず理解された。とりあえず、というのは、まずアインシュタインの生存中には、このコヒーレントとデコヒーレントという考え方≒観測結果が開発≒発見されておらず、しかも、より突っ込んで考えれば、やはり、物は実在するのかいなか、という疑問に突き当たることになるからである。量子的なミクロな系で、一粒や二粒ならコヒーレントは結構あっても、では、どこからマクロな系になってデコヒーレントが常態になるというのか、考え方も観察も解答を見だし発見していないからである。ただいえるのは、生体という巨視的な系の中でも、いわば絶対零度なんかではない体温をもった生物の中でも、コヒーレント状態が存在し活用されているのでは、との推測がある程度の物証で言い得る段階にはなっている。が、観測とは、試合に決着をつけるということでもある。科学者でなければ、別に、観測してなくてもすむ。月を、見ていなくても生きてはいける(月自体の内部で、物質同士で観測=相互影響してデコヒーレントが起きているだろうので、月は物体的な堅固さとして現象している、ともいわれる)。波のままでは、なんでいけないんだ? 『方丈記』のように、「うたかたはかつ消えかつ結びて」でなんでいけないんだ? 結果よりも、過程が重要だろう、参加することに意義があるんだ、一生懸命ならばそれでいい、――という見方だってあるからである。要は、収束させているのは、社会=文化的な要請であるとも言えてくるのだ。ゲームをもっとずっとつづけていけてもいいのに、どこかで区切る、とは、まさに、ミクロとマクロの境界はどこなのか、という問いにも重なる。量子力学が特異なのは、その試合中の流れなようなもの、選手の内面と、その各内面の総合(統計処理)にまで手をつけよう、観測しようとしたことにある。実際、電子とは、物質というよりかは、データとしてしか人は扱えないようなものなのだ。そしてもちろん、どうデータをとるかを、人は、あらかじめ枠を決めていなくてはならない。のだから、観測して在るなしは、トートロジー的な事態だ。試合の流れは、在るようで無い様で……ヨーロッパからの科学(者)は、自分でそう観測していながら、その曖昧な在り方に、我慢がならなかった、ということだ。主流となったコペンハーゲン解釈とは、それが実在するや否や、という問いかけは棚上げし、現在のスポーツのように、採ったデータが勝敗(実用)に使えるのだからそれでいい、と割り切り、物理学界から胡散臭く排他されたアインシュタインは、そのデータと勝敗の結果にズレがあるのは(いつもその分析で勝てるわけではない、あくまで確率)、まだ現象の理解に不備があるからだと考え直した、つまり試合後の結果ではなく過程を再検討しはじめた、ということだ。そして過程(試合の流れ、波の重なり)こそが本当の実在だ、とそこだけを重視したのが多世界論者、マルチバースを説く人たちになる。そして今の量子コンピューター開発などの実用者は、アインシュタインの再検討の要点、ズレの指摘にこそ使えるものがあると、そこをもっと精工にしていこう、波=試合の流れを意のままに引き延ばしたり終わらせたりして、必ず勝って終われるようゲームをコントロールしていく努力をしている、ということになる。

※※※ 

ゲームは、コントロールできるだろうか?

戦争という社会的要請がなかったら、原子に原子核から抽出した中性子をぶつけて崩壊させて甚大なエネルギーを放出させるなどという、地球環境的な自然状態では無理があり、人為的にも大変な原子爆弾の開発など、時間と労力と金の無駄になって、開発≒発見などされなかっただろう。つまり、あんな終息はしなかっただろう。いま、量子コンピューターは、どうだろうか? アメリカ大統領選の結果という賭けに負けた副島氏は、『アメリカ争乱に動揺しながらも中国の世界支配は進む』という書籍の中で、中国が開発を進める量子コンピューターの現状に言及しているらしいが、いったんの収束を認めたWEB上には、こう記述されている。――<西洋文明の物理学と数学が行きついた涯(はて)に、「3体問題(スリーボディプロブレム)が有って、解けないらしい。それを中国人の天才たちが解きつつあるらしい。欧米白人の数学者は、AとBの「2対問題(ツーボディプロブレム)」しか解けないようだ。アリストテレス以来の西洋人が作ってきた論理学(ロジックス)では、硬貨を宙に投げてA面かB面の2者で決めるコイン・トスcoin tossしかできない。/ところが、「ジャン・ケン・ポン」、あるいは「グー・チョキ・パー」を知っている私たちアジア人は、3体問題を解けるらしいのだ。…>

私は、量子論で、指摘されたような考察にはなお出会ったことがないし、引用部分だけでは、眉唾ものだという気がしている。が、冒頭引用の佐藤氏の指摘でもあるように、量子力学と解釈、そこから引き出される実用の在り方自体に、文化的なバイアスがかかっているのでは、と感じざるをえない。波動方程式を編み出したシュレディンガーは、それがコペンハーゲン解釈派のように利用されていくことに疑問を提示し、自身は東洋哲学の一派に関心をもち、その関心を共有した若者から遺伝子のDNA発見がなされ、いまの生体内でのウィルス変異の量子学的探究が進んでいる、とも記述される。つまりは、西洋人自身は、その内側から、自分のなしたことを内省し、批判検討する運動がある。「西洋の没落」だの、「形而上学批判」だの、そうした哲学的反省もなされてきただろう。が、その西洋科学を身に受けて実用化させていっている中国科学はどうなるのか? 量子を収束させるのは、人間でもある。ゲームの事実上の終了とは、世界の終息に他ならない。デコヒーレントで物象化しているという見方は同時に、コヒーレントな潜在状態が世界で、宇宙で続いている、終わっていない、ということでもある。量子論が浮き彫りにさせてきた一面側の哲学とは、要素に分解分析し、それを積分的に総合させていく西洋医学というよりは、全体の調和が先に<実在>するかもしれないというホーリズム、いわば、漢方の医術である。が、そこを極めるのではなく、あくまで、人の家にあがりこんで俺のほうが頭がいいから主人だ、と主張していくように技術開発がなされているのではないだろうか? だとしたら、そこから、内省は起きるのか? すでに、西洋人が実行した、原子爆弾投下の人体実験という愚挙を、反省していける科学態度を共有内包しているのか? 私は、疑問に思う。

……しかし、以上のように、物事を相対化しうる視点に私が収まってしまうのは、やはり、日本人、日本の文化的性質を身に受けているからなのかもしれないのだ。日本人にとって、半死半生のシュレディンガーの猫とは、我が事のように受け止められるのではないだろうか? 感性的には、私には、なんで量子力学が直面した<実在論>が不可思議なのか、よく理解できないのだ。そういう物事の在り方の方が、当たり前のような気がするからである。そう、「気」がする、というところに、主体らしきものがある、ので、自我が、一つに統一されていないのが常態的なのだ。それは、在る洋な無い洋な…別段、その曖昧な状態が、不愉快なわけでもない。「曖昧な日本の私」(大江健三郎)とは、半死半生の猫(私)、ということでもあろう。ある意味、この冷めた視点、世界が終わるのもよし、かつ消えかつ結びて、という世界観……少なくとも、ここからは、物事の真意を突き止めようと運動する科学は生まれないかもしれない。が、世界を見つめる哲学としては、真摯ではあるだろう。

2021年1月10日日曜日

ネット社会と原子力ーー量子論をめぐって(3)


<原子的な物体(電子、陽子、中性子、光子など)の量子的な性質は、それらすべてに共通する性質であって、それらはみな“粒子波”(particle wave)といったもの、あるいは諸君がどう名付けてもかまわないようなものである。したがって、電子(例としてこれを用いる)の性質について学んだら、そのことは光の粒子である光子を含むすべての種類の粒子にも適用されるのである。>(『量子力学 ファインマン物理学 Ⅴ』ファインマン他著 岩波書店)
⇕ 
<学者 仰ろうとしているのは、会話の中で議論の対象、つまり認識の本質のことですが、それがたえずあちこちに分散してしまったというわけですね?
科学者 いえ、そのようなことはほとんど起こりませんでした。私たちはともかく認識に関してその決定的な基本性格をすぐにはっきり捉えたのですから、私が申し上げているのは、私たち自身の認識行為を刺激し、支配しているもののことです。
賢者 で、それは何なのですか?
科学者 働きであり、実践であるというその性格です。
学者 そのこともあって、私たちの問いはすぐさまカントが<能動的>なものであるとしている認識の構成要素、つまり思索に向けられたわけです。ただ彼の場合とは違って、認識のプロセスにおいて直観には準備的な役割しか認めませんが――。
科学者 現代の自然研究においては、直観と思索の間のこうした区別は非常にはっきりとした形でなされています。直観的な要素はそこではほとんど問題にされません。
賢者 おそらくいまの発言によってあなたはご自分で考えておられる以上のことを語っていることになりますよ。>(ハイデガー「アンキバシエー」『原子力時代における哲学』國分功一郎著 晶文社よりの孫引き引用)
⇕ 
<この本の目的は、この新しい量子力学を統一的に、しかも適切さを失わない範囲で可能なかぎり数学的に異論の余地なく記述することである。その際、この理論と関連して生じてきた一般的でしかも原理的な諸問題に重点がおかれるであろう。とりわけ解釈の問題が詳細に論じられるであろう。それは、これまで屢々論じられながら、いまなお徹底的に明らかにされていない、困難な問題である。とくに量子力学の統計および古典統計力学への関係がここで重要である。>(J.Vノイマン『量子力学の数学的基礎』みすず書房)=<…しかし、Hilbert空間が通常の三次元ないし四次元と本質的に違うのは、それが量子力学系に対する観測と直接結びついている点である。実際Neumannは本書において、量子力学の数学的基礎を明らかにしたばかりではなく、観測の問題の精密な分析も行い,更に進んで量子統計力学の再構成までも試みた。>(湯川秀樹による「序」から)

※ ネット社会とは、電子の網が張られた社会のことである。電子は、原子力である。20世紀の戦争や事故災害によって、原子力による戦争抑止や平和的利用という人間の偽善が明るみに出されることによって、原子力を使うことの危険性が問題視されているわけだが、そこに、ネット社会の是非は射程にははいっていない。なぜならば、そこで使われる原子が、原爆や原発で利用される、ウランのような大きな(重い)原子力(強い電磁波を放射する)ではなく、小さな原子力が用いられているからであろう。だからその認識の延長で、いやちょっとした電磁波(放射能)でも体に悪いのだ、という「閾値」問題にゆきつかせる反原発の思想が発生してくる。が、原子力において、それを精密に扱う量子力学において、問題となってくるのは、「観測問題」である。量子の発見に一役かったアインシュタインは、「人が月を見ていないときには月が存在してない、とでもいうのかね?」と、その量子力学が示す当時の数学的理論結論に疑義を表明したが、二つの世界大戦後での実証実験によって、それが確かめられてしまった。しかしそんな実証を受けてのその後の考察では、やはり人が認識するということの問題、いわば「観測問題」の不可思議さを改めて浮き彫りにしてきているのが理論的現状なようだ。が、量子の発見当初に、コペンハーゲン解釈派が主流になっていったのとおなじく、とにかく計算的思考によって使えるのだから原理論的問いは棚上げにして進んでいこうと、原発からは手を引きかげんになっても、小さな原子力、量子の振る舞いの神秘さそのものの生け捕り利用を試みるコンピュータの開発などが急がれている。など、というのは、現科学では推論にしかならなくとも、コロナ禍で普及が急がれるRNAワクチンなども、その関わる物質の量子的なふるまいの影響がみえないところで発現されてくるのではないか、と予測もされてくるからである。

<ハイデガーにとって「原子力時代」は今日における「技術」一般のあり方を指している。言い換えるならそれは、原子爆弾や原子力発電だけではなく、コンピューターや家電製品を含んだ、さまざまな技術の動向によって規定された時代なのである。したがって、原子力テクノロジーだけを取り出して吟味してみても、原子力時代の本質は見えてこない。>(『原子力の哲学』戸谷洋志著 集英社新書)

しかし私は、「化学反応」の水準と、「原子核反応」の水準を扱う技術には、質的な違いがあると思っている。量子的な現象は、より一般的に形式化して言い得てくる、カント哲学もプラトンに回収されてしまうというような、人一般の認識=観測問題を露骨に突き付けてくるからである。いわば、人にあって、分子レベルでは見えるけれども、量子レベルではもう、数学的にしか追えない世界に突き当たる。観測(装置=媒介)自体が真実を隠してしまうと同時に、直感(接)的なイメージを超えてしまう確率的な現実が結果する。しかし、その蓋然的に推定していく数学自体の存立理由自体が、問われてもくるのだ。量子力学の数学的基礎を築こうとしたノイマンは、統計力学との関係に助けを求めたのだ、といえないのか。それは、比喩的にいえば、RNAワクチンという数式データによって設計された最新物質の効用が、それが人体内部で効いているのかの観測ができないので、統計的に確認されようとしているのに似ている。それが効いた、実用の過程は、ブラックボックスであって、みえないが、実現している――ここにあるのは、不可解な過程を棚上げして短絡させる神秘主義であって、量子論からスピリチュアリズム思想がでてくるのは、カント(プラトン)哲学がスピリチュアリズムそのものであるというのと、同型的な成り行き、論理上のアポリアなのではなかろうか。にもかかわらず、机上の論理をまだ使える、この場では使えるということで、使い続ける。ハイデガーがいうように、原子力を管理しつづけなくてはならないということは、管理できていない、ということである。原発事故からみえてくることは、原子力を、人は管理しえない、ということである。そして、ファインマンの定義にあるとおり、原子とは、量子のことである。

國分功一郎氏の『原子力時代における哲学』は、この「原子力」を、スマホ、という言葉におきかえるとなおさら通用してしまうような考察である。ハイデガーのプラトン以降の哲学批判、ピタゴラスの数というアトム≒イデアという潜在世界挿入の系譜学をふまえて、原子力使用の思想の背後には、フロイトが洞察したようなナルシシズムがある、ということなのだ。

※ 私は、これまでの読書から、思えてきたことをメモすることしかできない。量子分野に関しては、概説的な一般書から、ようやく専門的な書籍に目を通しはじめた段階だ。ワクチンなどの問題は、花粉症関心からはいろうとおもうが、手についていない。

最後に、量子コンピューターの開発者が、どのような思考背景で従事しているのかを示唆するニュースがはいってきたので、リンクをはる。前々回のブログでも引用した手嶋vs佐藤対談によると、すでに中国は、量子暗号を衛星通信で使用しているそうである。
中国量子コンピューター「九章」、世界トップの計算力を実現

2021年1月9日土曜日

状況と選択(2)


今日の毎日新聞の書評で、三浦雅士氏が『ブルデュー『ディスタンクシオン』講義』を紹介するにあたり、――「投票集計の状況は不正選挙を疑わせなくもないが、アメリカの主要日刊紙は認めない。選挙は民主主義の根幹。かりに大勢に影響がないにしても徹底的に調査するのがジャーナリズムの責務。それをしないのはおそらく外国からの圧力(引用者註…中国のことになるのだろう)などではない。トランプ大統領に対する「ディスタンクシオン」が働いているのだ。/高学歴、高収入、高趣味の知識人たち、いわゆるアメリカ東部エスタブリッシュメント(官僚や新聞記者もそうだ)にとって、不動産で財を成したトランプは政治家としてかなり異質であり、はじめから毛嫌いの対象だった。トランプはポピュリスストであり潜在的なファシストだと貶すことが、この階層にとっての身分証明になった。かくして現実を直視せず、不都合な事実には目をつむるようになったのではないか、と疑われる。」、と発言している。

私も、選挙途中の折れ線グラフからみても怪しむのは当然、とこのブログでも表明し、オリーブの会の党首の、一部では第三者によって選挙投票機の怪奇さが実証されているのだから「徹底的に調査」すべき、との動画にリンクをはった。ただ、こうも推論した。アメリカ議員や官僚の多くが結果を疑っていたとしても、真実を推すか混乱回避をとるかとなったならば、後者をとるという、理性的な選択をしたのだろう、と。そしてトランプ自身が結果を甘受する声明をだしながら、「それでも地球は動く(それでもバイデンは不正だ!)」といったガリレオのように、いったん理性的に、引き下がったのではないか、と。真実を受け入れてもらえるぐらいの動きを実現できなかったのは、なお力不足だったのだから。しかしもし、トランプの信念が宗教情熱的なものであるならば、イエスのように、熱心な信者を獲得し、復活をとげることもあるかもしれない。が、それには、これからエスタブリッシュメント側がしかけてくるのかもしれない、暴行や借金裁判、それがいいがかり魔女裁判であっても、乗り越える、逃げ切ることができなければならないのだから、困難な茨の道になるのだろう。

がここで私がいいたいのは、アメリカのことではない。「高収入」かもしれないが、もはや「高学歴」「高趣味」ではない、むしろバカ丸出しでチンピラ爺さんのような跡取り政治家たちで一杯の、日本での話である。それも、庶民の世間でのお話だ。

※※※ 

「君は、アーミッシュを知ってるか?」(…前回ブログ冒頭引用の佐藤×副島対談で言及されたメノナイトという宗派から派生した宗派、とその対談で解説されている)
「いいえ。」
「プロテスタントの一派で、電気などほとんど使わない生活をしていて、アメリカでも数十万規模の都市を作っている。そんな人たちが、トランプへ投票するために、馬車を駆って投票しにいったんだ。」
「今回のアメリカ大統領選は、誰を選ぶか、という以上に、どの価値を選ぶか、ということにもなってますからね。ネット社会を利用して上手く世渡りしていくエリート側につくのか、それに乗り切れない者たちの側につくのか……それだけ、生きる根幹がおびやかされてる状況に、アメリカがなってるってことなんですかね。日本では、そこまでの真剣さは、わかりませんが…」
「わからないんではない! みんなマスメディア、テレビや新聞しかみてないから知らないだけだ。わたしは、Youtubeの安富さんの動画で知った。」
「一月万冊、とかいうのによくでてくる女性みたいな人ですね。」
「銀行員をやめて東大教授になって、いまは長野の山で暮らしながら、馬を飼ったりしている。アーミッシュとともに生活までしている。そういう人が、アメリカの真実を伝えているんだよ。」
「安富さんは、トランプ支持なんですか?」
「いや……(「違う、と言ってましたよ」、と端できいている若奥さんが口添えする。)そうではないけど…」
「ということは、まだアーミッシュの本心までは、わからない、理解できないものがある、ということですか?」
「いやそういうことではなくて…」
「たとえば、このアパートを直してくれた大工さんは、ネットみても、ゲームしかしないでしょうね。(私が年末に早稲田にあるこの話し手のアパートを訪れたのは、その修繕跡をみてみたいためでもあった。大がかりにでなくやってくれる大工さんを知らないかと相談されて、草野球・近所仲間の、私より一回り年下の一人親方を紹介したのである。きさくでヤンキーな彼は、打ち合わせの話ですでに安心感をもったのか、さっそく仕事日を組み、仲間をつれてやってきた。ガラス工事も、と尋ねられれば、すぐに仲間のガラス屋さんに話をつけた。ずるずると、芋づるみたいに、私も知っている職人仲間たちが、アパートを直していったのだった。)――ここの住人の台湾人が、インスタグラムを使ってパフェを営んでいけるのも、まだネットでの商売が過渡期にあるからだと思いますよ。ユーチューブだって、トランプ情報を規制してますよね。そのうち、大手がうま味を下から救い上げるよう操作をしはじめるんじゃないですかね。泳がされているようなもんだとおもうな。下見にきた韓国の若者は、読売新聞の配達しながら知り合ったお宅の日本女性と婚約までいって、下見に、彼女といっしょにお母さんまでついてきたなんて、すごいじゃないですか。人間社会の力でしょ。この力と、ネット社会のどちらがすごいのか? ネット検索して頼んだ大工さんと、地域の職人ネットワークでやってくる大工さんと、どちらがいいのか? トランプ対バイデンの闘いとは、そんな価値の闘いでもあるわけでしょ? だいたい、私がスマホにかえて、グーグルマップ使って街歩きしていると、人に聞けばいいんだ、そこで人とつながる能力がつくんだ、と批判していたじゃないですか? それが、いきなり最新のアイフォンになって、万歩計みたいなアプリまでいれてこれすごい、と……おかしくね?」

私が、以上の対話で言いたいことは、副島×佐藤対談における、次のような副島氏の反省認識である。

<廣松渉は、死ぬ間際に『朝日新聞』に投稿して、大東亜共栄圏というコトバを持ち出して、「東亜の新体制を!」と書いたんですからね。みんなビックリしました。清水幾太郎も死ぬ前に「日本は核保有をすべきだ」と、右翼論調になって私たちを驚かせた。これが、デカルトが大きく解明した帰納法(induction インダクション)の正体です。みんな学者は優秀な人ほどキチガイなんですね。/社会常識がない。生活の知恵がない。普通の庶民だったら知っている世間知というものが無い。欠落している。私は自分を含めて、そう思います。極端から極端に走ってしまう。>(『ウィルスが変えた世界の構造』)

デカルト(外国人)は本当かどうか知らないが、上の対話者、70歳をこえるアパート経営者も、「極端から極端に走ってしまう」。NAM以前から、左翼的な活動に関わっていたときくが、NAMで、創立者の柄谷からつらい目にあわせられたこともあって、それから右翼に転換し、西部氏をもちあげ、最近は村上春樹を愛読する。なんで、わざわざ自分の過去をおおげさに否定していくのか不可思議だが、その振る舞い自体、柄谷の「切断」とかいう左翼インテリ的潔癖だろう。本当に、新しい読書によって「転回」するのなら、まずは、ではなんで今までの自分はそうだったのか、その形式を自省してみる必要があるだろう。「極端から極端に」走る自分の身体的な型を問題化したほうがいい。それがないと、またはまってしまうだけだ。私は、安富氏も、極端から極端に行っているようにみえる。ヒッピー(左翼)とアーミッシュ(右翼)、過激な重なり、ともみえる。トランプ支持者にも、この過激左右の重なりが見え隠れする。が、庶民には、不可思議な運動であり、人生だ。そしてなんで庶民がはまりにくく、極端にいきにくいのかは、常に、他人と接触して、自分が問われているからだ。はまる暇がない。パチンコにはまったりはするが。

しかし、はまる暇がない、ということは、考える暇もない、ということである。が、植木職人の私は、年始早々ひまなので、まだ少し、考える暇がある。たぶん次は、ネット社会というものが、原子力社会であることの定義に、触れられたらと思っている。

修理したアパートの三部屋は、緊急事態宣言のコロナ禍にもめけず、テレ講義による退去を乗り越えて、全て埋まったそうである。

2021年1月7日木曜日

状況と選択



佐藤 私がにわか知識で、メノナイト(引用者註―プロテスタントの一派)について少し語れるようになったのは、指導している学生にメノナイトの子がいるからです。
副島 「殺すなら殺してください」という思想にまで行き着いたことが人類にとって一番凄い。戦争反対、平和、人権というだけなら簡単です。ここに至る完全な暴力否定の思想の積み上げが凄い。私は、「ただ祈りのみ」というコトバの凄さがようやく分かってきた。
佐藤 抵抗権は認めないというところまで踏み込むと迫力が違います。抵抗権を認めると、守ることは攻めることにすぐに転換してしまいますから。専守防衛といっても、相手が撃ってくる直前だったら攻めてもいいという話になる。相手の存在自体が脅威だから潰してもいいという話にすぐに行ってしまいます。
副島 だけど。非抵抗だと、戦争にさえ抵抗しないという思想が一方で生まれます。私はここを見逃さない。これが国家体制に絡め取られていく契機になる。だから無抵抗の思想はよくないのですよ。体制に必ず取り込まれます。キリスト教は反体制勢力ではありませんから。
佐藤 無抵抗ではなく不服従ですよね。
副島 不服従が、マハトマ・ガンジーの思想になった。
佐藤 不服従抵抗ですよ、不服従非暴力です。」(副島隆彦×佐藤優著『ウィルスが変えた世界の構造』 )

今日、1月6日をむかえ、アメリカ大統領がどちらになろうと、アメリカをヘゲモニー国家とした世界構造の転換にあたって、台頭した中国との軋轢が不可避として激烈化してくるだろう、日本にとっては、台湾の問題(中国が憲法記述どおり実行支配にのりだしてくる現実性)に、どう対処するのか、が突き付けられてくるだろう――というところで、正月に読んだジャーナリズム本が一致していた。「日本は進むも地獄、退くも地獄」(佐藤・手嶋隆一『菅政権と米中危機』)、つまりはアメリカについても地獄、中国についても地獄。橋爪大三郎氏は、台湾をめぐる米中戦争の具体例をあげながら(米軍によるAIを使ったシミュレーションゲームでは、米国全敗だそうだが―)、自由と民主主義のアメリカにつくべし、とはっきりしている。トランプを支持している副島氏は、ヘゲモニーは中国に移行するのだから、それでいいのだ、ということだろうか?(宮台真司氏も、中国社会みたいになってもそのなかで庶民の自由はありうるんだ、いいんだ、と言っていた)、佐藤氏は、アメリカの社会価値のほうがいいだろうとどこかで言っていたような気がしたが、自分の立場というより、手嶋氏と同様、インテリとして客観的な、傍観的な立場をジャーナリズムの位置としては固守する、みたいな感じだ。それが、対談中、副島氏から、「佐藤さんは、口ばっかりであらゆる理論を並べるけど、本当は何も信じていないでしょう。自分の信仰以外は。」となじられることになるのだろう。以前の私のブログでも言及したが、佐藤氏の言説はパフォーマティヴで、まともに受けずらい。おそらく、そこに、属するプロテスタントの宗派の世間との関わり方の存在定義が、なんかこの世へのスパイみたいな態度が、挿入されているのだろう。

で、私はどうか? (台湾有事が直前として、どうスタンスするのか? アメリカか? 中国か? いや、私は、どちらにもつかない、つきたくない、という第三の道が選択できるよう模索する。日常生活的にも、いわば仕事現場でも、似たようなどちらにつくか、と突き付けられてくる現実が派生しているが、そこでも、私は、どちらにもつかない、たとえ、ホームレスになっても、という信念が貫けるかどうかわからないが、そうありたいと思っている。が、ここでは、大きな社会問題、社会態度として、ということで――)

① 天皇を掲げる日本国憲法を改正する。9条を徹底する。―前者で、侵略したアジアの国への主体的な態度思想をしめすことで日本国の言論に説得力をもたせ、後者で、アメリカ軍に、日本から出ていってもらう。そのことで、中国等のミサイルが飛んでこないよう担保もとる。
② 徴兵制か、国民皆兵にする。――消防団の延長みたいなのとして。あるいは、アメリカの州兵の小物版。災害や戦闘発生時の人びと救助と軍隊支援の連携とのノウハウや道具技術の扱いに慣れておく。またそのことで、ミサイルでなく、外国からの上陸侵略の思惑を牽制しておく。
③ 自衛隊の一部、あるいはたしか小沢一郎がいっていたかもしれないが、国連に派遣する部隊を作って、その軍の主権を、世界機関に一任する。日本国家としての主権も譲渡していく思想を提起し、よその国々も国家が揚期されていくよう世界的な連帯活動と啓蒙を実践する。

※ ②に関して、昨夜のNHKで、自衛隊員の自殺問題がとりあげられていた。多くなっているというのだが、提示されたグラフをみると、多くなっているわけではない(他の省庁と比べれば多いが、自衛隊自体で増加しているとはみえない統計だった)。多いと受け止めたとして、それが、いわば部活動的な「いじめ」によるという。しかしなら、なんで、いまどきそんな話題を特集であげたのだ? 他にすることがなかったからか、それとも、なにか、国営放送としての意図があるのか? 後者だとして、私は、もしかしてこれは、有事をにらんで、これから自衛隊員を増員する募集をかけていく、そのための伏線的な宣伝なのでは、と推測した。私がこの特集をみようとしたのは、もしかして、すでにスクランブル発進や、実践練習、日米の合同練習も過密さを増してきているときくから、若い人たちが耐えきれなくなってきたのか、という気がしたからであった。が、スクープにもならない部活、いじめ切り口だった。が、ゆえに、見おえた印象は、そんなありきたりのことが人間社会としてもちろんあるけれど、自衛隊自身が、組織として、自殺防止対策や、海外の軍の実践を勉強して一所懸命がんばってますよ、という感じだった。(だから、若人よ、安心して自衛隊に入隊してきてください! コロナ下でも、職はありますよ! と言いたいのかな? と私はおもった。)――こんなテレビをみると、とても②の方策などすすめたくなくなるが、その日本的いじめ問題は、何をやるにも乗り切っていかなくてはならない卑小な現実になるのだろう。

昨夜ではなく、昨朝は、毎日新聞の「論点」、多和田葉子氏へのインタビューを切り抜いて、高2の息子に読んでおけ、と渡した。「受験にでるから。」そのシリーズの前回は、大澤真幸氏の、世界共和国へむけて、みたいなインタビューだったかな、と思い返した。おそらくこの連載特集の編集基準が、いわゆる国際派的なリベラルな思想に立っている、ということなのかもしれないが、大澤氏はともかく、多和田氏の言論の出は、そんなところからではない。「ぶつかり合って生きる」、とが副題だが、ドイツのようにコロナに関しても喧嘩になるくらい異なった意見どうし議論したほうがいい、異なったものとぶつかり、ウィルスのように自分が変異して、国の枠を超えていく「能力を持たなければ。」と主張する。私が息子に多和田氏の記事を息子に読んでもらいたかったのは、息子が、私と女房の夫婦喧嘩から逃げているからだ。たしかに、幼い頃から出くわしていれば、生理的な恐怖と不快感が、無意識に刷り込まれて、人と争うことができないよう洗脳のアンカーが打ち込まれたような心理になり、なってしまっているだろう。けれども息子よ、私たちは、それでも、別れていないだろう? 実際には、私たちは、歳いってからの出会いと結婚だったので、離婚パワーがない、とくには、女性の方は逃げにくい、というのがあっただろう(退職金と年金もらう老後になれば、だから話は別になる)。つまりお互いが、夫と妻が、多和田氏のような思想を、文化的には日本では無理なのだから、個人の意志で自覚していないかぎり、無理になる。しかし男尊女卑では、喧嘩も生まれない。息子よ、喧嘩しろ、そして、共存しろ、その「能力」をつけろ……多和田氏の論点は、女性的な観点からの、「不服従抵抗」だろう。

※ 多和田氏は、いま書いている三部作が翻訳されると、ノーベル賞をとるのだろうな、と私は予測する。世界文学であると、私は考えるが、その文脈は、ちょっと複雑な一文化的なものだ。彼女がとると、とれなかった村上春樹氏の文脈が整理され、ひとつの区切りが、日本の文学史に生産される、刻み込まれることになる、とおもう。村上氏の、無国籍的な、大衆的なニヒリズムは、三島由紀夫の認識を受け継いでいる(ゆえにナショナリズムな文学である)と私は解釈しているが、その日本の現実文脈の大衆化、あくまでフェイクな世界化とは別の、異なった、むしろ対抗してきた世界性が日本の現実の、現代(ニヒルにむかう近代)社会の中にもあった、ポジティブな思想があった、ということが実証されることになる、と私は思う。その系譜は、『源氏物語』以来の女性作家の秘められた思想文脈、とかになるような気もするが、わからない。が、マッチョな論理とは別の回路を、彼女が日本と外国の社会を往来するなかで、抽出し、前方将来へのなんらかのビジョンを架橋しようと、国を超えて、世界に提示していることは確かである。大衆という無国籍なイメージが介在されるのではなく、また大江のような理念という上からの共有ということでもなく(もちろん川端のエクゾチズムでもなく)、それ自身の社会文脈の中に、開かれたものが日本にもあったのだ、という証明である。言語活動として、つまり文学活動として、そのビジョンは新しい、のではないかと、私は思っている。彼女の文学世界では、もう日本は非在なのだが…。

2021年1月1日金曜日

初夢をめぐって

 


池なのか川なのか、その岸の近くに、枯れ葉で埋まった水のなかに、よくみると、蛇がいるのがわかった。こげ茶の斑点をもってどくろを巻いていて、マムシかもしれないとおもい、蛇がうごいたところで、頭が三角なのがわかり、そうだと確認できた。結構太く、長い。修学旅行にきている感じがし、まわりに、子どもたちがいるようだった。私は蛇を、ほぼ真上から、右下にみている。蛇は、川岸にいた、さらに私の右下の、川岸で立っていた誰か、子供のほうへ体をくねらせて、這いのぼってくる。私は、誰かに、うごいちゃだめだよ、と心でおもう。蛇は、じっとしている子供の体をのぼり越して、今度は、私のほうへきた。私は、何かが正解しているとおもった。昨夜の夢で、おそらくはじめておばあちゃんの、父方の祖母がでてきた夢をみて、そのときも、何かが正解しているという夢だったが、目覚めたあとではもうそれが何だったのか思い出せずにいたのを、この蛇の夢を思い返し反芻しているうちに、何が正解だったのか、つきとめることができた。意識はすでに目覚めているという気がしたが、目をつむったまま、頭の中で、その蛇と正解を突き止めた夢を忘れないように、幾度か、繰り返し思い返して反芻していた。そして反芻しながら、その間に、幾度が寝入っていて、意識がさめるたびに、反芻をしていたのだろうと思い返し、またこのまま寝てしまったら、もう初夢を思い出せないだろうとおもった。目覚ましが鳴る時刻までに、まだ時間があるとおもったが、私は目を開けて、目覚めることにした。そうして枕元のスマホをとって、ワープロ・アプロを開いて、蛇の夢をメモしはじめた。が、しているうちに、何が正解だったのか、わすれてしまった。ただ、そのマムシが、おばあちゃんに似ているとおもった、とおもったのも、夢のなかであったことではないかと思い返した。どうも実家の門近くのブロック塀まえの庭で、洗濯を物干しに干していたら、西隣のお宅の方から、門をくぐっておばあちゃんはきたのだった。洗濯籠をもって、私をみあげた。私が、背が高かったのか、見おろしているような視点だった。おばあちゃんは、にこやかな感じで、わずかに笑っていた。私は、無理をしなくていいよ、といったかもしれない。そしてどう夢がつづいたのか、おもいだせなかったが、何かが、正解だったと気づく何かがあったのだ。そんな夢のなかの、私が見おろした視点、そして蛇が、おばあちゃんが、右下から私をみあげた視点が、似ているのである。その構図と、どこか落ち着いた、静かな雰囲気がである。蛇とおばあちゃんの目の表情も、似ていた気がする。それを、蛇の夢をみながら、私は気づいた。これは、昨夜みた夢と同じ夢なのではないか、と。ならば、蛇とおばあちゃんは、何をあらわしているのだろう? と私は、目をあけるまえの、意識と寝沈みの繰り返され、まどろんでいた状態のなかでか、分析もしていた。川と水がでてきたのだから、子どものころから何度も繰り返されてきた、私を飲み込むようせりあがる無意識の洪水の変相だろうか? だいぶしばらくまえの夢で、私はあふれんばかりの川の中にとびこんで人助けをしにいったり、上流へと泳いでいく夢もみていた。そのとき、もしかして、自分は、精神分析な対象になるトラウマのようなものを、とにかく克服したような心的常態になっているのだろうか、と考えさせられた。その延長で、今回の、おばあちゃんと蛇の夢がでてきているような気がする。なくなったおばあちゃんが呼んでいる、だの、蛇を夢見ると金運がある、などという世俗の伝説が当てはまるような、夢の雰囲気ではない。それは落ち着いていた。が、死者と、毒蛇があらわれたとき、私は、そこに、なにか危機が、危険なものが忍び寄っている、と夢の中でも感じとっていたとおもう。だから、川岸の子供に、動くな、と心でおもったのだ。その蛇も、おばあちゃんも、穏やかだった。私も、落ち着いていた。おそらく、次なる水準の試練に、私は入っているのだろう。それが、何か、どんなものなのか、私には気づけない。その気づきと盲目性が、正解だったが、何に正解だったのか、忘れた、思い出せない、出させない、という心的あり方に、あらわれているのだろう。