2021年1月7日木曜日

状況と選択



佐藤 私がにわか知識で、メノナイト(引用者註―プロテスタントの一派)について少し語れるようになったのは、指導している学生にメノナイトの子がいるからです。
副島 「殺すなら殺してください」という思想にまで行き着いたことが人類にとって一番凄い。戦争反対、平和、人権というだけなら簡単です。ここに至る完全な暴力否定の思想の積み上げが凄い。私は、「ただ祈りのみ」というコトバの凄さがようやく分かってきた。
佐藤 抵抗権は認めないというところまで踏み込むと迫力が違います。抵抗権を認めると、守ることは攻めることにすぐに転換してしまいますから。専守防衛といっても、相手が撃ってくる直前だったら攻めてもいいという話になる。相手の存在自体が脅威だから潰してもいいという話にすぐに行ってしまいます。
副島 だけど。非抵抗だと、戦争にさえ抵抗しないという思想が一方で生まれます。私はここを見逃さない。これが国家体制に絡め取られていく契機になる。だから無抵抗の思想はよくないのですよ。体制に必ず取り込まれます。キリスト教は反体制勢力ではありませんから。
佐藤 無抵抗ではなく不服従ですよね。
副島 不服従が、マハトマ・ガンジーの思想になった。
佐藤 不服従抵抗ですよ、不服従非暴力です。」(副島隆彦×佐藤優著『ウィルスが変えた世界の構造』 )

今日、1月6日をむかえ、アメリカ大統領がどちらになろうと、アメリカをヘゲモニー国家とした世界構造の転換にあたって、台頭した中国との軋轢が不可避として激烈化してくるだろう、日本にとっては、台湾の問題(中国が憲法記述どおり実行支配にのりだしてくる現実性)に、どう対処するのか、が突き付けられてくるだろう――というところで、正月に読んだジャーナリズム本が一致していた。「日本は進むも地獄、退くも地獄」(佐藤・手嶋隆一『菅政権と米中危機』)、つまりはアメリカについても地獄、中国についても地獄。橋爪大三郎氏は、台湾をめぐる米中戦争の具体例をあげながら(米軍によるAIを使ったシミュレーションゲームでは、米国全敗だそうだが―)、自由と民主主義のアメリカにつくべし、とはっきりしている。トランプを支持している副島氏は、ヘゲモニーは中国に移行するのだから、それでいいのだ、ということだろうか?(宮台真司氏も、中国社会みたいになってもそのなかで庶民の自由はありうるんだ、いいんだ、と言っていた)、佐藤氏は、アメリカの社会価値のほうがいいだろうとどこかで言っていたような気がしたが、自分の立場というより、手嶋氏と同様、インテリとして客観的な、傍観的な立場をジャーナリズムの位置としては固守する、みたいな感じだ。それが、対談中、副島氏から、「佐藤さんは、口ばっかりであらゆる理論を並べるけど、本当は何も信じていないでしょう。自分の信仰以外は。」となじられることになるのだろう。以前の私のブログでも言及したが、佐藤氏の言説はパフォーマティヴで、まともに受けずらい。おそらく、そこに、属するプロテスタントの宗派の世間との関わり方の存在定義が、なんかこの世へのスパイみたいな態度が、挿入されているのだろう。

で、私はどうか? (台湾有事が直前として、どうスタンスするのか? アメリカか? 中国か? いや、私は、どちらにもつかない、つきたくない、という第三の道が選択できるよう模索する。日常生活的にも、いわば仕事現場でも、似たようなどちらにつくか、と突き付けられてくる現実が派生しているが、そこでも、私は、どちらにもつかない、たとえ、ホームレスになっても、という信念が貫けるかどうかわからないが、そうありたいと思っている。が、ここでは、大きな社会問題、社会態度として、ということで――)

① 天皇を掲げる日本国憲法を改正する。9条を徹底する。―前者で、侵略したアジアの国への主体的な態度思想をしめすことで日本国の言論に説得力をもたせ、後者で、アメリカ軍に、日本から出ていってもらう。そのことで、中国等のミサイルが飛んでこないよう担保もとる。
② 徴兵制か、国民皆兵にする。――消防団の延長みたいなのとして。あるいは、アメリカの州兵の小物版。災害や戦闘発生時の人びと救助と軍隊支援の連携とのノウハウや道具技術の扱いに慣れておく。またそのことで、ミサイルでなく、外国からの上陸侵略の思惑を牽制しておく。
③ 自衛隊の一部、あるいはたしか小沢一郎がいっていたかもしれないが、国連に派遣する部隊を作って、その軍の主権を、世界機関に一任する。日本国家としての主権も譲渡していく思想を提起し、よその国々も国家が揚期されていくよう世界的な連帯活動と啓蒙を実践する。

※ ②に関して、昨夜のNHKで、自衛隊員の自殺問題がとりあげられていた。多くなっているというのだが、提示されたグラフをみると、多くなっているわけではない(他の省庁と比べれば多いが、自衛隊自体で増加しているとはみえない統計だった)。多いと受け止めたとして、それが、いわば部活動的な「いじめ」によるという。しかしなら、なんで、いまどきそんな話題を特集であげたのだ? 他にすることがなかったからか、それとも、なにか、国営放送としての意図があるのか? 後者だとして、私は、もしかしてこれは、有事をにらんで、これから自衛隊員を増員する募集をかけていく、そのための伏線的な宣伝なのでは、と推測した。私がこの特集をみようとしたのは、もしかして、すでにスクランブル発進や、実践練習、日米の合同練習も過密さを増してきているときくから、若い人たちが耐えきれなくなってきたのか、という気がしたからであった。が、スクープにもならない部活、いじめ切り口だった。が、ゆえに、見おえた印象は、そんなありきたりのことが人間社会としてもちろんあるけれど、自衛隊自身が、組織として、自殺防止対策や、海外の軍の実践を勉強して一所懸命がんばってますよ、という感じだった。(だから、若人よ、安心して自衛隊に入隊してきてください! コロナ下でも、職はありますよ! と言いたいのかな? と私はおもった。)――こんなテレビをみると、とても②の方策などすすめたくなくなるが、その日本的いじめ問題は、何をやるにも乗り切っていかなくてはならない卑小な現実になるのだろう。

昨夜ではなく、昨朝は、毎日新聞の「論点」、多和田葉子氏へのインタビューを切り抜いて、高2の息子に読んでおけ、と渡した。「受験にでるから。」そのシリーズの前回は、大澤真幸氏の、世界共和国へむけて、みたいなインタビューだったかな、と思い返した。おそらくこの連載特集の編集基準が、いわゆる国際派的なリベラルな思想に立っている、ということなのかもしれないが、大澤氏はともかく、多和田氏の言論の出は、そんなところからではない。「ぶつかり合って生きる」、とが副題だが、ドイツのようにコロナに関しても喧嘩になるくらい異なった意見どうし議論したほうがいい、異なったものとぶつかり、ウィルスのように自分が変異して、国の枠を超えていく「能力を持たなければ。」と主張する。私が息子に多和田氏の記事を息子に読んでもらいたかったのは、息子が、私と女房の夫婦喧嘩から逃げているからだ。たしかに、幼い頃から出くわしていれば、生理的な恐怖と不快感が、無意識に刷り込まれて、人と争うことができないよう洗脳のアンカーが打ち込まれたような心理になり、なってしまっているだろう。けれども息子よ、私たちは、それでも、別れていないだろう? 実際には、私たちは、歳いってからの出会いと結婚だったので、離婚パワーがない、とくには、女性の方は逃げにくい、というのがあっただろう(退職金と年金もらう老後になれば、だから話は別になる)。つまりお互いが、夫と妻が、多和田氏のような思想を、文化的には日本では無理なのだから、個人の意志で自覚していないかぎり、無理になる。しかし男尊女卑では、喧嘩も生まれない。息子よ、喧嘩しろ、そして、共存しろ、その「能力」をつけろ……多和田氏の論点は、女性的な観点からの、「不服従抵抗」だろう。

※ 多和田氏は、いま書いている三部作が翻訳されると、ノーベル賞をとるのだろうな、と私は予測する。世界文学であると、私は考えるが、その文脈は、ちょっと複雑な一文化的なものだ。彼女がとると、とれなかった村上春樹氏の文脈が整理され、ひとつの区切りが、日本の文学史に生産される、刻み込まれることになる、とおもう。村上氏の、無国籍的な、大衆的なニヒリズムは、三島由紀夫の認識を受け継いでいる(ゆえにナショナリズムな文学である)と私は解釈しているが、その日本の現実文脈の大衆化、あくまでフェイクな世界化とは別の、異なった、むしろ対抗してきた世界性が日本の現実の、現代(ニヒルにむかう近代)社会の中にもあった、ポジティブな思想があった、ということが実証されることになる、と私は思う。その系譜は、『源氏物語』以来の女性作家の秘められた思想文脈、とかになるような気もするが、わからない。が、マッチョな論理とは別の回路を、彼女が日本と外国の社会を往来するなかで、抽出し、前方将来へのなんらかのビジョンを架橋しようと、国を超えて、世界に提示していることは確かである。大衆という無国籍なイメージが介在されるのではなく、また大江のような理念という上からの共有ということでもなく(もちろん川端のエクゾチズムでもなく)、それ自身の社会文脈の中に、開かれたものが日本にもあったのだ、という証明である。言語活動として、つまり文学活動として、そのビジョンは新しい、のではないかと、私は思っている。彼女の文学世界では、もう日本は非在なのだが…。

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