2021年1月24日日曜日

量子コンピューターへ向ける科学と哲学――量子論をめぐる(4)


「このように、及ぶ影響が複雑で大きい「実在」という言葉を、物理学の論文で問うのは熟慮に欠けていたようにも思える。この原稿自体はアインシュタインが書いたものではなく、彼自身EPR論文の記述には不満もあったようである。しかしそれから七十数年経って、本書でも述べるように様々な問題が煮詰まってくると、まさに量子力学は哲学的に実在の意味を問うていると言えるのである。このことは本書の主題でありその広がりを提示するのが目的であるが、それは従来の認識論の線上だけでなく科学制度論に拡大されるべきと思っている。…(略)…何れにせよEPRは、二〇世紀における科学の変貌を測定する物差しになり得るのである。そして我々は、このように科学の世界に起った現実、社会の中での制度科学と従事者のメンタリティーの変貌といった事柄に着目する感覚が必要だ、と筆者は今考えている。二〇世紀物理学の開拓者であるアインシュタインの量子力学を巡るこの“大いなるねじれ”は二〇世紀の物理学の歴史の描き方の問題とも関連するし、今後の物理学の展開の見通しにも関係してくる。それが本書の動機である。単なるアインシュタイン絡みの歴史秘話ではなく、科学の今後が絡む現実的に重大な問題であると筆者は考えている。」佐藤文隆著『アインシュタインの反乱と量子コンピューター』京都大学学術出版会)

ようやく、量子論における問題を、その大枠において、自分なりに理解・整理できると感じられてきた。自分の思った疑問が、思いつきな独り言ではなかったのだな、と上引用者の著作にふれて、安心した。時間があるとき、上著作にからめる形で、これまで読んだ本からの引用文のカード化編集ができたらと思ってもいる。がなお、量子論関連の読書はつづく。もっと細かな具体的なところで、追跡してみたいところがあるからである。が、大枠的な理解は、以下のようなものだ。スポーツにたとえて、描写する。

量子世界への科学的探索が直面した問題は、相手がいるスポーツ(正確には、相手がいなくても、またスポーツでなくてもよく、人あるいはおそらく、生物でよければいいのだが――)での試合での進行、在り方の理解と、並行的な類似を示している。量子論が突き当たった「観測問題」とは、試合中における、試合の流れ、と比喩的に語られているものである。慣習的(古典物理学的)には、熟練した選手にとって、試合の流れは、見える、という感じでそこに在る。0対0で試合が進行しているなかでも、勝ちの流れと、負けの流れが、重なっていて、波のように変化していることを感じ取っている。あるいは、たとえある時点で、試合に勝っていても、そこに、負ける可能性が、ここでつまらないミスをしたら流れが変わってその可能性が現実になることを意識している。逆に負けている場合でも、辛抱強く粘っていれば、勝ちへの流れが引き寄せられてくる可能性が十分にあると感じられていたりする。その手はずも、具体的な戦略で持てている場合もあるだろう。もちろん、点差が開いてしまって、もとある実力差から、勝ちの見込みはほとんどない、天変地異でもおきないかぎりない、と観念することもあるだろう。今では(新物理学=量子力学では)、試合中における、個々のデータを取得・解析して、各ケースがどう勝負にむけた、得点の取得や失点につながるかの重なり合いをシュミレートし、つまり微分的に解析されたデータを積分的に総合して、ゲーム中のベンチからの指示や、ハーフタイムでの戦術修正がおこなわれる。訓練の行き届いたチームでは、ひとりの中心選手だけが、そんな試合の流れを読み、各選手に伝えて動かすというだけでなく、むしろ、全ての選手が同じ流れを読み、共有した戦術イメージを同期的に実践していく。今は、そこにデータ解析のバクアップがつくが、昔は直観とチームワークで、その同期性が実現されていた、ということになる。そして、その試合そのものの要因というよりは、他の社会的なものとの関連において、試合は終了することになる。いつまでも、その勝負の重なり合いがつづくわけではない。どこかで、終息させなくてはならない。しかしそれでも、優秀な選手や監督は、勝負の結果以上に、その過程を重視する。勝っても負けても、そこを分析解析し、次に向けて修正していくよう備えるだろう。短絡的なフロントやスポンサーは、結果が全てのような圧力をかけるだろう。

さて、以上の試合の話を、量子論に絡めるとどうなるか?

試合の流れを読みこませてくる各ケースの、各データは、波なのか、粒子なのか? 直観的に処理していた昔は、波だった、今は、物質として扱っている、と言えるだろう。その場合、各データ自体は、総合的ではありえない。つまり、ハイゼンベルクの不確定性原理が成立する。運動量(速度)と位置が同時に計測できないように、見るべきポイント間では矛盾もでる。サッカーでいえば、サイドでのボール喪失率が高いが、パスの成功率やドリブルの成功率が高かったりする。サイド部分の勝負は、一概には計測結論できない。が、個々のデータの足し算総合から、勝敗の確率の上下を予測することはできるので、全体(勝敗)に絡めた戦術を立て直すことはできる。つまり、シュレディンガーの波動方程式のように、各データという確率分布の総合から、波が粒子として実現しやすい場所なり運動量を、予測的に観測手配することができるのだ。この戦術変更の、各選手の共有、同期といったものが、コヒーレント、という物理現象にあたるだろう。みなが同じ方向とイメージを共有できるという不可思議さを、現在開発中の量子コンピューターが実装しようとしている、と言える。バラバラなイメージと方針で各選手が勝ってに動くのではなく、一つのイメージと方針のもとに、一人一人の情報が常時的に総合的に勝負という目的へと向けられていくのだ。もちろん、その実現は、容易ではない。実際のサッカーでも、イメージが共有できたチームプレーが成立したのは数プレーだったりする。現在の量子コンピューターでも、かろうじて一瞬間での成立なのが普通なようだ。しかも、選手とおなじように、量子でも、暑いとへばってなおさら同期はできない。絶対零度のマイナス270度以下のような世界でないと、難しいとされる。常温でも大丈夫そうな物質が開発中らしいが。つまりは、その多くのコヒーレント状態は、デコヒーレント、いわば収束(収縮、ともいう)してしまう。各選手間でもそうだが、全体的な試合の流れ、勝負の別れ目になる波も、現れてはかつ消えていく。そして最終的には、様々な波=流れの決着として、波動は一つの終着点としての物体に落ち着く。この世の現象が、デコヒーレントによってその物質的な堅固さをもっているとされる状況だ。アインシュタインは、月は見ているときにしか無い、とでも量子力学はいうのか、と問うたわけだ。観測する(見る)とは、コヒーレント(波)であった状態に、見る側は関与、影響を与えてしまって、デコヒーレントな状態に変質させてしまう、ととりあえず理解された。とりあえず、というのは、まずアインシュタインの生存中には、このコヒーレントとデコヒーレントという考え方≒観測結果が開発≒発見されておらず、しかも、より突っ込んで考えれば、やはり、物は実在するのかいなか、という疑問に突き当たることになるからである。量子的なミクロな系で、一粒や二粒ならコヒーレントは結構あっても、では、どこからマクロな系になってデコヒーレントが常態になるというのか、考え方も観察も解答を見だし発見していないからである。ただいえるのは、生体という巨視的な系の中でも、いわば絶対零度なんかではない体温をもった生物の中でも、コヒーレント状態が存在し活用されているのでは、との推測がある程度の物証で言い得る段階にはなっている。が、観測とは、試合に決着をつけるということでもある。科学者でなければ、別に、観測してなくてもすむ。月を、見ていなくても生きてはいける(月自体の内部で、物質同士で観測=相互影響してデコヒーレントが起きているだろうので、月は物体的な堅固さとして現象している、ともいわれる)。波のままでは、なんでいけないんだ? 『方丈記』のように、「うたかたはかつ消えかつ結びて」でなんでいけないんだ? 結果よりも、過程が重要だろう、参加することに意義があるんだ、一生懸命ならばそれでいい、――という見方だってあるからである。要は、収束させているのは、社会=文化的な要請であるとも言えてくるのだ。ゲームをもっとずっとつづけていけてもいいのに、どこかで区切る、とは、まさに、ミクロとマクロの境界はどこなのか、という問いにも重なる。量子力学が特異なのは、その試合中の流れなようなもの、選手の内面と、その各内面の総合(統計処理)にまで手をつけよう、観測しようとしたことにある。実際、電子とは、物質というよりかは、データとしてしか人は扱えないようなものなのだ。そしてもちろん、どうデータをとるかを、人は、あらかじめ枠を決めていなくてはならない。のだから、観測して在るなしは、トートロジー的な事態だ。試合の流れは、在るようで無い様で……ヨーロッパからの科学(者)は、自分でそう観測していながら、その曖昧な在り方に、我慢がならなかった、ということだ。主流となったコペンハーゲン解釈とは、それが実在するや否や、という問いかけは棚上げし、現在のスポーツのように、採ったデータが勝敗(実用)に使えるのだからそれでいい、と割り切り、物理学界から胡散臭く排他されたアインシュタインは、そのデータと勝敗の結果にズレがあるのは(いつもその分析で勝てるわけではない、あくまで確率)、まだ現象の理解に不備があるからだと考え直した、つまり試合後の結果ではなく過程を再検討しはじめた、ということだ。そして過程(試合の流れ、波の重なり)こそが本当の実在だ、とそこだけを重視したのが多世界論者、マルチバースを説く人たちになる。そして今の量子コンピューター開発などの実用者は、アインシュタインの再検討の要点、ズレの指摘にこそ使えるものがあると、そこをもっと精工にしていこう、波=試合の流れを意のままに引き延ばしたり終わらせたりして、必ず勝って終われるようゲームをコントロールしていく努力をしている、ということになる。

※※※ 

ゲームは、コントロールできるだろうか?

戦争という社会的要請がなかったら、原子に原子核から抽出した中性子をぶつけて崩壊させて甚大なエネルギーを放出させるなどという、地球環境的な自然状態では無理があり、人為的にも大変な原子爆弾の開発など、時間と労力と金の無駄になって、開発≒発見などされなかっただろう。つまり、あんな終息はしなかっただろう。いま、量子コンピューターは、どうだろうか? アメリカ大統領選の結果という賭けに負けた副島氏は、『アメリカ争乱に動揺しながらも中国の世界支配は進む』という書籍の中で、中国が開発を進める量子コンピューターの現状に言及しているらしいが、いったんの収束を認めたWEB上には、こう記述されている。――<西洋文明の物理学と数学が行きついた涯(はて)に、「3体問題(スリーボディプロブレム)が有って、解けないらしい。それを中国人の天才たちが解きつつあるらしい。欧米白人の数学者は、AとBの「2対問題(ツーボディプロブレム)」しか解けないようだ。アリストテレス以来の西洋人が作ってきた論理学(ロジックス)では、硬貨を宙に投げてA面かB面の2者で決めるコイン・トスcoin tossしかできない。/ところが、「ジャン・ケン・ポン」、あるいは「グー・チョキ・パー」を知っている私たちアジア人は、3体問題を解けるらしいのだ。…>

私は、量子論で、指摘されたような考察にはなお出会ったことがないし、引用部分だけでは、眉唾ものだという気がしている。が、冒頭引用の佐藤氏の指摘でもあるように、量子力学と解釈、そこから引き出される実用の在り方自体に、文化的なバイアスがかかっているのでは、と感じざるをえない。波動方程式を編み出したシュレディンガーは、それがコペンハーゲン解釈派のように利用されていくことに疑問を提示し、自身は東洋哲学の一派に関心をもち、その関心を共有した若者から遺伝子のDNA発見がなされ、いまの生体内でのウィルス変異の量子学的探究が進んでいる、とも記述される。つまりは、西洋人自身は、その内側から、自分のなしたことを内省し、批判検討する運動がある。「西洋の没落」だの、「形而上学批判」だの、そうした哲学的反省もなされてきただろう。が、その西洋科学を身に受けて実用化させていっている中国科学はどうなるのか? 量子を収束させるのは、人間でもある。ゲームの事実上の終了とは、世界の終息に他ならない。デコヒーレントで物象化しているという見方は同時に、コヒーレントな潜在状態が世界で、宇宙で続いている、終わっていない、ということでもある。量子論が浮き彫りにさせてきた一面側の哲学とは、要素に分解分析し、それを積分的に総合させていく西洋医学というよりは、全体の調和が先に<実在>するかもしれないというホーリズム、いわば、漢方の医術である。が、そこを極めるのではなく、あくまで、人の家にあがりこんで俺のほうが頭がいいから主人だ、と主張していくように技術開発がなされているのではないだろうか? だとしたら、そこから、内省は起きるのか? すでに、西洋人が実行した、原子爆弾投下の人体実験という愚挙を、反省していける科学態度を共有内包しているのか? 私は、疑問に思う。

……しかし、以上のように、物事を相対化しうる視点に私が収まってしまうのは、やはり、日本人、日本の文化的性質を身に受けているからなのかもしれないのだ。日本人にとって、半死半生のシュレディンガーの猫とは、我が事のように受け止められるのではないだろうか? 感性的には、私には、なんで量子力学が直面した<実在論>が不可思議なのか、よく理解できないのだ。そういう物事の在り方の方が、当たり前のような気がするからである。そう、「気」がする、というところに、主体らしきものがある、ので、自我が、一つに統一されていないのが常態的なのだ。それは、在る洋な無い洋な…別段、その曖昧な状態が、不愉快なわけでもない。「曖昧な日本の私」(大江健三郎)とは、半死半生の猫(私)、ということでもあろう。ある意味、この冷めた視点、世界が終わるのもよし、かつ消えかつ結びて、という世界観……少なくとも、ここからは、物事の真意を突き止めようと運動する科学は生まれないかもしれない。が、世界を見つめる哲学としては、真摯ではあるだろう。

0 件のコメント: