2024年2月20日火曜日

トイレ


  横になっていた。体がほてっているのは、銭湯帰りのままいつのまにか、寝込んでしまったからなのかもしれない。ということは、体が冷えずにいたということだから、夏なのかもしれない。だけど、暑く感じているわけでもないことを思えば、春や秋なのかもしれない。時間が、ゆっくりと過ぎていた。薄暗い部屋が、上京してから住み込んだアパートだとはわかっていた。足元向うの押し入れがあいていて、暗い穴が、祠のようにひっそりとしている。よく近所の猫が、知らない間に入っていて、隠れていた。正岐の頭の向う、横にと、仰向いて眠っていた自分の顔をのぞいていた。布団をかけていたときは、胸の上にも、まるまって寝ているのもいた。もう十年近く、布団は干していない。ということは、もう学生時代のことではなく、フリーターとなって、アルバイトで生活をしていたころのことなのかもしれない。布団を干そうにも、どこに? 狭い路地道に面した窓をあけて、さびれた金網にかけてみることはできる。部屋の出入口は、その金網が切れた、路地道がT字路にあたるところにある。扉を開け放すと、銭湯や、さらにはコンクリで固められ堀の深い細長い川へとつづく商店街を抜ける路地道がくだっていて、買い物客や、川向うの高台には、大学のキャンパスもあるから、ここを抜け道として使う学生たちが、のぞいてくるかもしれない。しかし部屋は薄暗いのだから、もうじき、夜なのかもしれない。しんとしていた。押し入れの隣の、ちょっとした台所流しの窓も、破れた緑色のカーテンを暗くしていて、明るい気配がない。体が、軽くなってくる。起きようか、起きまいか、迷っていると、体が浮いた。いや、目を持った魂が抜け出たみたいに、すっと視界が上昇して、天井の高さにまでくると、見下ろしてきた。住み始めるまえから置きっぱなしの、タンスのような、勉強机がある。寝ていた頭上のあたりには、ミニコンポがある。かけっぱなしにしたままのラジオから、荘重な音楽が流れ続けていて、昭和天皇の最期を伝えていたと気づかされたこともあった。枕元の電灯の横、部屋の角には、小さな冷蔵庫がある。突き当りの、薄汚れて煤けているようになった壁。その真ん中を、引き戸がふさいでいる。視界が、その戸の方へとズームしてゆく。戸を開ければ、隣の部屋のものと共有するコンクリの土間があって、そこにスリッパを置いていたはず。右手側にまたドアがあって、トイレになっている。トイレに入れば、また、ドアがあった。それは、外の通りへと通じていた。日曜日の朝、大家さんが自転車でやってきて、外から入って、掃除をしてゆく。たまに、かちあってしまう。開けられては困るので、ドアノブをおさえて、トントンと、ノックをする。そんなときの、恐怖心のようなものが、こみあげてきた。トイレへと導くドアを、視界があけた。

 正岐は、また横になっていた。天井をみている。あの時も、天井をみていたのだとおもった。父が階段をのぼってやってきて、上京するまでは兄が使っていたこの子供部屋にはいってきた。「どうして、学校にいかないんだ?」父は聞いていきて、あの時は、狂っていたのに、もう狂っていないんだな、といぶかしがると、天井がひっくり返って、壁になった。細かい銀紙のようなものがちりばめられていて、ピカピカしているから、幼稚園児くらいの子供のころ、この二階家が増改築されるまえの、平屋建ての頃のことなのだろう。「誰も信じてくれない」正岐は、その壁の方を向いて、体を丸めて、泣いていた。二段ベッドのはしごに足をかけて、顔をだした父が、「だいじょうぶだよ、そんなことないよ」と、やさしい声をかけてきた。「誰も信じてくれない」、正岐は、泣き続けたままだった。何を信じてくれというのだろう? 次男坊だった正岐は、初めての赤ん坊として溺愛された長男と、甘やかされた末っ子の間にはさまれて、母から、邪見に扱われたことがあったのだろうか? おもちゃが欲しいって、わんわん泣いて、お店の床に大の字になって動かないんだから、大変だったのよ、と言った母はそのとき、どうしたのだろうか? 男ばかり三人兄弟のなかで、正岐は、女の子がわりとなった。いつも、母について、買い物にでかけ、ご飯を作るのを手伝った。ピアノの稽古を受けた。母も、買い物でよその奥さんに出会わしたとき、この子が女の子がわりなんですよ、と話し込んでいた。その母を、殺したのだと、正岐は思い出した。父は、もういなかった。

 ベッドのはしごを降りて、戸の方へへと向かった。ということは、父は、戸を閉めていってくれたんだな、と思い、一度は兄が鍵をとりつけてもいた引き戸を開けた。隣の畳敷きの子供部屋とをつなげる踊り場にでて、まだ弟は寝ているのだな、と思った。二人でその部屋で眠っていた時、夜中に目覚めた正岐は、寝入った弟のまぶたを無理やりあけてみた。眼球が、ぎょろぎょろと動いていた。白、黒、と繰り返された。今はそんな時ではないだろうと、正岐は、階段下を覗き込んだ。ほの明るい暗闇のなかで、階段の底には、ほの暖かい日だまりがあるようにみえる。正岐は、す~っと降りてゆく。そうだ、あの時も、こうやって、降りて行った。降りて、どこへゆこうか? 箱のような黒いピアノが、部屋の闇の底で、輝いている。もうやなんだ、ぼくは男の子だよ! 泣きながら、ピアノを弾いていた。近所の女の子と、連弾をやる。発表会。クリスマスには、とんがり帽子をかぶって、輪になったみんながプレゼントをぐるぐると渡してまわす。ぼくのは誰のものだろう? おしっこが近くなる。リビングを仕切るドアがみえる。またす~っと、その扉を開いた。この向うに、母がいるはずだ。暗い廊下。明かりはないのに、廊下の床にならんだ板の長方形が浮き出て見える。あの時も、こうして、向かったんだ。母は、まだいるだろうか? 突き当りの洗面台の鏡は、何も映していないままだった。そこを左に折れると、左側のドアがお風呂場で、右側のドアがトイレ。母は、お風呂にいるはずだ。あの時も、そうだった。す~っとまた、トイレのドアをくぐった。和式の便器の白い底に、黄色のような、茶褐色の、粘土で作ったような大きなうんちが横たわっている。「誰がしたんだよ! もう飯なんか食ってられねえよ! こんな仕事なんかやだよ!」夜勤の荷物担ぎをしていたとき、夜の食堂に入ってきた、よその組で班長をやっている若者が叫んだ。正岐はそこで、やっていいものか迷ってきた。もう深い穴は糞尿でいっぱいで、便器の下まできていた。汲み取り屋さんにはまだ頼んでいないんだな、と思いながら、前にあったタンクのレバーを引いて、水を流した。茶色く濁った水が、底の方からどっと流れてきて、便器からあふれだしてきた。それは洪水のようになって、正岐の方に迫ってきた。

 

 酔いが、まだ残っていた。後味の悪さを覚えながら、閉めた扉むこうの、トイレの水の流れる音を聞いた。もう昼近くになっているのだろう。寝床に使っている畳敷きの部屋には戻らず、隣の台所のあるリビングを過ぎて、奥の、勉強机や本棚を置いた部屋のカーテンを開けた。11階建ての団地の6階からなので、青空が大きく広がって見える。ベランダのベージュ色のペンキを塗られた鉄製の手すりの少し上だけ、駅に続くマンションや駅前の高層タワーの頂上が連なっている。何年かまえまでは、ここから富士山も大きく見えた。がいまは駅前開発でできたタワーマンションがさえぎって、その裾の部分だけが、滑り台の端のように降りているのがみえるだけ。息を深く吸って、胸のむかつきを調整してみる。この後味の悪さは、昨夜、草野球仲間たちと久しぶりに飲んだアルコールのせいだけでもなく、繰り返されるというよりは、ぶりかえされてくる夢をまた見ることになったからなのだろう。

 洪水の夢、竜巻に追いかけられる夢、熊に追われる夢、そして、トイレにあふれる大便の夢。いつから、そんな夢を繰り返すことになったのだろう? 山手線か何かの電車に乗って、ぐるぐると迷って、あげくは東京駅に近いと感覚されるいつもと同じ駅で慌てて降りて、そこから違う電車に乗り換えて、行き過ぎてしまったとまた草地が道端に生える郊外で降りて、田舎道から大通りへと出て、行き交う自動車の間を抜けて、混雑する人々の、買い物客であふれたビル街の中の路地道へと入る。そうだ、ここからならわかると、どうも池袋のサンシャインタワーへの街路を連想させる高層ビルの間を縫って、さびれた飲み街のような場所に迷い込んで、一軒の引き戸をあけると、そこが、上京してから一番最初に住んだアパートだったりするのだった。さっきの夢も、もしかして、そうやってたどり着いたのかもしれなかった。

 正岐は、台所にもどって、コーヒーをいれようと思う。それとも、カップラーメンにしておこうか。とりあえず、ヤカンに水をいれて、お湯をたくことにする。ひとりで住むには広い2LDKの物件だった。本を読むので、たまってくると、置き所がなくなってくる。寝床と書斎が一緒になってくるのも、どこか耐えられなくなっていた。本棚や、床に積み置かれた書籍のビルのような連なりは、どこか、夢のつづきのような、洪水があふれてくるイメージを呼び起こした。それでは、寝ても覚めても、同じ世界にいるみたい。世俗の、実際の世界にいることが正岐は嫌だった。その世界を成立させているそもそもの世間が、なお正岐には嫌だった。世間は、男と女でもつれあっている。なんで談合ってあるんですかね? 正岐は、植木職人の世界に入る前は、営業をやっていて、よく仕事上の話し合いの場所を設けていたという年上の職人にきいてみた。草野球も一緒にやっている彼は、「それは女が好きだからだよ」、と端的に答える。「銀座とかでよくやったな。」と、懐かし気に付け加える。

 草野球のチーム自体が、男の品定めのような場所になっていた。チームメイトの恋人なり奥さんが、年頃のまだ若い女友達をときおり連れてきて、応援にやってきた。がそれは、お見合い相手を探す一環でもあるらしいとわかってくる。そしてどうも、女の子たちは、みな正岐を指名しているらしいのだった。「いや彼は別口なんだ」と、ひそひそ声で説明しているチームメイトの声が聞こえる。ヤンキー的な若者たちが多い中で、律儀そうな正岐の姿は、目立つのかもしれない。仕事でも、自分ほどのベテランで、現場をまかされていると、接待のゴルフや酒の付き合いに巻き込まれていてもおかしくない。が正岐は別格で、いわば超然としているのだろう。みなを公平にあつかって、つるまない。作業能率が桁違いなので、不平を言ってやめられても困るからか、付き合いが悪くても、そのまま通ってきたのだった。

 もしかしたら、直希も、そういうことで独り身でいるのだろうか? 正岐は、カップラーメンにお湯をつぎながら、考え始める。中学生の時から、バレンタインデーのチョコレートをけっこうもらってたから、もてないわけじゃないだろう。むしろ、一番最初に結婚してもよい感じだったのに。いつだったか、兄の慎吾に、その件を聞いてみたことがあった。「まわりの女が尻軽で、ふしだらだから、面倒になったみたいだよ。」知ったように言われたその返事は、以外な感じがした。高卒でできる仕事につく人たちの世界は、モラル的な抑制も弱いから、そんな周りになるのかな、と思ったが、大学に進学した正岐の学生時代も、実はそういう周りだったのかな、と振り返られた。まだバブル時代だった。男の方がすぐに誰と寝たと言いふらすし、女性の態度も変わるので、それはすぐにわかるけれど、正岐には気にするどころではなかった。自分のことで、精一杯だった。どうして、母を、殺してしまったのだろう?

 草野球の応援にくる女の子たちも、いろいろな経験を積んでいるだろうけれど、ふしだらな感じはしない。男女まじった酒の席では、パンツをおろした男のペニスを、みなのまえで食いつく女の話もきく。芸能界にかかわっている若い衆もいるから、一度、ドラマや映画、コマーシャルでもいくつも起用されている女優がグランドにやってきたこともあった。いろいろ週刊誌で取り沙汰されるけれど、ふしだら、という感じを受けるということは、どういうことなのだろう? 

 しかしまだ、素人の世界のことだからマシなのかもしれない。野球仲間には、やくざ者もいた。性的にもアピールのある女性がくれば、明白なターゲットとなった。銀座のキャバレーに勤めているという若い女性がやってきた。サラリーマンの営業時代の接待で、その界隈に詳しいあの職人さんが、その勤め先の町名を聞くだけで、そこ三流じゃん、と挑発し、彼女もそれを自覚しているからか、口ごもってうつむく。やくざ者二人が、男どうしの打ち合わせを始める。後日、ひいひい言ってたよ、と酒の席で報告がはいる。3人でやったらしかった。そんな話の数日後、その男二人のうちの一人と、彼女が街を歩いているのにでくわした。男の方と目が合ったので、正岐は自転車を止めて、挨拶をした。彼は組員ではなく、ハンサムな遊び人で、娘ばかりの子供を5人くらいもった妻帯者だった。大きな目をした彼女が、ちらっとこちらを見上げた。ふたことみこと、何か彼と話して、「じゃあいきますね」と、団地の方へ自転車を走らせた。「え~っつ!」という叫びのような声が、後ろから聞こえた。その日以来、彼女は2度と、草野球の応援に来ることはなかった。

 洗脳のためのアンカーを打つように、男根を使うようだった。彼女だけではなく、他にも幾人か見てきた。目が、もうおかしくなる。中毒者になってしまうようだった。いやでいやでしょうがないのに、逃げられなくなる。その嫌な男をみると、体の芯が抜けてしまう。頭では嫌なのに、体が欲してしまって、言うことを聞かない。男の方は、それが狙いらしかった。「あなたのことは嫌いでしょうがないのに、体がだめなのよ、そう女に言わせなくてちゃだめさ」。

 正岐には、遠い世界だった。しかしその世界への嫌悪は、青春時、それ以前の世界と直面した時の嫌だな、入っていきたくないな、という感じを上書きしただけだった。高校は、県下でも一番の進学校で、男子校だった。その要領のいい官僚予備軍のような世俗社会と、やくざ者や草野球の世界でみられた世間は、直結しているというか、同じ重なりに感じられた。大学になどはいれば、なおさらだった。どこもかしこも、同じだった。気味が悪かった。もしかして、そんな感じが、あの糞尿の姿となって、夢に現れてくるのかもしれなかった。

しかし気味が悪いからといって、その当人である男や女たちを、ふしだらとは受け止められなかった。嫌なのは、その個別なことではなく、それらが織り成す相のようなもので、見えてくる印象に近いものだった。世相、という言葉もある。だから、それら個別の人々と、正岐は普通には付き合えているのだし、それを成立させているものがふしだらな素材であっても、その組み合わせ次第では、もっと違った印象を与える形になるのかもしれなかった。ただそうだとしても、正岐には、そこに参加していく意欲はわかなかった。欲望自体が、空々しかった。女性を性的な眼差しでみてみても、そう見るのが普通だからと強制されているようでいて、嘘くさかった。たぶん、自分はもっと無邪気な目で、男を、女を、世間を見ていた。がその無邪気さは、許されていない。正岐には心地よい無邪気さを守るために、青春時に止まってしまった時計をそのままにして、世界から距離を置いているのかもしれない。仕事やなんやで時間をとられるほど、正岐は独りになる時間が欲しくなった。欲しいというより、本当に、頭がおかしくなってきそうで、じっくりとクールダウンしないことには、逆に病気になってしまいそうだった。そういう意味では、参加しないのではなく、参加できないのだろう。そして参加できない自分は、「え~っつ!」と叫ぶ女の子たちに、どうしようもなかった。そして男たちも、こいつはそういう奴だとわかっていて、だから、「あいつは別格だから」と言うのだろう。ペルーの友人たちの付き合いで、六本木の夜の街のなかで、歌舞伎町のやくざな世界の中で、そうやって、自分は知り合う男たちから守られてきたような気がする。「あいつは、本当に悪い奴だからつきあうな、ほっとけ」と、正岐に話しかけてくる男をマリオたちはどけた。そしてマリオたちの店をつぶしにはいったやくざ者たちもが、正岐の前でおどおどし、手を出さなかったのは、正岐が世界から距離をもった存在であることを了解してしまったからなのかもしれなかった。一緒につるまないこと、つるめないことを自覚して、世界をいつも同じ距離から、遠くから、無邪気に、無関心に、だからこその公平な近さであることは、逆に男たちを、その世界を脅かし、暴力をおさめさせ、平和へとなだめていくようだった。

正岐は、そのことをも、自覚しているのかもしれなかった。世の仕事など、する気もなかった。まだ時間があるから、暇があるから、空いた時間があるから、やっているにすぎなかった。部屋にこもり、本を読み、考えたことを書き留めている。いつかそれを、書き得る時がやって来たら、一つの形に造りあげたい。集めた材料をくねりあわせ、組固めて、彫刻を象るように、人々の思考や夢を刷新していかせる壮大な形を目に見えるようにしたい。そうすれば、ふしだらな素材たちではあっても、世界を変えていかせる印象に、衝撃になるのではなかろうか?

 

 食卓の椅子に座って、カップラーメンをすする。昨夜の、焼き鳥屋のとんちゃんで食べたものの消化しきれていない残りが、胃の中で、また暖かいものに触れて、動き始めるような感じがする。食うことが嫌なら、食を減らせばよい、世間が嫌なら、付き合いを減らせばよい。そうやってでも、生きていかなければならない。もう五十を半ばになって、耐えていけるのだろうか? いや今まで、ここまで生きていられているのは、どうしてだろう? そっちのほうが不思議ではないか? 嫌悪、嫌悪、嫌悪……吐き気、吐き気、吐き気、…憎悪。この世界とのそんな感触が、自分の自殺をふせいできているのだろうか?

2024年2月11日日曜日

山田いく子リバイバル(11)ー2

 


「ガーベラは・と言った」の2000年黄色バージョンが、カメラ屋から、仕上がってきた。

 

2000.3.24山田いく子「ガーベラは・と言った」 (youtube.com)

 

いく子は、この私小説的な試みになってしまったソロダンスが、評価されたということに、とまどう手紙を書いていたわけだ。たしかに、ここには、まず自己分裂がある。心の奥に潜めた黄色く輝く世界、そして、表向きの、戦い、倒れ、嘆く自分、といった世界。心に仕舞いこまれて積み重なった、ひとつひとつの記憶の断片のようなものは、表の世界へと少しずつ運ばれ、整理されるかのようであるが、うまくはいかない。いく子は、ノスタルジーをかきたてる日本語の歌を背景に、うまく整理はできない断想の中を、力つきていくように、たちあがろうとしては、たおれ、ころげまわる。最後は、疲れたように、缶ビールを飲み干す。夢からさめるように、日常の世界につきもどされたように、ひとりの中年の女にかえったように、この非整理なままの世界で生きていくことしかないと覚悟をしたように。いく子はこの後、とにかく、外へ向けて、飛び出していく、そういう舞台を作っていく。

2024年2月8日木曜日

山田いく子リバイバル(補足)


いく子の、まだバレエダンス・スクール通い時代のビデオ録画がでてきたので、バックアップ。

1988年6月の、発表会の模様らしい。

1988.6「海底の幻の花」in 博品館 山田いく子バレエ時代 (youtube.com)

能登半島地震から


千葉の造園家の、高田宏臣さんが、能登の地震現場から、問題提起をしている。

私は、ズームでの支援会議に参加することしかできないが、幅広い人に通知してほしいということなので、このブログでも、そのYouTubeにアップされた討議の録画にリンクをはっておこう。

(3) 令和6年能登半島地震 被災地調査報告と災害復旧を考える 地球守ラジオ - YouTube


そのズーム会議をする前の当日早朝になるのか、大竹まことのラジオ番組で、中島岳志が、その高田さんの論点の要旨を解説している。

‎大竹紳士交遊録 - 大竹まことゴールデンラジオ!:Apple Podcast内の2024年1月23日 中島岳志(コメンテーター)


現代のコンクリートで地中を根切り固めていくという技術が、本来液状化などおこらない場所にも、被害を発生させ、拡大している、という話。

風水、という言葉があり、今年の干支にちなめば、竜神、ということになるのだろうか。その通り道をふさいだら、大変になるということだろう。

生活クラブの映画会でも、「原発をとめた裁判長」というのをみてきたけれど、現代の科学技術の浅はかさは、こわいものである。しかしその生活に埋没している私たちが、その本当のところに気づいて、改めていくのは、これまた大変だろうが、鯰も龍も、そんな猶予もあたえず、人には理不尽とおもわれる大暴れをするのだろうから、こちらも気づかないうちに、対応をしていくことになるのだろう。もちろんそこで生き残っていく対応が、今の科学技術の延長のものになるとは、私には、とても思えないが。

2024年2月6日火曜日

山田いく子リバイバル(14)


(1)2002年3月3日 「トランスアヴァンギャルド」山田GO子&菅原正樹 カフェスロー

 NAMの地域通貨プロジェクトであった、Qイベントでの一幕。辻信一やナマケモノ倶楽部が運営協力していた国分寺のカフェスローでおこなった。

 2002.3.13「トランスアバンギャルド」山田GO子&菅原正樹 カフェスロー (youtube.com)

     音声はVHSが古いからか、録音されていない。

・いく子は、芸名を、「いくこ」から「GO子」と表記変更している。おそらく、彼女の反応には、意識などしていないだろうが、正当な反射神経があったとおもう。

いく子は、ピナ・バウシュに傾倒していた。97年には、香港にまで行って、その公演をみている。いく子のノートには、1995年『ユリイカ』「ピナ・バウシュの世界」特集号のなかの、渡辺守章・浅田彰・石光奏夫による対談「ピナ・バウシュの強度」がはさまれている。いく子が傍線を引いていたところではないが、私は、いく子は、私との出会いで、次のような浅田彰の発言に対応するような応答をみせたのだ。

 

<浅田 (略)ここでとつぜん関西人として断言すると、ぼくは吉本が分からなければピナ・バウシュは分からないと思う――もちろん吉本隆明じゃなくて吉本興業のほうですよ(笑)>

 

いく子は、私との関係のなかに、自分だけでは引けない線を見つけ出したが、それは、「ギャグ」だったのだ。このカフェスローの公演で、コントラバスを引いている方は、たしかタチバナさんと言って、すでに著名な方だったと記憶する。机の上にのぼったいく子は、自らギャクを演じるように、後ろからマジでひっくり返る。最後私がいく子をみあげて、笑いながら何か言っているが、机がぐらぐらして字が読めないよ、と言ったのだとおもう。私たちの次は、学生系の代表をする関本さんが、ギターをもっての引き語りだ。このイベントを主催した蛭田さんからは、なんでこんなことをやるんだ、と顰蹙を買ったが。しかし、「切断」倫理=身振りのやり合いで解散へと突入していく線しかなかったような上世代のなかで(柄谷自身はギャグを意識していたと私には思えたが)、実質的な中心であったろう私と同じ当時30代前後の世代には、「ギャグ」モラルがあった。両者の中間世代にあたるいく子は、その後の付き合いからしても、熊野大学経由の世代よりも、一回り若い世代に呼応している(葬儀には、当時10代ではなかったかと思う関口くんがかけつけてくれた)。頭の中で思想内容をくるくる「転回」させるより、自らの身体の扱いを変化させるほうを選んだのだ。そこには、アーティストとしての、彼女の感性の発揮があっただろう。結婚後、夫婦喧嘩の最中に、いく子がよく私に言い返した文句は、「あなた見てると、(マンガの)こち亀の両さん思い出す。ほんとにそっくり!」 私は、今でも「両さん」であるだろう。植木屋として独立したそのチラシ広告に、「千葉市は都町の植木屋さん」と表記したが、東京の感覚でなら、「大手町の植木屋さん」と言った時のニュアンスが、千葉市の中央区近辺ではつく。しかしソクラテスも、両さん、ひとつのギャクだったはずである。哲学的には無知の知のイロニーとして形式化されるが、実際には、街で見かけられたソクラテスは、笑い者であったろうし、そこに、ソクラテスの根源的な政治性があっただろう。

 

     いく子に関わることとして、また浅田彰の発言を追記しておく。――<彼女自身、「あれはベルリンの壁の崩壊と重ねて読まれるから、しばらくやりたくない」と言っていた。それくらい無関係なものなんです。とにかく、壁が倒れた後のゴミだらけの廃墟の空間で、身体がいかに残酷にして甘味な自由を生きられるかということだけが問題なんです。/しかしまた、ベルリンの壁が崩れることではなく、それこそが本当の<政治>なんだとも言える。人々が身体的なレヴェルでどういうふうに動いているか。カンパニーの中でも、一応コレオグラファーである自分とパフォーマーたちとの身体を通じた関係こそが<政治>なんで、それ以外の政治というのはないと思うね。>

 

(2)2002421日 「トランスアヴァンギャルド 野蛮ギャルドの巻」山田GO子&菅原正樹 ギャラリーシエスタ

 

2002.4.21「トランスアバンギャルド 野蛮ギャルドの巻」山田GO子&菅原正樹 ギャラリーシエスタ - YouTube

 

・まるでいく子は、ノラ猫である。よくブロック塀の上に座りこんで、じっと通行人を見ているネコに出会わすが、そんな感じであろうか。私は、まったく覚えていないが、最後、二人で、私が読んでいたコピーをとりあうようになった、その時のイメージは残っている。がまるで、他人をみるようである。タイトルに、なんかとの<巻>までついている。

 

(3)2003年6月29日 「トランスアヴァンギャルド 愛についての巻」 ダンスパスにて

 

・録画もあるが、割愛する。この年の4月に、私たちは役所にいって籍を入れた。NAMは2002年の末から2003年にかけて、解散手続きに入り、解散している。

 

(4)2003年9月15日 「トランスアヴァンギャルド 希望の変」 ダンスパスにて

 

2003.9.15「トランスアバンギャルド 希望の変」山田GO子&菅原正樹 (youtube.com)

 

・肩の力が抜けて、幸せそうに踊るいく子。幸せのあまり、泣いてしまったのだろう。私は、まったく覚えていない。出産一月前の公演である。カメラ手前で赤いスボンをはいて腰かけている観客は、摂津さんだ。

 

このダンスパスを運営する長谷川六さんにはじめてあったとき(六さんも去年亡くなった。その姿が映像で伺える)、私はいきなり言われたものだ。「なんでこんな女と結婚したの?」「波長があったんだとおもいます」「すぐ離婚するよ。」――いく子は、NAMの運動の高揚のなかで、仕事をやめていた。組織が解散し、メンタリティー的な拠りどころも、なくしてしまった。彼女は、またもやのどん底のなか、ほんとうに「保険のおばさん」をやりはじめた。私のところへも、自動車保険の話にきた。たぶんそのとき、この女性のことが、本当に心配になってきた覚えがある。いく子が13歳でなら、私は16歳で、人生の時計はストップした感覚があったので、感情的な想いは遠くなってしまうのだが、だいじょうぶなのかな、と言葉では思わなかったが、そう感覚が発生していた気がする。そしておそらく、この年の春先だろう、切羽詰まったように取り乱した電話が突然かかってきた。私を非難しているようにも聞こえたろうか。そんな話というか、聞き役のなかで、私が突然言ったのだ、「結婚すればいいんじゃないの?」 いく子は絶句し、また何かわあわあ言っていたと思う。がたぶん翌日にも、東中野の私のアパートにやってきて、一緒に暮らしはじめた。私が日給で生きる、日雇いみたいな者だったので、「二人で、マンションの住み込みの管理人でもやりましょうよ。」とも言われたが、当時すでに年収500万くらいは稼いでいたから、この大家さんの敷地にある、家賃の安い長屋住まいみたいなところにいるぶんには、別段いく子が働かなくてもだいじょうぶだった。そこに、京都から、コンピューター系に所属し、京都事務局も手伝っていた渡辺さんがやってきて、しばらく三人で暮らしもした。岡崎乾二郎の軽井沢での展示会を見に行く前日なのか、NAMセンターの事務局長をやった倉数さんや摂津さんも、一晩とまっていったことがあるような気もするが、もう記憶も曖昧だ。いく子と私は、つきあいはじめて半年もたたず、たぶんダンスの公演を何度かみにいったことしかなかったとおもうが、結婚したのだ。そしてその後で、もう何年もたってからだが、あの突然の電話で泣きついてきたのは、彼女は自分が妊娠したことに気づいたからなのだと気づいた。いく子は45歳になっていた(私は年齢も気にしてなかったので、知らなかったけれど)。

 

いく子にとって、私は、小柄谷として現れたことだろう。10歳近く年下の私は、彼女の幻想の核である、同性愛に通じる少年愛的な慰撫を壊すものではなかった、同時に、自分よりかは知的な蓄積のある私を、畏怖すべき父としての像ともみることができただろう。しかし結婚すれば、そんな幻想は崩れる。「違う!」と、まるで中上の「秋幸」のように、畳の上に座りこんだいく子が見上げて言ったその抑揚と顔を、私は思い出すことができる。が、その違いの中でも、リアルな性愛は成立する。そして子供が親離れし、私たちがいっそうの歳を経れば、いたわりあいのようなものに移行する。大西巨人は、歳とともに性愛はよくなっていくこともあるのではないかと、エセーに綴ったが、理想的なものとはほど遠くとも、そのような成り行きを私たちも歩んだような気もする。亡くなる十日ほどまえだろうか、心内膜炎で一月半もの入院をやっと終えてまだ半月しかたっていないとき、私はシグナルというか、気配を感じた。それから数日後の朝方、私は、いく子の布団に潜り込んだ。もう定番なように、髪をなで、おでこに長いキスをするところからはじめる。いく子は、ぐったりとした。胸に張りが出てきて乳首が立ってくるのとは逆に、蛸のような軟体状態だった。今からおもえば、もしかして、彼女は、失神していたかのかもしれない。

 

息子が生まれ、体が落ち着いてから、いく子はダンス活動を再開した。最後のものが、葬儀の時に流した「あいさつ」とタイトルされたものである。おそらく、この三部構成は、私小説的な文脈にあるものではない。あの佐賀町のソーホーでの、ホロコーストでバラバラになって崩れ落ちていった個人の、その後の世界の立て直しへの模索として、反応したのではないかと思う。「友達屋~、ともだちはいらんか~」と叫び、狂ったように笑い歩く終幕は、苦渋にみちている。しかしそれが、次の世界へむけての、「あいさつ」だったのだろう。

 

いく子のたどった軌跡は、彼女に特有のものというより、女性一般が追い込まれる現実であるようにも思う。男は、ドロップアウトできる、しかし女性は、はじめからアウトな位置にいたら、そこに入っていく努力を強いられる。息子が小学四年になって、ちょうど東中野の長屋アパートから、公営団地に移ったころから、子供への教育過程で、虐待に近いところまでいった。もう手がかからなくなったのだから、もっと自分のこと、踊ればいいのに、と私は思った。「あのさ、もしピースってアートしているオノ・ヨーコが息子をぶん殴っていたら、そのアートは嘘だよね?」と言う私の言葉に、いく子は、「わからない」と首を振った。当初は、わかりたくないという否認の身振りなのかな、と思ったが、その心底わからないという表情が、記憶に刻まれて、私は、ずっと考えていた。そして、彼女の最期をみとることになったとき、私は、葬儀の喪主の挨拶でも述べたように、自分が間違っているとの認識がやってきた。ピースと虐待は矛盾しない、それを矛盾とするのは、男の論理を成立させる公理系でであって、たぶん、それを矛盾とさせない別の公理系が存在するのだ。その公理の現実性を理解できないと、いつまでたっても、男の論理で戦争を繰り返すのだろうな、と。

 

もしかして、古井由吉は、その公理系を手繰ろうとしていたのかもしれない。

 

いく子が、私に残してくれた宿題は、まだまだあるだろう。がとりあえず、山田いく子リバイバルとされたこの覚え書きは、ここで終える。

2024年2月4日日曜日

山田いく子リバイバル(13)

 


(1)2001年2月15日 「(エハラ版)くるみ割り人形」)に出演。

 

・ネズミ役。一定の役割や性格をもたされることに抵抗している。これが、もう江原公演にでるのは最後だと手紙に書いたりしているが、次の、もう一公演参加することになる。ネズミは一匹なので、ソロ役にも近い。堂々とした、ドブネズミ、である。


※ この前年2000年冬に、すでに紹介した「小ダンスだより 冬」を催した。

(2)2001年3月17日  大阪スタジオパフォーマンス

 

2001.3.17山田いく子「ツェラン」(仮題)大阪スタジオ (youtube.com)

 

NAMの創立場所となった大阪スペースAKと関係しているのかはわからない。すでに前年11月に柄谷行人の『NAM原理』は太田出版からでており、東京のほうでもすでに活動ははじまっていたろう。いく子は大阪で活動するダンスグループの誘いにのって、このパウル・ツェランの詩朗読の声をバックにしたダンスを作ったと思われる。

 

織の中のライオンのように、客の前をいったりきたりするのが印象的だ。

 

(3)2001年7月29日 「小ダンスだより 夏」を、仲間とともに、たぶん、銀座の画廊を使ってなのではないかとおもうが、各ソロ舞台の小さな公演を催している。

 

2001.7.29山田いく子「小ダンスだより 夏」spacis33 (youtube.com)

 

(4)2002年2月16日 「(エハラ版)ピカソ考」に出演

 

・これが、江原組での、最後の共演となった。私は、この舞台を、客席でみた覚えがある。いく子とのつきあいがはじまっていたわけではない(それは、解散してからだったろう)。たぶん、NAM東京ではすでに知り合って、見に来てくれ、と言われたのだろう。客席まで案内された記憶がある。

 

そしてこの舞台からひと月もたたない3月3日、東京国分寺はカフェスローでの地域通貨イベントにおいて、私といく子の初めての共演がおこなわれた。

 

このような人生と思想的な軌跡を背景にした女性の前に、私はどんな意味をもって、あらわれたのだろうか?

 

     なお、手元の記録には残っていない舞台もあるようである。二人で作ったジオシティーズのHPでの、いく子紹介ページにて、2000年6月に「スーラ」を、なんらかの発表会で、振り付けを踊る、とある。また2001年10月には、「青空」、という自分の舞台を作っている。「ここに、立つほかありません」、といく子は紹介文を書きつけている。

2024年2月3日土曜日

山田いく子リバイバル(12)

 


200092日 「事件、あるいは出来事」 佐賀町エキシビットスペースにて公演。

 

2000.9.2山田いく子「事件、あるいは出来事」佐賀町エキシビットスペース (youtube.com)

 

徳島県での酒倉公演と同じタイトルものを、大幅にコンセプトを改変し、江原先生以下仲間6人とともに舞台を作っている。一時間二十分を超える大作である。

 

徳島での舞台が、どこかシンボリックな有機的な統合を感じさせるなら、これはアレゴリックな無機質性で分散されている、といえるだろうか。おそらく、そこの場所の差異を、いく子は感じ取って、反応したのではないかと思われる。

 

東京江東区の場所は、ソーホーと呼ばれるところ、いわば、倉庫あとを再利用したものなのであろうか。地方の酒倉と東京の倉庫、その空間の質が、いく子の想像力と構想力を呼びおこした。そしてこの東京での「事件、あるいは出来事」は、想起的であると同時に、予感的である。

 

冒頭、窓辺に1人の女性が、窓の外を見ながら立ち尽くしている。(いく子ではない。)

いく子の日記のような友人へあてた手紙などを読んできている者としては、この窓辺の風景は、いく子がメンタル的な危機を発症させた‘91年、トルコヘ、ニューヨークへと飛び立った当時の心境と重ねあわさざるをえない。いく子は、ニューヨークから書き送る。

 

<何をさがしているの?

ジムジャームッシュが好き 大竹伸郎が好き(NYにこのあいだまで住んでいたはず)。スティングのEnglish in NY。それから……

そんなもん 1週間で 見つかるわけないのにね。

美術館のこと。メトロポリタン美術館より、近代美術館MOMAがいい。すごくいいコレクション。アメリカは19C以降のコレクションにはすぐれています。同封の写真はマチスの絵。タイトルは読んでない。

タイトルは「窓の見える窓」。今年の発表会の私の作品名。

窓の外には車のうずがみえ、人の往来が見える。窓の外にはたぶん出会いがあり、出来事がおこっている。なのに、私には 何も おこらない。>’91.9.24

 

しかしこの危機のほぼ10年後、「出来事」は起こっていた。いく子は、江原先生からか、「単独リサイタル」をやるべきとすすめられている。慕ってくる仲間もいる。だけど、一公演100万円はかかるのだ。いく子の預金の流れをみれば、30万くらいの間をいったりきたりしていて、綱渡り人生である。自分には客はつく。だけどそれは、「保険のおばさん」のようになって、友人や知り合いに声をかけ、チラシを配り、公演後はお礼の電話をかけてきたからだ。知り合いからお金をとってやることは、いいことなのか、と疑問に感じ始めていた。この40歳を過ぎて起きた出会い、事件、出来事を、どうしていったらいいのか?

 

いく子は、窓の外を見る女性に、もはや少女ではない、いい歳をむかえた女性の目を通して、まだ若い頃の、どん底の連続な人生、自分の人生のピークは13歳までであり、それ以降は、文字どおり嵐に見舞われてゆくような軌跡をたどった、人前ではニコニコして弱みを決して見せない「強い姉」を演じていても、その内側は、ぼろぼろだった、拒食症で死んでゆくのだろうとも書きつける。そんな自分は、これから、どこへ行けばよいのか?

 

しかし、彼女が「窓の外」に透視したものは、そんな私小説的な「こと」ではなかった。いく子は、この大きな窓の連なる倉庫あとの空間に、人類の苦難を、ホロコーストを、全体主義を、官僚の世界を、そしてその世界の崩壊とともにズタズタにされて孤立してゆく、人間の世界を見てしまったのだ。

 

ドイツ語の抑揚に似た音声が流れる。まるで、栄養失調でやっと歩けるような男がゆっくりと現れてくる。どこか、ジャコメッティの彫刻「歩く人」を想起させる。三々五々集められた人々が、意味のわからぬまま動く。かとおもうと、集合し、整列し、軍隊のように走りはじめる。ソーホーの空間は、カフカの「審判」のような様を呈してくる。ドイツ語のような抑揚は、フランス語の音声に変わり、恋人との関係や日常生活での風景を前景化させてゆく。女たちが、まるでキャバレーでのように、お客を挑発する。がそんな日常がすすめば進むほど、一人一人が、自己に閉じた世界へと追い込まれてゆく。最初は、ポスター大の紙を、どう工夫すれば遊べるかのような楽しいものだった。しかしそんな個々人の創意工夫で案出されたモナドな世界は、その黒い枠の中へと一人一人を閉じ込めてゆく。もう、この黒い境界から、足を踏み出すことは許されない。この狭い領分から世界とつながり、自由を享受していかねばらない。しかし、そんな世界からも、ひとり、もうひとりと、暗い穴へと落ちてゆく。残された男女は、まるでホロコーストの生き残りのように、自らがこもった黒い狭隘な領分の中へとゆっくり、崩れ落ちてゆく。そして、闇が、やってくる。……

 

これが、いく子の到達したダンスの地点である。もう、未来はなかった。江原先生の公演も、次のもので最後になるだろうと友達に書き送っている。そして、彼女の手紙も、そこで終わる。世界は、インターネットの世界に入っていた。手書きではなく、キーボードからのメール交換へと、いく子も移行したのだろう。そして交換の相手は、もはやダンスの世界の者たちが主要ではなくなっていったろう。いく子は、大阪におもむく。大阪では、NAM創立へ向けての準備がすすめられはじめていたのかもしれない。彼女は大阪のスタジオで、パウル・ツェランの声を導入し、たった一人で立ち、あのあげた両手を大地に叩きつけるパフォーマンスを炸裂させる。

2024年2月2日金曜日

山田いく子リバイバル(11)

 


2000年3月 「ガーベラは・と言った」(黄色バージョン、と呼んでおく。)を発表。

 2000.3.24山田いく子「ガーベラは・と言った」 (youtube.com)

・VHSビデオを、カメラ屋にだしてデジタルデータ化をしてみたもの。DVDでみると、ノイズも除去されちて、けっこう、きれいに復元されている。が、また、著作権にひっかるかもしれない。

 

深谷正子先生の92年公演で発表したものを、改変し、ソロ演出でリバイバルしたものとなる。満身創痍なように、包帯のようなものをいくつも両脚に巻いてつま先で立ち尽くす演技ではじまるこの舞台で、いく子は何を、訴えたかったのだろう?

 

この「発表会」をめぐり、手紙がある。全文、引用する。

 

2000/6/30 <発表会は終わり、行くことあたわずの案内です。

3月のソロダンスの前から、先生から楽しみですね、と言われておりました。それは発表会は鍛えるゾと申し渡されていたのです。

テクニックのチェックだと。それはなるほどという教育指導で、私のこの時期に必要なものであることも納得できますし、ともかく来る日も来る日もテクニックと言われて練習したのでございますよ。江原は練習の好きな人で、それに裏付けられないものには怒って対応する。おかしいくらい。私はこれを全面的に首肯するわけではありませんが、それもよいと思います。少なくとも合理的です。

 

3月の舞台は当てましたよ。

そしてよいと言われたことで、方向修正がなされることになったことを話そうと思う。

自分なんか探究したってしょうがないというのが、私のソロダンスのみきわめでした。次の可能性としては柄谷行人「可能なるコミュニズム」を舞台において終わっています。そう気どったわけです。

ソロダンスが誰にも頼らず一人でやるというだけの意味なら、グループダンスより圧倒的に楽だ。一人でやれるかどうかには、多少のボーダーラインはあるけれどたいしたレベルの問題じゃない。それがクリアできれば、一人でやった方が楽。人との接触が段ちがいに少ないですから。人と争わずにすみますし、アツレキもケンカもない。

ケンカが好きなわけじゃないですが、それじゃあんまり簡単で予想がついちゃう。面白くないと思うわけです。何が起こるかわからないから、面白いと考えるわけです。

 

ソロダンスはやれた。そこには探究すべきことが少ないと思った。だからもうこの方法はとらない。

が、ガーベラは良いと言われたのです。

私はソロダンスが嫌いです。がいくつか波紋がありました。

私のことを踊ること。私小説的方法は嫌いだし、消したいんだ。だからソロダンスが嫌いなのだけど、これはソロダンスであるかどうかの問題ではないのかもしれません。

私はやみくもにやってきたら「私」を踊っていたのであるけれど、私なんか嫌いなんだということで、グループダンスまたは振付をするなど人を通せば私小説的傾向はカン和されるのではないか。が私は「私」に戻らなければならないことを要請されていたと思う。

洗練された美しく調和のとれた完璧な世界には居場所がなかったどころか、そこをのぞき見たことさえ友人たちは沈黙する。しょうがない。汗と涙と汚濁の中に立って全世界を敵にまわして闘ってやる。

またブーイングを出し、いやだわからないと言われるものをやらなければならない。私の友人=天使のためにと。(デモコレが最後。コレデ終ワリト思ッタンダ。)

 

ガーベラは、わからないとは言われなかったのです。

 

私小説的方法。

中上健次「化粧」(講談社学芸文庫)の後書きに柄谷行人が書いてます。

  中上健次がリアリズム的な設定を捨てないことに注目すべき

中上健次は苦手なんだ。何が苦手かを言い当てられず私はつき合うはめになり、大阪アソシエに行く。旅行であり、大阪であり、そうでもしないと勉強しない私だからです。

私小説的方法、これでいいのだなと思う。現象学的還元。

 

「事件、あるいは出来事」

92日(土)。佐賀町エキスビットスペース(江東区のソーホー)で東京バーションの再演をかけます。

 

柄谷行人「倫理21」

カント的タイトル。この人は何故この本を書いたのだろうと思う。どん臭い。

これについてはインタビューがありますので、おってメイルします。

柄谷さんと沼先生(註―若い頃教わった法律の先生)はまったくよく似てると思います。原理的→柄谷使用 理念的→沼使用

自由について書かれています   >

2024年2月1日木曜日

山田いく子リバイバル(10)

 


1999911日 江原朋子「孫悟空(エハラ版)」シアターX に出演している。

 

そして、

 

1999116日 <ダンス in 酒蔵 「事件、あるいは出来事」>を発表する。

 

(2) 1999.11.6 山田いく子ダンスin酒蔵「事件、あるいは出来事」 - YouTube

 

これは、いく子自身が、徳島県で暮らす友人のもとで、その協力のもと、企画プロデュースし、実現させたものである。江原先生をはじめ、総勢9人での、大舞台である。一時間を超える大作になる。公演は、大成功だったのではないか、と、動画をみるかぎり想像する。これも、私には、奇蹟的な公演のように見える。まさに、「出来事」だ。

※ 音楽は、音楽界の前衛として活躍している千野秀一の即興のようである。江原先生の音楽も担当していたが、いく子のダンスをみて、自らかって出てくれたのである。

 

が、1年あまりはかけて構想されたこの企画は、一筋縄ではいかなかった。同時に、いく子の、なんで自分がダンスをするのか、という“政治性”が、この企画議論の過程で、よりいく子自身に意識化されることにもなっていったように思われる。

 

いく子は、まずひとつはそれを、個が気兼ねなく存在しえる「東京」と、根回しが必要な「田舎」、という言葉で表明する。「田舎」といっても差別の意図なんかではないのだ、と釈明しながら。都市と地方、とも言い換えている。そして、自分には、そうした「気をつかう」ことはできないのだと。そしてそれは、自分の性格の問題ではあるけれど、それでは済まない問題なのだと、そこの曖昧さに彼女はこだわり、葛藤し、公演の三カ月前でも、やめるというのならやめてもいい、と腹を決めている。

 

この問題は、いく子にあって、そのまま、生徒と先生、稽古と舞台の現場での闘争に直結している。そして、彼女が考える「ダンス」の技術、「ダンス」への志向、思想と重なっている。彼女は、先生であっても妥協しない。上手い下手が問題とされる技術を前提とするところにダンスはない、ならば、先生と生徒とのヒエラルキーがなんで成立するのか、あるのは、個と個の関係性であり、身体という現場であり、そこをどうするのか、を考えて実践していくのが「ダンス」なのだ、というのが、いく子の言いたいことであったろう。だから、徳島の友だちから、「気をつかう」のがいやならソロでいいのではないのか、と提案があったようである。それに、いく子は答える。

 

<一人でもやる。その決意はできた。でも思うんだ。私が踊る理由って。私がみて欲しいものは、私の持ちえるもの、もちえたこと(この「こと」は傍点で強調されている。おそらく、これがタイトルの由来であろう。)、人との関係。>

 

いく子はこの頃、参加していた伊藤キムというダンサーのワークショップに出入り禁止を食らったり、地元の県立美術館の学芸員と解説や批評という問題をめぐっていざこざをおこしたりしている。自身のダンスの評判は、賛否がわかれながらも、江原先生をはじめ、いく子のダンスなら参加してもいい、参加したいというダンサーたちの声も集りはじめている。が、その調子に乗ればのるほど、ハイな緊張になればなるほど、彼女は孤立していっているようにみえる。

 

この頃、中上健次の熊野大学で知り合った、柄谷行人のNAMの創生に関わるコアなメンバーとの関係もより密になりはじめている。その一人から、パソコンを買え、メールを使え、とすすめられている。彼女と友人との文通も、メールを介在したものもでてきたようである。いく子はもしかして、自分が、自分のダンスに近づくために、関係を作り「こと」を起こして来たダンス界から離れ、違った逃走=闘争線を引きはじめることを、予感していたかもしれない。いく子はこの時点ですでに、柄谷の「可能なるコミュニズム」を読み、それは自分がすでにダンスの現場で、実践してきたものだ、と認識している。

 

いく子にとって、柄谷行人という記号は、特別なものになりつつあった。友人に誘われてはじめて熊野大学に参加したとき、そこで柄谷の涙をみ、そこに「軟弱な」少年の姿を投影したが、その日の質問で、中上には熊野があったが自分の千葉には何もない、歴史がない、と中上の地元へのこだわりと自分との差異のようなものをふまえて発言した。彼女はよほど緊張したようで、何いったかが思い出せないんだ、と当時の手紙に書いている。「関係ありません」と、冷たく突き放された柄谷の返事だけは、明確に記憶されながら。つまり、いく子はこの時、「少年」とは別の、超越的な畏怖を喚起させる父性的位相としても、柄谷の像を作っていたことだろう。

 

柄谷は、個と個の「関係」を、「身体」と呼ぶことはない。それを、「交通」なり、「交換」と呼ぶ。『批評空間』から、「身体論」を説く市川浩を遠ざけもするようになるだろう。いく子は、柄谷の次なる代表をくじ引きで選出するさい、執拗にその方策に反対し、柄谷が代表にとどまるべきだと言い張った。(これは、NAM解散への伏線となる。)しかしそれは、柄谷への心理的投影の問題ばかりではない。彼女のダンス実践からくる経験値からだったと、考えられる。彼女にとって、そもそも「代表」なるものは、大き目の個、でしかありえなかった。しかしだからこそ、彼女には小さ目の個としてみえるものには我慢できなかった。なぜなら、衝突の度合いが、組織の、関係の力が弱くなるからである。いく子にとって、NAMにおける「代表制」は、個と個との衝突の場として志向=思考されているのである。つまり、それこそが、いく子の、ダンスの現場だったのである。

 

いく子は、その現場へ向けて、自分を破綻させていくことになるその思想の現場へ向けて、さらなる舞台を提出していく。