2017年1月28日土曜日

夢のつづき

「死因は脳内出血で、真帆が奄美に着いた日の午後十時ごろ亡くなったと思われた。寝間着に着換えて寝る支度を整えたところで倒れたらしい。享年八十七。島尾のいない人生を二十年四か月生きたのちの死だった。」(『狂う人 「死の棘」の妻・島尾ミホ』 梯久美子著 新潮社)

夕飯を食べ終えれば、すぐに寝床に就く。8時過ぎくらいが普通だ。その日はまだ食卓の片づけもままならぬうちに、女房と一希の勉強なるものが始まったので、そそくさと寝室に入った。さっそくいつものいがみあいがはじまり、よくあるように一希が逃げるようにしてあちらの扉を閉めこちらの襖を開け蒲団にもぐりこんでくる。が、いつもと違い、今回は女房ぶつくさいうだけで追いかけて来ず、しばらくして、買い物にか外に出ていった。すぐにも、一希の寝息が聞こえてくる。私は、いつもの不眠のままだ。一時間ほどしてからだろうか、突然一希の「ママやめろよ!」という叫び声が聞こえてくる。「痛いって。それ以上やると、骨が折れるよ!」はっきりと聞き取れるいつもの寝言がはじまったのだろうと思いながらも、まるで目覚めているような切迫さなので、少し不安になって、窓際に寝ているはずの一希の方へ寝返りを打ってみた。驚いたことに、一希は立ち上がっておびえているのだ。「やめろ! 違うよ、それ以上は骨がつぶれるんだよ、やめて!」薄い暗闇の中で、息子は身もだえていたかもしれない。「いっちゃん、だいじょうぶだよ」私はおどおどしながら声をかける。すると私の方へやってきて、隣の蒲団にもぐりこみ、「違うんだよ、ママがおさえてるんだよ、それ以上やったらおれちゃう……」と、また少しづつ声が小さくなっていって寝入っていった。夢というより、迫害妄想か? もともと、感受性が強いようだ。母親とも、愛憎入り組んだ複雑な感情を抱懐している。いまだに、抱っこされにいったりする。癒着と乖離の言動やりとりには、論理がすっとんでいるから、理性的に折り合いをつけていく作業は、母子ともに成立しないだろう。が、それでも、以前よりはだいぶ女房の自制は効いてきている。おそらく、反抗期の年頃の息子を抱えた他の母親たちとの語らいから、自分を振り返る時間が多くなるのだろう。執着的な信念と重合した自尊心を損壊させない自らのペースで、女房が一生懸命自らを変えようとしていることが、私には洞察できた。突発的な一撃で不幸に合わなければ、自然二人の折り合いはついていくだろう。……私が、寝付けない夜を見つめている間、後から寝床に入る二人はすやすやと眠ってゆく。

目をつむると、赤黒い闇の中で、開いていた瞳の時に焼き付いた物体の残影が、ぼんやりと青白く浮き上がってくる。ず~っと閉じた瞼のなかで瞳を凝らしていると、だんだんとしぼんで消えていこうとするが、また瞼をさらに強く閉じなおして瞳を開き直すと、また青白い強度が復元されて光はじめる。逆に、瞼だけでなく瞳も本当に閉じて目をつむってしまえば、アナログ写真のポジに対するネガのように、闇の領域と光の領域が反転したりする。夜中にトイレにいく。電気を消してもどってくる。閉じた瞼に開いた瞳の内には、黒いスリッパの形が白く輝き、便座の白い丸い形が紫色に滲んでいたりする。これも、本当に目を閉じれば反転した色模様になり、瞳を開き直せば、また消えかけたスリッパの白い三角がはっきりと浮き上がってくる。いつまでこの内奥の光をとどめておけるのだろう? そしてこの光は、どうも外の光景とは関係がないか、切れて在るのかもしれない。夜半に暗闇の中で起きたまま、また目を閉じてみる。するとやはり、光のまだら模様が広がっている。青白いとも、紫っぽいとも、緑がかったともいえるような、小刻みな微光の不均等な集まりだったりする。両の目前に掌をあてて、外の光が瞳に入らないようにして、目をつむってみる。それでもやはり、光はある。ちょうど寝入る瞬間、不均衡な光の粒子のまだら模様が、突然解像度をあげたように集積濃度密にし始めて、記憶作用と連動したような絵を結びはじめるのを目撃するときがある。その絵はそのまま夢として動き始める。寝起きの朝方だったら、動画が急に息切れを起こしたように荒い粒の絵にばらけていって、赤紫色の地味な光のまだら模様にもどっていくのに直面もし、ああ夢が終わってしまうと、意識的に夢を再起動させてやることが、2回ほどならできるようにもなる。

この光と夢のメカニズムが、私の気になるところである。

今日は、一希が午前中部活のサッカーに行っている間を利用して、女房と二人で映画『スノーデン』を見に行った。二人で映画などをみるのは、初めてなのではないだろうか?

*関連マイWEB;http://www.geocities.jp/si_garden/kanokaz.htm

2017年1月7日土曜日

「ゲンロン」をめぐって――トッド・ノート(6)

「――トマ・ピケティやエマニュエル・トッドはどうですか?
 浅田 こちらは逆に実証主義への回帰であって、そういう仕事としては一定の意味がある。…(略)…トッドの場合も、ポピュレーションの歴史社会学ということで幅広い研究を精力的に行ってきたけれど、結局は経験主義でしょう。家族制度・相続制度がそれぞれの社会でア・プリオリな価値観を決定しており、それにフィットしない政治制度はうまく機能しない。というような決めつけは、あきらかに単純すぎます。これを俗化すると、鹿児島県民には男尊女卑の伝統が強く残っているからフェミニズムが根づかないというような議論になってしまう。逆に言えば、そういうものを学問的に体系化してみせたからこそ、トッドの議論は俗耳に入りやすいんでしょう。よくいるじゃないですか、出身地を聞いて、性格や思考様式までわかったようなふりをする人が。」(東浩紀編『ゲンロン4』「マルクスから(ゴルバチョフを経て)カントへ――戦後啓蒙の果てに」)

正月休み、実家に帰って、こたつに入りながら、東氏編集の「ゲンロン4」を読んでいた。上の浅田氏との対談の註で、柄谷氏らが始めたNAMの運動の解散原因が、「事務局が機能不全に陥」いったことのように記述されていたので、その解散の一期前の事務員をしていた私にも他人事でもないのだろうと思い、思い出すことどもをメモしながら、この批評評価論議についての感想も記しておこうという気が起きた。

たしかに、「ゲンロン」註の「事務局」混乱が原因として解釈できる事実はあったのだろうな、とおもう。しかしそれは事実ではあっても、現実ではないような気がする。その真実(=現実)に近づくには、この雑誌での論議でも、「理論信仰」から「運動信仰」へと批評世界がシフトしていった傾向のことが指摘されているけれど、その枠組みを導入した方が近道という気がする。たとえば、京都にあった事務局が東京に移った際の事務局に私はいたのだが、そこは「リロン」的な人たちの活動だったかもしれない。解散間際のドタバタのとき、「スターリン主義者」という言葉で柄谷氏が罵倒したことがあったが、それはまるで「ゲンロン」でヘゲモニー闘争していたような私と、フリーターの運動などでも後に物議を醸したそうな摂津さんのことかな、という気がした。が、その時はすでに次の事務局に移行していたはずなので、もしかしたら、その時の事務局状況のことだったのかもしれない。最後の事務局体制は、あみだ籤で選ばれた新会長とともに「ウンドウ」系と言える人たちなような気がする。当時大学院生だった事務長は、今なお環境保護的な運動を続けている。私がいた時の事務長は、大学の先生をつづけているのではないだろうか。が、私がよく知らずに推論するのは、解散間近のドタバタの中で、運動系の事務局は、そのままこの組織を、極端な言葉でいえば、のっとろうと陰謀を企んでいたのではないか、ということである。そういう事務会議の痕跡を、偶然私が見つけてしまったりしていたのである。おそらく、そのままNAMが続けられていたら、かつての左翼運動ともなんらかの形で人脈的にもつながった、そういう運動系の人たちが中心になっただろう。しかしそれはそれで、真摯な意欲でもあるのだろうと、今はおもう。「今は」、というのは、いわゆる常識しか知らないような私には、そんなことしていいの? という思いのほうが強かったからである。

しかし、そうした世俗的な思惑の渦みたいなものが、NAMの創立に関してもあったのだな、ということはここに関わりが深まるにつれて見えてきたことだった。そこで見えてきたのは、創立に中心的に関わった誰もこの運動をやりたいとおもっていない、ということだった。それは、この『ゲンロン4』の、浅田氏の発言をみても確認できるだろう。運動に周りを強引に巻き込んだ柄谷氏本人でさえ、自分はこういうことは苦手だからと、早めに他人に任せて元老的な位置に引きこもりたいということだったろう。私自身、組織内の著名人の間での雰囲気は、勤め先の会社で入れ札に行かせられたときに周りの業者からおまえが出す金額はいくらかと探ってくるような嫌な感じと重なって感じられた。私の親方が実は「辞退」と記入してそういう社会とは距離を置いてなんとか独立・自立性を保とうとするように、私にも生理的な辞退が反応になった。近畿大の拠点学部で植木技術の講師ができないかと示唆してきた柄谷氏や、私のことを「ダークホース」とか呼んで当時の現代思想の編集長と引き合わせた岡崎さんや、たしかその岡崎さんの出版祝いの飲み会でトイレにいった私に「批評空間」編集長だった内藤氏がついてきて何か声をかけられたりしたこともあったが、そういうことも私にとっては、馬の耳に念仏、猫に小判みたいなものだ。世の中いやだなあ、とひきこもりたくなる。

「ゲンロン4」の言説の中では、私の意見というか根本にある感じは、フリーターという立場から言論を立ち上げている杉田俊介氏に近いな、という気がする。そしてそうであるがゆえに、この「平成批評の諸問題2001-2016」では言及もされていない、佐藤優氏の出現、がインパクトを持ったのだ。「いやだなあ」とみたがらない政治のリアルから逃げないで、そこでの具体洞察から理論と運動(実践)をつなげてみせている。外務省にいた佐藤氏の柄谷テクストの使用の仕方は、フリーター世界や職人世界で言論的に防戦していた私の読み方とも似ていた。具体的な現場での使用実践である。が、私が佐藤氏に注目したのは、柄谷氏と佐藤氏が対談するまえだ。そしてちょうどどこかの雑誌で二人の対談があったすぐあとぐらいに、NAMを再起動させるかどうかの会議があって、まだNAMパソコンを壊していない新会長も出席し、私も誰もこないだろうのにわざわざ親しい人が場所を作ったのだからと、参加した。もし、私が会議の進捗にびっくりして、再起を前提にしてやっているの? と水を差さなかったならば、その会議の空気として運動系的な方向として再起動していたのだろうか? がここでいいたいのは、その会議の途中、関井光男氏が参入してきて、どうも柄谷氏を具体的にフィードバックする運動組織が再導入できる脈があるのかないのか、情勢をさぐりにきたのではないかということ、ゆえに会議の空気に首肯的であったようだが、そこに私が佐藤優氏の発言を引用してぼそっと言ったことが、とくには関井氏の目の色を変えさせて、その空気を牽制させるような効果を持ったということである。何をいったのかは忘れたが、たぶん、リアルな政治的な話の引用だったろう。一般的にいえば、佐藤氏の着眼点が、旧社会運動的な発想を黙らせてしまったのである。そして、会議の終了間際にあった私の水を差すその発言で、一気に再起動はやらない、となり、新会長もパソコンを壊す決断をするようになったらしい。

こたつの中で読んだのは、他に、『トランプは世界をどう変えるか?』(朝日選書)と謳った佐藤優氏とエマニュエル・トッド氏の文章が並列されているものがある。トッドの分析を私が面白いと思ったのは、NAM解散間際ぐらいだとは最近のこのブログでも書いた。トッド氏の分析も、佐藤優氏と似たようにリアルなものだったのである。佐藤氏は、以前トッド氏を、実証的にも正確でないものがあることを論理の立点にしていると批判している。それを冒頭で引用した浅田氏の発言とあわせてみれば、トッド氏が本当に実証的な経験主義者なのかどうか、揺れがみえてくるだろう。たしかに、トッド氏の言説を通俗的に受ければ、浅田批判はあてはまる。私も、中根千枝の「タテ社会の構造」や丸山眞男の「日本の思想」といった高校の頃の課題図書を想起させて懐かしい、とブログに記述している。が、そうした見解からは、トッド氏のシャリル運動批判のような思考は射程に入れられないだろう。私には、そのジャーナリスティックな分析は、マルクスのドイツイデオロギー批判や、ボナパルティズム分析と同類だと思える。おそらく、去年の推薦図書でトッドの『家族システムの起源』を推した柄谷氏は、そういう受け止め方をしているのではないか? というか、理論から運動へといった柄谷氏が、佐藤優氏とトッドを重視しているところに、批評誌「ゲンロン」の論点は注目していない。つまり、私の今の文脈でいえば、「リアル」なものへの関わり方の変移に、である。

東氏も投票したという小池都知事は、山本七平氏の「空気の研究」や日本の敗戦の教訓ものを政治態度の言説的根底に置いていることをアピールしているようだ。トッドの言説も、その国土の風習的な地をまずは捉えておく、ということで親和性があるだろう。その政治的態度を、理論的な後退戦と自覚しているならば(つまり、単に舌戦で自民党に勝つためにということだけでなく、より高尚な理念へと社会を導くための一段階的な方策として――)、小池氏の実践は先鋭的なのかもしれない。が、そうではないだろう、ということがわかってしまうために、共感はできても支持できない。支持しても暫定的だ、ということになる。そういう世俗立場を導き出すノウハウ本としても、佐藤・トッド氏の言論は存在しているし、それが狭義の批評世界を超えて世俗に影響を与えているし、同時に、理論的な詰め作業にも接続・継承されている、という視点は、「ゲンロン」批評界にはないのだろうか? それとも、あまり教養豊ではない私の、トンチンカンな疑問なのだろうか?

2017年1月1日日曜日

初夢から

「われわれには、「教皇はそう言うが、聖書にはかく言う」という形で、憲法をもって絶対の権威に抵抗したという歴史は、ありそうに見えて実は存在しない。「法」は、ミュンツァーを生み出さず、千年至福的エネルギーで市民革命を追求するという衝動を起させない。というのは「法」はいわば合理性の象徴であり、それは非合理性の”制御”とはなり得ても、それ自体が、何か改革さすか、あるいは自らを破滅さすかの”力”とはなり得ないからである。従って「不磨の大典」をあるいは「平和憲法」を守るという意識自体が、その制御装置がある”力”に破られるか、一部破られているか、いまに全部破られそうだという意識ではあっても、一つの新しい合理性への追求に、一つの非合理性が”力”として作用しているから、その”力”には新しい合理性という新しい制御装置が必要だという意識ではない。」(山本七平『「空気」の研究』 文春文庫)

夜半にトイレに行って時計をみると、三時半すぎ、ということはと思い起こした。「さっき見ていたのが、初夢になるのだな」。寝床にもどって、枕元の電灯をつけて何を見ていたのかメモしようとした。目覚めたそのままで意識化しようとしたわけではなく、すでに日常の意識にもどって無意識に忘れようとした一時のあとだったから、判然としない。ただ奇妙な夢だった。その雰囲気は、『マトリックス』か何かのSF的な映画に似ていた。実際、私達は、黒いスーツを着た相当数の男たちに連行されたのだった。

私達とは、夜勤の荷物担ぎのバイトで仲がよくなったペルーの友達らとである。彼ら数人と、中学の頃の部活動で使っていた、河川敷の野球グランドの淵を歩いていた。土手へと向かう草むらにできた道の向こうから、黒服の男たちが一列に並んで、その土手の坂道を降りてこちらにやってくるのが見えた。警察だということが私にはわかった。「テイコウ、という言葉を使うと、日本ではつかまりますか?」と、隣を歩いていたラファエルが私にきいてきた。警察の男たちが私達の所までくると、ひとりが私に何か尋問し、私達はそのまま土手の方へ連行された。途中、私は私を連れる男に、女房が朝のトレーニングに私が出かけているのを知らないから電話をかけると断り、携帯をかけた。朝の6時5分だった。その横を、キケか誰かが、やはり携帯電話をかけて私を追い抜いて歩いてゆく。それをみて、私はまずいとおもった。警察に誤解されるだろう、そして私が電話をかけているのを見て、彼らは私を裏切者と誤解するだろう、という考えがよぎった。この場面の前で、私達はどこかで、もしかしてペルーの一室で、何か密談らしきものをしていた。「フジモリ」、そんな言葉があったような気がする。

いやそもそもそんな場面の前に、私は、学生の頃住んでいた上落合のおんぼろアパートからどこかに引っ越そうと、東京の街を歩いていた、かもしれない。(この夢は実は、その夜すでに見ていた違う夢なのかもしれない。)若いころから何度かみている、東京駅まえのビル街から、池袋のほうへ抜ける道を歩いている。そしてこれも何度か夢でみている、その駅ホームで迷ったすえにその迷う世間知らずさを隠すような気分で、人混みに流されながら、何番線だかのホームの階段をおり、、埼京線のようなものに乗って、しかし今回の夢では、すでに以前の夢で迷ったことがあるとわかっていたので、その意識をもって、すぐに次の駅で降り、意図どおり池袋の高層ビルの前へと出れたのだった(しかしその街の風景は、実際の池袋とはだいぶ違うが、サンシャインと西武百貨店前を重ねたような映像かもしれない)。以前の夢ではこっちへいってだいぶ遠回りして行ったものだったな、と私は思い起こして、高層ビルの周りを迂回するのではなく、その中を通り抜けていくような道を選んだ。

その夢の場面と一続きだったのかは判然としない。が私は、そうやって都会の街を抜けていく近道を選んで、裏街の路地道のようなところに入ったのだった。そこは、ソウルに行ったときの、オンドルのある旅館へ続く路地の雰囲気に似ていた。まるで茶室のように、その露地路のように枯れ木が風情よく斜に傾いた部屋の脇を通ったとき、新しいアパートはここがいいな、とおもう。ちょっと通り過ぎてから思ったので、私はまたその路地道を引き返した。その場面との一続きだったのかはまた判然としないのだが、私は上落合の古いアパートの自室にたたずんでいた。隣部屋との共同トイレにいけるドアを開けると、隣の部屋の扉が開いていて、私はそれを押して中をのぞいた。蒲団が敷かれていて、髪がぼさぼさの年老いた男が寝ていた。ホームレスだということがわかった。私は彼に何かを言ったかもしれないが、そうして自室に戻り、いまのホームレスが、内山隆氏か、飛騨さんに似ているな、と思った。いや「似ている」と思ったのは目覚めてからで、夢の中では、誰かと受け止めることもなかったとおもう。私が目覚めたのは、この古いアパートのトイレを使用としたからか、思い出せないが、私は目覚めて、トイレに行ったのだった。……

私がなんでそんな初夢を見たのかはわからない。最近の夢は、ここまでストーリ性はなかったとおもう。むしろ、目覚めても夢をみていたことさえ覚えていなくて、だから気にもしていない時のほうが多い。それぐらい、いまは健全に近いのだろうと思っている。今度のも、初夢という縁起がなかったら、小便とともに流し忘れていっただろう。しかし逆に、健全であるからこそ個人的な精神分析的範疇を超えて、どけて、より思考的な、つまりは自分がいま何を考え、考えようとしているのか、その材料の扱い方とかが見えやすくなっているのかもしれない。

本年からは、自然災害だけではなく、人為世界の災害世界にも、当事者として日本本国が参与していくようになる気がする。9.11はなお対岸の火事的であったが、今年からは、そうもいかなくなっていくような気がする。庶民の一人として、無事息災を祈願する。