2019年7月21日日曜日

『ゼロの王国』(鹿島田真希著)から

「日常的な感謝の言い回しで、「気の毒」と同じように心苦しさを示すものはほかにもある。たとえば、個人経営の店主の常套句、「すみません」。その意味はこうである。「あなたから恩を受けましたが、現代の経済の仕組みの中では、恩返しをすることができません。このような立場にいることを心苦しく思います」。「すみません」は通常、「ありがとう」「感謝しています」、または「申し訳ありません」「お詫びします」などの意味で用いられる。…(略)…日本人の受け止め方によれば、「すみません」と同様の態度をもっと強く示している言葉としては、「かたじけない」がある。この言葉も、感謝の念を表しており、漢字では「辱」や「忝」を使って表す。いずれの漢字にも、「侮辱された」と「感謝している」の両方の意味がある。日本の国語辞典によれば、「かたじけない」という言葉は、次のように言っているのに等しいという。並々ならぬ恩恵をほどこされて恥辱を感じる、なぜなら自分はそのようなことをしてもらうに値しないから。このフレーズを使うと、恩を受ける際に感じた恥を率直に認めたことになる。ちなみに、後述するように日本では、恥は身を切られるような感覚をともなう」(『菊と刀』ルース・ベネディクト著/角田安正訳 光文社古典訳文庫)

鹿島田真希氏の『ゼロの王国』(講談社)は、ドストエフスキーの『白痴』を下敷きにしている。
もう文学作品をめったに読むことのなくなってしまっている私は、この作者のことも作品のことも知らなかったが、三島賞候補作にあがった倉数氏の『名もなき王国』についての私の感想を読んだ友人が、三島賞をとった作家に似たようなタイトルの作品があると教えてくれたのだった。私が倉数氏の作品を受けて読み始めていたのは、三島賞を受賞した東浩紀氏の『クォンタム・ファミリー』(河出文庫)であった。家族をめぐる考察について、確認してみようという気が起きたからである。そして男の著者二人は家庭をめぐって書き、女の作者は、家庭成立以前の、男女関係をめぐって書いた。この違いは、作品の形式性を露呈してくるので決定的だが、私の評価は、文学にはない。

『名もなき王国』のタイトルの由来は、作者の意図するところとしては、おそらく、作家の想像力、虚構の世界、つまりは小説だ、ということであろう。作品に即して言えば、無名作家の伯母(女性)の世界、ということだ。では、『ゼロの王国』とは何か? 一度読んだかぎりでは、それを示唆するような用語はこの作中には、私はみだせなかった。しかし、発表年代も近い鹿島田氏の作品に、『来たれ、野球部』(講談社)というのがある。そこから判断すると、この「ゼロの王国」というのも、非現実の世界、文学少女(少年)の想像力(妄想)でできあがった観念王国、ということらしい。そしてその王国の支配者(女子高生)は、飛び降り自殺することになり、その彼女を模倣する野球部のエース(少年)は、現実的な生きる力をもった幼馴染の同級生(少女)に救われる、目覚めさせられる、というのがその作品の趣旨であった。そして、この幼馴染同士の男女関係は、『ゼロの王国』の男女関係、いわば、ドストエフスキー『白痴』の、ムシシュキン公爵と彼をめぐる女性との関係をなぞっている。『ゼロの王国』では、ムイシュキン役は、宛名書きのバイトをこなす青年なのが、『来たれ、野球部』では、少女になっているわけだ。つまり、この男女交換可能性は、作者の追求が、より抽出度の高い人間関係の原点にある、ということを示唆しているだろう。私はこの抽象関係を、「ゼロ(原点)」と読んだのだった。いいかえれば、世俗的というよりは、純粋な人間関係とは何か、それが現実成立可能なのか、それで王国(世界)を作れるのか、という探究である。

しかし、この抽象度の高い純粋性ゆえに、小説としては、つまり文学評価としては、私は物足りなく感じたのだった。いわば、「雑」がない(絓秀実著『小説的強度』福武書店)。そういう意味で、家族を扱った倉数氏や東氏の方が、雑居的になって、小説としては面白いな、とブログでも示したように、文学的に評価したのだった(その男二者の差異と評価は置いておく)。鹿島田氏の作品の多くは、女性の「愚痴」と形容されもする語りが多いようだが、それはノイズというよりは、形式的な純粋性に落ちついているように私には感じられる。文学に引きこもる主人公を作中で自殺させたとしても、文学少女の作品だなあ、と思ってしまうのだ。が、私の評価は、文学にはない。私には、鹿島田氏の追求の方が、東氏のSF的な実験とされるものよりも、思考に刺激的なのだ。

ドストエフスキーの『白痴』を、『ゼロの王国』テーマと同様なものとして、全体(類)を愛する者が一人の人間(女性)を愛することができるのか、と集約してみることはできるだろう。しかし、その作品は、雑の一種たるポリフォニーと把握される。主人公が多様な価値をもってせめぎあっている、ということだけではない。それならば、『ゼロの王国』でも、まさに『白痴』のキャラクターをなぞるような配役がなされている。しかし『ゼロの王国』には、雑居感がない。類と個の愛の葛藤テーマを哲学的にしぼって、婚約者と結婚すべきかどうかを描写したキルケゴールの『あれか、これか』でも、雑居感は伴う。『ゼロの王国』の主人公たちは、肉のない書き割りのようだ。しかしこれは、小説的な技法が未熟だから、ということだろうか? 鹿島田氏の純粋な小説の語りの技法を、阿部和重氏は評価している。いくつも賞をとっているのだから、技量はあるに決まっているのだ。では、何がないのか? 文字通り、人格だ、と私は言おう。主人公の強度(血肉)は、そのキャラを、作者が本当に持ちえているのか、ということで決まる、というのは、論理的には前提として想定されもすることだろう。が、当然な前提にはなりえない。東氏の『クァンタム・ファミリー』でならば、「同一性検索障害」とでも形容される病気になるかもしれない。しかし東氏のこの作品自体は、一つの、いわば文学外的な専門知識を持ったものの、その専門的言語ゲームによる言葉遊び、コピーライターのような用語で構成が成立していっているようにみえる。つまり読書全体として感じられるのは、血肉あるキャラの多様性というよりは、一つの言語ゲームに習熟した一人格である。作品の辻褄があって構成が完結的になればなるほど、その感が強くなる。比べて、倉数氏の作品は、辻褄が完全にあってないぶん、全体の綻びから、むしろ文学としての雑さが「少しだけ」感触されてくるのだ。

なぜ、こういう事態になってくるのか?
私はこれを、鹿島田氏は女だから、と言おう。「全体」とが、男社会にあっての男の論理なのだから、女が全体(国家、家族、等類的概念)を想定しづらいのは論理的当然である。もちろん、男女を超えて人間自体が考える言葉をもつ生物なのだから、女性にあっても、一生懸命勉強すれば、その全体への論理を身につけることはできるだろう(男は一生懸命じゃなくても当然としてついてくる)。が、あらゆる領域・位相で、苦手なことを維持・保持するのは困難である。しかも、それ(全体)がいかがわしいのではないか、という疑いに目覚めた近代以降においてはなおさら。橋本治氏は、この「苦手(差別)」を、父権性とかと「社会(歴史)」に求めているが(『父権性の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』朝日新書)、私はこのブログでも幾度か指摘してきたように、生理(子を産む)ある身体のためだと認識している。鹿島田氏が、語りの文学技法に形式純粋しやすいのは、おそらく、子供という自分の分身であると同時に他者でもある、異物との雑居がないからだろう、とおもう。だから、公園に集う主婦の談義から、散文的な認識記述・描写の方に進むのではなく、わが身に引き戻された愚痴語りを方法化していくようになりやすいのだ。私にはその徹底の衝動が、面白い。アニメ『進撃の巨人』の第四期の予告編では、主人公ミカサの幼馴染を呼ぶ声が木魂する。その声は、もはや幼馴染の少年を呼ぶ少女のものではなく、また世界(全体)と戦う同士としてのものでもなく、ひとりの女であることの自覚の声であろう。おそらく、世界(全体)へという男性の観念性(の発揮たる戦争)を拒絶していく平和への追求には、全体に回収されきらない個別な関係が要請されてくるのは、論理的な必然だろう。しかし戦略が、困難な手続き、微妙さの持続、になるのは、小説を書くという現場においても大変だということは、絓秀実氏が『小説的強度』で考証してみせたとおりであろう。

が、私は文学の評価がしたいのではない。身体的に違う男女の関係(差異)を論理的な要請として、平和という帰結のために根拠づけ、その前提を円満的に維持していくのが、さらに困難な現実であるのは、どこの夫婦、男女関係でもみられることである。いや、男女という二項だけでなく、性はもっと多様でそれも遺伝子的に決定づけられている、という最近の意見もあるだろう。が私にはなお、そうした意見こそが、全体という男性論理の観念性に依拠しているもので、ありふれた決定的な差異を捨象していくもののように考えている。同様な権利を要求しているのだから。だから、それはいい。しかし、考えるべきことは、そこにあるのか? 次回はおそらく、三島賞をめぐる作品からではなく、その三島由紀夫を論じた橋本治氏の論考を軸に、書き留めておくだろう。

2019年7月14日日曜日

父をめぐって(2)

「ドイツ国防軍の将兵は、イギリス、フランス、アメリカと戦い、ソ連とも戦って、敗れた。国防軍の将兵は義務を果たしたのであって、罪はなく、恥じることもない。すべての罪は、ナチスとその党員、親衛隊が行なったことであり、戦争陰謀もユダヤ人の虐殺も、彼らの責任である。こういうふうになっている。だから国防軍は無実(ピュア)なんです。今でも軍があるけれど、軍はピュアである。いくつか信じられていることがある。優勢なソ連軍を前に、国防軍が絶望的な状況で、勇敢に戦った。なぜか。背後に市民がいて、彼らが安全な場所に逃れるために戦ったのだと。だから、正しい戦いであると。これに類する話は日本に少なくて、たとえば満州でソ連が攻めてきたときに、真っ先に逃げたのは軍人で、取り残された民間人はひどい目にあったとか、沖縄戦では、軍は民間人を守るどころか、かえって民間人をひどい目に遭わせたとか、言われている。
 日本で、戦争を企んだり悪事を働いたりしたのは軍であって、軍部に罪がある。そういう戦争の決着をしています。ドイツと違うのです。
 じゃあ、徴兵されて軍人として戦争に従事し、戦場に行った祖父や父親、すべての人びとのことを、どう考えたらいいのか。」(『アメリカ』橋爪大三郎/大澤真幸著 河出新書)

なお生き認知症になっている父の遺書を改めて吟味してみると、無神論になっていることが注目される。「なっている」というのは、父の祖父(私のひい爺さん)の遺訓では、神仏を敬え、とあるからだ。それに比べると、変化がある、ということだ。その遺書が出てきたのが両親の寝室にある神棚の中であり、父が、お盆には必ず実家へ帰り、墓参りをしていたとしても、自分自身が死にのぞみ、坊さんを呼びその仏式での葬式を拒否していこうとしていることに、決意が感じられるのだ。お悔みの金も拒否し、身内での会では「未完成」を流してほしい、と。「未完成」とは、自身がそうだということだろう。そう自覚することの大きな一つの理由が、息子たち(とくに兄と次男の私)を、脱落させてしまった、ということであったろう。そんな息子たちに、母を守れ、というのが、父が一番伝えたかったことで、祖父の遺訓よりも、具体性に富んでいる。なぜそうなるのか?

庭手入れに入っているお寺の本殿に、日々の仕事前、仕事終わりに、団塊世代の職人さんが、そして最近ではもう少し年の若い親方が、頭を下げるようになった。本殿が新しく改築されたのは、もう20年以上まえで、その間、そんな習慣はなかった。石屋さんがそうしているのには数年前に気づいたが、当初からではなかったろう。むしろ当初、と言えるのは、改築の建設を元請けしたゼネコンの現場監督や営業担当みたいなのが、商売上、そうしている、という感じだったはずだ。別に強制されているわけではないので、私は今もって頭をさげず、怪訝に思ってみているだけだが、居心地がわるくなる。神社の手入れにも入っているのだから、そこでもするようになったのか、というと、そんなことはない。団塊世代の職人さんは、もともとそうしたメンタリティー、腰が低いがゆえの尊大さ、夜郎自大な映画での高倉健、黙っていればいい気になりやがっててめえら人間じゃあねえたたき切ったる、という感じなのでそうなってくるのはわかりやすい。が、合理精神(金勘定)で動かざるを得ない唯物的な親方までがそうなったというのは、私には驚きだった。精神的な構造は、どちらもおなじであろう。別に、敬虔な心持になったわけではない。職人さんは、偉そうにみえる礼儀正しさに従ったほうがいいという動機、親方は、仕事も減りもうそこが生活のための金づるになった、という観念から、状況に屈服したのだとおもう。神社に頭をさげないのは、そこが年に数回ほどの手入れのままで生活には支障がないからだ。しかし、なお手入れ仕事を与えてくれているお客様は神様になったのであり、その代表象徴として、お寺の本殿が位置づけられている、ということだ。唯物的には、住職に挨拶していればことたれり、おそらく住職自身が、植木屋の心変わりを奇妙におもっているようにみえる。が、このままそんな空気が強くなると、私は不敬事件を起こした内村鑑三みたくなるのでは、と不安である。

つまり、精神構造の神の位置には、他のものでも代入可能が容易で(信仰ではないので)、それはマッカーサーになったり、アメリカになったり、トランプにもなりうるわけで、それを文学・日本思想史上では、代々日本史では、天皇が持ってこられることが多かったので、天皇制(的メンタリティー)と呼んできたわけだ。私が危惧するのは、もしかして、私の職人現場に出現してきたことが、今の弱体化した日本の態度としても、大勢的なものになっていくのではないか、ということだ。弱気になった心が、自分を庇護してくれる具体的な神(客)にひれ伏してゆく。これはどこか、団塊世代より一回り以上年上な、大江健三郎世代にあたる、父の遺書にも似ている。母(庇護者)を守れ、と自殺を思いながら息子たちに遺言した父に。

この父の病に似た屈折を、村上春樹氏は気づいていたろう。『納屋を焼く』企業家の衝動は、そうした戦後の父たちの感触だろう。そして中国で戦線に参加した実際の村上氏の父は寡黙だった。この父たちを、その屈折を、どう救ったらいいのか、という問いが、冒頭引用の『アメリカ』というタイトルの橋爪/大澤対談のテーマのひとつである。その引用後、橋爪氏は、「二階建て」理論でその父たちの屈折を免罪しようと理屈づけている。要は、一般的な秩序維持のための現実要請を命題としての、軍と徴兵された市民との区別である。が、それが国際的な道徳や論理で正当的であっても、当時、日本の市民が、そう自身を納得させて戦争に参加していたわけではない。ならば、そんな一般的理屈を国際社会に押し出して自身を正当化しようとしても、動機として、持続しない、言えば言うほど空々しくなるだろう。私は、この件では、「日本の場合、全部いいか全部悪いかみたいな構造になってしまったのが苦しいところ」という大澤氏の認識に賛同する。軍と市民の区別は、日本人の心情にそぐわない。しかし、その大澤氏が、広島の原爆記念碑に刻銘された「過ちは繰返しませぬから」という日本語を、読み間違えている。大澤氏は、この主語は原爆を落としたアメリカであって、それを言えなかった日本の弱さを問題とするのだ。が、日本人なら、この主語のない、普通の日本語の主語が、「私たち」であるのは、自明ではないか。日本語としても、もしそれが三人称的な相手だったら、主語ははぶきにくい。私の場合だからこそ省くのが、慣用であり、われわれの曖昧な、優柔不断なメンタリティーである。そこが問われて、なおさらしどろもどろになって、「人類的な観点」でそうした、そうなったという理屈をだすことに追い込められた、ということだろう。が、この主語(主体)がないことを追い詰められてひねり出した論理過程は、実は、ドストエフスキー的に普遍的である。

「私たちは過ちは繰返しませぬから」――道徳常識で考えれば、原爆落とされて、いわばぶん殴られた方が謝っているわけだから、変な話になる、だから、主語は「アメリカ」だと、世界文法的な論理で辻褄をあわせようとする。しかし、右の頬をひっぱたかれたら、左のほっぺをだすのじゃなかったのか……となれば、どうなるのだ? 「過ち」とは何か? 相手から、ビンタ(原爆)を引き出してしまった自分の行いである。それがどんな行いであろうと、とにかく相手が悪いことをした(し返した)のならば、自分が因果的に、悪いことをしていた、と認めるのが、私たちの、子供の頃からの習性になっていたものではないだろうか? 私は、この広島の記念碑の言葉からすぐに思い出すのは、小学生時の学級会での模様だ。委員長だった私が議長で、その週の反省会か何かやっている、とにかく時間をつぶさないといけないので、みなが誰かから何か悪さをされたと訴える、で、「もうしません」と答える。主語はない。みなが、申し合わせたようにそう言って、学級会は終わる。つまり、私が暗黙な主語でも、みなが、悪いのだ。その悪さがもう起こらないように、どうしたらいいか、ということも時折議論がすすむが、悪は、人為的というより、自然的な発生という感じで、深刻さはない。そこにあるのは、みなで、悪を「召還」してしまった、という確認であって、学級会とは、悪魔祓い、日本的に言えば、厄除けのお祓いの儀式である。だからそれは反復可能な構造が想定されているので、「繰り返さない」、「もう」という言葉が付け加わるのだ。――「私たちは、悪を召還させることはもうしません」ということは、欠けているのは、主語ではなく、目的語だ。「私たちは、過ちを、繰り返しません」と言っているのではなく、「過ちをしてしまう私たちは、もう誰々さんに、過ちを繰り返させませんから」、と実際には言っている、言いたいのである。私たちの、循環構造(因果)のなかで。そしてこの「誰々」とは、アメリカ、ということではない。アメリカも含めた「みな」、つまり、「人類」であって、人間とはそういうものだ、という世界観(達観・諦観)なのである。そう観念しているのである。私たちは、過ちのあとで相手に、「すまない」と謝る。やってしまった終わったあとなのに、「すんでない」と言う。考えるとわけがわからず、なら本気で反省しているのか、と怒鳴りたくなるが、このわけがわからないことを考えもせずにやってしまっているのが、私たちなのだ。お客様は神様ですと、宗教的な真剣さはなく、本殿に頭をさげはじめた職人たちのように。おそらく、「すまない」、と祈っているのだ。それは、切腹の心情に類似している。恥を忍んで、神(母)を拝みたおしているのだ。私は、柄谷行人の9条理論を、その切腹の形式論理として理解しているが、心情的には了解できても、今の日本に、それ(切腹=9条実践)ができる実質があるのか疑問である、というスタンスであることは、このブログでも述べてきた。

私はこの形態、父たちの態度・態勢、切腹の形が、特殊的なことではないのはわかっている。それをこれまでの文脈上では、トッドの家族人類学などを使って考証しようとしてきたわけだが、そんな大枠ではなく、もう少し身近な、狭い具体例で突き詰めておきたい。次回はおそらく、三島賞を逃した倉数氏の『名もなき王国』と、三島賞をとった鹿島田真希氏の『ゼロの王国』を比較検討することからはじめるだろう。

2019年7月4日木曜日

『進撃の巨人』をめぐる、父と子の対話

「トンビが飛んでるね。」草原を疾走する調査兵団の騎馬隊の頭上、空を裂く鳴き声とともに、羽を広げた鳥が舞っている。「ということは?」私が付け足すと、「海が近い。」と高1の息子が即答する。「いい反応だね。」
 騎馬隊は、そして初めて海に触れた。いつもと違う、エンディングの音楽とシーンが流れた。
「この終わり方はいいと思うな。」父はつづけた。その間、食卓に座った息子は、スマホをいじりはじめて下を見ている。「エヴァンゲリオンの作者はシン・ゴジラで、日本は世界とこう向き合った方がいいと一つの態度を示したけど、これは、みんなと一緒に考えてみよう、みなさんも考えてください、という提示の仕方だね。パパも、それがいいとおもうよ」おそらく、息子はまた父親の小難しい講釈がはじまるのだろうと、体を一瞬こわばらせるのがわかる。が、いまはそんな父の講釈に食ってかかる進撃の女房はいない。私と息子は、家に二人きりで、食卓をはさんで座っている。息子の萎縮は、幼い頃からの、夫婦喧嘩によるトラウマ的な防衛なのだ。しかし今は、その防衛反応をする必要はない、という状況を息子は一瞬で確認し、父の話をうざったく思いながらも、実は耳を傾けはじめていることを、父の私は感じ取っている。私は息子の無意識に向けて、つまりは、今ではなく将来へ向けてのおもいで、言葉を打ち込んでゆく。
「おまえがいう原爆のイメージがでてきてから、このアニメは日本と世界のことを喚起しようとしているね。壁の中の民とは、島国の日本ということでもあるだろう。そして日本は、かつて島の向こうの大陸と、世界と戦争した。たしかに新しく成りあがってきた日本を、世界はいじめるようなこともした。その世界にこの野郎と思うのは、当然だろう、それはいい、しかしその挑発にのって、世界を敵にまわして戦争することは、いいことだろうか? 原爆を落とされ、東京も焼け野原にされてしまった。海に囲われた日本は、そもそも世界を知っているのだろうか? サッカーでも、日本代表はまだ世界を知らないとか、いうだろう? 日本では、わからないんだよ。フィリピンとか、貧しい国の子供とか、戦争にあっている子供たちは、自分が見て、経験して勉強できる。しかし平和になっている日本では、そのままでは、勉強できないんだよ。壁の中の人類がその王の不戦の誓いによって島に閉じこもったように、武力放棄の憲法によって世界の紛争を他人事のようの過ごすことがパパたちはできたんだから。だから、経験できないことを、学校で、しっかり勉強する必要がある、ということだ。エレンたちが、父の残した三冊の本から勉強したようにね。エレンは最後、海の向こうの大陸の人たちは「敵」だといった。ということは、また戦争するということかい? それじゃあ、解決にならない、ということだろう。この間も、北朝鮮のジョンウンとトランプがあったよね。日本も、これから壁の向こうに出て、大陸とやりあわなくてはならないんだよ。どうしたらいいんだ? まだ人類は、その答えをもっていない。『進撃の巨人』の終わり方は、いいな。」

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今日の仕事が雨休みなので、セリフ確認のために録画をみていた。NHKでは、第四期が来年秋に放映準備、だそうだ。途中、家事をやめて進撃の女房が、食卓の向こうに座ってきて、一緒に見ることになる。昨日からほぼ確実な雨予報だったため、女房は朝寝坊、子供もつられて起きてこず、朝飯は用意できず、何も食わずに学校へ忙しく出ていった。私だけがいつもの二度寝もせず、さっそうと起きてトーストを食べ、このブログの準備をはじめたのだった。戸を開けての息子との視聴時は、外の騒音でよく聞こえなかったが、エレンの、海の向こうをみつめてのセリフは卓一だった。「海の向こうには、敵がいる。父の記憶で見たのとまったく同じだ。敵を全部殺せば、自由になれるのか?」…というような。それと、再生そのままでは読みとれなかった解説文を、一時停止させて読んでみた。これもすごい。私の読解は、見当はずれなひとりよがりなものではないことが確認できて、ほっとした。しかしこの若い作者は、本当に、その後に想像力をのばしてみるのか? ファンタジーに終わることなく、リアルさを保持したままやるのは大変だとおもう。その挑戦がえらい!――

<現在公開可能な情報
我々は世界全体が憎む「悪魔の民族」であるとわかった。彼ら、世界の人々は我々「ユミルの民」の根絶を願っている。だが、ただ座してそれを待つ理由などない。生ある限り、私たちは生き続ける義務がある。抵抗する努力をやめてはならない。しかし。しかしだ。果たしてその手段とは、世界に対し力を示し、恐怖を与えることだけなのだろうか?巨人の力、彼らのいう悪魔の力を振るう以外に、本当に別の道はないのだろうか?同じテーブルにつき、お互いの心を語り合う未来を考えることは夢想だろうか?世界中の人々がお互いを尊重し、話し合うことは本当にできないのだろうか?今、それが空虚な理想論に思えたとしても、私は考えたい。考えることから逃げたくない。それが私の負うべき、責務と信じるからだ。>