鹿島田真希氏の『ゼロの王国』(講談社)は、ドストエフスキーの『白痴』を下敷きにしている。
もう文学作品をめったに読むことのなくなってしまっている私は、この作者のことも作品のことも知らなかったが、三島賞候補作にあがった倉数氏の『名もなき王国』についての私の感想を読んだ友人が、三島賞をとった作家に似たようなタイトルの作品があると教えてくれたのだった。私が倉数氏の作品を受けて読み始めていたのは、三島賞を受賞した東浩紀氏の『クォンタム・ファミリー』(河出文庫)であった。家族をめぐる考察について、確認してみようという気が起きたからである。そして男の著者二人は家庭をめぐって書き、女の作者は、家庭成立以前の、男女関係をめぐって書いた。この違いは、作品の形式性を露呈してくるので決定的だが、私の評価は、文学にはない。
『名もなき王国』のタイトルの由来は、作者の意図するところとしては、おそらく、作家の想像力、虚構の世界、つまりは小説だ、ということであろう。作品に即して言えば、無名作家の伯母(女性)の世界、ということだ。では、『ゼロの王国』とは何か? 一度読んだかぎりでは、それを示唆するような用語はこの作中には、私はみだせなかった。しかし、発表年代も近い鹿島田氏の作品に、『来たれ、野球部』(講談社)というのがある。そこから判断すると、この「ゼロの王国」というのも、非現実の世界、文学少女(少年)の想像力(妄想)でできあがった観念王国、ということらしい。そしてその王国の支配者(女子高生)は、飛び降り自殺することになり、その彼女を模倣する野球部のエース(少年)は、現実的な生きる力をもった幼馴染の同級生(少女)に救われる、目覚めさせられる、というのがその作品の趣旨であった。そして、この幼馴染同士の男女関係は、『ゼロの王国』の男女関係、いわば、ドストエフスキー『白痴』の、ムシシュキン公爵と彼をめぐる女性との関係をなぞっている。『ゼロの王国』では、ムイシュキン役は、宛名書きのバイトをこなす青年なのが、『来たれ、野球部』では、少女になっているわけだ。つまり、この男女交換可能性は、作者の追求が、より抽出度の高い人間関係の原点にある、ということを示唆しているだろう。私はこの抽象関係を、「ゼロ(原点)」と読んだのだった。いいかえれば、世俗的というよりは、純粋な人間関係とは何か、それが現実成立可能なのか、それで王国(世界)を作れるのか、という探究である。
しかし、この抽象度の高い純粋性ゆえに、小説としては、つまり文学評価としては、私は物足りなく感じたのだった。いわば、「雑」がない(絓秀実著『小説的強度』福武書店)。そういう意味で、家族を扱った倉数氏や東氏の方が、雑居的になって、小説としては面白いな、とブログでも示したように、文学的に評価したのだった(その男二者の差異と評価は置いておく)。鹿島田氏の作品の多くは、女性の「愚痴」と形容されもする語りが多いようだが、それはノイズというよりは、形式的な純粋性に落ちついているように私には感じられる。文学に引きこもる主人公を作中で自殺させたとしても、文学少女の作品だなあ、と思ってしまうのだ。が、私の評価は、文学にはない。私には、鹿島田氏の追求の方が、東氏のSF的な実験とされるものよりも、思考に刺激的なのだ。
ドストエフスキーの『白痴』を、『ゼロの王国』テーマと同様なものとして、全体(類)を愛する者が一人の人間(女性)を愛することができるのか、と集約してみることはできるだろう。しかし、その作品は、雑の一種たるポリフォニーと把握される。主人公が多様な価値をもってせめぎあっている、ということだけではない。それならば、『ゼロの王国』でも、まさに『白痴』のキャラクターをなぞるような配役がなされている。しかし『ゼロの王国』には、雑居感がない。類と個の愛の葛藤テーマを哲学的にしぼって、婚約者と結婚すべきかどうかを描写したキルケゴールの『あれか、これか』でも、雑居感は伴う。『ゼロの王国』の主人公たちは、肉のない書き割りのようだ。しかしこれは、小説的な技法が未熟だから、ということだろうか? 鹿島田氏の純粋な小説の語りの技法を、阿部和重氏は評価している。いくつも賞をとっているのだから、技量はあるに決まっているのだ。では、何がないのか? 文字通り、人格だ、と私は言おう。主人公の強度(血肉)は、そのキャラを、作者が本当に持ちえているのか、ということで決まる、というのは、論理的には前提として想定されもすることだろう。が、当然な前提にはなりえない。東氏の『クァンタム・ファミリー』でならば、「同一性検索障害」とでも形容される病気になるかもしれない。しかし東氏のこの作品自体は、一つの、いわば文学外的な専門知識を持ったものの、その専門的言語ゲームによる言葉遊び、コピーライターのような用語で構成が成立していっているようにみえる。つまり読書全体として感じられるのは、血肉あるキャラの多様性というよりは、一つの言語ゲームに習熟した一人格である。作品の辻褄があって構成が完結的になればなるほど、その感が強くなる。比べて、倉数氏の作品は、辻褄が完全にあってないぶん、全体の綻びから、むしろ文学としての雑さが「少しだけ」感触されてくるのだ。
なぜ、こういう事態になってくるのか?
私はこれを、鹿島田氏は女だから、と言おう。「全体」とが、男社会にあっての男の論理なのだから、女が全体(国家、家族、等類的概念)を想定しづらいのは論理的当然である。もちろん、男女を超えて人間自体が考える言葉をもつ生物なのだから、女性にあっても、一生懸命勉強すれば、その全体への論理を身につけることはできるだろう(男は一生懸命じゃなくても当然としてついてくる)。が、あらゆる領域・位相で、苦手なことを維持・保持するのは困難である。しかも、それ(全体)がいかがわしいのではないか、という疑いに目覚めた近代以降においてはなおさら。橋本治氏は、この「苦手(差別)」を、父権性とかと「社会(歴史)」に求めているが(『父権性の崩壊 あるいは指導者はもう来ない』朝日新書)、私はこのブログでも幾度か指摘してきたように、生理(子を産む)ある身体のためだと認識している。鹿島田氏が、語りの文学技法に形式純粋しやすいのは、おそらく、子供という自分の分身であると同時に他者でもある、異物との雑居がないからだろう、とおもう。だから、公園に集う主婦の談義から、散文的な認識記述・描写の方に進むのではなく、わが身に引き戻された愚痴語りを方法化していくようになりやすいのだ。私にはその徹底の衝動が、面白い。アニメ『進撃の巨人』の第四期の予告編では、主人公ミカサの幼馴染を呼ぶ声が木魂する。その声は、もはや幼馴染の少年を呼ぶ少女のものではなく、また世界(全体)と戦う同士としてのものでもなく、ひとりの女であることの自覚の声であろう。おそらく、世界(全体)へという男性の観念性(の発揮たる戦争)を拒絶していく平和への追求には、全体に回収されきらない個別な関係が要請されてくるのは、論理的な必然だろう。しかし戦略が、困難な手続き、微妙さの持続、になるのは、小説を書くという現場においても大変だということは、絓秀実氏が『小説的強度』で考証してみせたとおりであろう。
が、私は文学の評価がしたいのではない。身体的に違う男女の関係(差異)を論理的な要請として、平和という帰結のために根拠づけ、その前提を円満的に維持していくのが、さらに困難な現実であるのは、どこの夫婦、男女関係でもみられることである。いや、男女という二項だけでなく、性はもっと多様でそれも遺伝子的に決定づけられている、という最近の意見もあるだろう。が私にはなお、そうした意見こそが、全体という男性論理の観念性に依拠しているもので、ありふれた決定的な差異を捨象していくもののように考えている。同様な権利を要求しているのだから。だから、それはいい。しかし、考えるべきことは、そこにあるのか? 次回はおそらく、三島賞をめぐる作品からではなく、その三島由紀夫を論じた橋本治氏の論考を軸に、書き留めておくだろう。
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