2023年12月28日木曜日

性差と地霊


「日本は有史以来、いまだに国家全体の滅亡を経験したことがない。その代わりに、首都の興亡には文学の言葉を惜しげもなく投資し、ハイテック(=文明的)な首都からデッドテック(=廃墟的)な古都への推移を重大な文学的事件として位置づけてきた。近江荒都の歌を詠んだ壬申の乱の戦後作家・人麻呂は、まさにこうした「古都の文学」の先駆となったのである。」「むろん、序章で述べた通り、ある時期が復興期かどうかは後から振り返って分かることにすぎない。だとしても、これからもっとひどいことが十分に起こり得るからこそ、<戦後>や遷都後の万葉歌人は、精魂込めた文明の所産を「歌」という形式で保存したのであり(略)、私はそこに凛とした文化意志を見出す。もとより、保存とは決して消極的な行為ではなく、むしろそれ自体がれっきとした創造に他ならない。現に、『万葉集』が保存した精霊と古都は、律令国家の正統的な文書では決して描けない「歴史」を創出したのだから。現実的打撃の後=跡を文学として保存し、そこにさまざまな感情の形態をストックしておくことの意味を、古代の日本人は深く認識していた。」(福嶋亮大著『復興文化論』 青土社 傍点略)

 

千葉の中央区にある都町といっても、過疎化は激しく、ほぼお年寄りしかいなくなりはじめている。空き家や庭の荒廃が目立ちはじめ,町会の会議でも、議題にあがりはじめている。

体の筋肉痛をほぐすためにも、朝のラジオ体操に参加して、お年寄りたちと挨拶をかわすことから、一日がはじまる。そこでのささいな言葉のやりとりでも、男性と女性の違いに包まれる。妻が亡くなってみると、その存在(差異)感が、逆に存在しはじめる。

 

私は独りでいることになれているが、もはや、独りでいることができなくなってしまったのだ。妻がいないということにではなく、そこにいてしまう存在があるゆえに、現に独りでいることが、納得できず、頭を混乱させる。たえずその存在する欠落感に、さいなまされる。家の中の空間が、もはや物理的なそれではなく、精神的に一体となったものに変貌してしまったのだ。

 

私は、地霊、ということを考えた。万葉からはじまった歌とは、この地霊に対する呼応だった。俗には、戦場が観光地となっていったことにも、つながっているのであろう。

 

女房が子供への教育に熱心なあまり暴力的な暴走におちいるとき、女は自分の腹を割って子供を産むので、おそらくわが子が分身と感じられるからなのだろうと、想像されてきた。自分の右手と左手が別々の動きをはじめて統制できなくなるのは、我慢しがたいことなのであろうと。

 

イスラエルでは、ハマスに子供や夫を人質にとられた母親(妻)を中心とした民衆が、軍事作戦をやめて人質解放の交渉をしろ、「人質を返せ」とデモをおこしている。ならば、ウクライナイやロシアの母親たちが、戦場から兵士を返せ、と連帯声明できる存在条件があるはずである。とくに、母なる大地と象徴化されるロシアでは、論理という暴走する男性性を制御できる腹を痛めた女たちの戦いの余地が、なおだいぶん残っていると感じられる。アル中で死んでいくよりも、意義ある死に方の方がマシではないかとプーチンに説得されて、もう一人いるわが子も戦場に送るといった子を失った母の葛藤を、もう一度そんな論理という男のほうにではなく、腹=大地の方へと返してやらなくてはならない。

 

佐藤優は、ウクライナ戦は即時停戦、ガザ侵攻はイスラエルが民族浄化思想を実践しているハマスを除いたあとでの停戦、それがリアルポリティクスの感覚であり論理だというような発言をしている。が、プーチンを除いてもまた新たなプーチン以上の者が現れるかもしれず、軍事的な制圧過程あとでのパレスチナにだって、ハマス以上の組織が発生してしまうかもしれない。高次元であれ、低次元であれ、もうそうした論理にではなく、趣味的な生理として反戦思想があるのだと認識提出したのが、アインシュタインへのフロイトの手紙だった。

 

最近作を出版した歌人の俵万智が、朝日新聞のインタビューで、若いころの男女関係にはいろいろ思惑的な雑念があったが、年を取ってからの男女関係は純粋になる、というような返答をしていた。ラジオ体操などで声をかけられるおばあさんを、性的に見るということはありえないのに、女を感じるのは、性差というものが、社会的な見てくれに媒介される以上に、存在それ自体にあるからであろう。遺伝子やホルモンや環境(文化)による性のグラデーション(レインボー)も、プラスとマイナスをもった磁石にも強弱があるような、濃艶なのであって、両極をもった磁力であり、磁場の一種なのであろう。地霊は、そこから来る。

量子力学的な比喩でいえば、肉体をもった妻の物質がこの空間内の波としての物質ともつれあっていて、片割れが不在になったために、もつれていた量子が復元(復興)の動きとしてスピンに強度をもたせているのかもしれない。

 

歌は、そんな地から、場所から湧き出てくる言葉である。

 

が、言葉には、もうひと種類ある。天から降ってくる言葉。

 

妻が亡くなったのは、古井由吉の自撰作品集をはじめから読みはじめたときだった。古井は、男女関係のことを描いたが、それは性差ではなく、存在感であっただろう。だから、地霊に感応した古典をとりこんだが、その手続きは、文学の場を借りた実験であって、他の言葉、いわば天からの言葉を招来させていくための試みであったろう。空襲で爆撃された子供たちの生き残りが、ここ戦後の日本を作った。子供たちのトラウマと精神分析には言われるものが、実はなんであるのか、現今の戦争で泣き叫ぶ子供たちの声が、どこから来るのか? それは、大地からではないのである。

2023年12月23日土曜日

『千葉集』


<東京から、空き家となっていた千葉の妻の実家へと移住。その一年後、妻が亡くなる。コロナ禍から戦禍へ。悲しみを慎めるために、書き留めてあった短歌を、万葉集ならぬ千葉集としてまとめてみた。>

2023年12月17日日曜日

北野武『首』を観る


 この映画『』をみるまえは、侍のリアルを提示してみせることで、戦後の平和ボケ的な日本を批判するような意図をもって制作されているのではないかと思っていた。世界は、現実は残酷であり、民主主義を借り衣裳とした平和主義で、太刀打ちできるものではないと。

あるいは、映画の予告編で、信長の草履とりかと思われるシーンがみえ、その秀吉演じる北野武の演技から、出世美談と子供のための伝記ものでは語られる世間のそれを、逆転してみせているところに批判の観点が集約されてくるのだろうと。一生懸命頑張れば報われるとか、真心をもって打ち込めば心が通じる、とか、そんな人のよい話は現実にはないよと。それどころか、秀吉自身が実は、殿様の草履を懐に温めるという行為が世間では良いように受け取られると知っており、だからしょうがなく俺はやってるんだよ、と思わせぶりな仕草で草履を体で受け止め、おそらくは信長自身も、その人を喰ったような部下だからこそ使える、悪人こそ使える、と判断するような演出がつづくのだろうなと、私は予測していたのだ。そしてそんな演出を、戦争最中のヨーロッパの映画祭でみせることによって、日本人も騙し合いの世界のことなど百も承知しているよ、日本人をなめるなよ、と言ってみせたいのだろうと。

 

が、推論は、はずれた。映画では、家康を懐柔するために家康の草履を懐で温めるのであり、しかもそれは、弟の秀長との掛け合い漫才のように進行するのだった。

 

この映画は、実は、侍批判の映画であり、反戦の映画なのだ。世界のリアルを提示することによる平和ボケ批判ではなく、そのリアルの実態がどんなものであるかを暴露することによって、男たちが鎬を削るあり様を笑い飛ばそうとしているのである。

 

最後、秀吉は、信長に謀反をおこした明智光秀の首実検で、なかなか光秀の顔(首)がみつからないのに苛立ち、「俺は光秀が本当に死んだことがわかればいんだよ、首なんかどうでもいいんだよ!」と、破損して誰の顔ともわからなくなってしまった光秀の首を、サッカーボールのように蹴飛ばしてみせることで、締めくくられた。この最後のシーンは、秀吉が合理精神を持っているということを言っているのではない。侍たちの誰も、目的などもっておらず、享楽のために競っていることが露呈されてきたのだから。

 

タイトルの『首』とは、だから二重の意味になっていて、一つは殿(王、男)という象徴的な意味、そしてもう一つが、その世間上の象徴体系自体をコケにするためにこそ祭り上げられているものとして、ということになる。

 

では、どんな体系だと把握されているのか? つまり、暴露すべき、リアルとされる世界の実態とは、どのようなものとして演出されているのか?

 

この映画と同時に、『ナポレオン』が上映されているのは、面白い。見ていないが、比較してみよう。

映画『ナポレオン』をとった監督は、世間ではナポレオンは天才と受け止められているが、自分はこの男が普通の人物であって、だからなんとかという女性に溺れていったのだ、そこを描きたかった、と発言していた。一方、北野武の映画では、女はでてこず、まったく相手にされていない。これは、北野が、ミソジニー(女性嫌悪)を発揮しているからか?

 

そうではない。まったく逆なのである。

 

ナポレオンに「世界史の精神」をみた同時代の哲学者ヘーゲルは、主人と奴隷、暗黙には男と女の弁証法的な関係、その間に発生する矛盾や葛藤を乗り越えて進むことに、歴史の進歩をみた。女を謎として、真理として見立て、その獲得を目指して男同士で戦うあり様に、歴史と文明の原動力をみたのである。

 

が、北野のみせる、天下取りをめぐる戦国時代には、姫はいない。

 

黒澤明の『羅生門』や『七人の侍』を思い起こしてみればいい。女は謎であり、その真実をめぐり、男たちは煙に巻かれながら争い合う。侍を翻弄するのは、結局は甲高い声で歌いながら田植えをする百姓の、神秘的な笑みを浮かべる女たちではないか。

 

北野は、そういうふうに世界を理解することは、嘘だ、と言っているのである。

 

夏目漱石の、『こころ』を思い起こしてみよう。友と下宿先の娘さんをめぐって争い、その女を獲得した先生は、その勝利にもかかわらず、「明治の精神」を慕って自殺する。この話は、恋愛(男女関係)を焦点に理解されてしまう。が、よくみれば、先生は、女のことなどほっておいて、男を傷つけてしまったことに悩み、死んでいくのである。つまりは、男女関係の背後で、より本源的なものとして、男同士の絆のようなものがあるのだ。「明治の精神」とは、乃木大将や西郷隆盛が体現したような価値、それはむしろ戦国時代の気風が漂う「江戸(侍)の精神」である。それが、近代化とともに希薄になっていってしまった、つまり、文化的なホモソーシャル(男社会……西郷は男の恋人をおって心中した経歴もある)がなくなってしまった、という時代的な認識と個人的な悲嘆が重なり合うところに、先生の自殺が位置するのである。

 

が、なくなっていないよ、と北野武は認識するのだ。いや暴いてみせるのである。

 

外国人記者との記者会見で、外人記者から、ジャニーズ問題に関してどう思うか、と北野は質問されている。スマホ動画でその様子をみると、北野の返答は曖昧である。なぜなら、この同性愛問題は、民主主義的な政治的善悪では裁ききれないからだ。私たちは歴史的になお、あるいは人間生物的な本源性において、この男たちの絆関係から逃れられない。

 

マスメディアでは、ジャニーからの被害男性の告発ばかりの報道に偏重している。が、たしか6チャンの報道特集であったか、その取材で、ジャニーも参加している合宿で、その夜の相手に指名されてしまった少年は、友達からベルトを借りて、下半身をぐるぐる巻きにして出向いていって、ベッドに横たわり、無事生還したことを笑い飛ばして吹聴していた者もいたことを報道している。被害にあわなかったものは、ジャニーさんのために、という思いで歌い、むしろだからこそ、人を感動させる芸が大衆の前で披露できたのだ。これはスポーツ界などで、たとえば長嶋茂雄監督のために戦うんだというプロ選手が出てくるのと同じだ。高度な情念的な関係があってこそ、芸能が発揮でき、観衆の方も、その一流となった芸でないと、満足しなくなるのである。(この情念関係は、男同士とはかぎらないだろうが、差別ということ、つまりは主従関係が背後にあることにはかわらない。が、より根源的なのは男同士だということだ。――この点で象徴的な映画シーンは、信長の首を切るのが、黒人奴隷だったということである。そのセックスの相手でもある付き人の黒人は、「この黄色い人種めなんとか!」と差別言動をわめいて切り落としたのだ。)

 

なんで一流でないと満足しなくなるのか? とりあえず、「定住革命」の西田正規にならって、人の脳みそが肥大してあるから、そこをフル的に活性化していないと身体的にエントロピーが増大してきて退廃してしまうから、としておこう。食うだけでは、ヒトは、生きていけないのだ。

 

やわな芸で、人は、満足しない。ならば、民主主義的な正義がその差別を是正していった暁には、ヒトは、どうなるのか? エントロピーが増大し、日々の退屈に退廃的になって、もちこたえられなくなる、ということだ。北野は、いわゆる日本の芸能も、そうしたところから発生してきているとおさえている。だから、外人記者の質問に、曖昧な返答しかできないのである。

 

世界は、女を相手にしているようでいて、実は、相手にしていない。真理は、女にあるのではなく、そうみせかけて人々をだまくらかし、本源的な男どうしの原動力を隠したところで駆動させている、それが実態なのだ、と北野は暴いてみせたのだ。殿様はハーレムがほしいのではない、殿様になれば、それは簡単に手に入るのだから、力(芸)にならない。女にもてたいのではない。力に必要なのは、男からの、鎬を削るライバルからの評価であり、承認なのだ。

 

この認識は、ヘーゲルの哲学をふまえて「歴史の終わり」を説いたフランシス・フクヤマも洞察していた。戦争(歴史)はなくなった(終わった)のではない、それがサッカーのワールドカップに潜伏しただけだ、とその書で説いていたのが実状である。だから、本当の戦争が始まってしまえば、男たちは、その命を賭けた本気度の高い大会に参戦するのだ。観衆も、そのあり様をみることで、脳内の退廃をリフレッシュする。メディアはそれを促進する。北野は、この現今にあからさまになってきた歴史を、世界史を嘲笑する。馬鹿げていると。そして、侍の首を、サッカーボールのように、蹴飛ばしてみせたのである。

 

哲学のノーベル賞をとった柄谷行人は、『交換様式』で、交換A(氏族社会での交換、つまりは侍の贈与精神、心臓を捧げた関係ということだ)の高次元の回復としての交換Dなるものを提唱した。その物言いにならうなら、北野武は、交換Aをより低次元なものとして披露し、その関係を爆裂させようとしている。が、その先には、何があるのだろうか? 北野演じる秀吉は、毛利家の殿様の船上の切腹の儀式を愚弄する。三島由紀夫のような演出を、笑い飛ばす。光秀の首を取ったのは、刀ではなく、竹やりや鍬をもった農民だった。が、黒澤明のように、農民が実際は歴史を支配しているね、かなわないね、というわけではない。そうではなく、あくまで、この世界を動かしているのは、侍身分的な男たちなのだ。その変わらない現実は冷徹にみていなくてはならない、と言っているようだ。ならば、笑い飛ばすことしか、現状に皮肉な態度で距離を置くことしかできないのだろうか? 他に、そこを抜け出す道がないのだろうか? 芸術に、文化にふれないと、私たちは、生きていけないのだろうか?

 

北野の映画には、そうした突っ込んだ問いは、ないだろう。

 

しかし、この映画が、男たちの実態を暴くことで、現今の戦争のあり様を批判した反戦映画になっていることを、もっと注視したほうがいいだろう。幕がおりる直前の、映画関係者の名前等を流していくテロップの最後に、「撮影に際し動物には危害はくわえてません」という一文がまぎれている。このさっと通りすぎる演出に、北野の、衒いのないような平和主義が主張されているのだ。

2023年12月12日火曜日

四十九日


妻の四十九日を迎え、祭壇から仏壇に切り替える。

 

といっても、ここでいう「仏」とは、仏教のそれというよりは、より一般的な、亡くなったもののことを指す意味になるのだろう。四十九日といっても、その仏教的な物語を信じられるわけでもない。が、メンタルや身体生理が落ち着いてくるのに、ちょうどそれくらいの期間がかかる、と自然的な推移と重ね合わせられるような気もする。

 

葬儀までの五日間は、夜寝入るのが怖くなるのか、意識を失うと、そのまま狂気の世界へ落ち込んでしまうような切迫感に、ほぼまったく眠れなかった。が葬儀を終えて、とりあえず、眠れるようになったのも、儀式と生理になんらかの重なりがあるからなのか。

 

ただ眠れても、それがやけに深く、夢は見ているようなのだが、はっと起きると、何も思いだせない。それが四十九日が近づくにつれ、夢の内容はこれまでにない、たぶん父や母といった家族のでてくるものが多く、目が覚めても、覚める直前くらいまでのイメージは脳裏に残っている。そして四十九日を迎えた最近は、以前の、不可思議な、精神分析の対象になるような奇妙なストーリーをもった夢に落ち着いてきて、起床後も、そのおおまかなストーリーを辿っていくことができるようになるのだった。いや、以前以上に、奇妙奇天烈で複雑なストーリに変貌している。

 

仏壇は、妻がどこかからもらってきた木製の椅子に、妻の妹のトルコからのお土産であった布を使った。スマホの検索によると、個々人の創意工夫で設けられる、「簡易仏壇」と呼称される形式が、一定の流行りをみせているようである。私も、その流れの中にいるということなのであろう。

 

世界宗教にもなるビッグネームな宗教が世界を騒がせているいま、大きな宗教物語を信じるわけにもいかない名もなき人たちが、小さな祭壇を設けて、死者とともに過ごす様式を、暗中模索的に探しているのだとおもわれる。

 

この遺った骨を、どうするのか? 残され者たちの心との間で、そのモノとどのように折り合いをつけて未来へと向かうのか、子供たちら次の世代を含めて、暗闇の中での手探りな模索がはじまっているのだろう。

 

小さき者たちの小さき社は、普遍的な意味をもって成長していくことができるだろうか?

 

妻の遺影をみると、身に迫る感情がなお高ぶってきてしまうので、閉じることにした。その妻の脳出血の原因は、不明であって、診療予約の日取りを使って、新宿女子医大の担当医のところへ聞きにいったりもした。八月に感染した菌が脳内に入って悪さをしたということはないのか、脳腫瘍ということはないのか、と問いただしたが、ストーリとしてはありうるが確率はひくい、という話だった。

 

妻の妹が、最近の医学論文を探し出してきた。コロナを含めた感染症と脳との関連を示唆する論文が、提出されているそうである。

 感染症と脳血管障害:感染性心内膜炎と 新型コロナウイルス感染症 - J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsnd/27/1/27_75/_pdf

2023年11月27日月曜日

庭と戦争


 居住している町内会の文化祭に、自著三冊、とその説明文を、出展してみた。

タイトルは、「庭と戦争」。

また戦争か、とふと思いたったのは先月。はからずも、妻への弔いの展示になってしまった。


<庭と戦争>

       庭、というと、敷地に作られた景観、と思われがち。

けれど、古語の意味は、海。

 水平線の手前の、平にないだ、漁をする所。転じて、地平線(山の稜線)の手前の、柴刈りに行く所。転じて、家の外の手前の、作業する土間。

 海や山に出かけるのに、天気を見誤ったら大変。命がけ。

 だからなのか、日和、とも表記された。

       島国の日本ならば、あそこは俺の庭だ! ですむ所もあるかもしれません。

けれど、陸続きだったら? 向こう側の人も、あそこは俺の庭だ! と言うかもしれません。

 つまり、それではすみません。命がけ。

       そんな島国と大陸の、すれ違いの現実を、子供たちの視点から描いたコミックが、諌山創さんの『進撃の巨人』。

   島国の外から現れた巨人(大陸側の最終兵器)が、「人を喰う話」です。

   その世界大戦の様は、にわ、という言葉の意味をめぐって、なされているのかもしれません。

 日和見にわみとが朝廷の国見くにみになるまえは天を気にする民の営み (すずき)

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※ ようやくというべきか、業界と結び付いているような造園学会の<にわ>理解とは一線を画す、若手の研究者たちが現れてきた。若い人たちのほうが、辞書を引けば普通にでてくる<にわ>という起源的な語義の意味をふまえて、未来を思考=志向している、と私は思う。

参照文献;

福嶋亮大 『思考の庭のつくりかた はじめての人文学ガイド』 星海社新書

腹瑠璃彦 『日本庭園をめぐる デジタル・アーカイヴの可能性』 ハヤカワ新書

     『州浜論』 作品社

山内朋樹 『庭のかたちが生まれるとき』


*ちなみに、出展した私の冊子『庭へむけて』『パパ、せんそうって、わかる?』『人を喰う話2』は、もともとは電子ブックとして、スマホで見られる形式のものなので、<bccks 知人書房>で検索すれば、無料で読むことができます。

2023年10月29日日曜日

葬儀――「テロリストになる代わりに」


先週の22日夕刻、夫の私や息子、そして妹に見守られながら、いく子は亡くなった。

前日の土曜夕刻、持病とは別の、脳内出血によるものだった。

一昨日27日、身内や、娘時代のいく子を知っている近所の人たち、ダンス仲間やその先生、東京中野区在住時の地域活動仲間、いく子を慕っていた息子の小・中学時代の友人たち、そして息子の職場の警視庁の方々等によって見送られた。

 

葬儀は、無宗教形式と呼ばれるものでおこなった。

子供の頃からこれまでの、アルバム編集のDVDスライド、献花のあと、「あいさつ」とタイトルされたいく子の公演動画上映後、ひきつづき、喪主のあいさつとして、私が彼女と共演した。

 

……

 

今日は、いく子のためにお集まりいただき、ありがとうございます。

私は、おばさんになってからのいく子しかしりません。彼女が四十、私が三十すぎに、出会いました。葬儀のサービスとして、アルバムスライドを編集してくれるというので、まだ彼女の実家へと引っ越して一年あまりにしかならない家の押し入れから、積みおかれたままのアルバムを取り出してみていますと、可愛いというか、彼女は、クラスの華だったのではないかと思います。活発で、外交的で、優秀でもあったでしょう。しかしそんな彼女は、四十まで結婚しなかった。私と写ったスライドでは美人に見えるところもありましたが、あれは写真うつりがいいので、実際は、おばさんです。彼女は、良家のお嬢さんでもあったから、お見合いもあったでしょう。が、彼女はそれをこばんだ。そして、ダンスを選んだ。

配布された案内のカードには、私と彼女は、芸術のグループで出会ったと書いてありますが、そのグループはそのまえに、世の中を変えていこうという、社会運動のなかの芸術部門でした。その創立者は、去年だったか、アメリカの研究所がだしている「哲学のノーベル賞」と呼ばれるものを、アジア人としてはじめて受賞しています。運動は2年で解散しました。

結婚前だったか、あとだったか、彼女の公演をはじめてみたそのタイトルは、「テロリストになる代わりに」、というものでした。クラスの華だった女の子に、何がおこったのでしょう? 私は、その組織の中で、彼女のことを、遅れてきた永田洋子かとおもいました。おそらく、世の中にでていくにあたって、彼女は、何か認識を、普通にはいけない認識をもったのだとおもいます。

息子が、警察官になりました。最初の勤務地が、銀座あたりだったので、勤務早々、あの息子と同年代ぐらいの若者たちがおこした、銀座の強盗事件に出くわし、現場にかけつけました。話によると、その主犯格の18歳の若者には、家族がなかったそうです。まさに「家なき子」たちが借家にあつまって、電気も、ガスも、水道も止められ、寝るだけのために集まっていたそうです。是枝監督の『万引き家族』も、まさに「家なき子」たちが同居して万引きによって生計をたてているというものでしたね。そして『家なき子』という映画は、二十年以上も前ですか、アダチなんとかいう女優で、「同情するなら金をくれ」というセリフがはやりましたね。それから、何もかわっていない! 犯罪は、起きたものは、とりしまることができます。しかしその発生を、どうやって防ぐことができるのか? 私はいま、テロや犯罪を呼び込むような新興の宗教につけこまれるスキだらけですよ! この悲しみは、防ぐことができない。だから、犯罪やテロが発生する「代わりに」、彼女はダンサーになった。

しかし、子供が成長し、彼女は踊らなくなった。視聴していただいた先ほどの公演が、最後だったようにおもいます。

人間は、考える葦である、という言葉があります。つまり、考えることをやめたら、人は葦のように枯れてしまう。物書きは物を書くことで考え、絵描きは絵を描くことで考え、ダンサーは踊ることで考える。書くことを、描くことを、踊ることをやめてしまえば、死んでしまう。だけど、おまえは生きているじゃないか? ダンサーなのか? 生きてるじゃねえか? 私は、そう問い詰めたこともあったかもしれません。が、私は間違っていた。

いく子の最後の日です。ちょうど夕食を作っていた時でした。近所のアパートに住んでいるお年寄りが、道に落ちていたといって、財布を家に届けにきたのです。班長の看板が門にかかっているので、こちらに持ってきたということでした。いく子が対応し、彼女は交番にゆくことにした。私はその夜、夜回り隊の当番でした。が雨が降ってきたようで、中止になって、家にいたのです。帰りがちょっと遅くなってるような気がしたので、迎えに行こうかとおもいました。がそのうちに、玄関の鍵の音がガチャガチャし、ほっとしました。いく子は、靴が濡れたのでしょう、靴をもって台所にまでやってきて、台所のドアを開けて、外に靴を干そうとしたようでした。まるで幽霊のように歩いてくるので、変な気がしました。ドアを開け放したまま、靴を持ったままもどって、台所の椅子に腰かけました。そのときはじめて私は(テレビから)顔をあげていく子の顔をみました。みてすぐに、認知症になっているというか、おかしくなっていると気づきました。「交番いってきたんだよね?」「俺のことわかる?」「自分の名前がわかる?」いく子は、何も答えませんでした。目を見開いたまま、私をみている。医師の話によると、言葉をつかさどる領域近くから出血したということですので、何を言っているかわからなかったのでしょう。だけど、視覚はあって、私のことを認識できていたのかもしれません。私はかけつけて、頭をなぜた。そのうち、脱力したように私の腕の中に倒れてきたので、床に寝かせました。途中で転んで頭をぶつけたのかもしれないとおもって、その近所の交番に電話をかけました。こちらの住所をいうと、最近の何丁目のものでなく、昔の千何番とかの住所を書いていたことがわかった。交番のおまわりさんもすぐに察して、電話はこれで間違いないですか、と確認してくる。電話は新しいものでした。つまり、古い記憶と新しい記憶がごっちゃになっている。帰ってこれなかったら、行方不明だった。気力で、帰ってきてくれた。私のいるところまで、もどってきてくれた。そして崩れた。それが、彼女のダンスだったのです。私は、間違っていた。彼女は、私に、身を以って、何かを伝えた。人として、大切なものがあるのではないかと、自分の体を使って、私に、私たちに、伝えてきたのだとおもいます。彼女は、最後まで、ダンサーだった。

 

これが、二人の最後の共演になりました。どうも、ご視聴、ありがとうございます。

あいさつ - YouTube

2023年9月23日土曜日

渡辺京二著『小さきものの近代 1』(弦書房)を読む

 


 渡辺京二氏は、水俣病とされた被害当事者の側に寄り添い続けて闘ってきた人だと知られている。その思想的立場は、右・左でいうならば、右側からの国家批判ということになるのだろう。近代以前的な情念の正当性をえぐりだして対置させてきたようにみえる。法的な裁判闘争以前の、こちらで死んでいった者たちと同じ分だけの毒を飲んで会社幹部が順番に死んでいってくれたらそれでええ、という村民の感情にこそ私たちが継承すべき正統性もがあるのだと、その論理を抽出解析して提示みせてきたような気がする。

 

 こんどのこの作品も、幕臣側に立って負けた無名ではないが世間に埋もれていった人物や、無名的な庶民あがりだけどひょんな境遇から名の知られることとなったジョン万次郎のような人物などをとりあげる。そして、彼らが最終的に、黙って処するようになったそこに、本当に知るべき現実があるのではないかと示唆する。

 

<襲撃(桜田門外の変――引用者註)に参加した水戸藩士の中にただ一人生き残りがいて、名を海後磋磯乃介と言う。維新後水戸警察署に勤めた。…(略)…海後は警察をやめたあとは、その前で代書人をやっていたという。毀誉褒貶する者はあり、それは耳に入ったであろうが、一切無視した。本当はこういう人こそ、何を考えていたのか知りたい人なのである。>(「第四章 開国と攘夷」)

 

 二次大戦敗戦後、小林秀雄が述懐したように、黙って処した者は国民規模になった。このブログでも、村上春樹の父をめぐるエッセーをとりあげて、その父の沈黙の姿を喚起させた。渡辺氏は、維新前後のことを扱ったこの第一巻では、庶民の天下国家のことに関心を持たない姿勢に積極的な意味があったことを示唆している。がこれからの巻で、とくに戦後政治において、当時と同列な意義を見出せるのかはわからないような気がする。継承と変質があるだろう。とくにこれから、もし日本がより中国文化圏に従属していくことになっていった場合、今の香港の人々にあるだろう沈黙の姿勢と、戦後の日本のそれを機械的な延長上で把握することはできないであろう、と推測する。

 

 昨日、NHKが徴収にきた。高校時代からテレビは見なくなって、上京してからはテレビを所持してなかったので、結婚後もそのまま、深い考えもなく、契約させようと訪問してくる者たちに退出してもらってきた。が千葉へと引っ越し、一軒家で暮らしているとなると、目立つからか、次から次へとやってきて、嫌になる。押し問答は面倒くさい。

「要はテレビ持ってる持ってない、視る視ないじゃなくて、NHKはおかしいだろう、と意見を持ってるか持ってないかじゃないの? それは思想・信条の自由として憲法で保障されているんじゃないの? もう7割以上の人が払ってるんでしょ。100%になったら、北朝鮮みたいで、おかしくないの? この間若い人が取り来たけど、若い世代はスマホでみんなすんじゃうでしょ。で、スマホでも徴収しますって、他の民主国家なら暴動起きてない? 余った金で今度はネット番組作るって計画したらしいけど、都民共済だって余ったぶん返金しているよ。あんた一軒一軒まわって手間かかるって言ったけど、俺だって一軒一軒まわってチラシ配ってるけど、100枚配って一枚反応あればいい、というのが植木業界で、それはまだいい方だというんだから、他の業種はもっと大変なんだよ。配ったら7割のお客できたなんて、おかしいでしょ。それは儲けじゃやない。上納金と同じじゃない?」そう言うと、中年社員は少し面食らって、「ご理解を」と言う。「女房入院してるから自分ひとりじゃ決定できない。」と言うと「前回もそんなこと言って。来月から値下げになりますから、来月から新規でということにしますから、ぜひこの機会で。」と、申し込みのQRコードの入った不在連絡票を置いていく。前きた若い人との問答もフィードバックされているから、次は、もっと理屈っぽいのがやって来るのか? 私の判断では、そのうち国家権力はそれこそ北朝鮮なみに強くなってくるだろうから、よっぽど運がよくないと逃げ切れないだろう。思想信条の自由をだしての反論に関しても、放送法ではなく、憲法の「公共の福祉」という観点からそれを退ける、という判例があるようだ。国策裁判なのだから、無名庶民が勝てる見込みはない。未払の三倍は罰金をとっていいという去年だかの判決もでている。N党は内紛でつぶれているし。

 

 ともかく、7割の日本国民が、ほぼ黙って処しているわけだ。責任は持たないという製薬会社との契約ワクチンの件でも。マイナンバーカードは、私も金子勝氏が毎日新聞で指摘していたように、もう日本人が技術的にできないという話が本当なのではないかとおもっているので、できないものはできない、と醜態をさらして撤退ということになる可能性もあるかとは思うが。

 

 私が言いたいのはこういうことだ。NHKをはじめとした権力側の一部だか大半の人たちは、日本人が大人しいからって、なめてつけあがっているんじゃないの? そうなると、日本人がどうなるか、むかしの時代劇でもあったよね、「黙ってりゃあいい気になりやがって、てめえら人間じゃあねえ、叩き切ったる!」って。そうなっていいの? そういう日本人に忖度しないの? 権力側への忖度じゃなくて、そうした日本人の共通的なメンタリティーも考慮しないで、何が「公共」なの? そのどこに「おおやけ」があるの? 単にエリートの言葉上のつじつま合わせがあるだけじゃないか。ふざけるな! もちろん、そんなことほざいても、世の中は、変わらない。現場の庶民ができることは、上からの指示を人間的に社会判断し、やりすごすことだ。特攻隊だって、現場の隊長が上官に向けて、まず私とあなたで新人の前で見本をみせましょう、さあ私と一緒に突っ込んでください、と直訴してみせたら、その部隊はとりやめになったという例もあるそうだ。しかしそれは、上官らが敵だということではない。もう一緒なのだ。宮台真司は、入管でのスリランカ女性死亡事件に関し、新右翼の鈴木邦男の「公安は敵ではない」のだという言葉を紹介して、一般とは違う仕方で、アイヒマン問題を解いていた。ユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンも、入管の職員も、思いやりのある普通の人で、それぞれの「物語」があるのだ、その相互現実を理解しなければ不毛だと。私も同感だ。『進撃の巨人』を誤解して、プーチンは敵だと殺し合いを煽っているのは不毛だろう。さらに、本当に、中国文明なみに権力が世界を覆ったら、一般的な闘争は難しくなるのだから、現場での闘争しかない。そのうち、そんな体制自体もたない、長続きしない、というのも、自然の現実なのだから、自然を信じて、しぶとくやっていく他ないだろう。

2023年9月9日土曜日

『#ミトヤマネ』(映画)を観る

 


千葉の市原市のTOHOシネマズで、観てきた。

宮崎大祐監督の映画は、『大和(カリフォルニア)』から見てきている。みるたびに感想を、というより考えさせられたことをこのブログでつづってきたが、前作の『PLASTIC』をひと月前だかにみて、とまどってしまい、感想を書き込むことができなかった。今回の『#ミトヤマネ』にも、おそらく同じとまどいをもったが、前回よりもおとなしく、なぜとまどうのかがわかってきた。監督自身の友人たちも「変な感じ」を観賞後に口にしたそうだが、たぶんその感じとかぶるものなのだろうと、予想する。

 

とりあえず、ストーリー的な読解からはじめよう。

が、観賞直後、私は、この映画のストーリー構成が把握できたわけではなかった。スマホで他の人の考察を読み、監督自身のインタビューに触れて、はじめてこんな構想だったのかな、と了解してみたのである。

 

最後、ミトヤマネという若い女性、インフルエンサーとして世界的に名の知られた女性が、都会のしゃれたマンションの自室で、パソコンで検索閲覧していた街角のライブ画像が途切れ、砂嵐のようになったその確認に、不敵な笑いをみせて、終わる。瞳が不気味に光る。最終テロップの終幕の直前では、救急車のサイレンの音響効果が流れるのだが、CineMagサイトの「考察」によると、おそらく、ライブで確認していた場所とは、彼女が紙袋をいれたコインロッカーのあるところで、その紙袋が爆発し、つまりテロを敢行したのだろうと。なるほど、そうだな、と私はそれを読んで了解した。映画全般の印象としては、『ジョーカー』、そして爆発物をしかけた後に彼女がよぎってゆく渋谷のスクランブル交差点での描写に、『バイオハザード』の何シリーズ目かの日本を舞台にしたものを連想していた。たしかそれも、交差点の真ん中で、女子高生らしき人の瞳が光ったような。

 

前作『PLASTIC』も、交差点にあたるといっていい場所で、男女が出会えるかどうか、というところで終わる。この構図は、『Tourism』でも『VIDEOPHOVIA』 でもみられたろう。とくに、『Tourism』の場面では、幼い男の子の声が天井から降りてくるような語りとして導入された。私はそれを妖精なのでは、と感想もした。『PLASTIC』でも、おなじ男の子の声が流れた。そして、私の推論なのだが、この男の子が、『#ミトヤマネ』では、登場してきたように思うのだ。

 

それは、ミトヤマネのプロデューサーが、弁護士と相談している場所でのことである。中国企業からの申し出を受理して、フェイク動画の仕事に参加してみたのだが、それで世界的な炎上騒ぎになって、収拾がつかなくなったのである。彼女は本当は在日だみたいな、ネトウヨからの攻撃が示唆されてもいる。そうしたものへの法的処置の相談が、いったいどこで、もたれたのか? シビアな仕事の話なはずなのに、よその子供がうろちょろしている。図書館か? その子供たちが絵本を読むところか? とにかく、そんな奇妙な場所の、閲覧席でなのか、あるひとりの男の子が、絵本を立てて読んでいる。目が鋭い。耳が、やけに大きい。人間としては、おかしい。『PLASTIC』の冒頭は、『スターウォーズ』のあの宇宙の闇に語りの字幕がとおざかってゆくものの、パロディ的な引用だった。そして、宇宙の話題があった。

 

そういうところから推論されてくるに、その耳の大きな男の子が、天井の声を持つ妖精であり、宇宙人、ということなのでは、と。哲学者カントと同時代の霊能者スウェデンボルグによれば、宇宙人とは霊のことだった。つまり、地球とは違う次元の世界が、ここに重なるように降りてきている、ということではないか? 映画『マトリックス』も、連想されてはくるからである。パラレルワールドの話題も、冒頭部分の会話で、暗示されていたであろう。また、作品との重なりは、『Plastic』の中で、文学作品でのフォークナーにおけるサーガという枠の示唆があったであろう。

 

そしておそらく、ミトヤマネは、マネジャーをしているはずだった妹と、入れ替わったのだろう。いや、妹がミトヤマネになった世界と、姉がミトヤマネのままの世界とが、パラレルワールドになって、分裂している、ということではないかと思われる。ペットの子豚が家から逃げてしまって、交番に届け出た帰り道、おっかけに遭遇し、歩道橋へと逃げ込むのだが、妹が右の階段をおり、姉は左の階段を降りると、おっかけは妹の方をおっかけていった。その手前のシーンで、マンション室内で鏡を前に化粧をしているのが妹で、その妹がまるで召使のように姉に指示して、子豚の行方を捜すように命令していた。それは鏡に映った描写の中でおこなわれたが、その実際の人と、鏡の中の人との位置関係が、うまく頭で処理できない奇妙さがあった。映画『シックスセンス』での霊をリアルに示すための映画上の工夫を想起させる。

 

たぶん、姉がミトヤマネのままの世界では、妹は怒り心頭した左翼過激派のような人物たちの石つぶてによって虐殺され、姉は世間に復讐し、妹がミトヤマネの世界では、彼女はプロデューサーと一緒になってその困難を乗り越えた、ということになっているように思われる。

 

社会テロと霊と宇宙論が重なる構成。

その重なりが、映画的な画像と、スマホの画像と、パソコンのディスプレイと、街角のビデオ映像と、といった多様な様式によってつぎはぎされている。このつぎはぎが、つまりカットとカットのつなぎが、未成熟というか、「変な感じ」を抱かせる。サークル延長的な、素人的な未熟さとも受け取れる。感情転移はできない。むしろ、唖然とさせられてしまう場合が多い。『PLASTIC』ではとくにそうだったのだが、それは、私がいわゆる映画における古典的な感性、個人経験的な趣味に左右されているからかもしれないと、判断を保留していたものだ。そして今回この作品をみて、やはり、保留すべきなのだ、と判断されてきた。

 

CineMagの評者は厳しい。アート系のB級映画としても抽象的なメッセージが弱い、と。よく了解できる意見だが、映画の歴史において、たとえ実験的な映画だとしても、その様式は統一されていたのではないか。ゴダールでも。正面を向いた人物がカメラ(観客)に向かってなように話しかける、その様をはじめてタルコフスキーや小津の映画で直面したときの驚きと新鮮な感動。そこで培ってきた感性からすれば、どこかタイミングや秒数がずれていて、しかもカメラに向けて話していたと思しき人物はカメラをかわすように迫ってきたりする。感性とは、どこか、ずれていて、居心地がわるい。ちぐはぐな感じを受ける。がそれは、映画をみようという、前提があるからではないか?

 

宮崎監督は、インタビューで、こんな疑問を提示している。

 

<サイズ以外にスマホのモニターとスクリーンの違いって最早なんなんでしょう。>(「神戸映画資料館」)

 

そのジャンルが衰えて終わったとおもわれた時や時代に、そのジャンルの固有性に立ち帰るのが、本当のモダニズムとされた。ボードレールやフローベールといった作家も、文学が終わったとされたポストモダニズムな社会にあってこそ、そのジャンルの固有性、小説の小説性とかを反復したモダニズムな作家なんだ、営みなんだ、というのが、かつてあった教養である。浅田彰が口をすっぱくするようにして言い、映画では、蓮見重彦が説いてきたことであったろう。要は、映画らしい映画。

 

宮崎監督は、ドゥルーズをあげたりして映画について語るが、上の問いかけは、映画の映画性にこだわるどころか、映画(芸術)というヒエラルキーを転倒させていくものである。A級高尚芸術と、スマホのライン等アプリの画像と、どこが違うのか、と言いのけるのだから。

 

私はドゥルーズの映画論は読んではいないが、ベルクソンの記憶哲学によるのだったろう。が、宮崎監督は、スマホをスクロールしながら各人のクリックで画面が編集されてゆくようなイメージで映画を作ったという。スマホ閲覧は、各人の趣味をAIで自動的に編纂してゆくアルゴリズムも挿入されてくるのだから、ベルクソンの純粋記憶よりかは手前にあるだろう別次元の、より社会的メディアと身体との関係を再考させるものだろう。その洪水のなかで、私たちは生き、将棋界の藤井聡太も、まだAIの指す手の論理過程が未知のままであるのに、その確率世界(パラレルワールド)を凌駕してゆく手を打っていくと指摘されている。

 

おそらくこの映画監督の根底には、大衆による反逆の精神が息づいている。それがうまく、様式的な昇華として成功していないかもしれない。(ゴダールの編集技術は、やはりあくまで映画としての統一性を維持しているだろう。)あるいは逆に、私たちがすでにそんなちゃらんぽらに感性が寸断された世界を生きているにもかかわらず、それに対応した感性に更新されていないということなのかもしれない。そんな最中にあって、かつて説かれたモダニズムな対応、いわば映画らしい映画を作ることに思想的な意義が本当にあるのか、有効な実践に本当になるのか、ということは、問われなければならない。なぜなら、私たちは、こりずにもまた、三つ目の世界大戦に直面しているのだから。かつて映画がファシズムに加担し、いまはSNSが加担している、と伺える世界の中で、とても、そんな高尚とされるインテリ対応だけが是であるとは、受け入れがたいではないか。

2023年9月1日金曜日

盛可似『子宮』(河村昌子訳 河出書房新社)を読む


千葉市の中央図書館で、頼んだ本を探してもらっている間に、新着コーナーで目にして、借りてきた一冊。

 

中国の女性作家の作品。作者のことはまったく知らなかったが、本を開いてすぐ、四世代にわたる家族の系図みたいのがでてき、「纏足」という文字もみえたので、興味をもった。一世代きりや一人の行動で世の本質的変化など望むべくもないし望んでもいかんなあ、というのがこれまでの人生から思われて来ることなので、やはり近代小説的な枠組みより、何世代もかけて意志をもつとはどういうことなのか、とよくは知らない中国の文学作品を読むことで、考えるきっかけを得られるか、というような期待が脳裏に過ぎった。

 

一読して、びっくりした。

 

タイトルは、もともと作者が『子宮』としていたのを、中国での出版では編集者の意向にそって『息壌』とされたが、台湾での出版にあたり当初の『子宮』に。訳者によれば、「息壌とは、中国の神話に出てくる魔法の土で、自ら増殖する力を持ち」、「洪水を治めるのに用いられた」という説話に由来し、どちらのタイトルも、「本作の含意に合致している」と解説されている。

 

確かに、「含意」には入っているだろう。がこの小説は、神話的ではなく、清朝末期の纏足の祖母から現代の曾孫までの四世代を描いた問題提起な作品である。女性の豊穣さを確認する作品でもなければ、纏足って女性差別でいけないよね、などと主張する作品でもない。おそらく、このタイトルに孕まれた含蓄を、日本あるいは欧米の人々が理解することは、おそらくできないのだろうと思われる。私も、なんていっていいか、わからない。あくまで、女性に対する纏足的な現状は相も変わらずだとの認識前提はあるだろう。がだからそんな社会や歴史にネガティブだというのではない。それを変革していくポジティブな意志を持てているわけではない。しかし、諦めているわけではない。むしろ、告発している。が、たぶん、その変化への意志を、自分だけでは抱え込まない、人の悠久な営み、波長を信頼してそこに自己を埋没させながらも、水の中の一滴の波紋の力に希望をもつことができる、ということを、静かに前提して押し出している。文章の比喩など、現代的なIT用語や性的な用語が、その世間的な含意が剥奪されて、ぶっきらぼうなリアリズムで並置されて記述されていく。その平等な表現は辛辣だが、その世界を突き放していく態度のうちに、冷静な愛がある、といおうか。

 

おそらく、私たちがこの作品の含意が理解しにくいのは、父権的な社会に征服されきった歴史をもつ社会での生き方を、なおそれとの対峙を葛藤できる社会で生きている私たちには、受容できる経験がないからだ。それは、コロナ禍で、強制的に隔離されたり、PCR検査を受けるのに長い行列を徹夜でならばされたり、等のニュースをみて、いったいどんな気持ちになって日々の生活を人々はおくることができるのだろう、と考えてしまうのに似ている。もちろん、そんな強権的な社会の中にも、自由というか、喜怒哀楽というか、そういうものはあるだろう。と、ここで「そういうもの」と曖昧な表現になってしまう。欧米の言語ゲームの中に、そして家族形態的にもなお、核家族と父権共同体家族の中間領域にいる私たちには、中国社会での概念をうまく言い当てる言葉につまってしまうのだ。

 

いや全体主義国家を体験している日本人だって、抑圧統制されて生きることがどういうことか想像できるだろう、との批判は正当ではない。おごれるものはひさしからず、と季節のようにすぐ次の転回になるだろうと高をくくっているのが私たちの習性ではないのか? 昨日の敵は今日の友、とか、のど元過ぎれば暑さを忘れる、とか。

 

いったい、中国の方々は、どうやって生きているのだ? こうやってだ、と、盛可似は提示している。傾向としては、女7人の姉妹のうち、都会で暮らすインテリ階級のものには批判的だ。がそれでも、その離婚することになったその妹夫婦の関係にしても、どこか奇妙であり、作者はこの欧米的観点からすればの奇妙さに、中国の歴史的な厚みが反映されての成熟さがあるのではないかと、冷徹な認識を暗示しているようにも読める。作者自身が、湖南省の農村生まれで、その故郷を舞台にそこでの逸話から想像・構成した作品である。基本的には庶民の、あるいは抑圧されている女性たちの立ち居振る舞いの底力に共感しているだろう。作者の思いに一番近いとおもわれる医師の男と結婚したインテリの六女の初玉は、十六歳にして父がいないことになるだろう子供を身籠った孫世代のヤンキー的な初秀とのやりとりで、「よく考えろ」と諭していた自分が負かされたと認め、若い世代の意識に共鳴する。まわりの農村在住の姉たちは、二人のやりとりは理解できないが、結果として、学のない少女が学識ある妹を負かしてしまって二人の仲が回復したらしいのを見てとり、大喜びし、おろすのではなく産むという選択に傾いたことを歓迎する。

 ※ おそらく、「反」ではないが、「非」me tooなる立場になるのではないか? アメリカ発の中絶首肯の運動とは、出所の違う立場から、違う方向(意味」)を探ってゆく営みになるのではないか?

この作品を読みながら、2015年にノーベル文学賞をとった作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』を想起した。このロシア語で書くベラルーシの女性作家は、私の知る限り、リベラル視点からプーチンのウクライナ侵攻を批判している。が、彼女が集めたロシアの二次大戦下の女たちの生きざまを読み知ったら、ロシアの女性たちが、プーチンを超えて、その戦争を支持するようになるのではないか、と私は思わざるを得なかった。軍隊でもトップクラスの男が少女の面接にたちあい、「おじさん私も戦いたい」と訴えてくる少女を、「お嬢さん、ばかなこと言ってないで帰りなよ」みたいなやりとりが成立している官僚社会。このあり様も私たちには理解しにくいことだし、中国の官僚社会には、そんな人間味みたいなものは、ないだろうと予想する。が、その差異をこえた視点で、作家の態度として、スヴェトラーナの(私の知見の範囲では)、この戦争に対する態度は、単純であまりにインテリすぎ、欧米インテリの視点だろう、と思われてきたのだった。そんな態度で、ロシアの女たちを理解できるのだろうか? そこに生きる庶民への正当なる批判的観点を持ち得るのだろうか、と私は思っていた。対等に、お互いが励まし合って変わっていくような言葉をみつけられるのだろうか?

 

盛可似は、そうしたインテリの態度とは違う視点を持っている。肉体として持っている。その肉体が、作家としての自己をも突き放して、庶民の荒波の中に飛び込ませる。そのうえで、知的な冷徹な肉眼が、ヒエラルキーを転倒してゆくようなエクリチュールの運動を波立たせているのではないかと、翻訳でも、思わされて来るのだった。

2023年8月23日水曜日

王寺賢太著『消え去る立法者』(名古屋大学出版会)を読む


この著作を手に取ったのは、作者の王寺氏とは、面識があったからである。が「フランス啓蒙における政治と歴史」と副題されたこの大著を、私がいったい読めるのだろうかと、不安だった。素材となっているモンテスキューやルソー、ディドロといった哲学者の主要な作品を読んではいるけれど、「啓蒙」当時のことや歴史的文脈といった学問的な約束事はまるきり知らないのだから、学術書として提出されているだろう作品を、まがりなりにも正当的に受け取れるだろうかといぶかしがったのだ。それでも読んでみたのは、同じ社会運動に参加していた、という同志的な友愛の感情にうながされてだ。

 

そして実際、読み進めていくうちに、これは、その社会運動NAMをはじめた柄谷行人著の『原理』への、批判的継承、のように見えてきた。しかもその射程は、世界大戦へと突入していく観の在る現今の世界情勢下での、柄谷の交換論へのより具体詳細な文脈での問題提起、と見えた。

 

王寺氏はここで、柄谷の『原理』で説かれた、「単独者」による連帯という社会的試みの失敗から目を背けてはいない。その前提が無謀でロマンチックな過ちだったと退けるのではなく、むしろ引き受け、いかに可能であるかを啓蒙思想の歴史と思想系譜の中で追求しているのだ。それは、ルソーの問い、<自由と独立だけを求めるオタネスのような「独立人」が参加しうる政治体だけが正統なものでありうる>と前提するならば、そんな<自分自身が社会契約に参加しうる政治体はいかなるものかを自問し続けている>――そんなルソーの自問を自身の問いとして重ねあわせることでもあったろう。

 

もしこの問いが、理念を引き受けた左翼教条主義的な枠の中でのものならば、すでに答えが理念として提示されているのだから、それを引き受ければいいという話にしかならない。あとはその理念(答え)と照らし合わせた自己葛藤があるだけになる。しかしそうした教養の根幹への疑義を呼び込む系譜的視点として、王寺氏は、ルソーの手前、モンテスキューのゲルマン人の「習俗」を重視する観点、その「復讐」行為としての「決闘」を是とした一事を引き出してくる。この思想的延長として、中間団体における「名誉」に重きを置くことから「専制の原理」とは違う「穏和な政体」の可能性、そこから「平和金」という技術の派生にも言及していきながら、ゆえに「善」という倫理的な領域にではなく、名誉不名誉といった他人からの承認をともなう「快」や「美」といた趣味判断の位相においてこそ、政治体の正統性が系譜されてきているのだという、一般教養からは転倒した評価が導かれる。

 

この考えは、NAM解散以降、柄谷が封建制を再評価しはじめ、民主主義は封建制から生まれたのだ、と言うようになった経緯と重なりもするだろう。が、柄谷は現在、氏族性からくる封建的な名誉不名誉の領域を交換A(贈与)とし、国家の制度枠の話を交換Bとして、別の原理(力)によるのだと区別した。

 

王寺氏は、この区別をしていない、あるいは留保している、と言えるだろう。王寺氏は交換Bの領域を「交換」という一言ですますのではなく、それをあくまで制度の問題として引き受け、その領域の中においても、贈与交換や交換C(商売)による実践が「穏和」にからまってくる事態を摘出し、評価しようとしているのだ。

 

そもそも王寺氏は、交換Bが契約として成立しているのか否か、という根本に議論があることを指摘する。柄谷は、ホッブズの戦争状態における契約、収奪と再分配も交換であることを自明視することから論を展開するが、ルソーはそこに「契約の詐欺性」を見て訴えた。ルソーのその見解には、法的にも根拠があるのだとする現代の議論が紹介されている。そしてルソーは、その上で、「<契約>の詐欺性とその歴史的必然性」を説いたのだと。

 

ここで言われる「歴史的必然性」が、いま「われわれ」が生きている世界と重ね合わされている。「第0次世界大戦」ともいうべき啓蒙期と、第三次世界大戦前夜のようなポスト・モダニズムな社会。極限的な不平等社会と専制的な政治に逆戻りするかのような統治。それがあくまで「回顧的錯覚」であると学術的な論証で提出されたとしても、「われわれ」がそこから逃れられているわけではない。おそらく、その情勢の中での具体実践をより詳細に見ていくために、次作は『両インド史』を書き、エカチェリーナ二世と対立することになっていったディドロについての考察を突き進めたい、ということなのかもしれない。

 

このエカチェリーナ二世は、むろん現在の文脈では、東洋的専制君主の再来のような、プーチンと置き換えることができる。そしてプーチンもまた、実は、ルソー自身と同じ、「独立人」として考えられる、ということがこの作品の示唆していることである。そんな「独立人」を、戦争という武力ではなく、どんな言葉と論理で説得できるのか、その言語遂行的な試みが、暗黙には、この著作が目指していることだろう。

 

「あとがき」で、フランス留学まえ、柄谷行人から、「死ぬ気でやれ」と励まされたエピソードが紹介されている。柄谷はNAMを、「大和魂」で実践するのだ、と発言していたのを思い起こすが、こうした付言からも、「独立人」(単独者)として社会を創起すべき「われわれ各人」の「各人」が、どんなメンタリティーを系譜・仮設しているのかを、うかがうことができる。

追記;

もう一点、指摘しておくべき気になった点として、沈黙する人民の在り方をルソーの著作から抽出してきていることだ。――「だがそのためにはまず、既存の一切の政治秩序、至るところに偏在する「鉄鎖」そのものの下に、人民の主権が潜在し続けていることを承認することから始めなければならない。たしかに、法律に従順に服従し、政府の命令に唯々諾々と従う、その暗黙の主権者の姿は、人民集会に集い、公事について激論を戦わせる活動的な市民たちの集団とは似ても似つかない。しかしそんな物静かな人民こそが政治体そのものを成立させ、法律を法律として、政府の命令を命令として存在させているのであり、だからこそ、その物言わぬ人民においてこそ、政府に対して反乱を起こし、法律を破棄しうる、来るべき人民の姿を認めなければならないのである。」

こうした記述には、NAMでの著名人と黙った一般メンバーとの関係を超えて、「国民は黙って処した」という小林秀雄のような認識を想起させてくるのが、日本での思想的文脈であるだろう。日本人は社会契約(市民)以前だろうというリベラル・インテリ側からの批判点は、封建制から民主主義が生まれたという柄谷認識以上に、エマニュエル・トッドの家族人類学的知見、サルからヒトへと連なる「核家族」がより始原であり(つまり直系家族的な封建社会もそこから生まれたと言いうる)、そこでの「習俗」の普遍的潜在性を前提とするならば、より再検討・吟味すべき主題を浮上させている。トッドが想定する「自由」とはあくまで家族から子供たちが独立していくという「自由」であるが、その習俗的振る舞いが、価値として社会延長されていくのは仮説しうる。しかも、サルからヒトへの継承でもあるかもしれないというのだから、遺伝的水準も考慮の対象になるだろうから、トッドの仮説は統計的・経験的な帰納法にとどまるものでなく、演繹的な前提にも変換しえるものだ。ならば、日本人はムラビトのままだ、愚民だ、とのリベラル批判は、早すぎた結論、見切りにすぎない。おそらく王寺氏のルソーからのこの読解は、かつてそう日本人を批判してNAMをはじめた柄谷への批判的検討でもあり、NAM解散時のごたごたをめぐる考察からも来ているのかもしれない。


2023年8月5日土曜日

電子出版発行『中上健次ノート』




 BCCKS / ブックス - 『中上健次ノート』菅原 正樹著

「路地の美恵の家にもどる前に、盆踊りを見に寄ろうと三人で、路地が小高い山に沿ってのびて切れたところにある空地に向かった。その空地は駅からの通りに面していた。ヘルメットをかぶった警察官がいた。骸骨のワッペンを一様に貼ったオートバイが十五、六台、空地に接した通りに置いてあった。通りからの交通がその並べて置いてあるオートバイに邪魔されたし、通りから空地への出入りも遮断された。」(『枯木灘』)全集3)

<資本主義バブル全盛期に書かれ、遺作となっていった未完の作品群が、今を告発してくる。文学が、歴史が終わったと言われ始めたその時期、暴走する主人公たちが蠢き、散っていった世界を解読するための創作ノート。>



2023年7月15日土曜日

中上健次ノート(6)


 6  羽衣の思想

 

  大澤真幸は、大国間の戦争状況となった世界情勢をめぐり、次のように指摘している。

 

<戦争は一般に、いかにも崇高そうな理念や大義をかかげて遂行される。が、そうした理念や大義は、たいてい、もっとも現実主義的な目的を覆い隠す「口実」や「アリバイ」でしかない。侵略相手国にある地下資源(たとえば石油)が大きな富をもたらしうるとか、その国を軍事的な拠点とすることが戦略上、きわめて有利になるとか、といった現実主義的で、利己的な理由が戦争にはある。だが、それを公言するわけにはいかないので、戦争遂行者たちは理念主義を標榜してきた。従来、戦争とはこういうものであった。

 だが、ロシアのウクライナへの侵攻に関しては、現実主義と理念主義との関係が、逆転している。戦争へと駆り立てている真の動機は、述べてきたように「文明」に関連した理念主義的なものである。しかし、それを覆い隠すように、NATO云々といったような現実主義的な目的が公言されているのだ。>(「1章 ロシアのウクライナ侵攻」『この世界の問い方 普遍的な正義と資本主義の行方』(朝日新書)

 

 かつてこれまでの戦争は、経済利害が主要な真の動機であって、それを隠すために大義名分が説かれてきたのに、現今ではその関係が「逆転」し、価値(大義)を守ることが真の動機になって、それを隠すために利己的な話があからさまに吹聴されている、と。

つまりは、資本主義の趨勢よりも、一国を超えた思想価値の共有をめぐる戦いになっているのが真相だ、と。マルクス主義的に言えば、下部構造よりも上部構造の方が現実有意になっている、ということだろうし、キリスト教的に言えば、人はパンのみに生くるにあらず、という人間が精神であることの露呈、ということになるのだろう。

 

しかしこの逆転は、突然起こったわけではない。むしろ、論理過程として推察できる。できるのではないか、ということが、まさに中上健次の作品を通して考察されてきているのだ。

その推察は、2014年から2016年の間、1年ごとに1巻が発行されてきた、河中郁男による『中上健次論』(鳥影社)<第1巻><第2巻><第3巻>による。

 

河中はそこで、中上の作品の推移を、敗戦後日本における資本主義の発展段階に重ね合わせて説いている。その段階とは、マルクスの『経済学批判要綱』による。まずは第一段階、共同体が力を持っている時代、長屋住まい(路地社会)での醤油の貸し借り、お隣のものと自身のものとの区別も曖昧な物々交換が強い時代。初期中上作品は、この世界が理想化されていると指摘される。そして第二段階、「人格的独立性」が中心となる、いわば近代民主主義の時代。『岬』や『枯木灘』での秋幸は、その枠の中で葛藤することになる。第三段階とは、「自由な個性」、つまり「自由な労働力」と「資本」が出会うことによって生まれた資本主義の時代、ということになる。『地の果て――』でフリーター(「自由な労働力」)となった秋幸は、その現実を自覚することになる。

 

<第三の段階が、「資本」/「労働力」の関係によって、進展していく「資本主義」の段階である。第二の段階は、「資本主義」の土台を作り出すのであるが、第三の段階の進展とともに、第一の段階である共同体的人間関係が完全に壊れるのであり、第一の段階と第二の段階で、生産の基盤であり、生産手段でもあった「土地」=「自然」は崩壊させられるのである。

 先に述べたように「土地」=「自然」は、生産の基盤であり、生産手段であった。しかし、「土地」=「自然」は、もう一つの記号論的な意味を持っている。それは、「理性」=「理念」対「自然」=「土地」という近代的関係、つまり、マルクスの第二段階で、同一性の与件となるということである。「土地」とは、記号論的にいえば、ラカンの「統一的な身体のイマージュ」と同じ位相であり、それは「理性」=「理念」の与件となる「自然」=「土地」として、「人間」が「人間」として存在することの同一性を最終的に保証する基盤なのである。つまり近代的な意味で「人間」の同一性を保証するのは、「理念」であるとともに「自然」=「土地」なのである。

 しかし、土地開発は、地盤を削り取り、「土地」の同一性を破壊し、幾層にも重なった地層が現れる。つまり、「理性」=「理念」対「自然」=「土地」という、システムの同一性を構成するもの、そして、そのことによって「人間」=「主体」の同一性を保証する関係が、根底から崩れ去ってしまったのだ。

 一般的な問題として考えていくとするなら、こうした「理性」/「自然」という「人間」の与件となるものが壊されてしまっているということ――そのことが「土地」が削りとられたという象徴的な意味なのだ。>(「路地の消滅・あるいは資本の到来」<第2巻>p481)

 

河中は、戦後思想や文学を批判的に検討するにあたって、こうした時代段階によって、批評家のパースペクティブが規定されてしまっているということを詳述する。その論理は説得力があるが、一方で、河中自身の論考自体が、中上の『地の果て――』が書かれた1980年代、いわばジャパン・アズ・ナンバーワンと称揚されたバブル資本主義の時代区分までに規定されているのではないか、と現段階からみて思わざるを得ない。バブルがはじけた以降の21世紀に入って、まず2001年の9.11事件・紛争が象徴するように、資本を規制していく国家の暴力性の発動がそれ以降顕著になり、さらに、コロナ・パンデミックから今回のウクライナでの戦争勃発によって、一国を超えた帝国的基盤をもった共同国家群の価値思想が、資本主義の「享楽」イデオロギーを抑え込んでいるとも伺えるからだ。国を超えたコロナ規制により利己的な資本活動は世界的にストップし、大気汚染で見られなかった青空が垣間見えた地域も出現し、ウクライナ戦争への世論動員は、生よりも価値のある大義(=死)を推奨しているかのようだ。

しかしこの事態は、河中個人というよりも、それが依拠しているマルクスの認識をも問わざるを得ない。本当に、第三段階としての資本主義は、「家父長」的な「古代共同体」を「崩壊」させたのか、と。父という位相の意味的機能の変遷として言えば、第一段階は「荒くれとしての父」、第二段階が「理念=規範としての父」、第三段階が「享楽としての父」とされる。戦後の日本は、まずは敗戦の混沌を生き抜くために、次には高度成長を経て安定した社会を導くために、最終的にはバブル期の楽しめと吹聴してくるような父権的イデオロギーの三段階を忠実になぞってきた。そして『経済学批判要綱』のマルクスが説くように、最後の段階に達したいま、そこまでの基盤となるものが破壊され、家族形態的にも機能不全となってしまった、古き共同体は崩壊してしまった、ように見え、そう指摘する言説は私たちには受け入れやすい。

が現在進行している戦争のイデオロギー的な様は、その段階説的な認識に疑問符をつけてくる。ユーラシアの、ロシアや中国といった文明大国の父権専制主義的な価値思想と、アングロサクソン系の資本主義の「自由」な価値思想とが現に衝突している状況は、エマニュエル・トッドの家族人類学的な考察、文明中心の共同体家族の価値と、その周辺地域での核家族の価値の残存説の方に、むしろ説得力を与えている。いや日本での批評状況を見ても、2001年前後にNew Association Movement として社会活動を始めた柄谷行人は、その組織の解散間際、地域通貨運動という経済活動に現を抜かすと見えたメンバーたちをばか呼ばわりし、国家の力への抵抗の方にこそ運動の比重を置き換えようとした。が当時は、それでもなお、資本・国家・ネーションの「三位一体」の強調という程度だった。が、最近作の『力と交換様式』(岩波書店)で説かれることとは、資本主義の構造的力は貨幣的な交換の「力」によって相対化され、さらに、他の核家族的な互酬・贈与交換の力、国家共同体的な略取・再分配の力等が、資本主義の力をも超えていく可能性として示唆されているのだ。つまり三つの発展「段階」なのではなくて、それは、三つの現勢的な対等な「力」なのであり、社会とは、その組み合わせであり、三つのベクトル的な力の均衡によってその性格が変わるのであると。もしかして、資本主義が懐かしき共同体を破壊したといっても、それはユーラシア大陸の西端と東端、つまり、ヨーロッパと東アジアだけで、文明の中心地は、資本主義こそを食い物にし、その家父長的な力はびくともしていなかったのではないか、と推察してみたくもなるのである。

 

※ マルクス自身がこの三段階説に集約されてゆく思考のみを展開していたわけではないようなのは、マルクスの『十八世紀の秘密外交史 ロシア専制の起源』(白水社)という最近の翻訳・出版物からも示唆される。そこでの序で、アウグスト・ウィットフォーゲルは、マルクスの『経済学批判要綱』は、「アジア的復古」という観点に関し、「一時的に後退」しているのだと認識している。

 あるいは田上孝一によれば、もともとソ連や中国のあり様を「国家資本主義」と呼んできたのには「上部構造を主要な規定要素として含」んでしまうがゆえに「マルクス的観点から逸脱」した話なのであり、「資本主義によく似た独特の抑圧社会」として理解した方が現実に適っていたのだ、と指摘している。(『99%のためのマルクス入門』 晶文社)

 

大澤真幸の認識も、そのような感慨を背景にしているだろう。

 

が、河中の考察がより一層の推察を教示するのは、マルクスの認識を、ラカンの精神分析によって解読し、さらに、そこに東洋思想の在り方を引き付け重ね合わせて思考提示してみせたことである。

 

もし資本主義による自然への搾取が、その外的な現象、環境破壊だとか生命の生存条件への脅威として理解され、それはよくないよね、と理念的な実践を指嗾するに終わるなら、その思考は、戦後理念への、大江健三郎への批判として始まった中上の作品や意図を全く無視することになる。<中上文学を(再)開発文学の視座から捉えた>と宣伝される渡邉英理の『中上健次論』(インスクリプト)は、ジェンダー問題も含めいわゆるリベラリズム的な思想へと中上の作品を還元してしまう趣の強いものだが、その参照文献に、河中への言及はない。しかし中上が、いわゆる昔なら「左翼」、いまなら「リベラリズム」と称されるような思想態度を嫌悪し、軽視していることはあちこちの文章から散見しえる。

未完となった『大洪水』では、日本の商社で働く会社員やその妻たちが、熱帯での日本や中国企業による開拓・開発の現状を告発するが、その運動に加担を迫られた鉄男は、彼ら彼女らのよき活動が、それぞれの性倒錯、いわばラカン的な分析対象となるような享楽的な精神の在り方に由来していることを洞察する。鉄男自身、現場での、赤土が剥き出しになったジャングルの様をみて、心を痛める。が、彼は、そのエコロジカルな活動を劣等として退ける。それは、その行動が偽善になるからではない。彼は、開発側の貴族的な階層の者たちの間に潜り込んで戦っている。鉄男が認識しているのは、そんなチンケな性倒錯で、さらなる強大な性倒錯で開発を推し進めているその階層の人間たちには敵わない、戦えない、という現実なのだ。偽善的な卑小な悪で、豪傑な、善悪を超越していくような複雑怪奇な倒錯の現実を撃つことは出来ない。その階級にやりこめられないで、動きを封じ込めるのは、それよりも大きな、複雑な錯綜を編んで作り上げた倒錯、大きな器をもった精神でなければ、太刀打ちできない、ということなのだ。それが見えていない善意には、現実読解と実践へ向けての知的な力が不足しているのではないか、と鉄男は懐疑しているのである。

 

ニーチェは、深淵を覗き込むものは、自らが深淵に呑み込まれないように、怪物と闘う者は、自らが怪物とならないよう用心しなくてはならない、と説いた。その思想は、だから深淵に近づかず、怪物を排除すればいい、ということではない。深淵を回避するためには自らそれを覗き込み、怪物と闘うには自らが怪物的な精神の力を持つ必要があるのであり、ゆえにこそ、怪物に成りきってしまわないよう、ミイラ取りがミイラにならないよう注意せよ、ということなのだ。

 

河中の中上論における東洋思想的な観点導入が意義をみせるのは、この地点においてである。彼はこの観点において、フロイト、ラカンに対し、ユングの考えを対置させる。フロイト理論はあくまで近代的な個人の意識構造や欲望の構造を対象にしたものであり、ラカンはポスト・モダンなそれ、対しユングは、前近代的な個の意識構造や欲望を対象とし、それは村落共同体の思想なのであり、その分析の構えと思想に同型的に適うものとしてユングは、「東洋思想」に関心をもったのだ、と。河中によれば、ユングが当時対象としていたのは、<極めて特殊な戦時体制の下での人間の意識形態であり、「個」は平和時には機能していた近代的な「個人」としてではなく、「個」を集団の中に埋没させる非近代的な意識体制を取らざるを得なかったのであり、抑圧されていた非近代的な「個」に対応する潜在意識内容が、被分析者に現れたのである>と、仮説される。

 

しかしここで、エマニュエル・トッドの家族人類学の知見を図式的に展開してみよう。中国において、文明としての共同体家族とその価値が成立したのは紀元前後である、とされる。ならば、それ以前は、核家族的だったのである。となれば、この文明化の過程で、核家族的な「自由」の価値と、共同体家族的な父権の価値との間で、近代個人ともみまがう精神葛藤があったのではないか、とも推察される。「東洋思想」とは、この葛藤(戦争)における、核家族的な価値の敗北を合理化して納得させていくものとして生み出され、受容普及していったのではないか、と。たしかに当時、資本「主義」と呼べる経済拡大はなかったかもしれない。が、柄谷の交換様式論をふまえれば、交換Cの形態として趨勢だったとは言いえるのが文明化ということに孕まれた時期であったろう。強度な貨幣経済の前提がなかったら、官僚への賄賂社会も成立しない。そんな社会が全面を覆い、個の自由は圧殺された。そこでは、深い諦念の、絶望の思想が湧出する。

 

現今のウクライナはどうか? ポーランドからウクライナ西部にかけては、トッドによれば、核家族的な価値思想が残っている地域である。そこが、タタールの軛の再来として、文明の、つまりは父権原理の強力な共同体家族の価値思想との闘争に見舞われている。が中国の地ではすでに、紀元前後にはその問題に現実的な決着がついていた。この時差は、河中がユングの思考を戦時下の特殊と仮説したのとはむしろ逆で、フロイト的な精神分析が説得性をもつ時代の方こそが特殊的な一時期であり、人類の歴史は、やはり文明化の方向へと、つまりは、世界の中国化、専制的な中央集権化の方向性へと一般的に進んでいるのではないか、そして庶民は絶望し、その精神的荒廃をなだめるために、深い諦念を前提にしたような「東洋思想」がその地では普遍化されたのではないか?

 

しかし、そこでの「東洋思想」は、オリュウノオバの言葉に伺われる、親鸞の思想、いわんや悪人をや、という「日本的自然」な枠の中においてあるのものではないだろう。中上の未完の大作群の射程からすれば、皇帝に対し天皇だ、善人じゃなくて悪人こそ救われるんだ、とは、弱者の強がりな言葉にしかすぎなくなるだろう。それは、極悪人が颯爽としている『水滸伝』でも読めば明白なことである。中上はあくまで、「日本的自然」では把握できない現実に、精神に、他者に直面したのだ。その他者的な現実を、馬琴の『八犬伝』のように、勧善懲悪な卑小な思想に還元することはできない。浜村龍造ではたりない、と認識を深化させているのだ。日本には、王も、父も、大文字の他者はいない。いや見えていなかった。見ないようにしている、天皇が、富士山が、悪人をやという考えが、それを直視することを妨げている。それは、目の前の状差しにかかって、くしゃくしゃになった手紙=letter=文字のようにあった。読みやすい仮名文字が隆盛となっていく時代過程の中で、より埋没され意識されなくなった漢字。われわれが、自ら見えないようにしている中国との関係がなければ、日本は、日本語は存在していない、日本人は、考えられないのだ、と。

 

<ものごとは各々のラングの歴史の水準で捉えなければならないでしょう。明白なことですが、わたしたちがあまりに動転して、それ〔Ça〕をどういうわけか漢字〔caractēre〕という別の名で呼ぶことになったあの文字、名指すとすれば中国の文字のことですが、この文字は非常に古い中国のディスクールから、わたしたちの文字の場合とはまったく異なる仕方で生じてきました。分析的ディスクールから生じたために、ここでわたしが取り出す複数の文字は、集合理論から生じ得るそれとは異なる価値をもっています。それらの使い方は異なりますが、それでも――面白いのはそこです――この使い方には、やはりある種の収束関係があるのです。どのようなディスクールの効果にも長所があります、それは文字によってなされる、ということです。…(略)…今のところは、ただ次のことをあなた方に指摘しておきたいと思います――世界は、世界は分解しつつあります、ありがたいことに。世界は、わたしたちにはもうそれが成立しないのが見えます。何しろ、科学的ディスクールにおいてさえ、世界など微塵もないことは明らかだからです。原子にクォーク〔quark〕というひとつの仕掛けを加えることができるようになったときから、そしてそれがまさに科学的ディスクールの真の歩む道だとすれば、とにもかくにも問題はひとつの世界とは別のものだと悟るべきなのです。>(ジャック・ラカン著『アンコール』 藤田博・片山文保訳 講談社)

 

ラカンは、アルファベットが「市場」という「集合理論」から生じたという歴史を喚起させて、以下上のように、漢字について言及した。漢字が、「分析的ディスクールから生じた」とは、漢字が蒼頡という個人の趣味的な探究から発生した、という逸話を踏まえてのものと思われる。つまりそれは、あくまで個人の、奇怪な倒錯的欲望の産物なのだ。ポスト・モダンな思想立場として決して集団化しない個人特殊な「享楽」の遂行という価値をとるラカンは、その肯定的な例として、伝説的な漢字の成り立ちについて言及したのである。その上で、文字で書かれてはいても普通には読めないジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』を持ち上げたのである。

河中は、戦後理念としての「万人の善」が資本主義の進展によって失効させられた世界とは、個々の存在がそれ固有の幻想に閉じこめられ、自分たちが一体どこへ向かっているのか理解できないが、それでも欲求に煽り立てられていくしかない状況になっていることだという。ラカンはそこで、ストア派やブッダの考えに触れ、「欲求自体を断念することが最大の幸福であり、快楽であるという思想に関しての牽制をしている」という。

 

<このことは、ラカンの頭の中に、少なくともそうした道が全くなかったわけではないということを示すものであるが、それでもなお、ラカンは死を賭けて欲求することを倫理とみなす。何故なのか? それは、それがこのポスト・モダンの、ということは「資本主義」の倫理に他ならないからである。そして、そうである限りこの包括的な「資本主義」の倫理から降りることは、倫理的とみなされないからなのである。

 したがって、我々は、この行き詰まりに向き合うしかないのであって、行き詰まりについて考えるしかないのである。>

 

 『千年の愉楽』を書いた中上も、決して「東洋思想」的な「欲求自体を断念」することを受け容れたわけではなかった。むしろ未完の作品群が示唆することは、もっと大きな倒錯、もっと強靱な享楽を、ということであったろう。そしておそらく、その精神的な錯綜の文脈を、アキユキが体現するものであったのだろう。中国の豪傑を乗り越える、日本的な好漢、ドストエフスキーがその後のアリョーシャというロシアの神の造形を念頭に『カラマーゾフの兄弟』を書いたように、『地の果て――』を書いた時点で、日本の神について、しかも、これまでの民俗学的なマレビトにおさまるようなものではなく、もっとリアルな、「現実界」的な神の造形を想像しようとしただろう。むしろそんな創作意欲に煽られて、中上(アキユキ)は、ヴェトナムへと潜入していったのだ。それ自体が、中上の享楽的な倫理、作家の使命によるだろう。

 

 しかし、ここでまた、振り返ってみなくてはならない。秋幸は、かぐや姫であった。『水滸伝』の主人公に匹敵しうるような好漢であったとしても、それが父権の論理によることはありえない。ラカンの「分析的ディスクール」は、「全て」を包括しようとする「大学のディスクール」とは異質な、「全てではない」ものとしての女の享楽を補筆するものだった。中上が最後に書いていた実験的なエクリチュールは、『宇津保物語』に見られるものであったろう。

 

 もう一度、「男と女は五分と五分」という、未完大作群への<ターニングポイント>となった『軽蔑』の真知子の思想を考えてみよう。その言葉を以上の文脈で言い換えてみれば、漢字(男)と仮名(女)は五分と五分、となる。これは皇帝に対し天皇だと言ってみせたような、仮名(女)の側からの強がりにしか聞こえないかもしれない。しかし、目の前に在る漢(中国)の存在を直視する、という認識握持の覚悟をふまえれば、熟考を迫られる。

 

 大江批判から中上の本当の活動が始まることを読み込んでいった河中は、この作品のこの言葉をまともには受けない。

 

<まず、中上が民主主義の原理である平等という概念を信奉していたということはまずあり得ない、「男と女は五分と五分」と考えていたということも多分ない。我々がこれまで読んできた中上健次の男と女の物語は『天狗の松』にしろ、『重力の都』にしろ、五分と五分として向かい合えない、ということに本質があるからである。>

 

しかし中上は、「本質」を目指したのだろうか? 本質に迫り、差別を描写してみせることが本意であったろうか? 中上が、「小説」ではなく、あくまで「物語」という言葉にこだわったのは、分析描写ではすまない実践的な衝迫を抱え込んでいたからだ。差別をなくしたいがゆえに、書き、書いてきたのではなかったのか? 「差別(穴、うつほ)」から「物語」が生まれるとは、つまりは犯罪を書く、ということのうちには、その現場での洞察を超え、それがあってはならない、反復されてはならない、という絶望的な想い、願いが孕まれている。確かに河中がブランショの『来るべき書物』をとりあげ、「物語とは、出来事の報告であり、出来事そのもの」として、中上は兄の死をめぐる精神の「穴」を埋めるべく、終わりなき反復の作業に掻き立てられているだろう。しかしそこには、願いがある。そしてそこでの願いというものは、戦後理念的なものには回収されえない。事件や事故でわが子を亡くした親の真実追求の闘争が、裁判の判決で終わることがないように。その理念は、現場を見ることができていない、絶望の深さを理解できていない。それは悪いことだから繰り返してはいけない、ということではないのだ。人はまた繰り返す、がその底なしの穴を、深淵を覗き込んだ者の内には、ゆえに繰り返させてはならない、怪物になってはならない、という願いと使命とがまた胚胎されてくるのだ。そういうものなのではないのか?

 

となれば、『地の果て――』以降の中上が、『軽蔑』で説き、未完の作品群の背後に潜入させその作品の視点、声、思潮を脱構築させポリフォニックにさせていかせる「五分と五分」という認識とは何なのか?

 

私は、それを思考するヒントを、河中の意図とは別に、河中の中上論から受け取った。

 

<このことを差別一般の問題として考えてみよう。例えば、男女差別と言われているものは二種類に分けることができる。一つは、男という性と女という性との対立としてであり、もう一つは、manwomanとの間の関係としてである。

 人は男と女として向かい合っているとき、相対的であり、相補的である。確かに女性より、男性の体力面が優れていることが多いことから、男性が優位に立ち、女性が下位に立つ場面はある。だが、男性としての社会的役割と女性としての社会的な役割は交換できないものを含むのであって、それは相互的な関係であり、互いに補って一つとなるものである。>(「「牢獄」を出た者/入った者」<第2巻>p370

 

 作品の読解対象となるのは、「manwomanとの間の関係」、つまり、エクリチュールの活動を含めた、あくまで人の文化的な側面での事象である。そこに、「差別」問題が発生する。河中が、文化には回収されない男女の「対立」を上のように言及しても、いや上のような発言こそ、男女「差別」だ! と糾弾されかねない。つまりそれは、やはり「manwomanとの間の関係」の問題として回収されてしまう。

 しかし、私は思うのだが、暗黙には、その男女の交換不能な役割分担による相互補完性において「一つ」、という自然的な事態を、人々は常識として想定せざるを得ない、のではなかろうか? 河中は、いくぶん無邪気な調子で上のように述べるが、しかし、そんな相互補完性のことが、科学的に証明されているわけではないのではないか? だから、おそらく、みな口をつぐむようにして、男女平等、という理念をともかく吐かせられているのではないだろうか?

現在のLGBT問題にしても、遺伝的、ホルモン分泌的な自然身体的な齟齬と、文化的、あるいは後天的な主体性として獲得されていく性との問題がごっちゃにされて主張されている。がごっちゃにされるのは、自然齟齬が自然的であると証明されているわけでもないのだから、その区別を精確に縫い合わせる言説を作れないでいるからではないのか?

 

しかしこの「対立」の、交換不可能さが曖昧になりやすいのは、男と女をめぐる性差の問題としてそれを思考しようとするから、ということもあるのではないか?

 

たとえば、社会学者の宮台真司は、自分は多動性発達障害者だが、一定の割合でそうした人物が発生してくるということは、自然がそれを必要としているからなのだ、と表明している。これも、科学的に証明根拠のある発言ではないだろう。ダウン症児も一定の割合で発生してくるということは、それが人類社会において、一定の役割を持たされて来るから、かもしれないのである。いや人類社会には、人間だけが暮らしているわけではない。犬や猫や牛など、家畜にされていった動物から、家畜化できない獣まで、みな一定の役割をもってこの自然界に生れてきて「一つ」である、としたらどうなのか? 彼らが、交換不可能な、人間とは「対立」的な存在であることは明白、とは言えるだろう。ならば、男女が、あるいは同性愛者や多様なる性の在り方もが、やはり「対立」であるがゆえに、つまり交換不能であるがゆえに社会として補完的な役割を分担しているのではないか、という疑問は、より納得性をもって導入することができるのではないか? 「男と女の五分と五分」とは、実は、「差別」ではなく、「対立」としての関係を導入させていくメルクマールだったのではないか?

 

秋幸は、かぐや姫として、女でもあるものとして挿入された。が、実は、『地の果て――』では、人間ならざるものとしても、登場させられている。それは、「犬」である。子供の頃の自分の家族関係の位置にいる登場人物として認識される「洋一」が、拾ってきた犬を、「アキユキ」と名づけるのだ。犬は、ひそかに虐待されてもいる。それは犬の人間関係化、つまりは「差別」という問題規制への回収ではあるが、それが人ではないぶん、収まりの悪さを呈してくる。

 

中上は、あちこちの作品で、動物を素材として導入していた。その様は、ほとんど虐待的な関係である。こりゃひどいだろう、と眉を顰めたくなるような描写やあり様だ。しかし、男が、好漢を模した人物が女を嬲るとき、その描写を読むとき、読者は、虐待される動物の様を見させられるような後味の悪さを覚えるだろうか? 女は差別されている、われわれはそう前提して了解してしまう、が動物は、回収できない「対立」があからさまでもあるので、逆に、関係が宙づりにされたまま、何とも言えない居心地の悪さを人に覚えさせてくるのではないだろうか?

 

※ 生田武志は、大江健三郎の小説家デビューにあたっても、動物虐待という人間の位相にとっての収まりの悪さの問題があったことに注目している。<『自選短編』あとがきによれば、「奇妙な仕事」(初稿は劇作品「獣たちの声」)を文芸誌に発表するにあたり、大江健三郎はこの短編と戦争中の犬の強制供出の話を二部構造にしようとした。しかし、「小説を書き始めたばかりの自分の技術ではムリ」だったため、「死者の奢り」(1957)を書いて文芸誌へのデビュー作とした。>(『いのちへの礼儀』筑摩書房)――中上の『地の果て――』の大きな参照作品としてのドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』でも、馬への虐待の描写が強烈な印象を残すだろう。

 

中上は、つまり、女を通して、獣を見、そこに「差別」には回収されずむしろそれを撃ってゆくような潜在力を孕んだ「対立」の関係を重ね合わせたのではないか? それを、「五分と五分」と表現したのではないだろうか? 漢字と仮名という差別構造の向こうに、漢という文明に抵抗しえる「対立」の次元を読み取ったのではないか?

 

『宇津保物語』の主人公は、洞窟の中で、獣たちに育てられたものだった。彼は獣たちに向けて、言葉や文字ではなく、琴を奏でた。そんな始原の物語を、中上の『宇津保物語』は、獣に育てられたなどという話は父が作った「まっ赤な嘘」だと白状するところから語り始められる。小説家的な「本質」の洞察とそれを反復的に物語ろうとすることでそれを超えようとする作家態度の二重性が冒頭から指示されている。

 

< 仲忠の話は都の者なら知らぬものはひとりもなかった。仲忠がその整ったいかにも貴人の顔であるのも父が右大将藤原兼雅、母が清原俊蔭の娘という血筋だったから当然だった。だが時折みせる仲忠の冷たげな顔の表情はその話から出てくるものと噂された。仲忠は北山の山中深く熊が寝ぐらにしていた空洞に幼い頃母と一緒に住んでいた。仲忠が一体何を考えているのか眼が深く翳を帯びて物腰に足音も立てぬようなぬうっとしたところがあった。また仲忠には人の不幸を平然と見ている酷薄なところと、体温のあるものならなにもかも同一だというところとがあった。

   仲忠が琴の名手だとは知られていた。仲忠は帝の前で琴を奏で感涙させたが、何故自分の奏じた琴がこうまで都の人にもてはやされるのか知らなかった。いつも琴を彼は風のように奏し、弦が震えて立つ音がまっすぐ樹々の中心にある霊や花の中心にあるぼうっとかすんだ霊に行きつ戻りつするのを視ていた。霊は琴の音に身を寄せるように震える。音が鳴り始めると自分の手元に物の霊が集り来て乱舞するのが視えた。樹木の花のひとつひとつ築地の手前に置いた石に生え出した苔ら琴を弾く以前はかさとも動かなかった物らが、いま仲忠によって揺られて動き出し空に舞う。仲忠は琴を演奏しながら岩を割って涌きだした清水の音を耳に聴いた。清水は光を眩ゆく撥ねながらその空に舞う者の霊を巻き込んで岩場の陰に入りさらに強い流れの沢に入り込みしぶきをあげる。仲忠の眼は翳り昏かった。>(『全集12』『宇津保物語』「北山のうつほ」p011

 

われわれがこの中上の「宇津保物語」から読み、感じとるべきなのは、「体温のあるものならなにもかも同一だ」とみなす、平等(「差別」)の理念とは別な「酷薄」さという思想内容のみなのではない。むしろその思想を物語としてなぞり、繰り返してゆこうとする文体のほうにこそあるのだ。それはどこか、不気味ではないか。というか、挑発的である。おそらく、この漢字仮名交じりの日本語の中における漢字の散らばりの様と、そこに引率される音が響かせる文体のリズムが、そう感じさせてくるのだ。もしかして、われわれは、言葉の向こうに、獣の咆哮、唸り、地鳴りのような「獣たちの声」を、人間・文明社会への「対立」的な怒りの響きを感じとらねばならないのかもしれない。

 

 中上は、日本語において、文字表記という人の文明の所産に挑戦しようとしている。それは、中国という大文字の他者に突き当たったからだ。書くことの現場において、それは目の前の漢字を直視することの自覚においてだった。この漢字の群れは、ひとりの好漢の享楽によって産出された。その特殊な享楽は、文明によって簒奪されて体系化され、一地域の一般を超えて普遍となっていったかもしれぬ。もちろん、その普遍的な広範と言えども、東洋の一定の地帯においてである。ラテン文字が、西洋の一定の地帯であるように。ラカンが言うように、世界は、一つではない。が、「体温のあるものならみな同一」である、獣を含めたそれぞれの世界は、「五分と五分」として相補い「一つ」ではないか、そう言い張る挑戦的な文体自体を、エクリチュールの運動自体を、中上は実践してみせようとしているのだ。

 

みな同じだ、一つだ、との嘯き、主張は、しかし「昏い眼」によってなされる。まるで狼が、低い姿勢のまま、下から人を睨み返しているように。「男と女は五分と五分」、一匹一匹それぞれの享楽が、差別される側の性の獣性が、訴え突きつけてくるのか? そう「嘘」でも言い張る「真知子」の真実は、深い絶望と諦念を深い歴史において抱えた東洋の地点から、魚や獣たちが舞う竜宮とも願われる深淵から、新世界への、宇宙への原則としてヴェールをかけようとする。彼女の知った真理が、好漢らが跋扈しはじめた文明を告発し挑発する。バタフライを外し、一糸まとわぬ姿になって舞う彼女の裸体には、男たちには見えない獣の衣が羽織られている。自由へと、飛翔する羽衣が。

2023年6月17日土曜日

映画『渇水』と『怪物』を観る

 


映画『渇水』の脚本を担当した及川章太郎とは、早稲田大二文の同級生だ。私の学生時代は、人とまもとに話ができるような精神状態ではなかったが、それでも、よく話した友人ともいえる者が二人いて、及川はそのうちの一人だった。卒業後は、その誰とも付き合いはない。

がもう10年くらい前になるのか、別のもう一人と、ピナ・ヴァウシュのダンス公演の会場でたまたまあって、彼から、及川が脚本家として名前が売れてきている、と知らされたのである。がまた、いつしか忘れてしまった。

思い出したのは、ウクライナでの戦争がはじまったからだ。その周辺域のことを書いた文学作品を何か読んでみたくなって、何があるだろう、と思いめぐらしているとき、ふと、及川から『ブリキの太鼓』が面白いからと薦められていて、未だ読んでいないのを思い出したのだ。たしかギュンター・グラスはドイツ作家となっているけれど、ポーランド出で、当時つまり二次大戦時まではキエフもポーランド領域に入っていたはずだ。そこで、30年以上まえの話に従い、キエフの描写から始められるその作品を読んでみたのだった。

同時に、スマホで及川は今なにしているのだろう、と検索してみたのが去年の秋くらいだったろう。そこで、今年上映という『渇水』という映画の脚本を書いて評判になっていると知ったのである。学生中の及川は、授業中、ノートにポケモンみたいな不思議生物の絵をたくさん描きながら、ひとりほくそ笑んでいたものだが。

 

 

予定よりいくぶん遅れて上映となったこの映画は、カンヌ映画祭で、脚本賞をとった是枝監督の『怪物』の上映と重なった。おそらく、この両映画は、だいぶ時代性やテーマとして重なってくるところがあるだろうと予測されたので、ともに観て、論じてみたいと思った。

 

両映画には、まず原作がある。『渇水』は芥川賞候補作となった同名小説、『怪物』は脚本家が自ら筆をとっているもの。そしてともに、映画の方は結末を変えている。『渇水』での姉妹二人、『怪物』での兄弟のような友人二人は、原作では大人社会に絶望するように自殺することになるが、映画では、どこか希望をもたせるような結末になっている。この変更は、小説という個人の頭で読み終えるものと、映画という大衆看視を前提にしているものとの、形式的な差異から要請されてくるともいえるが、それ以上に、作品のテーマや意味をより鮮明にしていく必要性として脚色された、と読解できる。どちらも、この今の時代をどう解釈し切り取っているか、という観点において、同じ認識を提示している。ひとことでいえば、日本における父性の不在あるいは卑小化、という認識を前提としているのだ。

 

最初に観たのは『渇水』からだが、まず『怪物』からはじめよう。

 

この映画は、新聞などの紹介では、黒澤明の『羅生門』に似て、事実が一義的にならないよう多角的な視点をとっている、とされている。が、おそらく見れば誰でもわかるように、事実は特定できる。最初は子供の母の視点、次に小学校の先生の視点、そして女性校長の視点、最後に子供の視点、と世界や社会を見ていく方向性は変わるが、下敷きになる事件の真相は特定できる。父親から虐待されていた子供が、ガールズバーで遊んでいる妻と別居中の父親を殺すために、その風俗店が入ったビルに火をつけたのだと。この父親は、エリート大学を出ていることを鼻にかけていて、自分の背の小さな息子が女の子のようなのが気に食わなく、普通の人、つまり「男らしい」人間に変える、もどしていくために、子供に「お仕置き」をしているのだ。「男」らしくない息子は「豚の脳みそ」が入っているからで、つまり人間ではなく「怪物」なのだと。映画タイトルは、直接的にはこのエピソードによるのだろうが、そこから色々な含みが加わり、より広い多義的な意味が重なるようになっている。

父親がおかしいのは、もう一人の背の大きな子供、最初の視点を持つ母の子供の家族においてもそうである。その子の父はすでに死んでいるのだが、ラガーマンであり、母(妻)は、愛人と事故死するような大した夫ではなかったが、息子にもそんな「普通」な人になればいいのだと願う。が、そう母が言ったのは、息子が、「僕はお父さんのようにはなれない」と呟いたその言葉を聞き取れなかったからなのだ。息子は、そしてその学校で女の子と仲が良くて女の子のような背の小さな友人も、実はお互いが性的に惹かれあう同性愛者なのだ。

しかし、同性愛者であるからといって、男性的な決然さの必要性から逃れられるわけではない。背の大きな子は、いじめられる背の小さな子と本当は友人であることをいじめっ子たちに見破れられないように、学校では話を交わさないようにしている。女子にはそれが見透かされていて、その情けなさを叱咤されるように、彼はクラスの優等生的な女の子から雑巾を投げつけられたりするのである。

そうした「普通」への同調圧力、事なかれ主義が横行しているのは、まずもって大人たち、学校の先生方の体制だった。赴任したばかりの担任の男性教師は、権威的な先生というよりも、学校で恋人とライン連絡しあう、ある意味子供とフェアな関係に近い、権威性が希薄な人物である。権威的であるはずの女性校長はじめ、すべての大人たちが、自分の立場や生活を守るために卑小になっている。校長は、自宅の車庫入れで孫をひき殺してしまったのだが、自分が刑務所に入れば生活がままならなくなるので、すでに退職している夫に肩代わりさせているのである。背の大きな男の子が、自分が秘密(同性愛者であること)を隠すために嘘をついて担任の先生を辞職に追い込んでしまったのだと告白したとき、校長は「いっしょだ」とつぶやく。罪(恥)の共有のような、大人も、子供も、弱い者として仕方がないのだ、と表明しているのである。

 

これは、どんな社会だろうか? 

ひと言でいえば、社会学者の宮台真司が日本批判として言うように、ポジション取りしか頭がないようなクソ社会だ、ということになる。日本の文学史、あるいは思想史において、そう陥るまでには段階がある。ひとつは、敗戦後混乱期から高度成長期までの、<荒くれとしての父>、成長後の安定社会での、<規範(理念)としての父>、東西冷戦が崩れてからバブル崩壊を通して大まかにはアメリカWTCへのテロ攻撃までの、<享楽としての父>、である。

 

*以上の要約は、河中郁男著『中上健次論』(鳥影社)三巻本による。これは、日本の戦後思想を、中上健次と言う作家の作品を読解することによって批判した教科書的な哲学・文学書である。

 

アメリカの9.11からすでに20年以上が経っていて、さらに二節くらいの時代の変わり目が世界ではあるのだが、日本ではなお、資本主義の経済合理性の主要イデオロギーとなる<汝享楽すべし>のままだとみなしていい。というか、映画は、それを前提としているだろう。

父親や教師が、どれほど権威的に振る舞っても、それはもう機能しない。映画での子供たちがそうであるように、スマホを通して、彼らは「汝享楽すべし」という声を世界の父からの諭しのように聞き、従うのだ。そう同調圧力が、子供にも、大人にも、全面的に降りかかるのである。

 

では、そうした時代に、この映画は、どう対応すべき、と意味(方向)づけているのか?

 

原作では、単に絶望、であったろう。が、映画は、そうしなかった。むしろ、その宮台の言うクソ社会を、肯定してみせたのである。いわば、マッチョになるよりはいいだろうと。子供と「いっしょ」に、大人たちも苦しんでいるのだ、この父性的原理を欠いた煉獄のような世界を生きていくほかないのだ、と。

 

最後の、洪水後の山中を陽の光へ向けて走り抜けていった二人の子供の会話が象徴的だ。「生まれ変わったのかな?」「そういうのはないと思うよ」「ないか」「ないよ。もとのままだよ」「そっか。良かった」

 

では、同じ時代認識にたっている『渇水』では、どう意味(方向)を見出そうとしているか? 結論からいえば、私には、この作品の方が先進的であり、戦闘的であるように見える。

 

原作では、水道局に務める会社員の子供は娘であるが、それを映画では息子に変えている。その変更からも、この映画が、父性というテーマ、父と子という主題性を引き継ごうとしていることが知れる。「岩切」という会社員自身、母子家庭に近い環境で育った。停水執行することになった姉妹も、父は不在であり、母ひとりが水商売をしながら育てている。がそれでも行き詰まり、子供を捨てて家を出ていくことになった。原作では、この母は登場してこないが、映画では、どこか巫女的存在として中心的人物として顔を出す。岩切から「水」の匂いがすることで、彼が妻を大事にしていないことを予見するのだ。おそらく、彼が家庭や家族関係を大切にできないのは、すでに自身がそう育ってきているからである。後輩の同僚と街で飲んだ帰り道、向こうからやってきた男の子に水鉄砲で水をかけられる。男の子はすぐに消えてしまって、まるで幻覚だったかのようである。その子は、自身の息子、に似ていた(同じ子役なのではないかと思うが)。つまり、『怪物』同様、父殺しのエピソードが導入される。岩切は葛藤する。停水してしまった姉妹との出会いが、それをより大きくする。ここには、「享楽する父」よりかは、それとの間で、「規範(理念)としての父」が悩みはじめるのだ。というのは、すでに父不在で育った岩切には、そのモデルが、規範がなく、理念がわからなくなっているからである。だから、上からの指示を受け容れ、従属していくしかない。がこの父の不在の「流れ」を、なんとか変えられないのか、という思いもでてくる。父殺しの幻覚らしきものを見たあとで、岩切は、東京の水を全て停止し、それを脅迫に社会を変えようとする「テロ」のことを口にしたりするようになる。妻の実家をおとずれ、子供たちと「海」にいかないかと孤独な思いを改めて誘い、妻から断られたりする。

そんな葛藤の中で、岩切は、山中をさかのぼり、さまよい、源流に近い場所にある滝にでくわした。そのしぶきを浴び、見ているうちに、彼の内部に変革が起きた。彼は姉妹を誘い、節水のため取水停止中の公園にゆき、水道の元栓を開け、子供たちとホースの水を気が狂ったようにかけあう。止めに来た水道局の人たちに取り押さえられ、警察沙汰となり、辞職することになる。「しょぼいテロ」だったと、後輩の同僚との別れ際、口にしてみせる。が、そんな行き場のなくなった岩切のところに、妻から電話がはいる。スマホに出ると、息子からの声だった。「海」に行きたい。岩切の笑みで、映画は終わった。

 

岩切の内部を変えていった「滝」は、「しょぼい」滝である。それは、決してヒューマンスケールを超越した、<崇高>なる自然ではなかった。世界哲学上、この超絶した崇高さが、人に規範(理念)を与え、命を投げ出しての価値、いわば、宗教に代わる国家主義になっていったとされた。が、この「滝」はしょぼく、そこから起きた変革も、「しょぼいテロ」になった。が、それが重要なのだ、とまず映画は暗示させるのだ。「岩切」、という、その名前を喚起させることによって。何が、岩を穿つのか? 一滴の水、である。水滴岩を穿つ。つまり、われわれの「しょぼい」一滴一滴が、堅牢な岩を切っていくのだ、とメッセージを送っている。が、どんな岩なのだ?

 

この映画の場所は、群馬県である。原作では、東京の西部の、多摩あたりの設定である。海のない群馬県民にとって(私もそうである)、「海」とは、千葉や茨城の太平洋を指示しない。それは、新潟を意味する。山を越えた向こうの、日本海に向かう方が近い、というか、親しいのである。とくにはそこの、鯨波が、定番だったような気がする。文学作品において、海とは、憧憬であって、その向こうの、桃源郷としての大陸が夢見られる。日本海の向こうにあるのは、なんだ? それは、中国なのである。失業し、今後の生活の不安を引き受けながら、岩切は、実は、海の向こうの中国を直視しているのだ。作品的にも、一見リアリズムにみえながら、神話的な女性の役割が導入されたりして、思考抽象的な位相が志向されているのである。最後の彼の笑みは、どこか不敵である。ナショナリズムにならない、父不在なわれわれの、一滴一滴の雫によって、その堅牢な父権原理の文明に挑戦する、と言っていることになるのだから。

 

先に、私は、日本の思想史上において、父性的なものの役割(機能)の変遷について言及した。混乱期を乗り切るための<荒くれの父>、安定した社会を導いていくための<規範(理念)としての父>、そして子供たちと一緒のように遊ぶ<享楽する父>、という三段階である。がそのあとにも、二段階があった、と述べた。ひとつは、バブル崩壊で、資本の自由に任せきりなのはよくないと国家規制が強化された段階、そしてもう一つが、コロナ禍とウクライナ戦争によって露呈した、国家原理を超えた強権の存在である。つまり、かつての帝国的な文明としての、中国、ロシア、等、ユーラシア世界の台頭である。

 

この時点から見たら、資本主義が共同体を破壊できたのは、結局は大陸の西端(ヨーロッパ)と東端(東アジア)、だけで、文明の中心地はむしろ資本こそを食い物に、その父性原理は、マッチョさは、びくともしていなかったのではないか、と思わざるを得ない。去年、哲学のノーベル賞と呼ばれるものを受賞した柄谷行人の『力と交換様式』なども、資本一点張りの考え方を相対化するための論考になるのだ。

 

映画『渇水』は、この時代転換に対応している。『怪物』は、できていない、ということを、職人芸的な技術によって昇華させてしまっている。その趣向はどこか、東京オリンピックの開会式などを電通などともに芸術化させた、クールジャパンなる内向きのイデオロギーに従属しているように見える。

 

*河中郁男の『中上健次論』も、1980年代のバブル期までが射程なのだが、その指摘をひきついだ論考を、このブログでの「中上健次ノート」として書き込み中である。

2023年5月27日土曜日

中上健次ノート(5)


 5 補説――通俗小説と真理

 

 

 男女の性愛的な有り様が、「五分と五分」以上にあからさまに露出してきた現在においては、真理とは何か、という問いが、女とは何か、という問いと重ね合わされて追求される現実性は希薄であるだろう。かつては、夏目漱石の作品などが典型であったように、女をめぐる戦いを舞台に、さまざまな思考が隠喩的に追及された。ふと出会い、誘惑されていたのかもと惑わされた青年が、もしあの女性についていったらどうなったのだろうか、とその深淵に神秘さを伺い、あるいは世間を疎んで働かないインテリ人物が、俗物まるだしの男に恋人を取られて、その結婚後に煩悶し、または自身が他の男との競合に勝って女を手にしたものの、そのことで深淵に呑み込まれたように自殺してゆく。がもはや、そんなナイーブさを作品世界で維持することはできない。女性を神秘化することを前提にすることはできない。

 

 最近、唯川恵著『100万回の言い訳』(新潮文庫)を読んだ。ある新聞の欄で、なんとかという女優が、この作品を何回も読み返し、夫婦関係、男女関係についていつも考え込んでいる、と書いているのを読んで、私も夫婦20年の関係を考えてみたくなったのである。

 が、私としては、やはり字面の、エクリチュールの水準で、読み続けるのが困難になる。がステレオタイプになる人物の組み合わせパターンだけを追うことになるうちに、この中上ノートで綴っていることがよりわかりやすく捕捉できる素材になるのでは、と考えた。

 

 私には、この作品から、実際の人生、夫婦のことを考えるには、世界が違いすぎるので無理である。引きこもり、フリーターとなり、歳くってから結婚したものとしては、このトレンディー・ドラマな世界の主人公たちと、どう自分を類比していいのかわからない。強いて言えば、母子家庭を営む働き者の若い女性主人公に共感はできるが。だから考えさせられたのは、人生(夫婦)とは何か、といった哲学的な問いではなく、あくまで文学作品的な問いである。

 

 その作品のあらすじはこうである。結婚して七年目の子供のいない夫婦。ここで子供を作って転機を、と実行しようとしたその夜、暮らしているマンションが火事に巻き込まれてしまう。その事故をきっかけなように、夫は隣部屋の奥さんと、妻は職場の後輩と、できてしまう。そこに、後輩の金持ちの同級生の建築設計家、女性のことを道具のようにしか思っていない俗物があらわれる。かつて自分の恋人をこの俗物に寝取られていた後輩は、先輩の女がその男をあしらう姿に感動して付き合いはじめたのだ。妻は若い後輩からなお自分が女として認められているようにも感じる一方、俗物のマッチョ丸出しの強引さにも惹かれてしまう。夫の方は、隣人の人妻の直截的な誘惑と肉欲に負けはしたものの、一方で、仕事付き合いで使うキャバレーの実直な女性、女手ひとつで子育てしている若い女性の就職先の面倒などを、同じ地元同士ということの延長で、純粋行為として手伝っていた。彼女は、高校の頃のバイト先の旅館で、学生だった若い青年から言い寄られ、子を孕み、内密に産んだのだった。その子には戸籍もない。その産みの父親が、俗物男であり、その男の居場所を、夫は調査の先でつかんだ妻の後輩の口から聞き出した。いま俗物男はレストランにいる、俗物は同級生にいまおまえの付き合っている年増女と二人でいるから来い、とみせつけるために呼びつけた、つもりだった。が、レストランで、夫婦、勤め先の先輩後輩、大学の同級生、密会同士、といった関係にあった四人がかちあう。事情を知った後輩は同級生をなぐりつける。そのカタストロフィのあとで、夫婦はもう一度夫婦を始めるのも悪くないとおもい、後輩は、新しく自分をやり直すように沖縄へと向かう。

 

 ここでは、女性を神秘化する前提はない。男女関係に深淵はなく、謎もなく、みな世俗的である。妻の両親の「四十年以上」の関係の末に起きた別居や浮気が、男女とは何か、と言う女の神秘性を前提とした問いを相対化させ、「夫婦とは何か」、という問いとして更新されてくるが、それを追求するというより、典型的なキャラの組み合わせにおいて物語展開が試行錯誤されている、という提示の仕方である。だから、俗物男の登場といっても、もはや謎のない他の皆と同じ程度の差でしかありえないので、最後まで憎み続けるという過激さは現れずに消えてゆく。越えられない壁の向こうの謎への問いかけが、求心性(真剣さ)をもって言葉や物語を展開しだしていくのではないのだ。小説における近接の原理に忠実で、出てくる主人公はみな近づいて出会ってゆき、あとはどんな組み合わせのパターンで落ちをだすか、という物語展開の謎というより興味に収れんしてゆくしかなくなるのである。レストランでの四人かちあわせ現場での乱闘カタストロフィが、俗物がなぐられて読者の留飲が下げられる落ちというよりは、どこか大人的に落ち着いているのは、登場人物が俗物(ステレオタイプ)でしかありえないので、それを肯定するしかないからだ。大悪党ならそうもいかないが、そう想定するリアリティーをもたせる世間の合意がもはやないのだ。

その穏やかな首肯、俗でしかない世間を認めてやる思いやりが、女性作家ならではの視点、とも提出されているようにも感じる。不倫は悪だ、とツイート炎上する正義社会のマッチョさを相対化させる作者の姿勢に、フェミニンな思想性をはさませている、ともみえる。

 

そのカタストロフィ(挑発的決裂、戦争や革命)をのぞまない大人的な平和な態度は、後輩が「沖縄」に向かうということで増幅される。ここでの「沖縄」はオリエンタリズムである。ここは同じだが、あすこは違う、とここの平等、どれも同じ俗物、が保証されるように、あすこが想像的に掲揚され差別化されているのである。そうした制度体系が、無自覚に温存され、循環的な構造をつくり、反復・維持されようとしているのだ。

 

 中上の『軽蔑』では、登場人物のほとんどが裏社会で生きているような、欲望まるだしの、俗物であることがあからさまであるがゆえに、さっぱりしたいさぎよさの社会が前面になっている。だから真知子が、偶然目にした新幹線の中でのサラリーマンの無邪気な好機の視線だけが、あたかも後景こそが本当にみえる「風景の発見」でもあるかのように、差別(軽蔑)を感じさせない「五分と五分」な男女関係を思わせてきたりする。そのサラリーマンとの普通さを反復してみたいという思いが残っていたから、真知子はカズさんの地元の成り上がりの銀行員の罠に落ちて、体を奪われ、それが俗物関係でしかないことを思い知るはめになるのだ。

 

 作品に超越性が、乗り越えられない壁、絶対的な悪でもあれば、勧善懲悪的なカタストロフィは大団円になるだろう。あるいは、女という神秘が、謎があれば、物語パターンとは別の訴求力が言葉を紡いでいくことになる。

 

 が、ナイーブにはもうそれはできない。漱石の主人公は、女に真理(神秘)はないと打ちのめされて宗教にいったり、自殺したりした。中上の主人公たちは、母系原理的な、筋・つじつまの合わない謎からくる、神秘さを湛えた路地消滅後、肉体生理的なセックスのスポーツ的反復にのめり込みながら、やはり「沖縄」へと向かった。そこにもオリエンタリズムは感じられるが、「朦朧」的な模索がある。無邪気・無自覚なものではない。

 

 漱石や中上の作品が直面した物語的な規制枠(ステレオタイプ)は、現在に流通する通俗小説の問題規制としても通底している。中上はその規制を打ち破って未来をみるために、まずはパラノイアックに物語展開を押し広げ推し進めようとした。スキゾフレニックに言葉の細部に過剰さを畳みかけてゆくのではなく。

 

 しかし未完の『宇津保物語』では、日本語の持つエクリチュールの運動の方から、新しい古文を創起しようとしたのかもしれない。しかしそれは、内に閉じられた島国的な和文ではない。念頭に対峙してあるのは、大陸の、聳え立つ文明の巨大な悪を孕んだ大陸の作品であり、現実である。卑小な小賢しい悪しかなく、この世を絶した壁も感じさせないのは、それが日本という島国にいることからくる錯覚なのではないか、と。

『宇津保物語』とは、遣唐使として派遣された公子が、難破して波斯国(ペルシャ)に辿り着くところからはじめられる日本最初の物語長編とされているものである。中上は、「うつほ」という言葉に、空洞、竹の筒、といった神話空間を読むが、その定型的な連想が、ファンタジーに向かうのではない。そこに、「精神の空洞、飢餓」を重ね合わせて、永山則夫事件を、“現実”を呼び出すのである。(「宇津保物語と現代」『中上健次エッセイ撰集〔文学・芸能篇〕』恒文社21)この「空洞」は、近代的な「内面」ではない。「永山はいかなる意味においても外部の人間(行動者)である」というのが中上の認識である。(「犯罪者永山則夫からの報告」『全集14』)つまり、その犯罪は、悪は、中上の未完作品群での「暴走族」と同じく、「侍」の系譜で理解されるべき歴史なのだ。

 

「精神の空洞」は、わたしたちから「内面」を奪い、その心理過程のない、突発的に見える行動の契機を誘発する。わたしたちは、この穴を、現実を、歴史を見ているか? わたしたちに行動を迫る目の前の穴を? 目の前の穴とはなんだ? それは中国であり、大陸だろう、島国の目の前にある、ユーラシアだろう、と中上は直面し、わたしたちに突きつけたのだ。つまり、いま、この目の前に見えている、文字が、中国から来たはずの文字が、穴だろう、わたしたちには、それが、見えていない、見失っているのではないか? 中上は、ラカンがポーの『盗まれた手紙』で分析してみせたように、目の前の状差しに隠されていたくしゃくしゃになった手紙=letter=文字を目の当たりにし、読んでいるかぎり意識されないそれ、見失うからこそ機能していくそれを引きずり出し、もう一度、その日本の始原にあった「うつほ」の物語を書きなぞりはじめたのだ。

2023年5月20日土曜日

中上健次ノート(4)


 4 父殺し、母殺しを超えて

 

 

 『軽蔑』の女性主人公の名は「真知子」である。つまり、真理を知っている女、と設定されている。この女性の捉え方は、西洋文明の哲学、形而上学的な在り方からすれば、イロニーということになるだろう。ニーチェが洞察したように、男たちが女(真理)とは何か、とその謎に囚われ、獲得しようとした争いが、世界の歴史を動かしてきたのだ、と理解でき、されてきたからである。女をめぐる男の戦い。だから、ニーチェは言い返した。女は真理を欲していない、と。通俗的には、おまえは俺のことが「本当に、真実に、好きなのか?」と男が追求しても、その探究の姿勢ははぐらかされ、かわされてしまうのが落ちだ、となる。永遠に続く問い。が、女に深淵な謎も神秘もなく、女自身は真理などに無頓着である。だから、台所に何千年といようとそこから哲学ひとつ引き出してこなかったのだ、とニーチェはそんなあり様の女性性を肯定してみせたのである。

 

 中上がとりあえず引き受けたのは、そうした近代以降に明白になっていった男たちの哲学的前提である。ポストモダニズム的な認識、と言ってもいい。がそこに、いや女は真理を欲し、さらに、知っているのだ、と敢えて、挑戦するように設定仕返したのだ。

 

絓秀実は、<『軽蔑』が中上のターニングポイント>になっていたかもしれない、と『全集』版のとじ込み冊子で解説している。(「「路地」から鏡へ」『全集11』)

私もこの作品の構えに、似たような感想をもった。が、その<ターニングポイント>とは、この作品で得た認識が、未完となった作品群、私の読解においては、文明との戦いへ向けての意義と武器に、つまり大義名分的な根拠になっていった、ということである。

 

つまり、未完となった、男たちが戦う世界が、その背後で、この作品での認識が脱構築してゆくよう忍ばされ、裏書きされていくのだ。秋幸は、かぐや姫だった。真知子も、羽衣伝説を下敷きにした「天女」である。この「天女」の伝説は、もちろん大陸からやってきた。中上は、「韓国」からだと認定しているが(「水と空」「輪舞する、ソウル。」『全集8』)、その原型として、中国(あるいはインド)が想定されても実証的にはおかしくはない。そして浦島太郎の行く竜宮城を仕切るのは、豪傑ではなく、天女である。羽衣伝説とがそもそも、男に捉えられた女が衣の力で去ってゆく、という話なのである。

 

<四人兄弟の長女、一つ歳上の兄が一人、妹が二人。

 子供の頃から兄と一緒に育ったので、活発で男まさりだった真知子は女の子と遊ぶより、兄の友だちと遊ぶほうが多く、その時も、そんな遊びをすれば、男の子は無傷だが、女の子は疵を受け、血を流すという事も知らずにやり、起こった出来事に茫然としていた。

 兄が、その秘密の隠れ家と称した裏山の草や木で編んだ遊び場に来て、拭っても拭っても止まらない血に茫然としている真知子を見つけ、怒り、頬をはった。

 兄は成人しないうちに、複雑な家族関係に疲れたのか、恋愛に敗れたのか、自殺してしまったが、真知子は、子供同士の悪戯とはいえ、九歳、十歳で破瓜するという女としての決定的な粗相をした自分に、兄が毅然として優しかったのを思い出し、それは、カズさんとよく似ていると思う。

「ニューワールド」のカウンターの上では踊り子は天女のような存在だが、重力のみなぎる地上で振り返ってみれば、バタフライ一つを衣裳とし、興に乗ったチップをもらえばそれも外し、総てをさらし男たちの欲情を煽る為に交情の姿そのままに踊るのは、女として決定的な粗相を仕出かしていることになる。>(『軽蔑』『全集11』p71

 

 真知子の造形には、『地の果て―』までの「美恵」と、中本の一統に連なるその兄「郁男」との関係が投影されているが、しかしそこから、美恵が「天女」としてストリッパーと重ね合わされるわけにはいかない。中上の自伝からの私の推定では、おそらく、中上は、実際の歌手「都はるみ」とのつきあいにおいて、女をめぐる「真理」の在り方を洞察したのだ。あるいは、男世界の中を渡り歩く女性歌手のうちに、差別世界での男たちとは違った戦い方のヒントを感じ取ったのである。

 

 それは、地上の「重力」、「諸関係の総体」に「革命(戦争)」を迫る男たちのような戦い方ではなかった。天女のように軽やかに浮遊してゆくようなものでなければならない、そしてそれはありうる、と中上は都はるみを見て思ったのだ。男と女の「五分と五分」との関係を真理だと欲し追求する真知子は、それを平然と崩す俗物男を一瞬は殺そうとするが、その試みを放棄する。ヘーゲルを援用し、女をめぐる男たちとの闘争という執拗な主題的原型を近代文学から読み解いてきた絓は、<鏡を割るというカタストロフィだけは避けられねばならない。そうしなければ、『軽蔑』という作品自体が、一挙にカタストロフィへと沈んでいくのだから、鏡を割らないことだけが、女の最後の倫理である。>と提示する。たしかに、真知子は「カタストロフィ(戦争・革命)」という男(作品)の戦い方を拒否した。が、そのことが、「女の最後の倫理」になってしまい、<秋幸以上に完璧な孤児>として<誰も、血縁を知らない>真知子が、“小説”的強度を更新させる「ターニングポイント」を示して終わった、ということではない。

 

 中上のサーガからすれば、明白に真知子は美恵という「血縁」を持つ。そして中上は、さらに様々な作品を書き続けた。ならば、『軽蔑』以降のそれらの作品は曲がり角を通って、どこに向かったというのか? 絓も高橋源一郎と同じく、近代“小説”という枠に囚われている。「ターニングポイント」と言いながら、結局は小説の理念型(強度)の反復であるべきであると、一つの批評的見方から作品や作家をさばいているので、その後の「朦朧」な作品群と関連付けられないのである。あるいは作家のその挑戦を失敗として遺棄する。

 

『軽蔑』は、こう締めくくられた。

 

<「嘘」、その男の顔を見て、真知子は、息の多い声で、まるでたった一言しか言葉を知らないように、言った。>(『軽蔑』(『全集11』p405

 

 この表現が、縊死してゆく浜村龍造を前に言った秋幸の言葉に対応していることは明白である。

 

<一瞬、声が出た。秋幸は叫んだ。その声が出たのと、影がのびあがり宙に浮いたように激しく揺れ、椅子が音を立てて倒れたのが同時だった。「違う」秋幸は一つの言葉しか知らないように叫んだ。>(『地の果て至上の時』(『全集6』p415

 

 秋幸は「叫んだ」。真知子は「言った」。秋幸は「一瞬」の「声」だが、真知子は「息の多い声」だ。「一つの言葉しか知らないよう」な秋幸と、「たった一言しか言葉を知らないよう」な真知子。「違う」と認識した秋幸に対し、「嘘」と、驚く真知子。「違う」なら、本当は、本来は何なのか? つまり、真理とは何なのか? と秋幸は問うている。それに対し、真知子の「嘘」とは、死んだはずのカズさんが出現したかに見えたことへの「本当? 信じられない」という驚きであり、受け入れである。彼女は、ニーチェの言うように、たしかに真理を問うていない。がそれは、それが「嘘」である「本当」を受理していくことである。真実は「一つ」だと秋幸は前提としていた、が、真知子は、「息の多さ」、声の多数さを、真実の複数性を認める。「一言」でいえば、その現実とは「嘘」である。真知子は、真理(本当)を男のように欲しているわけではない。だから、そこでは真理をめぐる戦いは、カタストロフィとしては発生しない。が、「嘘」でもいいから好きといってくれ、夢を見続けさせてくれ、と正常性バイアスに逃げるということでもない。死を賭けた命がけの戦いとは別の、あくまで真剣な忍耐強い、女の戦い方があるのだ。

 

 しかも、女の戦い方とは、『地の果て―』以降の、作品の戦い方でもある。それ以前までは、あくまでストーリー的な線的な繋がりとしての作品同士の関係であったが、『軽蔑』の認識が、他の未完の作品の前提、男の戦い方を相対化し脱構築させていくように、この完結された『軽蔑』もが、未完の作品によって相対化され、脱構築されるのだ。つまり、『軽蔑』の認識前提が本当(真理)ということではなく、そういう思考自体もが「嘘」としてはぐらかされるのであり、その運動こそが軽やかな羽衣としての武器、ということなのだ。

 

 未完となった『鰐の聖域』は、『地の果て――』までの秋幸の姉・美恵の娘・美智子と結婚した五郎という人物が中心主人公となっている。五郎の浮気に、美智子は「男と女は五分五分」だと言い出し遊びはじめ、結局ふたりは離婚する。が、そのことはカタロストロフィな破局大団円を演じて終わるのではなく、さらに、五郎は美智子のイトコ・園美と、美智子の母の実家「竹原」家で知り合って、そのままできてしまう。

その五郎は、秋幸との「兄弟喧嘩で死んだ」とこの作品ではされる暴走族の初代リーダー秀雄の知人であり、二代目のリーダーとなった鉄男の友人でもあることが示唆されている。

 五郎は他所から来た者であるゆえにか、路地社会の力学には飲み込まれず、それを相対化する。自身のふしだらさも、中上の実際の母の路地論理が、この実話に基づいた作品のイトコ婚も、「減るんでなしに増えるんやさかね」(「妖霊星」『全集5p291)とそのまま受容してしまうのとは違う論理において正当化される。

 

<母親きょうだいも園美のイトコらも驚き、怒った、と言う。五郎が考えても確かに驚き、怒るのは当然だが、五郎の立場に立てば、美智子の産んだ麻美をのぞいて誰とも血のつながりのない男が、どの女と寝ようと、どの女を孕ませようと非難される筋合はないとなる。>(『鰐の聖域』(『全集13』p23)

 

 この「筋合」には、東国の(侍=「暴走族」経由の)、外イトコ婚という外婚制を意識する直系家族的な影響があるのかもしれない。が、重要なのは、路地以外の思想によって作品が錯綜としてき、その外からの相対的な距離が、路地社会の力学を客観性を超える深読みとして発揮されてゆく、という過程である。

 

 この作品では、その読解力のことを、「死霊」と呼んでいる。五郎は、路地に渦まく人間関係の錯綜から、自殺に追い込まれた土建会社の「親方」の「死霊の力」が自分を動かしているのではないか、と推察するようになるのである。

 この五郎の推察は、中上の未完の作品群からみれば、作家中上自身のものでもある。外からの読解は、路地を超え、日本を超え、南方、そして中国からもやってくる。『異族』では、あらぬ噂に狂喜するオバのような年寄りはどこにでもたくさんいるとその神秘化は相対化される。さらに、未完の『宇津保物語』では、日本の物語が大陸の「書物」の存在で異化されていく方向をはらみ、この擬古文的に綴られた作品自体が、おそらく、中国を意識しているのだ。いやさらに、その原古典がペルシアを取り込んでいるのだから、大陸ユーラシアとの交通こそを前提として、さまざまな世界や価値が、絓の『軽蔑』の解説から引用していえば、「鏡」のように「乱反射」して、相対化され、そのことであくまでなんらかの「全体」めがけて意識・構想化されようとしているということになるだろう。

 

 中上の未完の作品群は、物語的な線で絡まるだけではなく、さらに、思想性や価値観においてもお互いが牽制しあい錯綜となることが仕組まれはじめている。作品群として、多声的なポリフォニーな様をみせてくるのだ。しかし、それはいわゆるポストモダニズムな、もう「真理」などなくあるのは相対化されてゆく戯れだけなのだ、という態度に収れんしない。なぜなら、あくまで、文明の中心地、中国やユーラシアが標的にされているからである。その標的めがけて、作家は、アキユキは、試行錯誤しながら進んでいる、ということなのだ。

 

 「アキユキ(私)」は、つまりは作家中上は、そうした認識覚悟を体得し、携え、文明の真っただ中へと潜り込んだのだ。

 

「天女」としての「かぐや姫」が、東京の路地たる「ニューワールド」な歌舞伎町で更新された認識作法を武器に、大陸の「前進前線」へと帰還した。中上は、複数の線と声を持つ物語群を、日本から外へと移動し描き始めた。男と女は、人間と人間は、人種や民族が「違う」とも、「五分と五分」であり、差別などありえない。その「嘘」は、「嘘」であっても、戯れではなく本当のこととして掲げられえる大義である。その虚構の真剣さで、秋幸は「中国の帝王」の身代わりたる鉄男とまず対峙するのだろう。「八犬伝」の志士たちや、アジア広域にわたった詐欺グループや、日本の芸能界を仕切って世論を動かす若い衆たちが、その戦いに連動し、支援する。彼らは、中本の一統の、若くして世に押しつぶされていった者たちの系譜である。郁男は死んだ、夏羽は死んだ、カズさんも死んだ、が、「嘘」のように蘇ってくるのだ。

 

 中上は、そうした若い「死霊」たちを引き連れて、突き動かされて、世界の力関係(地政学)を読み、文明と対峙しようとしているのだ。

 

 いやおそらく、路地出身の者たちやその霊(系譜)だけが協力者ではない。『讃歌』では、「ミス・ユニヴァース」の「中国の娼婦」ファ・チンが好意的に描かれている。真知子は、「ニューワールド」のストリッパーだ。だからたぶん、新世界へ、宇宙へと向けて、男と女、人と人との差別のない「五分と五分」の世界を目指して、国籍を超えた協調関係もが動員されるはずである。

 

 その動員の模索は、作品の形式においても試行錯誤された。絓は、『軽蔑』の<部分部分をギクシャクとして描写していくしかない>、<決して何か全体的なものをうつしてくれないのだが、同様に、話者も遅滞なく物語を語ろうとしない。視線が「全体」という重力から自由であるとは、そのような乱反射を意味している。>と言うが、それはその後の作品と作品との絡み合いを見ようとせず、あたかも完結したこの作品で作者の営みが終わった、「全体」を志向しない“小説”の在り方の方が優越的なのだ、という一時の批評の見方を押し出している。

 が中上は、未完の物語群で、超越的な語り視点をいきなり挿入させてみたりと、その機能が生きるのかどうか、未来への形式的な伏線となるのか、手探るように投機的に書いているのだ。私たちが見るべきなのは、その「朦朧」と化してしまうなかでの、文の模索の、真剣勝負な様なのだ。