2023年5月27日土曜日

中上健次ノート(5)


 5 補説――通俗小説と真理

 

 

 男女の性愛的な有り様が、「五分と五分」以上にあからさまに露出してきた現在においては、真理とは何か、という問いが、女とは何か、という問いと重ね合わされて追求される現実性は希薄であるだろう。かつては、夏目漱石の作品などが典型であったように、女をめぐる戦いを舞台に、さまざまな思考が隠喩的に追及された。ふと出会い、誘惑されていたのかもと惑わされた青年が、もしあの女性についていったらどうなったのだろうか、とその深淵に神秘さを伺い、あるいは世間を疎んで働かないインテリ人物が、俗物まるだしの男に恋人を取られて、その結婚後に煩悶し、または自身が他の男との競合に勝って女を手にしたものの、そのことで深淵に呑み込まれたように自殺してゆく。がもはや、そんなナイーブさを作品世界で維持することはできない。女性を神秘化することを前提にすることはできない。

 

 最近、唯川恵著『100万回の言い訳』(新潮文庫)を読んだ。ある新聞の欄で、なんとかという女優が、この作品を何回も読み返し、夫婦関係、男女関係についていつも考え込んでいる、と書いているのを読んで、私も夫婦20年の関係を考えてみたくなったのである。

 が、私としては、やはり字面の、エクリチュールの水準で、読み続けるのが困難になる。がステレオタイプになる人物の組み合わせパターンだけを追うことになるうちに、この中上ノートで綴っていることがよりわかりやすく捕捉できる素材になるのでは、と考えた。

 

 私には、この作品から、実際の人生、夫婦のことを考えるには、世界が違いすぎるので無理である。引きこもり、フリーターとなり、歳くってから結婚したものとしては、このトレンディー・ドラマな世界の主人公たちと、どう自分を類比していいのかわからない。強いて言えば、母子家庭を営む働き者の若い女性主人公に共感はできるが。だから考えさせられたのは、人生(夫婦)とは何か、といった哲学的な問いではなく、あくまで文学作品的な問いである。

 

 その作品のあらすじはこうである。結婚して七年目の子供のいない夫婦。ここで子供を作って転機を、と実行しようとしたその夜、暮らしているマンションが火事に巻き込まれてしまう。その事故をきっかけなように、夫は隣部屋の奥さんと、妻は職場の後輩と、できてしまう。そこに、後輩の金持ちの同級生の建築設計家、女性のことを道具のようにしか思っていない俗物があらわれる。かつて自分の恋人をこの俗物に寝取られていた後輩は、先輩の女がその男をあしらう姿に感動して付き合いはじめたのだ。妻は若い後輩からなお自分が女として認められているようにも感じる一方、俗物のマッチョ丸出しの強引さにも惹かれてしまう。夫の方は、隣人の人妻の直截的な誘惑と肉欲に負けはしたものの、一方で、仕事付き合いで使うキャバレーの実直な女性、女手ひとつで子育てしている若い女性の就職先の面倒などを、同じ地元同士ということの延長で、純粋行為として手伝っていた。彼女は、高校の頃のバイト先の旅館で、学生だった若い青年から言い寄られ、子を孕み、内密に産んだのだった。その子には戸籍もない。その産みの父親が、俗物男であり、その男の居場所を、夫は調査の先でつかんだ妻の後輩の口から聞き出した。いま俗物男はレストランにいる、俗物は同級生にいまおまえの付き合っている年増女と二人でいるから来い、とみせつけるために呼びつけた、つもりだった。が、レストランで、夫婦、勤め先の先輩後輩、大学の同級生、密会同士、といった関係にあった四人がかちあう。事情を知った後輩は同級生をなぐりつける。そのカタストロフィのあとで、夫婦はもう一度夫婦を始めるのも悪くないとおもい、後輩は、新しく自分をやり直すように沖縄へと向かう。

 

 ここでは、女性を神秘化する前提はない。男女関係に深淵はなく、謎もなく、みな世俗的である。妻の両親の「四十年以上」の関係の末に起きた別居や浮気が、男女とは何か、と言う女の神秘性を前提とした問いを相対化させ、「夫婦とは何か」、という問いとして更新されてくるが、それを追求するというより、典型的なキャラの組み合わせにおいて物語展開が試行錯誤されている、という提示の仕方である。だから、俗物男の登場といっても、もはや謎のない他の皆と同じ程度の差でしかありえないので、最後まで憎み続けるという過激さは現れずに消えてゆく。越えられない壁の向こうの謎への問いかけが、求心性(真剣さ)をもって言葉や物語を展開しだしていくのではないのだ。小説における近接の原理に忠実で、出てくる主人公はみな近づいて出会ってゆき、あとはどんな組み合わせのパターンで落ちをだすか、という物語展開の謎というより興味に収れんしてゆくしかなくなるのである。レストランでの四人かちあわせ現場での乱闘カタストロフィが、俗物がなぐられて読者の留飲が下げられる落ちというよりは、どこか大人的に落ち着いているのは、登場人物が俗物(ステレオタイプ)でしかありえないので、それを肯定するしかないからだ。大悪党ならそうもいかないが、そう想定するリアリティーをもたせる世間の合意がもはやないのだ。

その穏やかな首肯、俗でしかない世間を認めてやる思いやりが、女性作家ならではの視点、とも提出されているようにも感じる。不倫は悪だ、とツイート炎上する正義社会のマッチョさを相対化させる作者の姿勢に、フェミニンな思想性をはさませている、ともみえる。

 

そのカタストロフィ(挑発的決裂、戦争や革命)をのぞまない大人的な平和な態度は、後輩が「沖縄」に向かうということで増幅される。ここでの「沖縄」はオリエンタリズムである。ここは同じだが、あすこは違う、とここの平等、どれも同じ俗物、が保証されるように、あすこが想像的に掲揚され差別化されているのである。そうした制度体系が、無自覚に温存され、循環的な構造をつくり、反復・維持されようとしているのだ。

 

 中上の『軽蔑』では、登場人物のほとんどが裏社会で生きているような、欲望まるだしの、俗物であることがあからさまであるがゆえに、さっぱりしたいさぎよさの社会が前面になっている。だから真知子が、偶然目にした新幹線の中でのサラリーマンの無邪気な好機の視線だけが、あたかも後景こそが本当にみえる「風景の発見」でもあるかのように、差別(軽蔑)を感じさせない「五分と五分」な男女関係を思わせてきたりする。そのサラリーマンとの普通さを反復してみたいという思いが残っていたから、真知子はカズさんの地元の成り上がりの銀行員の罠に落ちて、体を奪われ、それが俗物関係でしかないことを思い知るはめになるのだ。

 

 作品に超越性が、乗り越えられない壁、絶対的な悪でもあれば、勧善懲悪的なカタストロフィは大団円になるだろう。あるいは、女という神秘が、謎があれば、物語パターンとは別の訴求力が言葉を紡いでいくことになる。

 

 が、ナイーブにはもうそれはできない。漱石の主人公は、女に真理(神秘)はないと打ちのめされて宗教にいったり、自殺したりした。中上の主人公たちは、母系原理的な、筋・つじつまの合わない謎からくる、神秘さを湛えた路地消滅後、肉体生理的なセックスのスポーツ的反復にのめり込みながら、やはり「沖縄」へと向かった。そこにもオリエンタリズムは感じられるが、「朦朧」的な模索がある。無邪気・無自覚なものではない。

 

 漱石や中上の作品が直面した物語的な規制枠(ステレオタイプ)は、現在に流通する通俗小説の問題規制としても通底している。中上はその規制を打ち破って未来をみるために、まずはパラノイアックに物語展開を押し広げ推し進めようとした。スキゾフレニックに言葉の細部に過剰さを畳みかけてゆくのではなく。

 

 しかし未完の『宇津保物語』では、日本語の持つエクリチュールの運動の方から、新しい古文を創起しようとしたのかもしれない。しかしそれは、内に閉じられた島国的な和文ではない。念頭に対峙してあるのは、大陸の、聳え立つ文明の巨大な悪を孕んだ大陸の作品であり、現実である。卑小な小賢しい悪しかなく、この世を絶した壁も感じさせないのは、それが日本という島国にいることからくる錯覚なのではないか、と。

『宇津保物語』とは、遣唐使として派遣された公子が、難破して波斯国(ペルシャ)に辿り着くところからはじめられる日本最初の物語長編とされているものである。中上は、「うつほ」という言葉に、空洞、竹の筒、といった神話空間を読むが、その定型的な連想が、ファンタジーに向かうのではない。そこに、「精神の空洞、飢餓」を重ね合わせて、永山則夫事件を、“現実”を呼び出すのである。(「宇津保物語と現代」『中上健次エッセイ撰集〔文学・芸能篇〕』恒文社21)この「空洞」は、近代的な「内面」ではない。「永山はいかなる意味においても外部の人間(行動者)である」というのが中上の認識である。(「犯罪者永山則夫からの報告」『全集14』)つまり、その犯罪は、悪は、中上の未完作品群での「暴走族」と同じく、「侍」の系譜で理解されるべき歴史なのだ。

 

「精神の空洞」は、わたしたちから「内面」を奪い、その心理過程のない、突発的に見える行動の契機を誘発する。わたしたちは、この穴を、現実を、歴史を見ているか? わたしたちに行動を迫る目の前の穴を? 目の前の穴とはなんだ? それは中国であり、大陸だろう、島国の目の前にある、ユーラシアだろう、と中上は直面し、わたしたちに突きつけたのだ。つまり、いま、この目の前に見えている、文字が、中国から来たはずの文字が、穴だろう、わたしたちには、それが、見えていない、見失っているのではないか? 中上は、ラカンがポーの『盗まれた手紙』で分析してみせたように、目の前の状差しに隠されていたくしゃくしゃになった手紙=letter=文字を目の当たりにし、読んでいるかぎり意識されないそれ、見失うからこそ機能していくそれを引きずり出し、もう一度、その日本の始原にあった「うつほ」の物語を書きなぞりはじめたのだ。

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