2020年9月25日金曜日

新型ウィルスをめぐる(17)


今日9/25(金)の毎日新聞朝刊の社説「コロナ下の自殺」によると、自殺者数が7月から前年比で増加に転じ、8月は1849名で246人の増加、だそうだ。実際の数値は別にして、増加していくことは予想の現実だったわけだが、社説でも「心配」とあるように、憂慮すべきなのは、女性の自殺者の増加なのだ。8月前年比より「約40%増えて650人になった」というのである。%もびっくりだが、その数も驚きだ。このブログで、人口統計学者でもあるエマニュエル・トッドの考察に触れてきたものとしては、これは、驚異的な変化なのではないか、と感じる。トッドによれば、社会変化の兆しは、ソ連の崩壊時がそうであったように、働く年代の男性の自殺率の変化にまずあらわれる、とされてきた。そして近代社会としての前提として、女性の識字率の向上という変数が重ねられるのである。

日本のコロナ下での女性の自殺増加には、もちろん、女性の識字率や学歴が向上し、自らが働き、男との結婚を選ばず、あるいは結婚し子供を産んでも、離婚して母子家庭になっていく道を選んでいく女性たちの増加、という背景があるのかもしれない。孤立しがちな男性とちがい、女性はネットワークを築き自らのメンタルをもちこたえさせる、みたいな伝統文化的というより、身体自然的な能力によって説明されたりもしてきたわけであるが、この根底的な自然性もが、日本では破壊されているのかもしれない。社説では、「詳細な分析」が必要だと論説されるが、その現実の確認だけではなく、「真剣」な分析態度が大切になってくるだろう。

新総理になった菅が、手始めに打ち出したのが、女性の不妊治療への保険適用ということだった。的の周辺には矢がとんでいるともいえるが、これは、おそらく自民党の憲法改正案の実現の実質をにらんだ布石、その症候だろうから、実際には目指している的は現に日本にある現実や自然ではなく、党の理想の方なのだろう。せめて、男と結婚して子供を産む気のある女性たち、つまりは自民党を支持してくれる可能性のあると党人たちが期待している者たちだけでもまずは救っている仕草をみせよう、ということだ。精神障害の認定をもつ私の兄の話によると、自民党の憲法の改正のねらいとは、親や障害者の介護・面倒見は家族にまかせ、その理想家族の実現のために、障害者や老人への年金をカットしてく、その実行のために何条と何条を変更する憲法改正を目指している、という。そう言われると、たしかに、為政者の本当のねらいは、9条ではなくて、1条の天皇制を、象徴的なだけではなく、もじどおり国民的に実装されるよう、理想な家族像とされるものを、無理やり押し付けて実現していく、ということにあるのだろう、とおもえてきた。現実からして本来は、女性の労働条件改善や保育施設の拡充、母子家庭への補助等が実現されていかなくてはならないのに、安倍を継承するという菅および自民党政権は、自分たちが破壊してきた自然を修復するのではなく、もはやありえない近代的な一時期の核家族理念を、その見かけだけを、保全しようと暗躍している。

ところでその総理を引退した安倍が、このブログでも新型ウィルスをめぐって紹介した、大橋氏のYouTubeだかツイッターのフォロワーになっているという。大橋氏は、コロナ以前から世界の陰暴論を説いてきた人のようであり、このコロナもそうだろうと想定しているわけだから、そういう人物が大学というアカデミズムから胡散臭く排除されていくのは常套的であるとしても、その主張を、ついさっきまでの総理大臣は、どう受け取るのだろうか? 「いいね!」とおもっているんだろうか? おそらく、たぶん、そうなのだ。田中宇氏の見立てだと、安倍は、経済閉鎖をしてアメリカの世界一極支配を終わらせたいトランプからの命令を受けて、自分ではロックダウンだなどといえないので、小池にやらせた、ということになるのだが、世俗現象的には、とてもそんなふうには見えない。トランプにしろ、安倍にしろ、麻生にしろ、「コロナは風邪だ」と認識して経済活動を通常通り続行させたかったが、できなかった、という風にみえる。つまり、大統領も総理大臣も、自らが望む政策を続けられなかったのだから、それはなんでなのか、というのが、世俗現象からくる疑問である。そこから、一国の政府をこえた陰謀論的な見方がでてくるのは、その当否は別にして、論理的に理解できることだ。そしてその論理に、安倍くんが、「いいね!」とおもっているとしたら、どうなるのだ? おれも実は、被害者なんだよ、といいたいのだろうか? 田中宇氏によると、すでに中国よりに舵を切りはじめた日本政権は、トランプと友達になってしまった安倍ではアメリカにひきずりこまれてやりづらくなるから、それを見こんだ安倍は自ら降りた、となるのだが、これも、世俗現象しかみれない者には、すぐに信じられることではない。世界的な陰謀があったとして、安倍や麻生は駒にすぎず参加などさせてもらえないだろうが、なんとなくはわかるはずで、そのなんとなく巻き込まれていると感じているところから、コロナは風邪だと言っているに近い大橋氏の話をフォローしてみたくなったのだろうか。

しかし大橋氏は、疫学者というよりは教育者に近い人なのだろう。自分の仮説から、視聴者自らが自分の頭で考えてほしい、と言うのが一番の主張なのだ、ということだろう。で私自らの頭で考えて、コロナは「常在(日和見)ウィルス」と説く大橋氏にたいする批判に関し、いくつか付記してみる。

・大橋氏は、集団免疫が日本ですでに成立していると説く京大の特任教授の上久保氏の説は、自分の説と重なるものだ、とも言っている。すでに抗体ができていれば、悪さするウィルスが体内にはいっても、常在的なものと変わらなくなる、ということだろう。似たような話は、スェーデンでもあったらしい(「スェーデン移住チャンネル」)。また、このスェーデン移住者の解説のなかにあったと記憶するのだが、確認できていないこととして、スェーデンがロックダウン的な処置をしなかったのは、ヨーロッパの科学者の間で、すでに何年もの議論から、パンデミックにロックダウンは意味がない、との結論に至っていたのだが、いざきてみると、その科学者の結論を実践していこうとしたのがスェーデンだけになっていた、別に「集団免疫」を獲得するのが目的ではなく、すでに出た科学的方針に従い、それに付随して集団的な免疫が成立してくるだろう、という話だった、と。となると、また、なんで科学の結論が実践できなかったのか? となるわけだが。科学者でなくとも、磯崎新氏などの建築家でも、次はパンデミックが世界のテーマになると、その展覧会企画をしていたのが実際のコロナでつぶれてしまったのだ、という話を浅田彰氏がどこかでしていたが、となると、ビル・ゲイツをはじめ、あるインテリの世界では予測されていたことが本当におきて、エリート・インテリから「それみたことか」とパニックになっていった、とみえなくもない。悟性尊重主義者と、理性狂信主義者との境がみえにくくなる。

*いくらなんでも「集団免疫」成立は早すぎるだろう、と私はおもっていたが、その上久保説によると、コロナの流行は去年11月からだという。そこから、流行りはじめたインフルエンザがなくなってしまったような統計から推論しているらしい。ちなみに、私の手伝いにいっている練馬区の造園屋でも、11月に従業員と、赤ん坊を含む家族十数人が同時に風邪みたいになって、「ナニコレ」と騒いでいた。私は大丈夫だったが。また「コロナ人為説」を説く台湾メディアでは、たしか10月に人民軍の生物兵器が漏れた、と推定していたようにおもう。

・新型コロナのウィルスは遺伝子的に同定されていて、それが不明だとする大橋説は虚偽だ――「常在ウィルス」という仮説にたてば、論理的にいって、その悪さする以前のウィルスが何かがわかっていないと、比較同定できない。そして世にコロナ状況が出現するまえのPCR検査のデータなどないのだから、同定できる、ということはありえないだろう、となる。だから大橋氏も、コロナにかかるまえとあと、あるいは、かけた人とかかった人のウィルス情報を比較しなければ、同じものかわからないだろう、と当たり前なことを言っている。しかも変異してしまえば、それを同じとみなすのかどうか、さらに、にたようなコロナ・ウィルスはたくさん存在しているから、どこまでを同一とみなし、どこから違うとするのか、形而上学的な議論が発生してしまうのである。「東京型」と「埼玉型」まであるというのだから、「歌舞伎町型」と「錦糸町型」もがあるのかもしれない。今日の私と、昨日の私は、細胞がいれかわってしまうのだから、同じではないともいえるが、それを同じと同定することは、実用的な効能においてである。症状のある人のでも、ない人のでも、同じと実用的に仮説してるわけだ。ほとんど量子論と同じだ。量子には、「トンネル効果」というものがある。電子ビームで絶縁体の壁を打つと、たいがいは跳ね返された位置に電子(粒子)が確認される率が高いが、ときおり、壁を突き抜けていっているものがある。が、それはそうみえるだけかもしれず、打った粒と、壁の向こうで現れた粒が、同じものなのかどうか、本当はわからないのである。量子は波として偏在(常在)もしているわけだから、壁の向こうにあった波がなぜかは知らぬが、ある確率でもって、粒として出現しているということかもしれないのである。が、実用的には、そんな形而上学的な話につきあっていても埒が明かないので、同じ電子として、それを制御して半導体とか製造しているわけだろう。ウィルスと量子とは別なので、比喩にしかならないが、ミクロなふるまいの現実と、マクロなふるまいの現実がちがう、というのも、なお科学的には不明な、実用的な仮説であるだろう(いまの私は、そう理解している。勉強中)。

*なお、「スェーデン移住チャンネル」によると、かの地では、PCR検査は、ウィルスを増殖させる感度設定の情報も公開して基準を設けて、たとえ陽性でも(大橋氏によれば、一粒の付着でも陽性とでる場合あるので)、その基準値以下であったならば、陽性でも感染者ではない、という処置までするようになったそうだ。

・マスクの効用について、日本開発のスパコン富岳だかが利用されてシミュレーションされているが、実験前提がおかしいだろう。咳して唾やその飛沫がどう拡散されているか、をみるのではなく、普通にしゃべっていてウィルス的な微粒子がどうふるまうかをみなくては、いま騒がれているマスクの効用などわからないではないか。咳でマスクするなど、以前から日本人はしているし、喉がかゆくなってたまにでるくらいのときでも、口元を手や袖でおさえるとか、エチケットはしていたのだから、これまでどおりで問題などない。コロナは空気感染する、という学説の確認のために、マスクして呼吸している人たちの間で、ウィルス的粒子がどうふるまうのか、をみてくれなくては、意味がないだろう。でおそらく、スパコンでもそんなことはできない。量子とまではいかなくとも、ウィルスは極小で、マスクするとは、50cmの穴があいた網で昆虫をつかまえようとしてるようなものだ、という喩えもある。つまり空気と同じように偏在しているわけだから、空気をマスクでつかまえられるとは、呼吸ができないということと、同じなんではないのか。

***** 

女性の自殺率の増加は、社会の底で私たちを支えていたかもしれぬ、自然・身体的な対応の基盤がなし崩しにされてしまっていることを暗示しているのかもしれない。大橋氏の講演会では、ほぼ誰もマスクをつけていないのだそうだが、どうも、会場へむかう電車や街のなかまではつけていたらしい。だとしたら、これもまた私には、マスクの着用とおなじ、おぞましい世界におもえる。自然や身体がどこかにいってしまって、イデオロギー的な対応のほうこそが全面にでてくる社会になっている、ということだ。マスクをつけない集会がこそこそやらざるをえない秘密結社のようになっていて、それを、元総理が「いいね!」する。マスク付ける付けないかがイデオロギー闘争になる。暑かったらはずし、ごほんといいそうだったら手が動き下をむく、こんな単純な生理的な反応さえが、意図的な世界に組み込まれて破壊されてしまっている、ということだ。

2020年9月22日火曜日

石川義正著『政治的動物』(河出書房新社)の読書感想


月に一度ほど、本屋にいって、いろいろと立ち読みするようにしているが、そのなかで手に取った一冊。タイトルにある「動物」という語から、現代思想的に連想するものがあるので、いかにもな切り口なのかなとおもったが、どうもそれ以上の射程があるらしくおもわれ、「植物」の知性についておもいめぐらしはじめた私の最近の思考を啓発してくれるかもしれないと購入した。 

一読して、私はこのブログでも書評した、河中郁男氏の『中上健次論』を想起した。時代転機を、中上の『地の果て至上の時』にみているともいえるからである。ただ、河中氏が、そこにいたるまでの文学・歴史を検証し、日本の言説界に形成されてきた批評的パラダイムに変更を迫る大上段な、「観点」の複眼化とでもいえるような論点を提出しているのに対し、石川氏は、むしろ『地の果て―』以降の文学をとりあげながら、最近までつづいた(る)のかもしれぬそのパラダイム形成の立役者といっていいだろう、柄谷行人の論理破綻を示しながら、パラダイム形成のもうひとりの重鎮、蓮見重彦の路線を継承させ、その小説的営みの方からこそ自らの批評を構成し直している、という違いがある、といえるだろう。だからどこか、党派的な切り口をかんぐらせるが、石川氏の論点は明確であり、説得力がある。中上よりもか津島裕子を、柄谷が思想立場的に自らとだぶらせている坂口安吾に金井美恵子を対置させたりするところに、ひところの時代的論説のいかにもな付置を惹起させながら、しかしそこに、論点立場として明白な文脈形成が仕組まれている。おおざっぱにいえば、柄谷の方向にカント的な理念や「父の名」をみる男性性をよみとり、蓮見のほうに、その論理的からくりにははまらない、資本と国家の歴史性を体感する女性的、いわば「動物」的な予感する力をみている、といえるだろうか。女を動物にたとえるとは、それこそが差別ではないか、と思われもするが、とりあげられる女性作家たち、津島裕子に連なる笙野頼子や川上弘実、そして多和田葉子ら当事者が、動物と同居することを超えて動物になっていくような作品を提示しているのだから(私自身が試みた多和田論も「イカ=タコ」への変身で中断しているのだが)、そう単純なPC観点ではすまないだろう。というか、石川氏の論点の要が、ラカンの「全てではない」という女性性をとらえようとした概念との重なりを、カントの「崇高」論における区別、「力学的崇高」と「数学的崇高」に読み込み、マッチョな柄谷論理の行く末を前者の概念で解析し、それとは他の理論的可能性を後者にみてとるところからはじめられるからである。この「全てではない」というラカンの概念は、河中氏も中上論で、戦後民主主義のゆきづまった論理をブレークスルーしていく観点なのではないかと示唆している。が、たとえばPC(ポリティカル・コレクトネス)という正義は、男に対し女、女に対し同性愛者、黒人、身障者、etc…と無限に差異化されうる。だから、誰が一番の正義的立場か、と決着をつけようとも、なお「全てではない」と、「数学的無限(崇高)」、ヘーゲル的には「悪無限」とされる論理へと陥っていく。しかし、石川氏の引用するカントールの定理でいえば、「実数は自然数よりも濃度が大きい」。

<数学的崇高は力学的崇高に比べてあまり重視されてこなかった概念だが、もし悪無限が数学的崇高の呈示不可能性の彼方に実在するのならば、おそらくそれは吐き気そのものとしてそこにあるのではないのか。無限のさらに残余としてある吐き気。わたしたちはそれを「吐き気とは別のものが入り混じった不純な感情」として享楽するのではなく、ただの(just)――正しい(just)ではなく――かすかな吐き気として思考することは可能だろうかーーたとえそれがある種の人間性を放棄することにつながるとしても。>(石川前掲書)

つまり、女性性がかかえる「全てではない」無限の「彼方」に「実在」するかもしれぬ「動物」的な論理=倫理があるのではないか、ということだ。資本の全てを「享楽」化していくのとは別の回路としてのjustな「吐き気」。そして「その不可能にかぎりなく接近した営為として金井美恵子」がおり、蓮見重彦の『伯爵夫人』が分析されることになるのだ。

石川氏の文脈は明確であるようにおもう。哲学的な教養がしっかりしていない私には、カントやヘーゲルに立ち返ってそこにある概念を検討することはできないが、「崇高」という概念をキーとして出発したこの論考に、少し違った角度からの光をあてることはできるだろう。というのは、植木屋の私自身、「庭へ向けてのエセー」(現在ネット閲覧不可)という小論を20年前くらいに書いたさい、柄谷のいう「崇高」の理解に両義性を見だし、それを読みかえてみせることで論を成立させてみた経緯があるからである。

柄谷は庭園における「借景」という技術は、じつは「縮景」なのであり、それは「実無限」としての「崇高」なのだ、と説いた。その戦国時代の庭園技術は、グローバルに地球が閉じられることで成立した「世界交通(資本主義)」の実現(実無限)と平行した事態なのだと(「批評空間」1998、17号)。そして、その実現の地点に、中世的なものを「切断」するルネサンス的な力と、自治というものの意志を指摘してみせたのだ。しかしならば、まさに「戦国(ルネサンス)という「力学的」な地点には、世界資本主義に相乗していく方向と、死をおそれずそれに抵抗していくナショナルな美的方向性もが胚胎されているだろう。さらに、「縮景」のような小型に押さえ込んでいく力技には、ソニーのウォークマンにつらなるような、新たな、江戸的なとも形容しうる文化的な様式美や、切腹という死を恐れない=無意味化するようなスノビズムもが芽吹いている。そして最近の柄谷は、石川氏がその『憲法の無意識』に対し「ロジックが破綻」と告発するように、この江戸的な延長において、両義的な様相をみせる。憲法を擁護するとは、その天皇制(反ルネサンス)を肯定しているのか、9条を擁護するとは、その切腹倫理(自己犠牲=非自治)を肯定しているのか、よくわからなくなるからである。ならば、そこに落ち着いていく『世界史の構造』の認識とは何なのか、となる。石川氏によれば、「力学的崇高」を目指していくものであるかぎり、「交換X」という理念を担保する「帝国」という地盤はもはや存在しえず、「プロレタリアート」というような「「欠如のシニフィアン」も存在しない、となるだろう。「それらもまた国家と同じく個別的普遍にすぎないことが明白となったのが現代」だからである。

が、私としては、どうも柄谷の態度は両義(曖昧)なままなのだ。江戸や日本的なものを批判してきた経歴から、パックス・トクガワーナを肯定しているような「転向」のうちに、私にはなお理論的に不明瞭なもの、理解できないものを感じている。それは、「切腹」を肯定したくなる私自身の内にもあるものとして。

石川氏が柄谷にみる「力学的崇高」には、「安全な場所」にいるという「距離」をもった立場前提がある(河中氏の知識人批判の立論も、この「距離」感だったろう)。植木職人である私は、その前提を捨象することで、「庭園」というより、職人の庭を理解しようとした。その具体例が、富士信仰において築造された富士塚だった。つまり、富士山の縮景である。その築山は、観賞が前提ではなかった。富士山の実物の溶岩石を運んで組み、自ら登っていくという実践性(信仰)のために造られた。富士山は「安全な場所」でみられるものとしてではなく、身をもって危険をおかし征服すべき無限対象、死を恐れる自己自身を克服するという信仰そのものだった。もちろん、富士塚は、実際に行けなかったものたちへの代用であり、富士山自体もが、物見遊山的に受容された面もある。富士山の洞窟(胎内)にもぐって生まれ変わって変容する主体とが、立派な江戸っ子だった、という草本みたいなのも当時出ている。しかし、その滑稽本自体が、「安全な場所」ではない庶民の現場から発せられたユーモアであったろう。自己の卑小さを突き放し乗り越えていかせるメンタル・コントロール。そんな対応は、戦争に駆り出されて死んでいった職人(戦友)たちへの弔いの場として、私自身が手入れにはいる新宿区の戦後造られた富士塚の造景にもいえるのではないか、と読み込んだのだ(「朴石と富士講」)。つまり、柄谷の「崇高」を、ナショナリズムには回収しきれない、実践的な「信仰」として読み替えたのである。つまり、柄谷の両義性の一方の論理的可能性を切ったのだ。だから私自身は、憲法1条は変えるべき憲法改正論者だが、9条という切腹倫理は、ドストエフスキー的に(その『白痴』で切腹を擁護している)より徹底化すべきだ、という説である。そんな態度が、カント的に、あるいは哲学教養的に成立しうる論理文脈があるのかどうか私にはわからないが、気概としては、そんな感じになるのである。

だから、そういう観点に立つものとして、石川氏の論考を振り返り、柄谷と蓮見、どちらが「安全な場所」にいるのですか? と、問いたくなるのである。これは、論理的な話ではなく、具体的な、「身を以って」な話である。柄谷は、NAMのような実践をおこし、自らファルス的な滑稽さを実現してみせた。私には、これは、「安全な場所」から降りていった行動にみえる。東大総長にもなった蓮見はどうなのか? 批評ではなく、小説を書いて見せ、そこで東大総長にもなった男が「熟れたまんこ」と書いてみせることは、「安全な場所」から降りていく勇気ある実践だというのだろうか? 私には、こちらもまた「滑稽」な姿にみえる。そしてどちらかといえば、柄谷の文字通りな実践のほうに分がある。実際に木から落ちて死に損なった私からすれば、両者の差異は相対的なものにすぎないだろう。がもちろん、私はこの「安全な場所」ではない場所、「距離」のない場所、ということが、具体的であるとともに、理論抽象的な文脈に挿入されていることを知っている。

私がNAMにいたとき、芸術系担当の岡崎乾二郎氏から、樹齢何百年以上だかのケヤキの木を伐採して新聞沙汰になった件で、PC的に揶揄されたことがある。新宿は大久保の都営団地をつくるのに、その大木が邪魔になったのだ。何度か切ろうとしたが、その都度住民の反対運動に囲まれて、作業が中断されていた。そこで、私が元請けから呼ばれたのだ。雨の日だった。普段なら作業もおわる、夕刻は6時を過ぎていた。たしか、秋も深まったころで、暗くなるのも早かった。すでに、樹木のまわりは、ユンボで穴をほり、根切りされていた。あとは、木に登り、ロープをかけ、それをまたユンボでひっぱって引き倒すだけの段取りまでいっていた。「俺、きのう上までいったんだけど、『降りろ』コールがあって、おろされたんだよ」と、この現場に長らくはいっていたのだろう太っちょの職人がいう。となると、昨日までは、地面があったわけだ。もう、ない。だから、ハシゴは使えない。しがみついていくだけだ。雨で、幹はすべるだろう。安全帯をつけられる木の太さではない。雨で住民がでてこないのを確かめると、詰所からでて、夕闇のなかを、木にちかづいた。ハシゴを穴の中におろし、また、穴から根の上の面にかけなおし、ケヤキの真下に立った。「どうやってのぼるの?」私は、一緒にきた太っちょにきいた。「このロープ、あの一番下の枝に投げられるかい?」彼の父親は、空師だった。高木専門の山師のことだ。だから、庭師には知らなないロープワークを知っている。何度か投げて成功して下枝をまわって落ちてきたロープで、いまならハイネスとかいう道具に似た座席をつくり、そこに座ってロープをひっぱっていけば自動的に座席があがっていく結びを作って私に手渡した。手の力だけではなかなかあがっていけないので、幹を足で蹴って登っていく。雨で、足がすべる。下枝までついてからは、とにかく、しがみついて枝の上に上体をだして、またがないといけない。今度は、手がすべり、何度か、ずりおちそうになる。下枝に立ってからも、できるだけ上を目指して、容易には手の届かない枝をつたっていく。…

木の上は、ほぼ誰も気づかない。間違って枝を落としてしまえば、通りをゆく人々にケガをさせ、殺してしまうかもしれない。安全柵など、言い訳的な役所処置にすぎない。鉄パイプで足場を組んでいく鳶職人の現場も、そうだろう。男気発揮するやんちゃな彼らも、内心はびくびくものであることを私は知っている。それを抑えるには、熟練したメンタル・コントロールが必要だ。誰も、気にも止めてくれないような場所で、人々の「安全な場所」を維持するよう強要されるのは、孤立した孤独であり、行き場のない悲しさにおそわれるときもでてくる。だから、私がイラク戦争に反戦するデモで、息子をのせたバギーに掲げた幟にはこう書いた。「自衛隊員を見殺しにするな!」

「安全な場所」などなくなったとき、人は、なにを選択すればよいのか? いやそもそも、動物たちには、安全な場所などあったのか? 植物は? どうふるまって、生命ある物たちは生存してきているのか? 私は、石川氏が多用するフーコーやデリダではなく、死刑執行人に恋したジュネのことをおもう。この作家には、どんな論理があったのだろう? ――「庭師は庭のなかで一番美しい薔薇である。」(ジュネ『葬儀』)

*石川氏の『政治的動物』は、以上のような立論をめぐる考察のほかに、資本主義と国家をめぐる河中氏の中上論との比較、そして、前回ブログにも書いたように、引っ越しの最中なので、家(建築)と文学をめぐる指摘などをより身に受けて考察してみたくなる。が、それはまたの機会とする。

2020年9月20日日曜日

引っ越しをめぐる


「庭師のあんたにゃこんな人足仕事は面白くねえだろうがな、俺たちゃ日がなこうやって、土と埃にまみれて嬶(かかあ)や子を養ってるんだ。……いかな植辰の若い衆でも見下げやがるとただじゃおかねえぞ、この野郎っ」
 頭は低く吐き捨てると、男たちの群れに戻って行った。何ひとつ、言葉を返せなかった。狸はもうとっくに姿を消している。
 ちゃらは独り、取り残された。
 石くれと木の根の残骸が剥き出しになった裸地にざらついた土埃が吹き上がる。ここに庭を造るためにいかほどの木々を抜き、どれほどの命を踏みつけたのだろう。人は自らだけに飽き足らず、生き物や木々にまで身分をつけて蔑視(さみ)するのだ。身分の低い木々は命ある物ですらない。…(略)…流行り病の死者は月光時だけで百人を超え、小石川の養成所や他の寺社に担ぎ込まれた数を合わせれば既に千人を超えるらしいと噂になっている。
 しかし正確な数はわからない。御広儀(おかみ)がその数を把握しようとしないからである。調べに乗り出せば伝染(うつ)るとでも思っているのだろうかと疑いたくなるほど疫病に対し弱腰で、遠巻きに見ているような気がする。」(朝井まかて『ちゃんちゃら』講談社文庫)

「ほんとに、この物件がいいとおもっているのかい?」と私は、女房にきいてみた。実見にたちあってくれた不動産屋の女性事務員は、いまは二階家のなかで、電気を消したり戸締りをしているのだろう。玄関前で挨拶をかわしながら、私が手にしていたマスクをつけようとすると、「いやしなくて私はぜんぜんオッケーですよ。暑くてたいへんでしょう」と彼女は案内してくれたのだった。その物件は、息子が通っていた小学校との隣地にあった。子供たちに教えていたサッカーの練習場が校庭でもあったので、その地帯を知らなかったわけではなかった。が、いざ格安だから買うといいだした女房と一緒に、その家というより敷地一帯をみてみると、いわくありげな気がしてきた。その家は、高台の墓地の崖下にあった。小学校の校庭自体が、南側を5メートルほどの高さのコンクリート擁壁で仕切られた下にあった。その地続きの一区画で、おそらくかつてあった何件かは、校庭に吸収されて花壇となり、また役所の管理下にはいって、金網に囲われているだけのものもあった。この区画へは、幹線道路へとあがっていく車道の中途から路地道にはいってこなくてはならないのだが、下は、暗渠だという。乗用車一台がぎりぎりで、百メートルほどいくと擁壁につきあたり、その突き当りには鬱蒼としげった庭木のなかに甍を広げた二階家が構えていた。売り出しになっているのは、その手前側の一軒家である。崖下から玄関敷地までの道路幅が、4メートルに満たないので、再建築不可物件だ。改装はできても、柱や壁といった構造物をいじったり、更地にして立て直すということはできないという法規制がつけられている。つまり、将来は朽ちるにまかせ空き地になることがめざされている、ということだろう。学校の校庭とともに、洪水がおきれば水没地帯となるのだ。

が私が気になった、というか気が付いたのは、そんな地理的環境ということではなかった。そこで暮らす、人間環境だった。この地域には、寺と墓地がおおいのは、江戸時代、火災の被害にあったりそれを避けるために、移設されてきたからである。となれば、墓を守るひとたちも連れてこられただろう。暗渠になった路地道は、早稲田通りへと続く坂道をよぎって、さらに家々の密集する間を細ぼっていって、江戸時代半ばからつづく火葬場の下をくぐり、関東大震災から逃れた下町からの人々で興されたという三ノ輪という界隈へと抜けていく。私が勤める植木屋もその一角にあった。おそらく暗渠は、目白の高台の下にあるそこから、染め物の産地としても残る妙正寺川へと注いでいるのだろう。植木屋に努めて間もない頃の酒の席で、親方は言っていたものだ。「いちばん狂暴なのは、火葬場の連中だよ。でも安心しろ、もういねえから。」

家の作りはおそらく、しっかりしていた。築40年はたつが、構造的には問題なさそうだった。玄関をはいれば階段、廊下にそってトレイと奥に風呂、反対側は台所とリビングで、そこに奥座敷がつづき、床の間があった。女房はしきりに、床をぜんぶはりかえてフローリングにするだの、二階のトイレをなくすだの、あなたにも本を置く部屋を作ってやるとかいってはしゃいでいる。二階の窓をあけると、隣家がみえた。突き当りの壁下の二階家とはべつに、その裏に、平屋がもう一軒あった。屋根は、相当むかしのスレートの類いで、たしかこの感じのアパートが、いま私が住んでいる団地から三ノ輪界隈へと坂をくだった途中、鬱蒼とした林の中に埋まるように立ち並んでいたはずだった。私が植木職人になって数年後に取り壊されてなくなったから、もう20年以上はたつだろう。現在も、都の管理の広大な空き地のままで、最近その一角が、工事部の資材置き場として使われはじめたようだ。若い頃、はじめて自転車でそこを素通りしたとき、まったくの異界に突入したような感じになった。真夏に通ると、いきなり涼しくなるのだが、気配が暗かった。その長い坂道の南側に広がる一帯のてっぺんに、当時としてはハイカラな構成をもつ団地が二棟建築されたわけだ。が、そこ自体、地元を知る人にとっては、いわくありな敷地なのだ。引っ越しすると、知り合いの職人は、「え、乞食山にいったの?」と聞き返した。大戦下、崖に穴をくり抜いて防空壕にしていたのだがそうだが、戦後しばらく、そこに住み着いた人たちがいたのだ。団地敷地内のそこは、いまでも土砂災害指定地域になっていて、補強工事の予定も視野にはいってきているときく。しかしそんな以前からも、三ノ輪界隈に住んでいた作家の林芙美子の一小説のなかで、「乞食部落」として言及されてあった。坂道の南側が「乞食部落」で、北側の妙正寺川沿いが、朝鮮人部落だったのだ。私の知り合いの不動産屋は、そこを紹介しなかった。テレビでもコマーシャルをうつ看板をかかげた駅前の不動産屋から、紹介されたのである。今回も、ちょうど暑中見舞いの営業ハガキがとどいて、手数料半額とあったそのハガキをもって、女房が再び出向いたのだ。団地の2LDKの間取りでは、息子が高校生にもなると、手狭になる。一人で眠りたいと、息子は毎晩、食卓の下に布団を敷いて寝ていた。引っ越しするのはいいだろう、しかし、初老をまえにした私が借金してまで家を買う必要があるのか? 毎月高い家賃を払うくらいなら、買ったほうが得なのだ、と女房はいう。頭金は、親が残した遺産があると。私自身としては、女房がもう年金をもらえる歳なのだから、その分の上乗せ金額の3LDK賃貸物件で十分だ。経済情勢、世界情勢も、一寸先は闇になった。コロナ禍で仕事がなくなり、家を手放す家族がではじめたというNHKの特集番組も放映された。日常物価がインフレになれば、そのなかで不動産を買う一般客などいなくなるから、物件は暴落するだろう。自分たちで住まなくなれば、売れば、貸せばいいと女房はいう。日本ではそんな家を買ってくれる、中産階級はいなくなるだろう。不利な環境にある物件は、廃墟となり、自然にかえっていくだろう。少子化で、日本人の買い手がいなくなれば、条件のいい場所は、国際的に生きのこった資産家なり投資家たちの間でまわされるだけだろう。無駄に動かないで、必要に応じて動けばいい。いまは、息子の部屋だけではないか……。

隣地を囲む金網と二階家との間に敷設された側溝を通って、家の南側の庭に行ってみる。庭といっても、木があるわけでもないどころか、足下は土ではなく、拾ってきたような平板が適当に並べられているだけだ。隣家の平屋の住人が、こちらとの境界に、自身で木製のフェンスを設置したのだろう。土台が、ブロック一段のみで、モルタルがもられっぱなしで敷きならしてあるわけではなく、目地もはいっていない。さわるとぐらぐらで、それを自身の家の庇の梁から何本かの垂木をフェンスの頂上へのばして釘打ちし、倒れるのを予防していた。それでも寄りかかったり、子どもが押しくっても、倒れてしまうだろう。境界杭がどこに埋設されているのか、地面をみても、わからなかった。

実見をおえて、不動産屋の女性事務員とわかれてから、もうひとつ学校側の校門へとつづく路地道の方からか入り直して、その崖下の一帯を覗いてみた。誰の所有物ともわからない砂利敷地に、軽自動車が一台とまっている。車の背後から、先ほどみた木製フェンスがたちあがり、フェンス沿いが、平屋の敷地へ入るための狭い通路になっていた。門はなく、花壇用の鉄さくで通路口がふさがれていて、雑草が踏まれることで道となっていた。インターフォンはない。どうやって、奥にある家の住人を呼ぶのか。学校側の金網側に、洗濯物がほされていた。この軽自動車も、平屋の住人のものだろう。現場の人間だな、私には、そうにおってきた。事務員が物件の戸締りをする音が伝わってきた。

団地の六階にある家へともどって、どうやって女房の気を変えさせられるのかを、私は思案していた。おもいつめたら、壁に突き当たるまでいってしまうのが性格だ。欲望は、何がなんでも手にいれる、みたいな性分だ。いい面もあれば、悪い面もある。そもそも、なんでまた、いわくありそうな物件に食指がのびるのだ。おもしろそうだからなのだろう。その感性はいいとしても、ほんとに、ついていけるのか? 植木屋の女房であっても、その階層に付き合いがあるわけではない。どうにか高台にある団地では、近所の生活クラブの奥さんたちとつきあっている。旦那が、いい企業に勤めている人がおおく、私には、そのクラブ運動の一面とは、そうした奥さん方の罪滅ぼし、良心の呵責なのではないかと思えている。つい最近辞任した安倍総理を病的に否定するのは、自分がその保守地盤にこそ属している現実への無意識的な否認の身振りにみえる。女房もまた、育ちとして、その身振りを共有している。そんな彼女が、あの物件の一角に、適応できるのか? 俺はそこで生きてきたようなものだからいいだろう……。考えているうちに、ふと、二人で最近レンタル屋から借りてみた映画のことをおもいだした。そこで、女房にいってみた。

「あの住宅地は、この間みた映画にそっくりだよね。更地になった空き地があって、そこを一角に三件が向き合っている。空き地の隣のほうに主人公夫婦は引っ越してきて、奥の家が犯罪人で、その隣は火事になって……俺の、実家もそうだよね。空き地があって、裏には元軍人の屑屋が掘っ立て小屋を作って住んでいた。結局はそこを実家が買い取ったわけだけど……」女房は、まだ私が何を言っているかわからないようだった。が、ちょうどそのときだったのだ、つけていたテレビで、黒沢清氏のヴェネツィア映画祭での銀獅子賞受賞(『スパイの妻』)のニュースが流れたのは。
「これだよ。この監督の『クリーピー』。あれは、日野市がモデルで、郊外の現実が問題になっているんだけど…」住宅が、敷地が人に作用して罪を犯させているというような視点。クリーピーな変態に夫婦がだまされ、はめられていくのは、すでに、現代の家族が虚偽意識にさいなまれ、実質的に空虚であるがゆえに催眠術にかけられやすくなっており、洗脳されやすい状態になっているからだ。クリーピー(変態)なのは、猟奇殺人を繰り返す隣人というよりは、普通にみえる現代の家族のほうこそなのだ。去年、カンヌで最高賞をとった是枝氏の『万引き家族』も同様だ。万引きで生き延びていた子供たちは、ほんとうの父母ではなく、にせものの犯罪者家族のほうにこそ、人間味をみ、心を通わせる。普通に潜む空虚。

私のこの説得で、女房は、その物件は「ババ」だったとあきらめた。そして、さらに高価な、高台の、新築物件に食指を伸ばすのだった。「植木屋の妻」はどうした? 持病の潰瘍性大腸炎を悪化させてまでこだわる妻の「欲望」はどこからくるのだ? そしてどこへ行くのだ「普通」? どこまで行くのだ「空虚」! 「空虚」! 「空虚」!

2020年9月7日月曜日

量子論を詠む

人のなかに落ちてつぶれゆく幼きころの自尊心はおそらく星のなりわいと同じ

ここに在る鉄粒の動きも波なれば我と汝は大海の宇宙

観測とは私が見る見ないでなく諸星団(もろほしだん)が見せているもの

我あらわれて何処にゆくとも知れずともあまねく在るとは心やすまる

確率とは気まま気まぐれの天気ではなく嫌気がさしてる出不精な魂

嫌ならばなんで泣く泣く産まれでるたゆたう海原波動の収束

ああもありこうもあるかも世界でもなみなみならぬ他ならぬこの

潜在と可能性とが重なるとも並ぶ世界にこの私はいない

人もみな土にかえるならば魂が死なずは物質と同じ粉々になろうと

粒子とて束ねた波の記憶あり我くだかれて宙に消えても

収束はこの一度だけバラバラになった私は破爪場で待つ

生を知り死を知らずんばと焦がれても生きると死ぬは同じ重なり

2020年9月6日日曜日

腸内環境とエヴァ――新型ウィルスをめぐる(16)


In Deep」のOka氏が、潰瘍性大腸炎つい報告している。それによれば、洗剤使用など過度に衛生的になった環境が、腸内細菌を減滅させていったことからきている現代病なんではないか、そういう研究が提出されているということだ。早いと、もう5歳から発症するケースもあるそうだ(安倍総理は10代からだそうである)。しかも、いちど減殺された細菌は復活してこない。この身体的現実を、現在のコロナ下の日常とつきあわせると、子どもにも殺菌消毒を奨励しているわけだから、その手で口をぬぐう子どもの習性をかんがみれば、相当な憂慮すべき将来が待っているだろう、となるわけだ。

ちなみに私の女房、「虫垂偽粘液腫」の疑いもたれた盲腸手術が、持病の潰瘍性大腸炎悪化のため中止となり、退院してきた。その最初の発症も、ちょうど第一回目安倍総理辞任の時期と同期的だったのだが、今回も、同様な時期に悪化とあって、何か周期性があるのか、と思ってしまう。しかし、入院まえにはもちろんPCR検査があって、コロナ陰性であることの確認が必要なのだが、それ以上に、難病指定の潰瘍性大腸炎よりも稀で難病であるがゆえに難病指定の補助金支給にはいたっていない「虫垂偽粘液腫」のほうが大変だろうとおもうのだが、まだ破裂して腹膜炎になるほどの炎症膨張にはいたっていないという判断なのだろう(去年、女房の知人で、私も植木手入れにもいった家庭の主婦が、破裂させてしまって亡くなっている)。盲腸も大腸の一部になるのだろうから、大腸自体の炎症はげしいと、虫垂を切除することにともなう影響があるのだろうか?  大腸炎と虫垂炎との関連はない、と医師は説明していた。関連があるという症例報告はあるようだ。安倍総理は、強めの薬にかえても効かなくなったということで、悪化した白血球を取り除いていく透析のような処置を慶応病院でしたそうだ(仮病、という記事もでているが)。そうした外科手術とはべつに、順天堂大は、「便移植療法」というのを試験しているらしく、この自然療法的な処置のほうがよさそうではないかと女房にいってみたが、妹が白血病なんだから免疫にあう便があるのか、あなたので大丈夫なのか、と聞いてきた。すでに大学病院のほうで、使う便を凍結保存しているそうだが(むろん身内がよく、最低でも同世代のもの、らしい)定期的な内視鏡検査もおおく、移植もどうも手術みたいなのになるようで、しかも移植前に、抗菌投薬で腸内細菌を「リセット」するということで、これまた私にはおそろしく感じるのだった。いまはどうも、試験者の応募自体が中止されているようだが。

しかし、その順天堂大病院のホームページ紹介を読んで気になったのは、潰瘍性大腸炎の治療のページに、アトピー性皮膚炎の試験者募集のリンクが貼ってあることだ。どうも、アトピーも、腸内環境と関係があるらしい。つまりは、腸内細菌と、免疫との関連、ということだろう。ということは、息子のアトピーは、女房経由の遺伝なのだろうか? そういう可能性がある、免疫低下の身体環境は、遺伝していく、ということもあるのだろうか? 私は、女房やその妹の免疫疾患が、もしかして、水俣病というか、その環境と関連している可能性はないのか、と疑った。水俣病自体は、有機水銀による中毒症状ということだが、とにかく食い物から摂取されていくのだから、腸内環境にも影響がでるのではないか、と思ってしまう。

ところでコロナ。田中宇氏の報告によれば、インチキ」ている、ということだが、統計的な過誤や操作があったとしても、なんらかのウィルス自体の症状もある、ということも確かだろう。私の総合理解では(人為ウィルス説はとりあえずどけて)、これも現代病、花粉症みたいなものなのではないか、となる。花粉自体は、いつもすでにあまねくあった。つまりは、徳島大の大島氏が説くように、「常在ウィルス」的に存在していた。が、ディーゼル排気ガスと混交することで、人の免疫にいたずらする能力が付加されてしまった。それに過剰な免疫反応を発症させてしまうのは、人種的、年齢的、体調的にも、きっかけは様々になる。コロナ騒ぎをみていると、私には、そんな花粉症、現代アレルギー疾患に思えてくる。
しかし、「インチキ」だとして、みなは、黙っているのだろうか? 日本人は、黙って処すのかもしれない。が、告発するにしても、誰をなんだ? 犯人がいるとして、その動機は? ……そうなってくると、裁判にできるような証拠もなく、都市伝説的な陰暴論としてしか説得力はもたない。が、このふりまわされた世界民衆の不満と怒りはどこにいくだろうか? 鬱憤を爆発させればさせるほど、なおさらインチキにはめられやすくもなる。

で、NHKで、エヴァンゲリオンを放映していた。序・破・Qの三部を、録画してみてみた。最終回が、コロナのため、劇場公開中止になったのだそうだ。このNHKの企画が、当初から、つまりはコロナ以前からのものだったのかどうか、私は知らないが、1990年代のものがリメイクされたというこの前半三部をみていると、コロナ騒動陰暴論解釈版、に思えてきた。「人類補完計画」とかいうものを遂行しようとするゼーレとかいう世界秘密組織と、それに従うふりをしたネルフとかいう日本の下部組織と、さらに、それらの陰謀をみやぶって謀反をおこした庶民組織である。人間にとっては悪役の神の使い使途とは、人造ロボットのエヴァに自らの遺伝子を感染させてもいくのだから、ウィルス的存在だ。「人類補完計画」とは、アングロサクソン・ミッションとか呼ばれる都市伝説の、人類を5億人まで減殺してスマート管理社会、理性統御の世界の実現を目指しているとされる、世界の上層インテリ貴族の計画、というのと重なるだろう。NHKの誰かが、そうした符合を読んで、ロケできなくなった番組中止の穴埋めに、エヴァ放映を企画したのだろうか?

私自身は、90年代エヴァンゲリオン、いいかえれば世紀末のエヴァほうが、他者と直面しているようで好感をもつが、新世紀エヴァは、なんだか松本零士の宇宙戦艦ヤマトか、みたいな感じになって、いかにもな最後の審判イメージ、記号が全面にでて、画面もテカテカでピカチュウ―か、と幼児的な印象をもつのだが、このコロナ下でみると、その幼児的なインチキ(虚構)性が、ずいぶんリアルにおもえてくるのである。世界自体が、都市伝説的な、一概には信じられないパンデミック(狂乱)になっているのだから。

2020年9月5日土曜日

暑いなか詠んだ歌

・子をもちて妻をもちても人しれず考える世界はいつぞよりつづく

・身を焦がし炎天下で草を刈る日雇いの問い世界とは何か

・力落ちて初老を悟る歳をまえになお衰えぬ「なんでだろう?」

・違うとは夫婦喧嘩に露岩して人の地層がせり上がり居り

・Black lives matter 黒焦げこそが生命を問題化できると訳す

・見上げれば眼窩に溜まる汗だくの雫の中のわれ焚く太陽

・身が焦がれ使いきった炭となれども細長くしてひと筋の思考

・天もあり地もあることこそ人の世の隔絶してあるは誰のためなり

・陰謀をたくらむ人を他所にして知恵を手向ける世界を創らむ