2020年9月25日金曜日

新型ウィルスをめぐる(17)


今日9/25(金)の毎日新聞朝刊の社説「コロナ下の自殺」によると、自殺者数が7月から前年比で増加に転じ、8月は1849名で246人の増加、だそうだ。実際の数値は別にして、増加していくことは予想の現実だったわけだが、社説でも「心配」とあるように、憂慮すべきなのは、女性の自殺者の増加なのだ。8月前年比より「約40%増えて650人になった」というのである。%もびっくりだが、その数も驚きだ。このブログで、人口統計学者でもあるエマニュエル・トッドの考察に触れてきたものとしては、これは、驚異的な変化なのではないか、と感じる。トッドによれば、社会変化の兆しは、ソ連の崩壊時がそうであったように、働く年代の男性の自殺率の変化にまずあらわれる、とされてきた。そして近代社会としての前提として、女性の識字率の向上という変数が重ねられるのである。

日本のコロナ下での女性の自殺増加には、もちろん、女性の識字率や学歴が向上し、自らが働き、男との結婚を選ばず、あるいは結婚し子供を産んでも、離婚して母子家庭になっていく道を選んでいく女性たちの増加、という背景があるのかもしれない。孤立しがちな男性とちがい、女性はネットワークを築き自らのメンタルをもちこたえさせる、みたいな伝統文化的というより、身体自然的な能力によって説明されたりもしてきたわけであるが、この根底的な自然性もが、日本では破壊されているのかもしれない。社説では、「詳細な分析」が必要だと論説されるが、その現実の確認だけではなく、「真剣」な分析態度が大切になってくるだろう。

新総理になった菅が、手始めに打ち出したのが、女性の不妊治療への保険適用ということだった。的の周辺には矢がとんでいるともいえるが、これは、おそらく自民党の憲法改正案の実現の実質をにらんだ布石、その症候だろうから、実際には目指している的は現に日本にある現実や自然ではなく、党の理想の方なのだろう。せめて、男と結婚して子供を産む気のある女性たち、つまりは自民党を支持してくれる可能性のあると党人たちが期待している者たちだけでもまずは救っている仕草をみせよう、ということだ。精神障害の認定をもつ私の兄の話によると、自民党の憲法の改正のねらいとは、親や障害者の介護・面倒見は家族にまかせ、その理想家族の実現のために、障害者や老人への年金をカットしてく、その実行のために何条と何条を変更する憲法改正を目指している、という。そう言われると、たしかに、為政者の本当のねらいは、9条ではなくて、1条の天皇制を、象徴的なだけではなく、もじどおり国民的に実装されるよう、理想な家族像とされるものを、無理やり押し付けて実現していく、ということにあるのだろう、とおもえてきた。現実からして本来は、女性の労働条件改善や保育施設の拡充、母子家庭への補助等が実現されていかなくてはならないのに、安倍を継承するという菅および自民党政権は、自分たちが破壊してきた自然を修復するのではなく、もはやありえない近代的な一時期の核家族理念を、その見かけだけを、保全しようと暗躍している。

ところでその総理を引退した安倍が、このブログでも新型ウィルスをめぐって紹介した、大橋氏のYouTubeだかツイッターのフォロワーになっているという。大橋氏は、コロナ以前から世界の陰暴論を説いてきた人のようであり、このコロナもそうだろうと想定しているわけだから、そういう人物が大学というアカデミズムから胡散臭く排除されていくのは常套的であるとしても、その主張を、ついさっきまでの総理大臣は、どう受け取るのだろうか? 「いいね!」とおもっているんだろうか? おそらく、たぶん、そうなのだ。田中宇氏の見立てだと、安倍は、経済閉鎖をしてアメリカの世界一極支配を終わらせたいトランプからの命令を受けて、自分ではロックダウンだなどといえないので、小池にやらせた、ということになるのだが、世俗現象的には、とてもそんなふうには見えない。トランプにしろ、安倍にしろ、麻生にしろ、「コロナは風邪だ」と認識して経済活動を通常通り続行させたかったが、できなかった、という風にみえる。つまり、大統領も総理大臣も、自らが望む政策を続けられなかったのだから、それはなんでなのか、というのが、世俗現象からくる疑問である。そこから、一国の政府をこえた陰謀論的な見方がでてくるのは、その当否は別にして、論理的に理解できることだ。そしてその論理に、安倍くんが、「いいね!」とおもっているとしたら、どうなるのだ? おれも実は、被害者なんだよ、といいたいのだろうか? 田中宇氏によると、すでに中国よりに舵を切りはじめた日本政権は、トランプと友達になってしまった安倍ではアメリカにひきずりこまれてやりづらくなるから、それを見こんだ安倍は自ら降りた、となるのだが、これも、世俗現象しかみれない者には、すぐに信じられることではない。世界的な陰謀があったとして、安倍や麻生は駒にすぎず参加などさせてもらえないだろうが、なんとなくはわかるはずで、そのなんとなく巻き込まれていると感じているところから、コロナは風邪だと言っているに近い大橋氏の話をフォローしてみたくなったのだろうか。

しかし大橋氏は、疫学者というよりは教育者に近い人なのだろう。自分の仮説から、視聴者自らが自分の頭で考えてほしい、と言うのが一番の主張なのだ、ということだろう。で私自らの頭で考えて、コロナは「常在(日和見)ウィルス」と説く大橋氏にたいする批判に関し、いくつか付記してみる。

・大橋氏は、集団免疫が日本ですでに成立していると説く京大の特任教授の上久保氏の説は、自分の説と重なるものだ、とも言っている。すでに抗体ができていれば、悪さするウィルスが体内にはいっても、常在的なものと変わらなくなる、ということだろう。似たような話は、スェーデンでもあったらしい(「スェーデン移住チャンネル」)。また、このスェーデン移住者の解説のなかにあったと記憶するのだが、確認できていないこととして、スェーデンがロックダウン的な処置をしなかったのは、ヨーロッパの科学者の間で、すでに何年もの議論から、パンデミックにロックダウンは意味がない、との結論に至っていたのだが、いざきてみると、その科学者の結論を実践していこうとしたのがスェーデンだけになっていた、別に「集団免疫」を獲得するのが目的ではなく、すでに出た科学的方針に従い、それに付随して集団的な免疫が成立してくるだろう、という話だった、と。となると、また、なんで科学の結論が実践できなかったのか? となるわけだが。科学者でなくとも、磯崎新氏などの建築家でも、次はパンデミックが世界のテーマになると、その展覧会企画をしていたのが実際のコロナでつぶれてしまったのだ、という話を浅田彰氏がどこかでしていたが、となると、ビル・ゲイツをはじめ、あるインテリの世界では予測されていたことが本当におきて、エリート・インテリから「それみたことか」とパニックになっていった、とみえなくもない。悟性尊重主義者と、理性狂信主義者との境がみえにくくなる。

*いくらなんでも「集団免疫」成立は早すぎるだろう、と私はおもっていたが、その上久保説によると、コロナの流行は去年11月からだという。そこから、流行りはじめたインフルエンザがなくなってしまったような統計から推論しているらしい。ちなみに、私の手伝いにいっている練馬区の造園屋でも、11月に従業員と、赤ん坊を含む家族十数人が同時に風邪みたいになって、「ナニコレ」と騒いでいた。私は大丈夫だったが。また「コロナ人為説」を説く台湾メディアでは、たしか10月に人民軍の生物兵器が漏れた、と推定していたようにおもう。

・新型コロナのウィルスは遺伝子的に同定されていて、それが不明だとする大橋説は虚偽だ――「常在ウィルス」という仮説にたてば、論理的にいって、その悪さする以前のウィルスが何かがわかっていないと、比較同定できない。そして世にコロナ状況が出現するまえのPCR検査のデータなどないのだから、同定できる、ということはありえないだろう、となる。だから大橋氏も、コロナにかかるまえとあと、あるいは、かけた人とかかった人のウィルス情報を比較しなければ、同じものかわからないだろう、と当たり前なことを言っている。しかも変異してしまえば、それを同じとみなすのかどうか、さらに、にたようなコロナ・ウィルスはたくさん存在しているから、どこまでを同一とみなし、どこから違うとするのか、形而上学的な議論が発生してしまうのである。「東京型」と「埼玉型」まであるというのだから、「歌舞伎町型」と「錦糸町型」もがあるのかもしれない。今日の私と、昨日の私は、細胞がいれかわってしまうのだから、同じではないともいえるが、それを同じと同定することは、実用的な効能においてである。症状のある人のでも、ない人のでも、同じと実用的に仮説してるわけだ。ほとんど量子論と同じだ。量子には、「トンネル効果」というものがある。電子ビームで絶縁体の壁を打つと、たいがいは跳ね返された位置に電子(粒子)が確認される率が高いが、ときおり、壁を突き抜けていっているものがある。が、それはそうみえるだけかもしれず、打った粒と、壁の向こうで現れた粒が、同じものなのかどうか、本当はわからないのである。量子は波として偏在(常在)もしているわけだから、壁の向こうにあった波がなぜかは知らぬが、ある確率でもって、粒として出現しているということかもしれないのである。が、実用的には、そんな形而上学的な話につきあっていても埒が明かないので、同じ電子として、それを制御して半導体とか製造しているわけだろう。ウィルスと量子とは別なので、比喩にしかならないが、ミクロなふるまいの現実と、マクロなふるまいの現実がちがう、というのも、なお科学的には不明な、実用的な仮説であるだろう(いまの私は、そう理解している。勉強中)。

*なお、「スェーデン移住チャンネル」によると、かの地では、PCR検査は、ウィルスを増殖させる感度設定の情報も公開して基準を設けて、たとえ陽性でも(大橋氏によれば、一粒の付着でも陽性とでる場合あるので)、その基準値以下であったならば、陽性でも感染者ではない、という処置までするようになったそうだ。

・マスクの効用について、日本開発のスパコン富岳だかが利用されてシミュレーションされているが、実験前提がおかしいだろう。咳して唾やその飛沫がどう拡散されているか、をみるのではなく、普通にしゃべっていてウィルス的な微粒子がどうふるまうかをみなくては、いま騒がれているマスクの効用などわからないではないか。咳でマスクするなど、以前から日本人はしているし、喉がかゆくなってたまにでるくらいのときでも、口元を手や袖でおさえるとか、エチケットはしていたのだから、これまでどおりで問題などない。コロナは空気感染する、という学説の確認のために、マスクして呼吸している人たちの間で、ウィルス的粒子がどうふるまうのか、をみてくれなくては、意味がないだろう。でおそらく、スパコンでもそんなことはできない。量子とまではいかなくとも、ウィルスは極小で、マスクするとは、50cmの穴があいた網で昆虫をつかまえようとしてるようなものだ、という喩えもある。つまり空気と同じように偏在しているわけだから、空気をマスクでつかまえられるとは、呼吸ができないということと、同じなんではないのか。

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女性の自殺率の増加は、社会の底で私たちを支えていたかもしれぬ、自然・身体的な対応の基盤がなし崩しにされてしまっていることを暗示しているのかもしれない。大橋氏の講演会では、ほぼ誰もマスクをつけていないのだそうだが、どうも、会場へむかう電車や街のなかまではつけていたらしい。だとしたら、これもまた私には、マスクの着用とおなじ、おぞましい世界におもえる。自然や身体がどこかにいってしまって、イデオロギー的な対応のほうこそが全面にでてくる社会になっている、ということだ。マスクをつけない集会がこそこそやらざるをえない秘密結社のようになっていて、それを、元総理が「いいね!」する。マスク付ける付けないかがイデオロギー闘争になる。暑かったらはずし、ごほんといいそうだったら手が動き下をむく、こんな単純な生理的な反応さえが、意図的な世界に組み込まれて破壊されてしまっている、ということだ。

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