2017年2月24日金曜日

ジュビちゃん

山極 遺伝的有効個体数というのがありますが、実は最近のゲノム研究で衝撃的な発見がなされました。狩猟採集生活から農耕へ移ったとき、世界の人口は八00万人くらいいただろうと言われています。そのときでも、人類の遺伝的有効個体数は一万人にすぎなかったというのです。それはチンパンジーの約一0分の一です。今チンパンジーは世界に――といってもアフリカだけですが――三0万頭くらいしかいません。ゴリラはおそらく六万~一0万頭だろうと思います。しかし彼らの有効個体数は人間の一0倍あるのです。つまり、遺伝的に非常に多様なわけです。これから人類の一0倍くらい個体数を増やしても遺伝的に劣性にならないのです。人間は今七0億人いるわけですが、それが有効個体数一万人であるということは、遺伝的にいかに均質な、危ない状態にあるかということになります。それを今共存させているのは、まさに文化的多様性なのです。それがあるからこそ、ここまで増えたと言っても過言ではありません。それを意識しなくてはいけないのではないでしょうか。
中沢 それはとても「有効」ですね。文化的多様性をどう実現するか。今はそれがとても乱暴なやり方で、反グローバリゼーションなどのかたちを取りながら出てきています。それは時代遅れと言って否定するようなものではなく、人類が現代の事態に古くからのやり方でもなんとか対応しようとしているのだろうとも思います。しかし、それを超えていくものが必要です。「人類の自然」というテーマはそこにつながっていくとき、初めて意味を持つでしょう。
山極 世界にはものすごく多様な自然がある。そしてそれぞれの自然に寄り添いながら、いろいろな儀礼が昔から行われてきた。日本も南北に長い島で、かつ二000くらいの島がありますから、そういうところでいろいろな祭礼や冠婚葬祭がそれぞれの伝統に沿って行われています。その多様性が日本をつくっている。世界規模で言えばもっとそうで、日本はその縮図のようなものです。そういうものをきちんと見直す必要があるのかもしれません。
中沢 食の多様性なんてのもありますよ。全国の魚彼岸や市場を歩いてみると、あまりの多様性に驚かされます。そういう多様性はものすごく重要になってくると思います。」(「人類の自然」中沢新一+山極寿一 『現代思想』3月臨時増刊号 青土社)

常用で手入れに入っている新宿のお寺に、今時季になると、渡り鳥のジュビタキがやってくる。公園とかの人の出入りが頻繁にあるところに飛んで来るのは雌の方で、雄は林の中にいがちなのだそう。山手通り沿いにあるこの寺に顔をだすのも雌の方で、鶯色の体に尾だけがオレンジと目立つ色立ち。メジロよりひと回り大きい。雄の方は羽が濃い青のもっと派手な小鳥らしいのだが、見たことはない。

飛んで来て顔を出すと言っても、警戒心は普段から見かけるヒヨドリやムクドリ、あるいはメジロやシジュウガラ、セキレイなんかよりも用心深い。ウグイスほどではない。が、一月も同じところに居座って、移植のための穴掘りや、グランドカバーのタマリュウを植えつけていれば、用心が薄れるのか、ふと気づくとすぐそこ、2メートルほど離れた庭石や垣根の柱に止まってこちらを見ていたりする。虫を食べるというから、土を掘り返しているこちらの隙をうかがっているのかもしれない。とはいえ、同じく地中の芋虫の類を狙っているムクドリ、ヒヨドリなどは、人がいる間は近づいてこないのが普通だ。そう比べてみれば、人懐こいと言えるし、また事実、なんだか心の通う交流がはじまってきそうな感じになるのである。鳴き声に慣れてくると、すぐに近づいてきたのがわかる。
「ジュビちゃん、きたね?」
名前のジュビタキとは、火焚き、ということだそうで、シュ、シュ、という短く切る音が、火打石をこする音に似ていることからくるそうだ。朝の9時ころにちょこっとだけ挨拶するように姿をみせてどこかへいき、午後の3時ごろにまた現れて、お寺のあちこちを飛び回って餌をさがしているふう。1時間を超えるくらいは、私たちのまわりをうろちょろしているのではないだろうか?

佐渡の朱鷺も、農作業をしている地元の人の間には降りて来て田んぼの餌をついばむそうだが、観光客の前には現れない、と聞いたことがある。ジュビちゃんも、私だとわかって、安心して活動をはじめているふう。メジロなどもよく私たちの近くにあるウメやツバキの花のミツを吸いにくるけれども、こちらに関心があるようにはみえない。ハトのなかには人なれしているのもいて、脇を平然と通り過ぎていったりもするけれど、自分の欲求のことしか考えていないようで、お互いの心が通える、という感じにはならない。それはカラスと同じだろう。

が、私たち、と言っても、一緒に仕事をしている職人さん、自分の作業に夢中なのか、あまりジュビちゃんには関心がない様子。ハトの卵やカラスの赤ちゃんにさえ人道的な思いやりを見せる団塊世代の人物なのだが、ここ数年は急に老化が目立ってきて、落ちてきた仕事量を作業時間で補おうとするかのように、ひたすら与えられた仕事に没頭する。60歳を過ぎたころに腰痛手術を受けていったんはこの植木屋を退職したが、結局その間、シルバー人材で植木仕事をやっているのだからと、親方が呼び戻した。実際は、後を継いでいる自分の息子に愛想つかして若い人材がみなやめて人手不足になったからだろうが、そんな人聞きの悪い話を受け入れる職人さんではない。娘さんによると、またここで、というよりも私と一緒に仕事をするのが嬉しくてしょうがないらしく、朝からニコニコして出勤していくようになったという。けれども、若いときには過激に飲み歩いた人だ、体にガタがきている。腰痛手術のための検査で心臓が悪いとわかり、不整脈がなくなるまで手術が延期にもなったりしたようだ。昼食時に飲む薬を忘れると、顔に浮腫みがではじめ、ほんとうに妖怪のような風貌になる。そんな事情も知らずに、夕方が近づくにつれどこか顔が崩れていく印象を受け、帰りの5時の時には両目がコブでふさがれた状態で現れたときには肝がつぶれた。仕事が忙しくて病院に行く暇もなく薬切れ状態なのだという。もちろん、仕事はもやは忙しいどころか暇でしょうがない。親方とのマンツーマンでやっていたときの強迫観念から抜け出せないので、自分から病院で休むとは言えないのだ。今もこのお寺で親方ともいっしょにやっているとき、一服の缶コーヒーを飲み終えるやさっそくと作業をはじめる。5分も休まないだろう。煙草に火をつけたばかりの親方は一瞬驚いたような嫌な顔をするが、もう何もいわない。親方よりか5歳以上は年上だろう70歳に近いその職人さんの後姿は、今を生きているのか、過去を生きているのかわからない。物忘れが2・3か月ごとに進化していく、という気がする。自分でも気づいたのか、「認知症かなあ」と漏らしたこともある。そしてそうふと自覚する時のなかで、おそらく職人さんは、この毎日が最後になるかもしれない、と噛みしめただろう。そうしてまた、過去の習性に忘我してゆく。その一つ作業に埋没してじっとしている姿には、しかしだから、今日を生きている喜びが刻まれている。その刻印の微かな威光が、親方を黙らせるのだ。

シー、シー、と灯篭の傍らにうずくまってタマリュウを植えこんでいた私の近くで、静かな鳴き声がする。
「うん? ジュビちゃん?」 私は顔をあげて目をきょろっとする。園路を仕切る割竹の囲いにとまったその姿が写った。
「あれっ、鳴き声を変えたの?」 発情期を迎えた時の鳴き声だろうか?
すると、背後で黒松の手入れをしていた職人さんが応答した。
「ああ、じゃあ、さっきからいたんだね。わからなかったよ。」
私は作業着の胸ポケットから携帯電話を取り出して、カメラモードにした。
「ジュビちゃ~ん、動かないでね。」 何枚か、シャッターを切った。その音にも、ジュビちゃんは驚かないで、ずっとこちらを見ていた。松の手入れを終えられる目どがついたのだろう、だから職人さんは、周りの気配にも気付いたのだろうか。北風はなお強く、ジャンパーのフードを被った職人さんのうつむいた表情は見えなかった。ジュビちゃんは声もたてずにじっとしている。

私自身、小鳥たちのさえずりに耳をそばたてはじめられたのは、ここ数年になってからだろう。公共工事を息子に任せ、親方と私たちは昔なじみの仕事に引きこもってからだ。ある意味、のんびりとした時間を過ごしている。その急かされない時間の中で、50歳を迎える今年がやってきて、はじめて私はジュビタキと仲良くなった。何年も前から気になって野鳥図鑑なども買って調べていたけれど、ジュビキタスなどと間違って覚えたままだった。もう違う。しかしこの違いは、私が毎日を噛みしめ始める歳に入って来た、ということなのだ。だからおそらく、忙しく働いていても、そのふとした時間の緩みの中で、私は小鳥たちのさえずりに耳を澄ますことだろう。

ジュビちゃんは、それを知らせるためにやってきたのかい? 今日の風変わりな不思議な呼びかけは、そういうことなんだね? 自分がまだ、それを受け入れる喜びからはほど遠いことはわかってるよ。だから、そんな神妙な目を向けたまま、じ~っと見つめないでおくれよ。

*ジュビタキではなく、正しくは、ジョウビタキ。野鳥図鑑見ながら書いての読み間違え。下は、オス。新宿消防署の手入れしている時、署長の社宅の庭で。

2017年2月9日木曜日

「保育園落ちた日本死ね!」――山城氏の「ベンヤミン再読――運命的暴力と脱措定」を読む

「長期日本に滞在し、新聞であれテレビであれ現地の言論を注意深く見ている人はおそらく知っているでしょうが、日本は韓国人も当惑するくらい「北朝鮮関連の言説」が溢れている場所です。ほとんど毎日のように目にします。それもとても否定的な形で。
 そのような新聞記事やテレビ番組、そして関連書籍を見てみると、報道の目的が事実の「伝達」にあるというより、事実の「消費」にあるという感じがします。つまり、それは単純な情報として存在するというより、現在の日本社会を構成する核心にある装置のひとつとして作動しているという結論にたどり着く。日本という国家が北朝鮮によってようやく存在しているのかと思われるほどです。
 韓国における言論と日本の関係もそれと似ているのではないかと思われます。もちろん、日本と北朝鮮の関係を、韓国と日本の関係と単純に比較はできない。しかし、「危険な存在」として相手を消費しているという点ではかなり似ていると言わざるをえません。このような関係を普通「敵対的共存」と表現するのですが、このような敵対感が作動するところでは常識が絶対化され、「あえて確認しなくてもわかるという論理」が横行します。そしてそのような雰囲気は大体民族感情と結びついており、それについて疑うこと自体がとてつもない非難を受けるリスクをもたらすので、気軽に異議を唱えることさえ難しい。」(『世界文学の構造 韓国から見た日本近代文学の起源』 曺泳日著 高井修訳 岩波書店)

久方ぶりの腰痛悪化で欠勤したのを幸いに、久方ぶりに文芸誌(『新潮』2月号)に掲載された山城むつみ氏の論考、「ベンヤミン再読――運命的暴力と脱措定」を図書館で読むことができた。このベンヤミンのエセー「暴力批判論」は、最後節で引用されているデリダの『法の力』とともに、私も興味深く読んだことがあるが、直観的なイメージ理解のままでいる感じで、どこか脳みそに歯がゆさのようなものとして刺さったままだった。だから、微細な読みを行うのが常の山城氏がどのように読解したのか、興味津々で早く読んでみたかったのである。さらに、山城氏のことだから、文芸批評にかこつけて、今の風潮を隠喩したジャーナリスティックなものにもなっているのだろう、と予測された。今そのタイトルに「再読」とあると気づいて、なぜ今「再読」なのか、と問うてみれば、やはりクリティカルな批判を意図していたのだろうな、と確認せざるをえない。実際、私には、どうやら世界中を巻き込んでいるらしいトランプ現象や、まさに舞台の書き割りのごとく次の幕開けが準備されてくる小池劇場という民主主義政治(議論)への誘惑に抗して書かれたもののように読み取れた。

基調的な構えは、ドストエフスキーを論じた小林秀雄を読み込む前作と同じものだろう。
なお対岸的に伺える戦争の暴力も、今ここの私と直結している日常にいつでも惹起しうるものとして存在している、という切り口だ。一文もコピーしてこなかったのでここで何も引用できないが、しかし今度のこの論文は、もっと暴力が間近に迫っているのではないか、という時事認識に急かれて再読され筆を起こされた、という気がする。

私は、こんな光景を連想した。
「保育園落ちた日本死ね!!!」――そんなツイートに共感してリツイートしたとある若奥さんは、世の中を変えてくれることを期待して、今回の選挙で、次期総理とも召された小池百合子に投票した。が、その当選と就任の同時期に、彼女のツイートは、警察機構のコンピューターにテロと検索・選択されてしまった。我が子は保育園に入れたが、自分はそのツイートに共感した他の奥さんがたとテロを共謀したという容疑で拘束される可能性があるという。「保育園」というキーワードを出汁にして仲間を募り、緊迫したアジア情勢の緩和を支援してくれているトランプ・アメリカとの同盟強固化を阻止しようとする北朝鮮側の扇動に加担しているというのだ。一緒に検挙される女性の中に、北朝鮮の工作員を疑われる人物がいたのである。小池総理は、同盟国としての断固たる立場を明確にするためにも、この事件の背後として、前総理の安倍晋三、さらには小泉純一郎元総理にまでさかのぼって調べるという。拉致被害者の日本国への召還自体に、現事件の伏線となる裏取引の疑いが出てきたからだ。総理大臣自身が日本の独立を裏切り、そのことで沖縄からの米軍引き揚げの時期を引き延ばして基地維持の予算を上積みさせ、日米両国に多大な不利益を被らせてきたのである。小池総理は、この事件を、かつて日本をロシアに向かわせずアジア・アメリカ対策に専念させるよう工作したゾルゲ事件にもたとえている。マスメディアは、イスラム国立ち上げへの資金流出が私的メール問題で発覚し逮捕された、アメリカのヒラリー前国務長官や、その自国への裏切り行為を暗黙容認していたオバマ元大統領を議会に参考人招致したトランプ政権の手腕と同等なものだと勝馬に乗って総理を称賛している。スパイ容疑として明日にも検挙されるかもしれない彼女は、我が子の寝顔を見て錯乱する。なんでこの私がこんな目にあわなくてはならないのか? 彼女の人となりによっては、我が子を自ら手がげる「運命的暴力」に迫られ、神はなんでそんな仕打ちをするのかと苦悶した、アブラハムとイサクのような関係に入ることだろう。――家庭内暴力に行き詰まって息子の首に手をかけた父親、介護に疲れて母親に手をかけた娘……、たしか、そんなシチュエーションを取材したドキュメンタリーな書籍も最近出版されていたように思うが、それらは、単に、私事的な事件だろうか? 彼ら・彼女たちは、子どもが登校拒否を誘発させるような学校に当たったり、両親の福祉施設への入居や手当がもれたりで運が悪かっただけなのか? 私は、私事的な言動=言葉(つぶやき)による暴力が、国家的な暴力(戦争)に引き出されうる可能的現実を誇張して描いてみせた。山城氏は、私事的な事件を一般的な解決として逃げるのではなく(つまり選挙で小池氏に期待して投票し政治に参加したような気になること、あるいは中東の現実のように自暴自棄的な犯罪・自爆・テロリズムに走ること)、単独的に引き受けることによってのみ、「暴力=戦争」を「脱措定」しうる道が開けうる、その論理的道筋を明示しようとする。その引き受けは、イサクに手をかけることを赦されたアブラハムのようにはいかず、殺めることになってしまうかもしれず、果ては、デリダが示唆したように、アブラハムの「神的暴力」こそが「ホロコースト」として顕現してしまうのかもしれないのだ。我々は、暴力から、戦争から逃れられない。が、それを脱白させうる論理、いや国家(民主主義・代表制)という戦争機械を不備にさせていくのは、各自・各部品がその具体的な場所を、部位を、単独的な苦悶で闘争することによってだけである。わが子を保育園に送ろうとする彼女が、錯乱と煩悶のうちに殺めたその苦悶の道筋によってだけ、暴力を、戦争を発現させない機械不備、論理破綻が連鎖するかもしれないのだ。……

……恐ろしい話だ。現象的にはとても容認できない話である。ばかばかしくも聞こえる。が、内在論理として本当だとしたら? 人間とは、そういうものだとしたら? それが説得的なのは、子を持つ親なら、身に覚えがあるからだ。アブラハムとイサクのような関係のおぞましさを、日々味わい、おののいて「もしも――」と想像してみない親がいるだろうか?