2017年2月9日木曜日

「保育園落ちた日本死ね!」――山城氏の「ベンヤミン再読――運命的暴力と脱措定」を読む

「長期日本に滞在し、新聞であれテレビであれ現地の言論を注意深く見ている人はおそらく知っているでしょうが、日本は韓国人も当惑するくらい「北朝鮮関連の言説」が溢れている場所です。ほとんど毎日のように目にします。それもとても否定的な形で。
 そのような新聞記事やテレビ番組、そして関連書籍を見てみると、報道の目的が事実の「伝達」にあるというより、事実の「消費」にあるという感じがします。つまり、それは単純な情報として存在するというより、現在の日本社会を構成する核心にある装置のひとつとして作動しているという結論にたどり着く。日本という国家が北朝鮮によってようやく存在しているのかと思われるほどです。
 韓国における言論と日本の関係もそれと似ているのではないかと思われます。もちろん、日本と北朝鮮の関係を、韓国と日本の関係と単純に比較はできない。しかし、「危険な存在」として相手を消費しているという点ではかなり似ていると言わざるをえません。このような関係を普通「敵対的共存」と表現するのですが、このような敵対感が作動するところでは常識が絶対化され、「あえて確認しなくてもわかるという論理」が横行します。そしてそのような雰囲気は大体民族感情と結びついており、それについて疑うこと自体がとてつもない非難を受けるリスクをもたらすので、気軽に異議を唱えることさえ難しい。」(『世界文学の構造 韓国から見た日本近代文学の起源』 曺泳日著 高井修訳 岩波書店)

久方ぶりの腰痛悪化で欠勤したのを幸いに、久方ぶりに文芸誌(『新潮』2月号)に掲載された山城むつみ氏の論考、「ベンヤミン再読――運命的暴力と脱措定」を図書館で読むことができた。このベンヤミンのエセー「暴力批判論」は、最後節で引用されているデリダの『法の力』とともに、私も興味深く読んだことがあるが、直観的なイメージ理解のままでいる感じで、どこか脳みそに歯がゆさのようなものとして刺さったままだった。だから、微細な読みを行うのが常の山城氏がどのように読解したのか、興味津々で早く読んでみたかったのである。さらに、山城氏のことだから、文芸批評にかこつけて、今の風潮を隠喩したジャーナリスティックなものにもなっているのだろう、と予測された。今そのタイトルに「再読」とあると気づいて、なぜ今「再読」なのか、と問うてみれば、やはりクリティカルな批判を意図していたのだろうな、と確認せざるをえない。実際、私には、どうやら世界中を巻き込んでいるらしいトランプ現象や、まさに舞台の書き割りのごとく次の幕開けが準備されてくる小池劇場という民主主義政治(議論)への誘惑に抗して書かれたもののように読み取れた。

基調的な構えは、ドストエフスキーを論じた小林秀雄を読み込む前作と同じものだろう。
なお対岸的に伺える戦争の暴力も、今ここの私と直結している日常にいつでも惹起しうるものとして存在している、という切り口だ。一文もコピーしてこなかったのでここで何も引用できないが、しかし今度のこの論文は、もっと暴力が間近に迫っているのではないか、という時事認識に急かれて再読され筆を起こされた、という気がする。

私は、こんな光景を連想した。
「保育園落ちた日本死ね!!!」――そんなツイートに共感してリツイートしたとある若奥さんは、世の中を変えてくれることを期待して、今回の選挙で、次期総理とも召された小池百合子に投票した。が、その当選と就任の同時期に、彼女のツイートは、警察機構のコンピューターにテロと検索・選択されてしまった。我が子は保育園に入れたが、自分はそのツイートに共感した他の奥さんがたとテロを共謀したという容疑で拘束される可能性があるという。「保育園」というキーワードを出汁にして仲間を募り、緊迫したアジア情勢の緩和を支援してくれているトランプ・アメリカとの同盟強固化を阻止しようとする北朝鮮側の扇動に加担しているというのだ。一緒に検挙される女性の中に、北朝鮮の工作員を疑われる人物がいたのである。小池総理は、同盟国としての断固たる立場を明確にするためにも、この事件の背後として、前総理の安倍晋三、さらには小泉純一郎元総理にまでさかのぼって調べるという。拉致被害者の日本国への召還自体に、現事件の伏線となる裏取引の疑いが出てきたからだ。総理大臣自身が日本の独立を裏切り、そのことで沖縄からの米軍引き揚げの時期を引き延ばして基地維持の予算を上積みさせ、日米両国に多大な不利益を被らせてきたのである。小池総理は、この事件を、かつて日本をロシアに向かわせずアジア・アメリカ対策に専念させるよう工作したゾルゲ事件にもたとえている。マスメディアは、イスラム国立ち上げへの資金流出が私的メール問題で発覚し逮捕された、アメリカのヒラリー前国務長官や、その自国への裏切り行為を暗黙容認していたオバマ元大統領を議会に参考人招致したトランプ政権の手腕と同等なものだと勝馬に乗って総理を称賛している。スパイ容疑として明日にも検挙されるかもしれない彼女は、我が子の寝顔を見て錯乱する。なんでこの私がこんな目にあわなくてはならないのか? 彼女の人となりによっては、我が子を自ら手がげる「運命的暴力」に迫られ、神はなんでそんな仕打ちをするのかと苦悶した、アブラハムとイサクのような関係に入ることだろう。――家庭内暴力に行き詰まって息子の首に手をかけた父親、介護に疲れて母親に手をかけた娘……、たしか、そんなシチュエーションを取材したドキュメンタリーな書籍も最近出版されていたように思うが、それらは、単に、私事的な事件だろうか? 彼ら・彼女たちは、子どもが登校拒否を誘発させるような学校に当たったり、両親の福祉施設への入居や手当がもれたりで運が悪かっただけなのか? 私は、私事的な言動=言葉(つぶやき)による暴力が、国家的な暴力(戦争)に引き出されうる可能的現実を誇張して描いてみせた。山城氏は、私事的な事件を一般的な解決として逃げるのではなく(つまり選挙で小池氏に期待して投票し政治に参加したような気になること、あるいは中東の現実のように自暴自棄的な犯罪・自爆・テロリズムに走ること)、単独的に引き受けることによってのみ、「暴力=戦争」を「脱措定」しうる道が開けうる、その論理的道筋を明示しようとする。その引き受けは、イサクに手をかけることを赦されたアブラハムのようにはいかず、殺めることになってしまうかもしれず、果ては、デリダが示唆したように、アブラハムの「神的暴力」こそが「ホロコースト」として顕現してしまうのかもしれないのだ。我々は、暴力から、戦争から逃れられない。が、それを脱白させうる論理、いや国家(民主主義・代表制)という戦争機械を不備にさせていくのは、各自・各部品がその具体的な場所を、部位を、単独的な苦悶で闘争することによってだけである。わが子を保育園に送ろうとする彼女が、錯乱と煩悶のうちに殺めたその苦悶の道筋によってだけ、暴力を、戦争を発現させない機械不備、論理破綻が連鎖するかもしれないのだ。……

……恐ろしい話だ。現象的にはとても容認できない話である。ばかばかしくも聞こえる。が、内在論理として本当だとしたら? 人間とは、そういうものだとしたら? それが説得的なのは、子を持つ親なら、身に覚えがあるからだ。アブラハムとイサクのような関係のおぞましさを、日々味わい、おののいて「もしも――」と想像してみない親がいるだろうか?

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