おもしろいので、その箇所をブログでかきとめる。いく子は、高1秋まで通った熊本での中高一貫校が浄土宗の学校だったので、朝の読経や仏教講義を受けてきている。どうしてそう思考されてきたのかの文脈もあるようなので、その前提となる、前の日付のも明記しておく。
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10月25(月) ――註;高3(1976・昭和51年)
仏教の中道の教えを考える。否定する人間と肯定する人間はわかる。そしてその両者はよく似ていると感じる。その中間の 感情がないわけでなく感じている人、どうして怒らないのとか、何故爆笑しないのかわからない。無私という否定した上に成り立ったわけじゃなくて、動いている人 無言で社会を動かしている人、何かを言っても静かに笑っている人、わざとじゃなくて。本当にやさしい人。やさしくなろうとして、やさしいんじゃなくて そんな人間はわかる。無為自然なる人。わからぬ。千葉の人(総称してみると)って たまにわからなくなる。
尾形氏と本間氏。どちらがいい悪いじゃなくて、争点とか互いの言いすぎを考えていた時に。
※ 註;尾形氏とは、日本史の先生。本間氏とは、担任であると同時に体育、いく子が所属していたハンドボール部の顧問、日体大卒で、実家のお寺を坊さんとして手伝ってもいたらしい。教師との両立が不可能になってきたともらしている。「千葉の人」とあるが、当時は、熊本との地方差が、相当あることが手紙などからはっきりする。
――前の日付のもの――
10月15日(金)
悪魔と神 サルトル
西洋人っちゃ感覚がやや違う。物を必ず、相対させてみる。客観的に視ることは必要だけど、それらが融合することを、両立すること 認めない。そこに神が出てくる おもしろい。
善と悪。いいこと・わるいことを決めるのは難しい。でもそうあるとして一般常識に従うとしても、善を行なおうとして行う人は、偽善者だという気がする。意識せずに、生まれたままに行なったその結果を人が善悪区別するんだ、人が決めるもの。やろうとして行なったものは善なんかじゃないって気がするときがある。私は素直な人間だ、正直者だと言う人位、チャチで おごっている。無理に笑う笑いはいやらしい。私はいいことをやるんだって意識してる行為は、悪いことと認めて行為する気持とほぼ同様だ。前者は おごりと自信で 片方が 卑下と自己嫌悪、似ている。
1年の頃、キリスト教の集会にいった。集まった人は皆んな若い人で小さな子供を連れてきてる。割合うるさくて、食べ物のバザーもあるせいで汚れている。バザーなんて やってる人間だけうれしくて、来る人買う人は半ば強制的にまずいものを買ったりする。神聖な意味合いの恵みが、近所づきあいの仕方なさを無理矢理に感じさせる。村祭りはずっと自由がある。PTAが目をしかめても。話しはそれたけど、そのキリスト教者にそれを感じて、またキリスト教のかっこ良さ 外見のきれいさ ステンドグラスや彫刻にあこがれて信者になった気が、どうしてもしてしまう。日本ではどうしても 宗教が育たないのかもしれないって気がしてしまう。バザーも世俗に汚れてたし、ほとんど20才代の人ばかりっていうのが、気を迷らせた。
私はかなりイヤな顔をしていたと思う。それなのに応対に出て来たキリスト信者の人は ほんとにいい笑顔で話しかけてくれる。笑顔っていい。私もなんだか反省した。私自身がそんな表面だけを見て、実際のキリスト宗教を知らないんだからって。それでもやっぱり偽善者だって気がした。ほとんど板についた笑い顔だけどそれでも何でもなくて あんなに笑えるのかしら。でも本当に 生まれたときからの性格で にっこり笑ってくれる人がいる。本当に やさしい人。本当に 物事を悪くとらない人がいる。良くとってやろうとする人は偽善者と言えるけど、こんなに素直に感じられる人が、不思議で そして うらやましい。
しばらくして すぐ 出てっちゃったんだけど、私は。善悪の区別、中世のヨーロッパのキリスト教は 世俗的で、おごってて、これほどいい分別のつけ方はなかった。歴史でそうならう。中世はそうだったけど、発生はずっと神聖だし、美しい。キリスト教を批判する気はないんです。それでも欧州ってとこは どうしてもわけめをつけようとする。不思議だ。東洋は妥協的っていうのか、不思議もなく融合する。善悪について思うなら それは人の物の見方によって変わると思うより、それは一緒に共存して織り込まれていると感じるのだ。正直者っていうのもあるけど、それが見方を区別しても常識世俗から出たのだから、一面的なもの 逆を教えられても やっぱりそれを形のないものにしてしまった。…自分で言葉の説明がつかないけれど、感性を 形象化してみると そうなった。
10月24日(日)
日本史をやりながら (勉強中だから短く書きます)たまに尾形氏に疑問を持つ。運動批判、軍国主義、体育科など
私は彼を知らないからだろう。そして彼は知識を持っているのだから、と どうかして内心に押さえようとする、潜在意識のように化している。どうにかして否定してみた。できるにはできたが、それもまたまちがいであると授業に言う。疑問はもたねばならぬ。幼心に童話を信ぜねばならぬと。ある意味で肯定してくれた。私の病根なる中学時代をも、肯定とまでいえないけれど 認知する方向に私を向けさせた。必死にやったんだから、活力(下からの)があったのだから。また別なとこから、その活力をみとめながら 外の規定の中に自ら入れてみようと(意志がある)するのを認めながら、高校野球を悪いという。実際まちがったものもあるんだろうが、やるという活力は認めて欲しかった。「狂人とて大路を走らばすなわち狂人なり」活力が必要で、またなにかのわくの中から(その中にあるにしても)さがしだそうとする力…矛盾だからそのわくの大小にあるんじゃないかって、自由のきく範囲、選択のできる域…これを中道というのかと思った。私は何らかの意味で中道を考えてみたい。妥協とはいえぬもの、逃避でないもの。(仏教を考えてみよう。







