執行草舟のyoutubeチャンネルで、エリック・ホッファーについて論じられていた。
ホッファーについては、若い頃から、翻訳ものはすべて読んでいるが、上の発言をきいて、私の理解が正反対だったことに気づいた。
私がホッファーを知ったのは、柄谷行人経由である。当時の柄谷真佐子と『現代という時代の気質』(晶文社 1972年)が共訳されているが、それを読む前に、柄谷のどこかのエセーで言及されているのを知ったのが興味の最初であっただろう。そのエセーで、柄谷が引用していたのが、上の動画番組でも、執行が『人生のロゴス』(実業之日本社)でもとりあげている、以下のようなアフォリズムであった。
<山を動かす技術があるところでは、山を動かす信仰はいらない。>
私はこの言葉を、唯物論的に理解していた。宗教は民衆のアヘンである、というマルクスの言葉の延長として。柄谷のエセーからも、そう理解したのであろう。だから、信仰(宗教)に陥らないように社会変革をしていくことが肝心なのだと、となる方向で。
が、執行は、まったく逆なように理解を提示しているのだ。技術が発展していくと、信仰が置き去りにされてしまう、だから、社会が退廃していくのだと。山を動かす信仰を捨ててはならないのだ、この信仰が、何百年何世代もかけてのボランタリーな巨大な記念物や中世のカテドラル教会を作り上げてきた(ガウディのサグラダファミリアどころではない)、信仰のないところでは、人は技術の道具となってしまう。
<右の言葉によって、ホッファーは現代文明に警鐘を鳴らしているのだ。逆説の哲学者の面目が躍如としている。山を動かすほどの信仰が、山を動かすような技術を生み出したのだ。それが、信仰と技術の正しい相関関係である。現代を生きる我々は、それを忘れてしまった。人間は、自分の力で現代の技術を作り上げたと自惚れている。私は、その悲劇的結末が近いように感じている。宇宙の根源的実在から離れてしまった技術には、未来はない。>(『人生のロゴス』より)
私は、ホッファーの大衆批判も、ニーチェのいう弱者批判、ルサンチマンによる連帯にすぎない的に理解していた、が、動画での引用を上作品で確認して、もう一度、自宅にあるホッファーの著作の、若い頃、線を引っ張った文章だけでもと追ってみた。すると、こんな箇所に、線が引かれていた。
<人間という種においては、他の生物とは対照的に、弱者が生き残るだけでなく、時として強者に勝利する。「神は、力あるものを辱めるために、この世の弱きものを選ばれたり」という聖パウロの尊大な言葉には、さめたリアリズムが存在する。明らかに、弱者の中に生じる激しさは、彼らに、いわば特別の適応を見出させる。弱者の影響力に腐敗や退廃をもたらす害悪しか見ないニーチェやD・Hローレンスのような人たちは、重要な点を見過ごしている。>(「適応しえぬ者たち」『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』 中本義彦訳 作品社)
ホッファーの言う「魂の錬金術」とは、上のような弱者の転倒ではあるが、ニーチェのそれとは違うのだ。さらに深い、もうひとひねりある、さめたリアリズムなのだ。これは、理性の巧緻でも、自然の巧緻でもない、人間=宇宙による巧緻(錬金術)、というべきものだろう。しかし私が振り返ってみれば、私の柄谷の最近著への批判は、ホッファーを引用するところから始められていたのだった(ダンス&パンセ: 柄谷行人著『力と交換様式』(岩波書店)を読む)。
ところで、参加している生活クラブの今月(9月号)の冊子では、水俣病患者の支援活動をしている、相思社の永野三智さんの談話が掲載されていた。彼女はその現場で、まさにホッファーのような認識、患者が発揮する「魂の錬金術」を語っている。——「お前みたいな若いのに何がわかるんだ」と言われながらただ聞くだけの日々、そこで救われたのは、「女性患者たちと、海に貝を、山や畑に山菜、野菜を取りに行き、一緒に料理をして食べて過ごす「遊び」の時間」だったという。「苦しいとか悲しいとか、わかるわからないではないところでつきあえるので、遊びを教えてもらえるようになってから、別の視点から患者をとらえることができるようになりました。」と。そして、国内でのヒッチハイクやインドへの旅をしていた自分であったので、「定住」することに不安があったけど、相思社で患者たちの話を聞く事が「ここにいながらの旅となり、もう旅に出ようとは思わなくなりました。…(略)…水俣病を発症した人たちは、苦しみから逃れて生きる知恵を持っています。とにかく漁に出て海に支えられたり、食べることにていねいに向き合ったり、畑で作物を育てながら、一年一年を生きてきた人もいます。そういった患者の人たちといっしょに、水俣での旅を続けたいと思っています。」(「オピニオン」『生活と自治』 9月号)
以下が、上を補強するホッファーの哲学である。
<必要に迫られている間は、依然として人間は動物界の一員である。人間は、ただ生きるだけであったら不必要なもののためにエネルギーを注ぎ、さらには生命の危険さえもおかす場合に、特異な存在としての人間となり、最高の創造力を発揮する。したがって、人間(マン)の人間化(ヒューマン)が起こったのは、自然の恵みが豊かで、余暇があり、遊びたわむれる性向はあった状況においてであったと考えるべきである。自然界における人類の擡頭は、心細い戦場においてではなく、エデンのような遊びの庭において起こったのである。>(『人間とは何か』 田中淳訳 河出書房新社)
現代の技術が、この水俣の地にあった「エデン」を破壊してしまったのだ。それが、「信仰」なきゆえなのは、明白である。が、チッソの創業者たちが、サムライ的な信念の人だったことを考慮してみよう。そうすると、「信仰」をめぐって、もっと深く細部への、具体的な実践へと繋がる洞察が導きだされるだろう。
※ 柄谷がはじめたNAMで、そのセンター事務局を、京都から東京に移す際の引継ぎ業務のとき、京都の事務員からこう聞かされたことがある。浅田彰をふくめた京都の会議で、私菅原のメールがとりあげられて、柄谷がそれをエリック・ホッファーをもちだして説明していた、というのである。どんなメールなのかは知らないが、言いたいことはわかる。私もホッファーのように、最底辺に近い労働現場でものを考えてきたからである。むろん、私はホッファーのような洞察力にはまったく及ばない。が、肉体を動かしていると、やはり色々考えてさせられてくる。最近も、一緒に働いている早稲田大出の若者の気づきのなさから、「縄文」と呼ばれる精神のことが、腑に落ちてきた。もちろんこれは、「信仰」にかかわる。それがわからなきゃ、植木の手入れも上手にならないぞ。……今の現場でも、深い洞察を与えてくれるところは、数々あるだろう。






