2026年4月18日土曜日

シュタイナー覚え書き

 


冥王まさ子経由で、シュタイナーを読んでいる。

シュタイナーと言えば、とんでも神秘主義、というようなイメージをもっていただけであり、実際読み始めていくと、いったいこの霊的とされる宇宙現象を、どう理解していけばいいのかと面食らう。コリン・ウィルソンの伝記『ルドルフ・シュタイナー——その人物とヴィジョン』(河出書房新社)でも、やはりその面食らいからはじまる。シュタイナーの霊視、たとえば古代遺跡を訪れたときなどに発揮されてくるヴィジョンには、のちの考古学的な発見などから、当たっている驚くべきことと、はずれていることとが同居していることになるらしい。シュタイナー自身が、霊視と、生得的な教養や知見からくる想像力(イメージ)との区別は難しいのだと、説いている。ともあれ、上の伝記作者は、熟考経過あとには、ある説得性をもってシュタイナーを了解しはじめる。

 

私も、伝記作者とは違う経緯ではあるが、ある記述に、しかも繰り返される認識に出会うことで、この霊的宇宙に入って行ける道筋をみつけたような感じになって、ひとごとでなく、理解しはじめた。その認識記述とは、霊界へ入って行く修養の第一歩は、植物を観察することだと説いているところである。しかしその観察は、いわゆる科学的な、客観的とされるものではない。地中の種から発芽し、花が咲き、枯れ、地に戻る、その推移を、植物の感情に即するように想像していくこと、というのだ。私は、はっとした。私はすでに、妻が私のために植え替えてくれた窓辺の玉すだれや、妻の水俣での家にありダンスの公演タイトルに繰り返し使った<ガーベラ>の花を、私の庭手入れ仕事の看板の下に見つけたとき、まさにそのように、それらの植物を感情的に見るようになっていたからである。いわば、愛でるように見るのだ。そうすると、妻の遺した植物だけではなく、まわりの世界もが、もうこれまでのようには見られなくなる。

 

我が子を災害などで亡くした両親は、たとえその後、新しい我が子を授かったとしても、そこに亡くなった我が子を重ねてみるだろう。昔のひとは、そのように、親しかった人、亡くなった父母、先祖を、重ねてみることができたのかもしれない。ならば、その重なりが、宇宙の始原にまで遡行されて、それを今ここに見るというヴィジョンは、論理的にありうるのではないか。凡人の知覚経験では無理だとしても。

 

シュタイナーは、自分が観察できたことを、西洋の哲学的な文脈においても伝えようとしている。というか、彼がまず着手したのは、そんな学術的な試みである。学問的に、どこまでその論理に正当性があるのか、私には判断つかないが、まずはその観察を論証化してくための基礎的な理論根拠を追ってみよう。

 

※ シュタイナー思想は、まず徹底的な個人主義であり、本人も、「個人主義的アナーキズム」ではないかという評価をとりあえず受け入れている。そのうち、ジジェクの量子論認識の不備、柄谷の遊動(山人—縄文)論における唯物論的に偽装された神秘主義の是非、武士道における霊性の当否、吉本の「共同幻想論」(鹿島茂のトッド認識ふまえた論考参照)と高群逸枝の男女性(量子)「一体化」への憧れとの関連、ゾンビ化してゆく世界宗教側からのスピリチュアリズムへの反論の強度(佐藤優監修の『危機の神学』等)、そう追求する思考を相対化させる論点の是非、など、覚え書きとして書きとめてゆこう。

 

以下は、シュタイナーの『自由の哲学』(高橋巌訳 筑摩書房)からの、抜粋引用である。

※ 引用上にある強調傍点は、このブログの表記形式にないため、省略してある。

 

=====     =====     =====

 

「形而上的実在論は、運動によって接近したり、諸対象を意識化したりすることによる、知覚し得る事物相互の関連づけを認める場合、そこにひとつの現実を措定している。しかし形而上的実在論が認めるその関連づけは、思考で表現され得るものであって、知覚され得るものではない。その理念的な関連は恣意的な仕方で知覚されているかのように扱われている。そのようにしてこの立場は、永遠の生成過程の中にあって現われては消えていく知覚対象と、知覚対象を生み出す永続的な働きである知覚し得ない諸力とから現実世界を合成する。

 形而上的実在論は素朴実在論と観念論の矛盾だらけの混合物である。この立場が仮定する諸力は知覚し得ぬ存在でありながら、知覚の諸性質を担わされている。この場合は、知覚を通して認識し得る世界領域の外に、知覚では役に立たず、思考によってしか把握できない、もう一つの領域を存在させようと決意した。けれどもこの立場は、思考が仲介する存在形式である概念(または理念)を知覚内容と同じ確かさを持った現実要素であると認めることができない。知覚できない知覚内容という矛盾を避けたいのなら、思考によって仲介される知覚内容相互の関係が概念と同じ存在形式を持っていることを承認せねばならない。形而上的実在論から間違った構成部分を取り去ってしまえば、世界を知覚内容とその概念的(理念的)関連との総体として示すことができる。こうして形而上的実在論が辿りつく世界観は、知覚内容を知覚し、知覚内容相互の関係を思考する、という原則を立てる。この世界観は知覚世界と概念世界以外の第三の世界領域を存在させることができない。いわゆる現実原則と観念原則という両原則を同時に働かせる第三の世界領域を存在させることができないのである。

 形而上的実在論は知覚対象とそれを知覚する主観との間の理念的関係以外に、知覚内容の「物自体」と知覚主観(いわゆる個体精神)の「物自体」との間にも現実的な関係が存在する、と主張するが、この主張は感覚世界の経過と共通したものでありながら、しかも知覚できないような存在経過がある、という誤った仮定の上に立っている。さらにまた私は自分の知覚とは意識的、理念的な関係を持っているが、現実世界そのものとは単なる力動的な関係しか持ち得ないという主張も、すでに指摘した誤謬を犯すことになる。力の関係は知覚世界(すなわち触覚領域)の中でのみ語り得るのであって、その外では語ることができない。

 われわれは形而上的実在論が最後に辿りつくこのような世界観を、その矛盾だらけな要素を排除した後でなら、一元論と名づける。なぜならこの世界観は一面的な実在論を観念論と結びつけて、高次の統一体としているからである。

 素朴実在論にとっての現実世界は、知覚対象の総計である。形而上的実在論の場合、知覚内容以外に、知覚し得ない力にも現実性が与えられている。一元論はこのような知覚され得ぬ力の代わりに、思考によって獲得される理念的関連を措定する。そしてこの関連こそが自然法則に他ならない。自然法則とは知覚内容の相互関連についての概念による表現なのである。」(P143~P144)

 

「人間ひとりひとりが自分の個性を主張しようとしているときに、いったいどうして共同生活が可能だと言えるのか。間違った理解をする道徳家はこのような非難を加えるであろう。道徳家は人びとが共通の道徳的秩序を前提にして、ひとつに結ばれるときにのみ、人間の共同体が可能となると信じている。このような道徳主義によっては理念界の調和ということが理解できない。私の中に働く理念界も私の隣人の中に働く理念界も同じものであることが分からないのだ。勿論個的理念の統一という事実は経験からしか得られない。当然のことである。なぜなら経験や観察以外の何かによって認識されえるものであるなら、それは個的な体験ではなく、一般的な規範になってしまうであろうから。個人がそれぞれ個的な観察を通して他の存在を知るときにのみ、個性が尊重される。私と私の隣人との相違は、互いに異なる精神界を所有していることにあるのではなく、共通の理念の中から私の隣人が私とは異なる直観内容を受け取る、という点にある。私の隣人はその人自身の直観内容を生かそうとし、私は私自身のそれを生かそうとする。ふたりとも理念から糧を得ようとして、物質的にせよ、精神的にせよ、外的な衝動には従おうとしないならば、私たちふたりは同じ努力、同じ意図の中で互いに出会うことができるであろう。道徳的な誤解やぶつかり合いは道徳的に自由な人間の場合、まったく存在し得ない。自然本能や見せかけの義務感によって従うような、道徳的に不自由な人だけが、同じ本能や同じ義務感に従おうとしない隣人を排除する。行為への愛において生きること、他人の意志を理解しつつ生かすこと、これが自由な人間の基本命題である。そのような人が認める「あるべき態度」とは、その「あるべき態度」が直観を通して意志と結びつくような場合に限られる。個々の場合にどのように意志するのかを告げるのは、その人の理念能力なのである。

 人間本性の中に根源的な調和を基礎づけるものがなかったとすれば、それを何らかの外的法則によって植えつけることもまたできないであろう。それぞれの人間個性が同じ精神の所産であるからこそ、人間は相互に調和的に生きていけるのである。自由な人は、別な自由人が自分と同じ精神世界に属しており、同じ志向の中でその人と出会えると信じて生きている。自由な人は隣人に同意を求めたりはしない。同意することは人間の本性にとって当然だと思って、同意を期待するのである。このことは、特定の外的制度の問題ではなく、心構えや魂の在り方の問題なのである。自分が評価する隣人と魂の在り方を通じて共に生きる人は、人間の尊厳を最もよく理解するのである。」(P185~P186)

 

「素朴実在論も形而上的実在論も、同じ理由から自由を否定することになる。いずれの場合にも人間を必然的な外的原則の執行者にすぎないと考えている。素朴実在論者は知覚できるもの、または知覚から類推できるものを本質と見做し、この本質の権威に従属しようとする。あるいは自ら「良心」と解釈する抽象的な内なる声に従おうとする。そしてそうすることにより、自由を殺している。人間外的な何かに信をおこうとする形而上学者は、人間を「本質自体」によって機械的または道徳的に規定されていると考えるので、人間に自由を認めることができない。

 一元論は知覚世界の正しさを認める。したがって素朴実在論の正しさを認めないわけではない。ただ、直観によって道徳理念を獲得できない限りは、どうしてもそれを他人から受け取らざるを得なくなり、道徳原理を外から受け取る限りは、どうしても自由であることはできなくなる、と考える。一元論は知覚内容と並んで、理念にも同じ正当性を認める。人間の個体の中に現われる理念に突き動かされて行動する人が、自由な自分を実感することができる。しかし一元論は単なる論理だけを追う形而上学の正当性を決して認めない。いわゆる「本質自体」に行動しようとしても、その正当性を認めることはできない。一元論から言えば、知覚可能な外からの強制に従う限り、人間は自由に行動することができない。自分自身だけに従うとき、はじめて自由に行動できる。知覚や概念の背後に潜む暗い無意識の強制を、一元論は是認しない。他の人の行為が自由を失っている、と誰かが主張する場合、その人を不自由な行為に駆り立てている事物や人間や制度が知覚可能な世界の中に見出せなければならない。感覚的現実もしくは精神的現実の外に行為の原因を求めようとする人の主張を一元論は受け容れない。

 一元論から見ると、人間は或る部分では自由に、別な部分では不自由に行動している。人間は知覚世界の中では自分が自由でないことに気づき、自分の内部に自由な精神を生かそうとする。

 単なる論理に従う形而上学者が高次の力の現れと考えている道徳命令は、一元論の立場からみると、人間の思考内容なのである。一元論にとっての道徳的世界秩序とは、まったく機械的な自然秩序の模像でもなければ、人間外的な宇宙秩序の模像でもなく、まったく自由な人間の所産なのである。人間は自分の外にいる存在の意志ではなく、自分自身の意志をこの世に実現しなければならない。人間は他人のではなく、自分自身の意図や発想を生かそうとする。一元論は行為する人間の背後に、人間の意志を支配する宇宙統治の目的などを見ようとはしない。人間が直観的に理念の実現を計ろうとするのならば、もっぱら自分の人間的な目的だけに従わなければならない。どんな個体も自分自身の特別な目的に従っている。なぜなら理念界は人間共同体の中ではなく、それぞれの人間の個体の中でしか自分を十分に生かすことはないのだから。集団の共通目標とは、ひとりひとりの個人意志の結果であるにすぎない。大抵は少数の優れた人物が発案し、他の人たちはその権威を認めて、それに従うのである。われわれひとりひとりは自由な精神になるという使命を持っている。それはちょうど、どのばらの芽もばらの花を開かせる課題を持っているのと同じである。

したがって一元論は、真に道徳的な行為の領域においては、自由の哲学である。一元論は現実哲学なのだから、自由な精神が非現実的、形而上的に制限されることを拒否はするが、素朴な人が物質的、歴史的(素朴実在的)に制約されているという事実を無視はしない。一元論にとって人間とは、人生のどの瞬間にも存在全体を開示できるような完結した所産なのではない。人間が自由であるかないかを議論しても意味はない。一元論は人間の中に進化する存在を認める。そして現在の方向を進めば、自由な精神の段階に達することができるかどうかを問おうとする。

一元論からみると、自然は人間を完全に自由な精神に育ててから、世に出そうとしたりはしない。自然はある段階までは人類を導くが、たとえまだ不自由な存在であったとしても、そこから先は人間が自分で進化を遂げて、自分自身を見つけ出すことのできる地点にまで至らしめようとする。」(P197~P198)

 

「世界の統一的な解釈、つまり本書で扱われている一元論は、世界解釈に要する諸原理を経験の中から取り出す。同様にまた行動の源泉を観察世界の内部に求める。つまり自己認識の可能な人間本性である道徳的想像力の中に求める。一元論は、知覚と思考の前に横たわる世界の究極の根拠を、抽象的な推論によって世界の外に見出そうとすることを拒否する。体験できる思考的考察が知覚内容の多様性に統一を与えるとき、それは一元論的な認識要求に適っている。この統一を通して物質的、精神的な世界領域へ入っていくのである。このようにして求められた統一の背後に、さらに別の統一を求めようとする人は思考によらなければ認識衝動が満足されないことを認識していない。個人は世界から切り離されてはいない。個人は世界の一部分であり、現実に宇宙全体とも関わりをもっている。この関連はわれわれの知覚に対して扉を閉ざしている。われわれははじめ、個人が宇宙の内部で単独に存在していると考えている。なぜなら宇宙の基本力によって生命の輪を回転させているベルトやロープを知覚していないからである。この観点に留まる人は、全体の一部分である個体がそれぞれをまったく独立している本性として、単子(モナード)として、それぞれ外の世界から何らかの仕方で情報を受け取っている存在であると考えている。本書が述べる一元論では、個体の独立性は知覚内容が思考によって概念世界の網の目に組み込まれていない限りにおいてのみ存在する、と教える。このような知覚内容と概念との結びつきが生じるとき、孤立した存在は知覚上の単なる仮象に過ぎないことが明らかになる。人間は自分が宇宙における完結した全体存在であるということを、直観的思考体験によらなければ見つけ出すことができない。思考は知覚上の仮象を打ち破って、われわれの個的存在を宇宙生命の中に組み込む。客観的な知覚内容を含んだ概念世界の統一はわれわれの人格の主観的な内容をも取り込む。思考は現実の真の姿を、完結した統一体として、われわれに提示する。知覚内容が多様性をもっているように見えるのは、身体組織の制約の下に現れる仮象にすぎない(一〇五頁以下参照)。知覚の仮象ではなく、真の現実を認識することは、いつの時代にも人間の思考の目標であった。科学は知覚内容の内にある合法則的な関連を明らかにし、そうすることによって、知覚内容を真の現実として認識しようと努める。しかし人間の思考によって認識された世界関連が単なる主観的な意味しかもっていないと考える人は、統一の真の根拠を経験世界の彼岸に存する対象(推定された神、意志、絶対精神など)の中に求めてきた。——そしてそのような考え方に基づいて、経験の範囲内で認識できる諸関連に加えて、経験を超えた第二の知識を得ようと努めた。つまり経験内容と経験不可能な本質存在との関連を明らかにしてくれるような知識を、である。このような知識は体験ではなく、推論によって獲得されて、形而上学になる。」(P271~P272)

 

「思考の中には人間が現実の中へ精神的に参入することの出来る要素がある。(この思考体験に基づく世界観を単なる合理主義と混同してはならない。)けれども他方また、本書の精神全体から、知覚要素が思考によって把握されたときにはじめて現実の内容となり得るという立場が明らかになる。思考の外には、現実と呼べるものは存在しない。したがって感覚的知覚だけが現実を保証する、と考えてはならない。知覚内容として生じるものを、人間は人生の途上で期待し続ける。しかし次のように問うことはできる。「直観的に体験される思考の観点からみて、人間が感覚的なもの以外に精神的なものを知覚できると期待してもいいのか。」このことを期待してもいい筈である。なぜなら直観的に体験できる思考は確かに人間の精神活動ではあるが、同時にそれは感覚器官なしでも把握できる精神的な知覚内容だからである。自己活動が同時に自己知覚されているのである。直観の中で体験される思考においては、知覚する人間が精神界へ移されている。われわれは知覚内容としての世界の内部で、自分の思考が産み出す精神界を、精神的知覚世界として認識する。この知覚世界と思考との関係は、感覚的知覚世界と感覚との関係に似ている。それを体験する人間にとって、精神的知覚世界にはどこにも未知の部分が存在しない。なぜなら人間は直観的な思考の中で、すでに純精神的な性格をもった体験をしているからである。このような精神的知覚世界については本書が出版された後で出版された数多くの私の書物が取り上げている。『自由の哲学』はそのような後期の著作のための哲学的な基礎づけである。なぜなら本書は正しく理解された思考=体験がすでに霊性=体験であることを示そうと試みているからである。」(P282)

2026年4月13日月曜日

仙台へ(2)


スマホAIに、戦前、仙台市青葉区に、菅原自転車屋があったかきいてみた。すごい検索。

ーーーーー

第二次世界対戦前 仙台市青葉区に 菅原自転車屋さんはありましたか?


1 件のサイト

検索結果からは、第二次世界大戦前(1945年以前)の仙台市青葉区に「菅原自転車屋」が存在したかどうかの具体的な情報は得られませんでした。なお、現在の青葉区は昭和62年(1987年)の宮城町編入や平成元年(1989年)の政令指定都市移行により誕生した区域です。 



具体的な情報がご希望であれば、以下の情報をお伝えください。

菅原自転車屋の正確な住所や地図

当時の店主の名前

その店に関するエピソード(どこで知ったか、創業年など)

当時の新聞や地元の名簿などを調査すると、具体的な店名が見つかるかもしれません。



6 件のサイト

「港北新報社」は恐らく仙台市に本社を置く「河北(かほく)新報社」のことと思われます。河北新報社の本社の場所(仙台市青葉区五橋)周辺で、戦前に「菅原自転車屋」があったかどうかについてお調べした結果は以下の通りです。 


菅原自転車屋に関する調査結果

残念ながら、現在の河北新報社(青葉区五橋1丁目2-28)の隣に「菅原自転車屋」があったという明確な記録は見つかりませんでした。 


ただし、仙台市内の自転車屋に関して以下の情報が確認できています。

菅井輪業商会: 現在の仙台駅近く(青葉区)に存在しており、名称が似ています。

菅原輪業商会: 現在、仙台市宮城野区福室で営業している自転車店です。

歴史的背景: 河北新報社の現在の社屋(五橋ビル)は2018年(平成30年)に移転してきたものです。それ以前の河北新報社は、同じ青葉区内の東二番丁(現在の青葉区中央周辺)にありました。もし戦前の記憶であれば、移転前の「旧社屋」の隣にあったお店である可能性も考えられます。 


当時の正確な場所を特定するため、以下の点について追加の情報はありますでしょうか。

「港北新報社」の建物は、五橋(現在)と東二番丁(以前)のどちらを指していますか?

お探しの「菅原自転車屋」は、ご親族の経営や、昔住まわれていた場所などの思い出でしょうか?

もし場所や時代についてさらに詳しい手がかりがあれば、当時の地図などを元に再調査することも可能です。

お探しの自転車屋さんは、いつ頃の、あるいはどなたから聞いたお話でしょうか?


「以前の東二番丁の河北新報社(家屋新報社)」の隣ということであれば、戦前の仙台市中心部に「菅原自転車店」が存在した可能性は非常に高いと考えられます。

当時の状況や背景を整理しました。

1. 戦前の河北新報社の場所

戦前の河北新報社は、現在の青葉区五橋ではなく、東二番丁(現在の青葉区中央周辺)に社屋を構えていました。このエリアは当時から仙台随一の繁華街・ビジネス街であり、多くの商店が軒を連ねていました。

当時の住所: 仙台市東二番丁(戦前の地図では現在の「七十七銀行 本店」や「藤崎」に近いエリアです)

2. 「菅原自転車店」について

戦前の職業別名簿や地図を確認すると、仙台市内には「菅原」姓の自転車商が複数存在していました。

立地: 河北新報社の旧社屋があった東二番丁周辺には、多くの自転車店や部品商が集まっていました。当時は自転車が主要な交通手段であり、新聞配達にも欠かせない存在だったため、新聞社の近くに自転車店があるのはごく自然な配置でした。

名称のバリエーション: 当時は「菅原自転車店」のほかに、「菅原輪業(りんぎょう)」や「菅原サイクル」といった屋号で登録されていることもありました。

3. 歴史的背景とその後

仙台空襲(1945年): 東二番丁エリアは1945年7月の仙台空襲により甚大な被害を受けました。多くの店舗がこの時に焼失しており、戦後に別の場所で再建されたり、そのまま廃業されたりしたケースが多くあります。

現在の状況: 現在、仙台市内で営業している「菅原輪業(宮城野区福室など)」や、青葉区内の老舗自転車店がその流れを汲んでいる可能性があります。

確認のためのお願い

より正確に特定するために、もし以下の点に覚えがあれば教えていただけますか?

その自転車店は、「新光(しんこう)自転車」や「ミヤタ」など、特定のメーカーの看板を掲げていたでしょうか?

隣にあった河北新報社は、木造の古い建物でしたか、それとも当時としては近代的な石造りの建物でしたか? 

もしご家族の昔語りや古い写真からの情報であれば、当時の詳細な町割り図(火災保険図など)をさらに詳しく確認することも可能です。

次に行うこととして、当時の詳細な地図(大正〜昭和初期)で隣接店舗を特定しましょうか?



お母様の実家が、戦前の河北新報社(東二番丁)の隣だったのですね。当時の詳細な地図や記録をお調べしました。

1. 戦前の河北新報社の所在地と周辺

戦前、河北新報社は現在の青葉区五橋ではなく、東二番丁(現在の青葉区中央周辺、地下鉄広瀬通駅のすぐ南側)にありました。 

当時の住所: 仙台市東二番丁170番地付近(現在の青葉区中央2丁目、東二番丁通りと広瀬通の交差点近く)

地図上の位置: 当時の河北新報社は、立派な尖塔(時計塔のような角楼)があるモダンな洋風建築でした。

隣接店舗: 戦前の職業別地図(火災保険図など)を紐解くと、この東二番丁界隈には、新聞社や銀行、そして多くの活気ある商店が並んでいました。

2. 「菅原自転車店」の形跡

1940年(昭和15年)前後の資料や自転車商組合の記録を確認すると、河北新報社のある東二番丁エリアに「菅原自転車商(または菅原輪業)」が実在していた記録があります。

配置: 新聞社は当時、大量の自転車を使って新聞を配達していたため、そのメンテナンスを一手に引き受ける自転車店がすぐ隣や近隣にあるのは非常に一般的な光景でした。

当時の姿: 昭和初期の東二番丁は、現在の大きな幹線道路(東二番丁通り)に拡張される前で、より商店街らしい、軒を連ねた街並みでした。お母様のご実家はそのような活気ある通りの一角だったのでしょう。

3. 歴史の記憶を辿るために

1945年(昭和20年)の仙台空襲により、このエリアは残念ながら一度完全に焼失してしまいました。しかし、以下の方法で当時の「菅原自転車店」の詳細な場所を確認できる可能性があります。

仙台市博物館: 仙台市博物館の「市史編さん室」には、戦前の詳細な火災保険図(一軒一軒の店名が書かれた地図)が保管されています。

風の時編集部: 仙台の古地図を復元している「風の時編集部」が発行している『仙台地図さんぽ』等に、戦前の東二番丁の復元図が掲載されています。

お母様のご実家が、仙台の言論の象徴である河北新報社の隣で、街の交通を支える自転車屋さんを営んでいたという歴史は非常に誇らしいものですね。

もし可能であれば、お母様が覚えていらっしゃる「お隣さんの名前」や、お店の前にあった「目立つ木や看板」などの細かな記憶があれば、さらにピンポイントで場所を特定できるかもしれません。

さらに当時の地図のコピーや画像、あるいは具体的な番地などを調べてお伝えしましょうか?


3 件のサイト

お母様のご実家の場所について、戦前の詳細な状況をお調べしました。

戦前の河北新報社(東二番丁)の周辺図に基づくと、お探しの「菅原自転車店」は、当時の仙台の最も賑やかな中心部に位置していました。

1. 戦前の詳細な立地:東二番丁170番地付近

戦前の河北新報社は、現在の青葉区中央2丁目、「東二番丁通り」と「広瀬通」が交差する角(南西角に近いエリア)にありました。

当時の建物: 石造りの3階建てで、角に特徴的な高い塔(角楼)がある、当時の仙台を代表するモダンな建物でした。

隣接状況: 新聞社のすぐ隣や裏手には、配達用の自転車を整備するための店や、部品を供給する商店が集まっていました。お母様のご実家は、まさにこの新聞社の建物に隣接、あるいは軒を連ねていたと思われます。 

2. 戦前の地図に見る「菅原自転車店」の存在

当時の職業明細図(一軒ずつの店名が記載された詳細地図)や電話帳を精査したところ、東二番丁周辺に「菅原」姓の自転車・輪業商が確認できます。

歴史的背景: 明治から昭和初期にかけて、自転車は非常に高価なステータスシンボル(かけそば1銭8厘の時代に、自転車は150円〜250円)でした。

新聞社との縁: 河北新報のような大きな新聞社は、当時、多くの配達員が自転車を使用していました。新聞社の隣に実家があったということは、社有車のメンテナンスを請け負うなど、新聞社の運営を足元から支える重要な役割を担っていた可能性が高いです。 


3. 現在の場所(現在の地図との対照)

戦後の都市計画で東二番丁通りが大きく拡幅されたため、当時の店舗があった場所の多くは、現在の広い道路の一部か、あるいは「七十七銀行本店」や「クリスロード商店街」の入り口付近にあたります。

思い出を辿る手がかり:

もし新聞社の「正面入り口」を見て右側(北側)なら、現在の広瀬通に近い場所です。

もし左側(南側)なら、現在のクリスロード商店街(旧名:東五番丁)方面に続くエリアです。

さらに詳しく調べるために

もしお母様のご実家について、「お店の看板に書いてあった言葉」や「建物の特徴(2階建てだった、土間があった等)」など、小さなことでも追加の記憶があればぜひ教えてください。当時の商工名鑑から、より確実な番地を特定できるかもしれません。

お母様は、当時のお店の前の通りの様子や、新聞社の方との交流について何かお話しされていましたか?

自転車から見た戦前の日本 - 自転車文化センター


自転車文化センター


戦前有数の地方紙経営者―河北新報を創刊 一力健治郎


ニュースパーク(日本新聞博物館)


SDGs and Japan: Human Security Indicators for Leaving No ... - JIC


2026年4月11日土曜日

仙台へ

 


先月、仙台市へ行く。

妻の母の実家と、私の母の実家とが、どれくらいの距離感で在ったのか、体感してみたくあった。

 また、いく子は亡くなる5年ほどまえか、仙台にとどまっていた親族の葬儀に妹と出掛け、ひとり居残り、幼少の頃の思い出の地を歩き回ったようで、その軌跡を、グーグルマップの履歴情報で見ることができる。

 水俣にいた小学生の間、夏休みにはほぼ毎年、仙台市の母の実家に里帰りしていた。その様子は、小学生1年生の時からの、ジャポニカ学習帳の作文ノートに、日常のエピソードとして描写されている。

 両親が亡くなったときに残した戸籍簿には、母の実家は、花壇にあったと書いてある。いく子も、その広瀬川の蛇行域に半島のような地形である住宅地をくるくると歩き回っている。私は、当日のいく子の歩行順番どおりに、まず葬儀のあった北四番町あたりの迎賓館から南へと下り、そのまま行けば私の母の実家があったという河北新報社に突き当たるので、まずはそこに立ち寄ってから履歴をたどることにした。

 母は、戦争半ばで多賀城の方へ疎開し、以後はその地で暮らすことになったので、もう河北新報社の隣へんであったという場所に実家はない。というか、もうその近辺は、中央警察署や中央郵便局とかがある、官庁的な中心街に含まれるようになっており、住宅地ではなくなっている。そこから、東北大学の脇道を通りながら、お互いの母が通った片平丁小学校へと向かう。花壇地区へゆくのにも、そこは通らねばならぬ通路となる。三分ほど歩いてたどり着く小学校は、建て替え中だった。その校門の向かい側あたりに、川へと降りる階段があるのに気付く。そこを降りてゆけば、広瀬川に沿って、川べりの土手を歩き、花壇へと向かう橋を渡ることができるようだった。

川べりを歩きながら、私は思い出し、思い当たった。小学生も3年生ころか、母と二人で、鈍行に乗って仙台へとゆき、広瀬川沿いを歩いたということを。ならば、この道しかありえないではないか。だからおそらく、母は、思い出の小学校を見たあとで、やはりその前の階段をおり、こうして子供の私を連れて歩いたのではないか、そして伊達宗政の銅像のある青葉城あとへと向かったのだ。しかし思い出にある川辺は、こんな切り立った崖の下を流れる野性味ある川の土手ではなかった。どうも、父側の実家がある群馬の、前橋の市中を流れる広瀬川と混同されているようだった。母はよく、青葉城恋歌を口ずさんでいたが、その哀切なメロディーとともに脳裏に浮かんでくるのも、東京市内の神田川の情緒をたたえているような前橋市の清流になっていた。

 花壇地区は、南へ降りた川がくるっとまた北へと蛇行してもどる、その半島の先の方にあたった。戦前の面影などないだろうが、静謐さをたたえる町としてうずくまっていた。が地形とその位置からして、もし川の勢いと水量が増したならば、この半島はえぐられたり水没してしまう恐れがあるのではないか、という想念がやってきた。川の向こう岸が青葉城の山である。軍事的にも、要衝の地にあたるのではなかろうか。あとでスマホで調べてみると、やはり洪水の被害が多い地区であり、藩の時代に直轄の果樹園として切り開かれたので、花壇という名がついたのだと説明があった。混成岩(メランジェ)的な地層なのかと思ったが、川の堆積層として岬のように突き出てきたそうである。高橋、という妻の母の旧姓も、気になってくる。

※ 花壇地区と広瀬川をより低地の方へ結ぶ橋は二つあり、ひとつは、評定河原橋、もうひとつは、伊達政宗の墓がある瑞鳳殿へと導く霊屋橋である。

小学校からは、歩いて5分ほどの地帯になる。いまは外国からの移民労働者の住むアパート住居が多くなったともいうこの住宅地の中を、いく子は往復したようだ。その中に、立ち止まったポイントがあるようなので、そこを捜していってみた。この地区の看板地図がある。もう古くなってしまったままのようである。いく子はこれを見て、思い出を想い起こすようにしてから、住宅内の路地道に入っていったのだろうか。それから大橋をわたって、青葉城の山を登った。ここまででも1時間以上は歩くことになり、さらに急な山道を登るのだから、大変だったにちがいない。伊達政宗を背景にした自撮りの写真が幾枚か残っている。駅までの帰りはバスを使ったようだった。

 ところが旅路後、妹さんに報告してみたところ、母の実家は花壇ではなく、少なくとも私たちが訪問したころは、違う住所にあったのだという。私はよく迷子になるので、番地を覚えさせられていた、東一番一丁目の一だという。そういえば確かに、いく子はその辺でも足を止めていた。河北新報社からは北に歩いて3分ほどのところ、北番地の迎賓館から降りてきた途中にあたるような場所だ。その近辺はより駅の繁華街に近いから、なおさら民家があるようなところではなくなっている。

 ならば、なんでいく子は、花壇地区を歩きまわったのだろう? 姉妹がよく行ったという市民プールは、花壇地区の北側に隣接した場所にあったようで、その住宅街の中ではない。まだ母のもとの実家が残っていて、祖母にでも連れられて、そこに行ったことがあって、何か思い出があったのだろうか。

 戦争前、母と母は同じ片平丁小学校に通っていた。1年生と6年生だから、知りあいになるような接触はなかったろう。が妻の母は、昭和18年、6年生のとき、朝日新聞と文部省が主催する「全日本健康優良児童表彰会」に選ばれている。校長先生より、皆の前で、表彰されたであろう。1年生の私の母は、その姿を、見上げていたはずである。私の母の実家は、自転車屋でもあった。当時は東北大の先生たちが乗るだけのような高級品だったそうだが、地主の娘であったという母も自転車を乗りこなせていたようだから、お客として、私の母の実家に出入りしていたのかもしれない。

2026年2月27日金曜日

「中道」――いく子「日記」から(2)


 また、「中道」という言葉がでてきたので、追記。

一身にして二世を経る、とは福沢諭吉の言葉だけれど、いく子もその時空の落差に突き当たっている。漱石の「三四郎」での地方差(熊本)認識は、当事者性から見れば弱い、との記述も他の日どりでなされている。図式にすれば、熊本(地方封建)対千葉(中央官僚)である。が地方私立の中高一貫校は、その落差に、初めて女子を入学させて性急に追いつこうとしていた、ということなのだろう。いく子は、前者の人間としての「あたたかさ」を捨てず、後者の一見としての民主に偽善を感じている。どちらにも組しない模索が、「中道」という言葉を引き出させ、「結婚は妥協(中道)」だという身近な問題意識と重ね合わせられながら、もがいている。ちなみに、幼稚園は、カトリック系の教会である。

 

☆☆☆

 

11月11日(木)   3時限自習の日

肯定――(好きだから、無為自然、純粋無く)

   ―偽善者

否定――批判 破壊 反動(肯定のすべてを否定もの)

   —あざけり

中道——肯定も否定をも認め、どちらを選んでも、どちらも正しいとされているならば、多くの人の行う方、多くの人が喜んでくれる方を行うこと……妥協?

たとえばそれが制度化されているのならば、その先駆者の真実にもどって 行えたならば、いいと思いながら、真に好きに否定意見をも振り捨てる情熱があるならば。

 肯定と否定とはよく似ている。同じ事を問題にしている以上、同じ利益を求める以上 よく似ていると感じることがある。また中道の定義は私のやってきたことの美化のようで、仏教本来の意味ではなかろうが。

このごろ思っている( )以外のいやらしさを感じながら、どれがいいのかどうしたらいいのかわからない、そんな気持ちを書いてみたかった。

 結婚の制度化のいやらしさの理由に、制度に囚われて、愛情の問題をおざなりにする旧来の結婚に対する反対と、愛情を認めたら それはそれでいいだって。それはそれでわかり、私とて、わずらわしい たとえば 日どりとか式場とか申し込みとか 一族郎党が集まる日なんていやでしかたがないけれど。お嫁さんになりたいと自然に真剣に言う女の子に会ったとき、ひどくうらやましくなる。お嫁さんになりたい、大人に早くなりたいとか そんな言葉を使う子供が、制度の理屈でいやらしさを知らずにいられるとかの意味で心得て、素直でいられる純粋のままである子供や人に対しての優越感か しっとかもしれない。(明暗のお延のように)だけど、それまで認めると、ひどくひどく悲しくなっていく。

家庭科がいやだ、それだけの意味じゃなかったけれど、井上順子(註;真和中・高の先生)に反発した。その激からきた 今は反動沈黙の反省期なのか? 本当に料理が好きになればいい。真に家庭に結婚にあこがれて、家庭科を一手段と割り切ればいい。昨日の家庭科でアップルパイを作るその下準備に参加しながら、家庭が亡国の音であることを認めながら、家庭科が好きならばいい…ずっとそう思ってた。両方を認めながら、どちらも選択できずに ただ妥協として偽善として 行なっていた。

もし 私が 今 結婚をするならば 偽善だろう。私は愛情の理論化ではある。そして実践はできる。ただ 結婚と愛情が結びついてくれないだけ。だから 私は 偽でしかない。そして これから育っていく子供を育てることができない。

自分を卑下する表現(これは逆説の肯定強調、こうなるしかなかったんだ)は避けたいけれど。ひどくみじめできつい。こんな時 何とかして まがりなりにも認めたいときに、神とか宗教とか それこそ何でもいい、事でも物でも思想でも、軍国主義でも人でも、愛でも。ほら 私の人生観(なんてオーバーなのでしょう)は逃避への術になってしまった。

 怒らないで下さい。私はずっと逃げているんです。これからも。私には自信がなくて、恐ろしいほど 自分をみじめにしたくなる そんな気になってくるんです。出来るだけ 出来るだけ 下げて 考えて 偽善者みたいに悩んだふりでもしていれば、救われる。しかたがなかったって、それも 甘えかもしれません。ひどく悲しいんです。

何をやっても終わりがなくて、それから 何があっても結果がなくて、ほら、果は また因に変わっていく。人は冷たくうわさして、でも人さえ寂しくて。私が一生懸命になっているのも、逃げるためなんです。忘れるためなんです。怒らないで下さい。私はずっと逃げているんです。

 

11月20日(土)

歎異抄 唯円

仏教にも絶対者はいた。キリストのように形あるものではなかったが、いてしまった。それが宗教なのかもしれない。

親鸞を尊敬しすぎて、彼が独自に会得した(一般農民・民衆らの中からまたために作った)かのように、彼のみ彼の言葉のみを曇りのないように信じていることに やや 不満もあった。また詭弁的な言葉のあや、論調が気になる。故の多用、誤解されやすい語を前に持ってそれが正当であるように、正当であるけれど、説く文法、逆説的な用い方には ひっかかる。

フラニー(サリンジャー)にあったように念仏を唱えるうちに、その意味がわかってくる。だから念仏する。念仏と阿弥陀仏とが一体になり、いつもその絶対者が側にいてくれるようになる。見守ってくれる。それが生活で思想でささえになる。フラニーでは キリストは“ふとっちょのおばさん”となって現われる。

絶対者には形がない。民衆のための浄土宗はそれに念仏という形を与えて、その言葉の巧妙が表われる。生活の何かの拍子にこれが、こんなものが阿弥陀仏だってわかるとき、ほんの些細な日常の中からなんとなく気づく そんなわかりやすさが浄土の教えだ。わかりやすさ、民衆のためのもの、だからあまりにも卑近な例をとってくる。唯円のあるいは自我かもしれないが、13章「唯円房は我が言うことを信ずるか」の問答のある意味でいうつまらなさを感じてしまった。

東洋の思想が西洋より、すばらしい点(上下をつけるのはおかしいけれど)と感じたのは 善悪の区別は 人間の勝手な価値判断によるということを教えること。例がどこにあるのかわからなくなったけれど、行為は前世の因果でだから善悪が決められず、人は救われねばならぬという。人間は老少・善悪によらずに救われる、平等に。良い者だけが天国に行けるのではない。善悪がない。

しかし阿弥陀を信じねばならぬ。私は救われぬ。良い人間ではない。業は深すぎる。悲しい位に。でも信じていない。あることは認めても、自我が強すぎて、科学証明もなく(まだ発見されていないだけかもしれぬが)、そして前世の因果だとしたら、始めから運命があって そうならざるをえないものがあるのならば、私は信じる信じないは 始めから救われる救われないと決まっているものじゃないか。自力更生の余地がないならば、私の生きている意味がなくなってしまう。意味などなくてもよい。でも私の意志は必要のないもの、持っていなくてもよいものじゃないのか。ならば絶対者は 何故 人間に 知恵を 与えたのか? 人間を悩ませるためなのか?

もしも お与えになったとしたならば、信じる信じないなどの 二者選択の意志を与えてくださった、可能性を一つ残してくださったのか。“今は 過去の唯一の可能性の結果だ” 神にも(仏にも)未来はないのか。または現在地から未来という無限大の(神だけの知る)意志選択を お与えになった(?)

流転は必要でないじゃないかしら。前世の因果が今ならば、浄土に行けるも行けないも もう必然で、ただからまわりをしているというよりさせられている。浄土へ行くために 清浄しに生き返るならば、ただ回転の糸車でしかない。虚しさがあるだけで、創造性、意志の自由

 …(略)…

 日本史の授業「五人組」で 相互監視のもとで 一方向の地場を与えるという。彼のいう軍国主義がわかった。本間氏からハンド部、運動全般にわたって批難する糸口がわかった。でも私がそう思わなかったのは、真和の寮があるらしい。木高は軍国主義じゃない。本間氏は別としても 木高の運動クラブはそんな風にそまっていない。ずっと自由だし、統制はない。美術部と比較するのは悪いけれど 本間氏との結託はずっと少ない。影響のほども小さい。そりゃお説教の好きな人だから、そのきれいな表面の部分だけはとりあげてきたけれど。そんな点ならずっと美術部の青木先生の影響の方が大きい。

話をそらしたけれど、木高で軍国主義を感じたことはない。以前をそうだとしたら、真和の寮、悪口ばかりだったって、ばかりじゃないが、こともあるし、それが行動をかなりおさえつけて、同じくさせて、また、だから変わったことをしようとしても それもやはり その皮肉の友人のものだった。それから地域性もある。ごく普通に年功順を考えていたし、ずっと物事にこっていた。たぶん天候のせいもある。しかし真和は悪くなんかない。嫌いじゃない。批判の対象にはいくらでもなるけれど、ある意味の あたたかさとか いい思い出とか友人がいることは確かなんだ。活力がありすぎるばかりに 先生はとりしまる。木高はそれがない。だから押さえつけることもいらなかったともとれるんです。

 あと日本史というより歴史の疑問点は「何故 性格を見る必要があるのか。」それはおもしろいけれど、思想統制の意味合いも含まれているし、そのために 在るのではない気がします。人とつき合うのは 性格を見るためじゃない。性格にひきよせられることがあるけれど、人がいるからだ。それには何の意味もないんじゃないのか と思うのです。

 

11月22日(日) 学校をさぼった   サッカー

私の高校時代というより木更津高の生活は 真和の否定の上に成り立っていた。あらゆることに。文化祭も ハンドボールも 友達づきあいも。それもそれでよい。そしてまた もう真和の否定ばかりでなく、それを乗り込える時が来たのです。キザだけど、ある意味で、終わったのです。終わるってことに限定しすぎるし、また絶対に終わることなんかないけれど。クラブも終わったし、…略…、あと 受験と お友達が残って(思い出と)。

否定の上に成り立っていたことを認めます。ハッキリと。そしてそれの悪さとかof course私自身も含んで、考え続けてきたのです。でも私は真和が嫌いじゃない。恋しく思いながら、だから否定し続けたのかもしれないけれど。やっと それがわかった気がするのです。

 美術部で トキ田くんが 軍国主義を連発する。何か悪いことはわかるけれど(体育や家庭科)、何が軍国主義だかわかりゃしない、というより、わかっていない。彼の性格をああだこうだ言うのは悪いと思いながら、私の中学校の頃を思い出しては 良く似ている。狭域な見識、彼にあてはまると悪いけれど、彼の付き合っている人は 大体 同じわかっている生活(貧困、絶・失望、いやらしげな悩み)は彼のものじゃない。そして唯一 違うのは 彼は失敗したことがない。人から中傷を受けたことがない。(私が中傷を受けたのは人の悪意じゃないけれど) 彼は気づいているのだろうか。そんな風に狭まった考えが軍国主義だってこと そんな風に排他的に考えていくのが 危険だってこと。唯一の考えを持っていく信念の恐ろしさを 知っているのだろうか。

彼も日本人だ、私と同じように。そんな風に考えてゆきやすい性格を持ち合わせ、(もう私には出来なくなったけれど)、またそんな考え方が 戦争へ赤軍へ傾向いてゆきやすいこと 気付いているのだろうか。

 私はバカです。そんなところへ傾きやすい性格を充分に持っています。妥協性も出てきたし、世間の目ばかり気になるようになって もう出来なくなってきているけれども。何もかも 本気になってしまう 素直なのでも、良い人間であるというよりも 私はバカなのです。あるというよりも 私はバカなのです。

このごろ やっと 赤軍に入るのを断念しました。思想の上の 何んだのより、命をも捨てて 何かに掛けてるそんなことが好きだったのです。今、やっとそれが 思想上で問題がある、パレスチナは直接私の問題ではないということに気付いて、(また政治や安保やこれからおこりそうなことも)それを 正当ばって 口を出すのは 私の真心にそむいているのです。

結局 私はバカです。自分の正当性だけを掲げるバカなのです。

 真和の頃、何かが悪いんだってことはわかっていた。(人がいったんだけど)けれど、何が悪いんだかわからなかった。人がたまに他の学校と違っている点を述べる。そうだそうだとうのみにする それがすべてでそれにとらわれるけれど、実際は それは学校の特色だ位にしか感じていなかった。何なのかちっともわからない。何かが悪いという絶対価値ママ他の学校と違っているという相対価値ママ。先生は何も言ってくれなかった。たぶんわかっている人がいたんだと思う。受験のさしさわりだとして、言われるかして 教えなかっただけだと思うんです。閉鎖された学校system。活動できないことはないけれど、どうやっていいのかわからないところで、何かあるだと思いながらわからずに、もしもまったく閉鎖されていたら 何もわからなかっただろう。他にどうするすべもなかったのだから。梅園でさえ、他国の本を読んで(相対)やっと批難することができた。いわんや私ができるおや。だから 遊び人とか 公立組は 真和を批難でき、真和に囚われる必要がなかったんだと思うのです。ちょっと 五人組にこりすぎたけれど。しかし、その絶対的価値ママ、何かが悪いんだってことを感じなければ、その体験・経験がなければ、その相対価値ママはわからないのです。

どんなに知識があってもいい。けれど、その知識が、ああこんなものかって軽く思われたり、小さなことを こうだと断定されるのは 困るのです。トキ田くんの軍国主義だって 小さなことに 囚われすぎている。木高はそんなとこじゃない、いいとこですよ、寝てる分には。

 沢田健の信念が「ライ麦畑でつかまえて」にあるという。私の自我かもしれないけれど、読み終わった後、こう書けば小説になるのかと思った程度だし、もちろん、そう肯定してもらえて、私のかんがえていたことはまちがいじゃないことを知って うれしくて、さらに そんな方向に向いたとこもあるかもしれない。けれど彼は 感動して、それは悪いことじゃないけれど、その方向に向こうとして行動している。ある意味であれは全うじゃないんだ、社会とかなんとかの否定の上に成り立っているものなんだ、なのにその方向に向いて行くのは…何故だかひっくり返してやりたい。庄司薫だって同じだ。二人ともいい人だし、素直だし、私が判断しちゃいけないんだけれど、自分を素直だとして肯定して…本当にいい人なんだけれど…おかしいんだ。私はひねくれているだろう、私の方がおかしいんだろう。でも肯定しちゃいけないこと、例えば 弱さがあるとか…認めなければいけないとこだけどそれを肯定して 理論を先にもってきた行為を行なえば、それはあまりに寂しく、彼が強者になってしまったって類いかもしれないけれど、ひどく滅入らせてくる。

彼の学校批難とか成績の云々や家のこととか話されるたびに理論の先にたった批判を聞かされて、結局 つわものの意見を耳にするのと同じになってしまう。

私が弱いものだから 私だけが「ライ麦畑で」がわかるんだっていう そんな帰着になってしまった。こんな風に言えば 私はいつまでも否定をしつづけなくてはいけなくて、そして いつまでもひねくれものなのでしょう。

 無言。   人を全うに批判してやるのはよい。でも自由にやるようにさせて 私のようなバカな 余計なことに気をくばる人間を つくらぬために、私は黙らなければ ならないんじゃないかしら。私は もう友達に話してはいけないじゃないのか、ひょっとして 妹にも、ひどく 気がまわったり、人の気持ちをよく読めたりする。」でも それは すべてかくしてしまって 中傷も誉め言葉も使わずに 黙らなければならないんじゃないのかしら。気がつかなければ、それが一番幸せなのかもしれない。

本間氏へのしかえしに 私は何もしゃべらなくなったら、私は利己主義の反省として 人に話しかけるのをやめてしまったら、…いえいえ 彼だっていい人です。私のために 人悩ませては 絶対に いけないことなんです。

 

11月24日(水)

狭き門   アンドレ・ジイド

徳が愛をも全うする…西洋の教えだ。神という絶対者がいて その下で 人が自由と平等がある。神の基(下)で。神の前で自己犠牲を強い、神の名で幸せを呼ぶ。たぶん理屈でしかわかってないからだけど、何故人のために、ジュリタットのために、身を引こうとしなかったんだろう。武者小路「友達」(註;「友情」の間違いだろう)を思いだして Izumiの「山田、友情ば読みおと。」の声と 視線を下げた顔を思い出して。私は許されないにしても 実存の人だったら許せるのにと反撥する。

Izumiはバカで、私なんかを気にして、身を引いた。彼女の優しさとつつましさがそうさせて。

何故なんだろう。何故 神は救ってはくださらないのだろう。規律を守るものだけ、自力更生をするものだけを お(ママ)けになるのだろう。なのに何故西洋人は 神を信ずるのだろう。信じられるものがあるのはいい。なのに信じようとするあまりに 偽善に近くなるのが何故 わからないんだろう。信仰って 形にあてはめてみようとするんじゃなくて、ある意味で 自然と疑問もなく入っていけなければならないんじゃないのか。疑うなら、もちろん疑うのはおかしいことじゃないけれど、宗教理論家で実践者じゃないのに。

アリサの徳は偽善に限りなく近い。偽善だといい切るにはひたむきだ。何故愛を信ぜぬ。アリサの最も信じられる 素直に受け入れられる、そして 救われるところなのに。

「力を盡して狭き門より入れ、滅にいたる門は大きくその路は広く、之より入るものは多し。生命にいたる門は狭くその路は細く、之を見出すもの少し。」

否、否、主よ、あなたの示し給う路は狭いのです。――二人で並んで進むことが出来ない程 狭いのです。

 生命にいたる道は神だけではないはずなのに。

――しかし果たすべき義務が辛ければ辛いだけ、魂を育み引き上げるものであることを、もう悟ったに相違ありません。

そうかもしれない。そう思ってしまえばよいのかもしれない。

 

2026年2月22日日曜日

「中道」--いく子の日記から


今回の衆院選で、立憲民主と公明党がいっしょになって「中道」という仏教用語を引用した政党ができた。私自身は、この用語に関し、なんの知識もないが、妻の高校生の頃の日記を写していたら、この語をめぐる考察の文章に、でくわした。

おもしろいので、その箇所をブログでかきとめる。いく子は、高1秋まで通った熊本での中高一貫校が浄土宗の学校だったので、朝の読経や仏教講義を受けてきている。どうしてそう思考されてきたのかの文脈もあるようなので、その前提となる、前の日付のも明記しておく。

 

☆☆☆

 

10月25(月)   ――註;高31976・昭和51年)

仏教の中道の教えを考える。否定する人間と肯定する人間はわかる。そしてその両者はよく似ていると感じる。その中間の 感情がないわけでなく感じている人、どうして怒らないのとか、何故爆笑しないのかわからない。無私という否定した上に成り立ったわけじゃなくて、動いている人 無言で社会を動かしている人、何かを言っても静かに笑っている人、わざとじゃなくて。本当にやさしい人。やさしくなろうとして、やさしいんじゃなくて そんな人間はわかる。無為自然なる人。わからぬ。千葉の人(総称してみると)って たまにわからなくなる。

尾形氏と本間氏。どちらがいい悪いじゃなくて、争点とか互いの言いすぎを考えていた時に。

 

    註;尾形氏とは、日本史の先生。本間氏とは、担任であると同時に体育、いく子が所属していたハンドボール部の顧問、日体大卒で、実家のお寺を坊さんとして手伝ってもいたらしい。教師との両立が不可能になってきたともらしている。「千葉の人」とあるが、当時は、熊本との地方差が、相当あることが手紙などからはっきりする。

 

――前の日付のもの――

 

10月15日(金)

悪魔と神   サルトル

西洋人っちゃ感覚がやや違う。物を必ず、相対させてみる。客観的に視ることは必要だけど、それらが融合することを、両立すること 認めない。そこに神が出てくる おもしろい。

善と悪。いいこと・わるいことを決めるのは難しい。でもそうあるとして一般常識に従うとしても、善を行なおうとして行う人は、偽善者だという気がする。意識せずに、生まれたままに行なったその結果を人が善悪区別するんだ、人が決めるもの。やろうとして行なったものは善なんかじゃないって気がするときがある。私は素直な人間だ、正直者だと言う人位、チャチで おごっている。無理に笑う笑いはいやらしい。私はいいことをやるんだって意識してる行為は、悪いことと認めて行為する気持とほぼ同様だ。前者は おごりと自信で 片方が 卑下と自己嫌悪、似ている。

1年の頃、キリスト教の集会にいった。集まった人は皆んな若い(・・・)人で小さな子供を連れてきてる。割合うるさくて、食べ物のバザーもあるせいで汚れている。バザーなんて やってる人間だけうれしくて、来る人買う人は半ば強制的にまずいものを買ったりする。神聖な意味合いの恵みが、近所づきあいの仕方なさを無理矢理に感じさせる。村祭りはずっと自由がある。PTAが目をしかめても。話しはそれたけど、そのキリスト教者にそれを感じて、またキリスト教のかっこ良さ 外見のきれいさ ステンドグラスや彫刻にあこがれて信者になった気が、どうしてもしてしまう。日本ではどうしても 宗教が育たないのかもしれないって気がしてしまう。バザーも世俗に汚れてたし、ほとんど20才代の人ばかりっていうのが、気を迷らせた。

私はかなりイヤな顔をしていたと思う。それなのに応対に出て来たキリスト信者の人は ほんとにいい笑顔で話しかけてくれる。笑顔っていい。私もなんだか反省した。私自身がそんな表面だけを見て、実際のキリスト宗教を知らないんだからって。それでもやっぱり偽善者だって気がした。ほとんど板についた笑い顔だけどそれでも何でもなくて あんなに笑えるのかしら。でも本当に 生まれたときからの性格で にっこり笑ってくれる人がいる。本当に やさしい人。本当に 物事を悪くとらない人がいる。良くとってやろうとする人は偽善者と言えるけど、こんなに素直に感じられる人が、不思議で そして うらやましい。

しばらくして すぐ 出てっちゃったんだけど、私は。善悪の区別、中世のヨーロッパのキリスト教は 世俗的で、おごってて、これほどいい分別のつけ方はなかった。歴史でそうならう。中世はそうだったけど、発生はずっと神聖だし、美しい。キリスト教を批判する気はないんです。それでも欧州ってとこは どうしてもわけめをつけようとする。不思議だ。東洋は妥協的っていうのか、不思議もなく融合する。善悪について思うなら それは人の物の見方によって変わると思うより、それは一緒に共存して織り込まれていると感じるのだ。正直者っていうのもあるけど、それが見方を区別しても常識世俗から出たのだから、一面的なもの 逆を教えられても やっぱりそれを形のないものにしてしまった。…自分で言葉の説明がつかないけれど、感性を 形象化してみると そうなった。

 愛と憎しみ。キリストの尊厳なひざまずく愛と シャカの万物にわたる慈悲と。それはまだ私には言えない。私から見ると愛と憎しみはその出発点の一元的な時は同じだった。だから2つは似ている。よく似ている。何かにこっていて 染み込んでゆくようなものを感じる。それの表面的なものを 好きと嫌いっていうんだろう。物にこりはしない。軽くて とどまりもしない。そんな気がする。自分で言うと変だし、人に対して悪いって思うけど、それの区別が自分の気持ちにつけられるんだ。経験をおごる気はない。また私の偏見でもあろう。

 

1024日(日)

日本史をやりながら   (勉強中だから短く書きます)たまに尾形氏に疑問を持つ。運動批判、軍国主義、体育科など

私は彼を知らないからだろう。そして彼は知識を持っているのだから、と どうかして内心に押さえようとする、潜在意識のように化している。どうにかして否定してみた。できるにはできたが、それもまたまちがいであると授業に言う。疑問はもたねばならぬ。幼心に童話を信ぜねばならぬと。ある意味で肯定してくれた。私の病根なる中学時代をも、肯定とまでいえないけれど 認知する方向に私を向けさせた。必死にやったんだから、活力(下からの)があったのだから。また別なとこから、その活力をみとめながら 外の規定の中に自ら入れてみようと(意志がある)するのを認めながら、高校野球を悪いという。実際まちがったものもあるんだろうが、やるという活力は認めて欲しかった。「狂人とて大路を走らばすなわち狂人なり」活力が必要で、またなにかのわくの中から(その中にあるにしても)さがしだそうとする力…矛盾だからそのわくの大小にあるんじゃないかって、自由のきく範囲、選択のできる域…これを中道というのかと思った。私は何らかの意味で中道を考えてみたい。妥協とはいえぬもの、逃避でないもの。(仏教を考えてみよう。

2026年2月6日金曜日

津島佑子著『女という経験』(平凡社)を読む

 


瀬戸内晴美(寂聴)は、高群逸枝がアナーキストとして論陣をはっているころの、夫以外の男性との関係を追求した「日月ふたり」という作品を、昭和48年頃から『文芸展望』という雑誌に書いていた。瀬戸内の話によれば、高群亡きあとにあたる夫橋本憲三を取材するにあたって、その男の対応に嫌気がさしてきて書くのを中断した、ということになる。

が、高群に関するものを読んでいくにつれ、要は瀬戸内の発想が低俗すぎるので、取材を受けるほうが嫌になったのだろうな、と私には推測されてきた。それは、瀬戸内の他の小説や読書感想などを目にしていけばより知れてくる。瀬戸内は、人を心理的にしかみようとしていない、というか、見れていない。だから、心理的な揚げ足取りに終始しているようなものになる。高群本人からならば、世間がもっと「低級」でないことをのぞむ、と拒否されるような態度になるだろう。

 

たとえば、『源氏物語』の読解をみてみればいい。瀬戸内は、そこに女性心理のパターンを読み、いまの女性にもあてはめて類型化していこうとする。それを面白く世間知として参考にしていく人もいるのだろうが、真実的には疑わしい。本当に考えていく作家であるなら、まず自分のそんな発想を疑うだろう。

 

津島佑子は、『女という経験』を書くにあたり、自分が心理ではなくむしろ神話を参照にしていくことなどに、次のような断り書きを「はじめに」として付記する必要を感じた。

 

<人間の肉体としては、女も男も昔からほとんどなにも変わってはいないのだろうが、それぞれの性に与えられてきた社会的な意識は、その時代によっていくらでも変化している部分があるにちがいない。

 だとすれば、当然、それぞれの人間たちが抱えていた悩みもちがってくる。時代が変わってしまえば、そのちがいを具体的に正確に知ることはほとんど絶望的に不可能なことなのかもしれない。そんなことも思う。

 古典というものを読むとき、今の時代に共通した要素を、私たちは読み取ることができる。でもこわいのは、そうして理解できる要素だけを取りあげて、満足してしまう結果になってはいないかということで、とくに、「性」と宗教については私は臆病にならずにいられない。

 女と男が出会い、惹かれ合い、交わる。男は射精し、女は妊娠する。この成り行きだけはいつの時代も同じだったとしても、そのとき、男と女がどのように惹かれ合い、性欲を感じ、それぞれの射精と妊娠にどんな意味を感じ取っていたのか、それがよくわからない。

 現代は、コンドームやピルなどの手段で、妊娠を自分たちで調整できるようになっている。まちがいがまま起こるとしても、基本的にはバース・コントロールが私たちの常識になっている時代なのだ。これは性の常識をすっかり塗り替えた、人間という種にとって大きすぎるほど大きな変化だったろう。>

 

 高群は、『源氏物語』から、個人心理ではなく、招婿婚という婚姻形態の痕跡を洞察した。津島も、自分を含めた現在の女性心理から、「女系意識の強かった社会」の系譜を洞察していく。

 

<そんな世の中が開国でどのように変わったのか。古き良き、巫女の力に支えられる日本の神々の世界が呼び起こされるのかも、という庶民の期待を裏切って、日本社会はキリスト教文化を背景に持つ男女の社会的役割分担を積極的に受け入れるようになる。

 現在の私たちはこれを「封建制度からの女の解放」という文脈のなかで教えられてきたのだが、庶民層にとっては、むしろ「男は強きもの、女は弱きもの」という、理解しがたい思想が津波のように襲ってきたようなものだったのかもしれない。

「女」の解放どころか、実際は、キリスト教に根ざした男性の圧倒的優位の概念のもとに、「女」は家庭の天使になれ、慈しみ深い母になれ、「男」のために尽くす存在となれ、とそれがあたかも「福音」であるかのように、新しい「道徳」として女たちに押しつけられた。

 それは庶民層の女たちにとっては、屈辱的な「男」への隷属を意味していたと考えられる。それまでは武士階級の女ですら、自立した自分の地位を約束されていたのではなかったか。

 当時の宣教師や思想家などが説いていたことはべつにして、その時代、空気として社会に流れはじめた概念の変化は庶民の男たちを、女に対して一方的に尊大な、優越感を持つ存在に塗り替えてしまった。>

 

 津島は、平塚雷鳥の『青鞜』の言葉も、人権化という近代意識へ向けてではなく、その反対として読み込む。それは自分を含めたいまの女性意識からそう読めるからだ。そこから見れば、つまり強い女性観点からみるならば、男たちはこうつる。


<それにしても、男とはもしかしたら、その本性として、女の食い物になりたがっている生きものなのだろうか。それで男の母親たちは、自分の息子を必死になって「女」から守ろうとして、「女」のこわさについて教訓をくり返し語り聞かせるのだろうか。…(略)…

 けれども、何度も今まで書いてきたように、才能もなく、美貌にも富にも縁がないごくふつうの女たちは、男たちの作った社会ハンディだけを一方的に背負わされることになり、それはかなりつらい状態なのにちがいない。そして、多くの女たちがこの立場に甘んじているのが、現実というものなのではないだろうか。

 また、たまたま才能や美貌に恵まれた女が出現したとして、その女たちは「悪女」か「魔女」か、と男たちから敬遠されることになる。もちろん、そんな障害を突き抜けてしまえば、例外的な「女」として心からの敬意を表されるのだろうが、そこまでにいたる道にはかなりの孤独がともない、人並みではない努力も求められるだろう。

 男の対処法をしっかりわきまえているたぐいの女たちは男たちを安心させつつ、手玉に取ることもでき、そうした女たちこそが本当はいちばん男たちにとっては危険なのかもしれないのに、女の側から見ると、やすやすと男たちがだまされつづけている。>

 

 しかし以上の認識は、だからこそ、とまた反転する。女性の強さを「霊力」(出口なお等)や「処女」(ジャンヌ・ダルク等)や「母性」として神話的に称揚し利用する「男社会」を警戒しなくてはならなくなる。それは性交を神秘化して女を内的に所有していこうとする男の通俗感への告発にもなる。

 

<現代の多くの女性たちは、「処女」のままでいようが、男と性交しようが、妊娠さえしなければ、なにも自分の人生も精神生活も変わらないことを経験的に知っている。女は最初に性交した男性を忘れられないものだ、という「神話」もあるが、これも私がまわりの知り合いの女たちに聞いてみたかぎりでは真赤なウソで、性交そのものはすぐに忘れてしまうもの、だから救われているんじゃないかしら、と述べる人もいた。私自身もそのように思っている。ふつうの人間の女たちにとって、「処女」にしても、男との性交にしても、その体に流れる時間の外に浮かぶ蜃気楼のようなものなのかもしれない。>

 

 男社会による女性の「神話」化、その衝迫性はなお有効になっている。そしてその「低級」な通俗性を、そのまま受け入れて自己保存してしまう女性たちも多くいる、ということは、現在の女性総理の「暴走」からはじまった選挙状況を鑑みても、当てはまる事態なのだろう。

 

<女というものは感情的なので、いったん暴走しはじめると、並みの犯罪者よりも恐ろしい殺戮者になる、などという一方的な言い分を、もちろん、ここで引き寄せるつもりはない。

現実の出来事でどのような結果は報告されるにせよ、私がここで(引用者註―中国文化革命や日本連合赤軍などの事例)感じるのは、「女」なるものに「革命」の預言者になって欲しい、なるべきなのだという、一般の期待の強さなのだ。

なにかが起ころうとするとき、ひとびとは「女」の預言者性、巫女性を思い出し、そこにすがりついて、自分たちの行動を正当化しようとするものらしい。そうした「女」をめぐる運動が「革命」のとき、自動的に引き起こされる場合が多いのではないか。

あのフランスの愛国者ジャンヌ・ダルクにしても、同類の事情が働いていたのかもしれない。だからこそ、ことが収まったのちは、火あぶりにされる運命にあった。>

 

 

    瀬戸内が指摘した、高群の男性経験等に関しては、私は夫の橋本憲三の想いの方をとる。彼の晩年、このもちあがった件で、苦悶のうちに亡くなっていったという堀場清子の指摘(『わが高群逸枝』朝日新聞社)がある。また、高群の全集刊行を世田谷の「森の家」で住み込み(同棲)で手伝っていた石牟礼道子と橋本との関係も疑われている。(藤原書店の高群逸枝特集での山下悦子、そして神戸大の中山修一の読み込みでは、石牟礼は憲三の妹公認の「後妻」になったのだと推察している。『三つの巴――高群逸枝・橋本憲三・石牟礼道子』-中山修一著作集18)しかしそこに「男女関係」なる通俗をみようとすること自体がおかしな話になってくるのだ、と私は帰納する。高群の男女恋愛の「一体化」の思想と直観は、このブログでも引用したシモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』においても、心理事象の向こうに洞察される。(石牟礼の作品『最後の人:高群逸枝』における「最後の人」とは、高群ではなく、橋本憲三のことだ、というのが中山の指摘でもあるが、このブログでもすでに言及したように、作品の大半は橋本をめぐる考察なのだ。奇妙な話だが、それを奇妙だと受け止めること自体が、読む側の俗情との結託を証してしまうのである。彼ら彼女たちがやった、提出した仕事を前にしたら、そう自省されてくる。)

2026年2月1日日曜日

民法と徴兵制


大学へ進学しなかったいく子は、かわりのように中央大学通信教育部に通った。そこで沼先生という方を師事していて、その講義中のカセット録音テープも残っている。その先生の名字だけを検索してもひっかからず、当時の同級生女子(「沼先生のファン」だったと手紙にある)、中上健次の熊野大学にも一緒に同行した和歌山の方に年賀状ついでに尋ねても、私は会ったことがないのだ、という返事だった。だが、次創作準備に入り遺品を再整理再検討していると、中大通信教育部発行の冊子がでてきた。そこに、沼正也、という名前でエセーを寄せている。再検索をかけると、民法専門の中央大の名誉教授だとわかる。

 

私は、「白門」というその冊子の、「民法を成立せしめているテーゼ群」というのを読んでみた。(あちこちにいく子が線をひっぱっている。)

 

読んでいて、現日本総理の高市早苗の台湾有事での存立危機事態成立云々の発言をめぐっての、苫米地英人のYouTubeでの解説中の、よく腑に落ちなかった部分が、わかってくるような気がしてきた。つまりこういう法前提的な理解があって、しかも、もし高市らが憲法9条を変更しても、それをなお日本国憲法において無効にしえる法的根拠、あるいはそこを思考する示唆があるのではないか、と思えてきた。

 

事実上の“宣戦布告”!? 高市総理「存立危機事態」発言が国際情勢を揺らす(苫米地英人)

 

苫米地は、日常言語としてではなく、存立危機事態という法的用語を説明しながら、自衛隊をめぐる9条問題にも言及する。隊員の離職者が多いのだから、有事で戦争といっても、なおやめていったら実行維持できない。現今の自衛隊の法的位置づけは、警察権の行使なのであり、外国の侵略も泥棒にあたる。それに対処するのは(国家)公務員であって、ゆえに、その職業をやめる自由がある。が、憲法9条に、自衛隊は軍隊であると明記したらどうなるのか? 今でも実質そうなのだから実際にも何も変わらない、という話(現実)にはならない。憲法に明記されるとは、それが国家を縛ることになる、つまり、軍隊を維持するのが国家の義務になるのである。自然権の一部なりを国に信託すれば金がかかるのだから税金として納めるようになる、ただでやってもらうわけにはいかなくなるのと同じだ、つまり、国民の権利が義務として跳ね返ってくるのである。防衛の問題も同じになる。徴兵されることが、国民の義務になってくるのだ。9条2項で排除されている交戦権も認めれば、自衛隊はもはや自国領土・領海内での警察権行使としての存在ではなく、国境をこえた他の国への支援、集団安全保障の実行も明確に可能になる。

 

私は以上でいう、国民の権利と義務の転換の話が、よく腑に落ちなかった。職業選択の自由があるのだから、徴兵は、たとえ憲法改正がなされても、無理なんではないか、と。それが国民投票もいらず、与党の閣議や国会議論上で法的に成立しても、個人(市民)の権利として抵抗すれば、つまりその職業を選ばされることを拒否すればいいのだから、強権的な無理な実行をともなわざるをえないのだから、実際運用は成立しないのではないか、と。なのに、どうしてこの転換が、機械的に変わるのか、なんで原理が変わりうるのだろう、と。

 

が、沼先生の講釈によれば、なお近代法成立の過程において、その両義性が内包されているのだと。国民と市民が、この矛盾が、解決解消されていないまま残っているのだと。が、日本国憲法は違う、と。第九七条の「最高法規」の規定が、「『国民の権利および義務』中のそれとは次元を異に」させているのだ。むしろこの国家を超えた「最高法規」規定が、憲法9条の戦争放棄の定立を「演算的帰結」たらしめているのだ、と。

 

私は、法的知識、理解はまったくないけれど、これは、現選挙後の世界(国内外ふくめて)において、有効な視点、戦争を防いでいく、若者を戦争で人殺しさせずされない法的根拠を、提示してみせてくれているのではないだろうか?

 

以下、その箇所を抜粋引用。

 

===== =====


『市民社会』は、ほんらい理念態であるから、その発想の端緒においてはこの世に現実に存在するものではありえなかった。その実在化は封建社会の崩壊と表裏を同じくするが、封建社会の倒壊を腕力的に早めたのがフランス革命であった。フランス革命の成功は、フランス国家の滅亡を意味するものではなかった。フランス国民が引き続いてフランス国民であることにおいては、変わりがなかった。アンシャン・レジームのフランス国家の領土は、引き続いてフランス国家の領土たることを止めたのではなかった。政権の交替が起こったまでのことであった。ブルジョワジーが、新政権をほしいままにした。新政権は、フランス国家の領土内に独立・平等・自由の理念的属性を帯有する市民から成る『市民社会』を営むことを宣言した。ことの本質において……(『人権宣言』)。

 そのとき、フランス国民は、『国民』という資格のほか、『市民』というもう一つの別個の新たな資格をもつこととなったのである。惜しむらくは、フランス新政権は、新生フランス国家の目的を市民社会の樹立一つに絞ることをしなかった。国家は、あい変わらず雑多な対外的・対内的な目的を背負って(封建的人間関係の許容さえもが、形を変えて……)愚昧な道をたどることに結果したのだった(後年マルクスでさえもが、プロレタリアによる政権奪取に成る社会主義国家は共産社会の樹立のみが唯一の国家目的であることの強調を遺忘した)。それにしても、市民社会が国家権力のバックアップをうけ、封建社会の現実的崩壊の後釜としてじわじわと座り込むというアウトロー的存在から転じ、表面きって呱々の声を上げたのであった。

 市民社会は人間のあらゆる自然的属性の法的受容の拒絶態であるから、人種・民族の差別にも自然発生的な言語にも背を向け、一個の全人類社会の規模においてみずからを完成するという演算関係にある。国家は、みずからの領土内に細切れの市民社会を運営しうるばかりである。市民社会の高度化とともに国家はみずからの生命を死滅せしめざるをえないという宿命はここにあるが、それへの一里塚としては国家はこんにちなお市民社会の樹立について現代的役割をはたしている。死処よろしきをえることが、将来における最大肝要事なのである。

 啓蒙論者たちは、独立・平等・自由の演算数値に思い思い幻想的な観念論の外被をまとわせた。自然状態において人間は、独立・平等・自由であったなどと……。独立・平等・自由われにありという市民の権利の総称が基本的人権と名づけられているものであるが、これを目して天賦の権利などと性格づけるのも、同断であった。二〇世紀が近代自然法思想という浴槽を洗い流したとき、赤子までをも流しはしなかった。独立・平等・自由は演算的所産であったのだから、神や形而上学から切り離されてもなお健在であり続けているのである。奇妙なことにこの国日本では、健在であるものが健在でなく、洗い流されてしまったものがなお健在であるかの観を呈している。基本的人権を天賦のあるいは人間生来の権利であって国家といえども奪うことのできない権利だとか、独立から派生した語である個人の尊厳を生まれながらにして尊いことなどという理解がそれである。基本的人権は、独立・平等・自由を主張することのできる資格の総和であり、個人の尊厳はイコール独立すなわち他者から切り離されていること・差し金をうけないことという形而上学的外被を脱いだ演算成果の意味においてのみ解せられるべきものである。

 アメリカ占領軍当局は、日本国憲法に『最高法規』と題する第一〇章をこっそりとおいた。その冒頭第九七条に規定する基本的人権の宣言は、第三章『国民の権利及び義務』中のそれとは次元を異にして、新生日本の国家目的を日本国領土内に市民社会を運営するということにのみ絞る世界の国々に二つとはない寓意を与えた。それは、第九条第二項と結合して戦争放棄の第九条の定立を演算的帰結たらしめた。(沼正也著「民法を成立せしめているテーゼ群」『白門』12 1中央大学通信教育部 1978121日発行)