2024年4月9日火曜日

山田いく子リバイバル――(16)


Youtubeにアップしていた、仮タイトル「チムチムニー」の全体データがみつかったので、いく子のダンスを連続で上げてきたアカウントの方へ、「森のクマさん」と仮タイトルして、アップロードした。前のものは途中までで、音響も壊れてすさまじくなってしまっている。逆にそれが、それなりのアクセス数になったような気もするが。

 

山田いく子「森のクマさん」(仮タイトル)…2008頃 (youtube.com)

 

息子のイツキの体格からすると、まだ幼稚園児くらいの頃であろう。正確な年月はわからない。私は会場にはいなかったようだ。六さんのダンスパスでの、私的な交流公演なのだろう。

 いく子はここで、またどこか私的な奔流に呑まれたようなダンスをしている。やはり何か、トラウマのようなものがせり上がってくるのだろう。

 いま、映画で、1993年公開で、カンヌでパルムドール賞をとった、ジェーン・カンピオン監督の『ピアノ・レッスン』が、4kになってリバイバル上映されている。いく子は当時、この映画の感想をノートに書きつけていたので、タイトルだけは記憶にあるがこれを私は見ていなかったので、観賞してみた。以下は、その感想を、妹さんへのライン宛てに書いたものである。このいく子のダンスの出所は、そういうものであると、私は思っている。

 

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「ピアノ・レッスン(原題は、The Piano)」の出だしで、女性主人公の設定が、6歳から唖になってしまったとあって、すぐに了解。最後のテロップで、監督が女性で、設定場所がニュージーランドということで、もしかして、いく子のダンス「エンジェル アット マイ テーブル」のタイトルとなる映画を作った監督と同じなのでは、と推論。スマホで調べたら、やはりそうでした。

 

女性の自立みたいな解説をみたりしていたのでそうかな、と思っていたら、逆で、それが不可能である、という内的現実の在り処を示そうとするものです。描いたのは、女性というより、アーティストといっていた方がわかりやすい。

 

ピアノは、自分の意志ではどうにもならない、抑えられない力、を意味します。オシになった彼女は、再婚のためにスコットランドから植民者の白人のもとへゆくのですが、愛することはできない。彼とマウリ族の間で通訳者をする現地化した男を愛するようになってしまった。その男との交際中にしゃべるのですが、通訳者にはきこえなかったその言葉を、覗き見していた植民者には、制御できない意志の力が自分でも恐ろしいのだ、と彼女がささやいたと聞こえた。彼女の指を切り落としてしまった植民者は、彼にそう伝え、二人が一緒になって現地から去ることを許す。

 

この、抑えられない力は、いく子のテーマです。映画でも、6歳から、ということで、なにかトラウマを負ったのかもしれませんが、とにかくそれに突き動かされる。それは、性と結びついている。最後は通訳者との幸せな結婚のように見えますが、現実には、ピアノは海の底(無意識)に沈んでいるだけです。それが爆発するのではなく、なんとか手懐けられるよう、彼女は発声練習したりして、通訳という境界にいた男との関係で、リハビリをしているのです。そして話すのが恥ずかしいので、今度は目隠しをしているのです。

 

「エンジェル アット マイ テーブル」は、まだビデオ化もされておらず私は見てませんが、精神病院に入っていた女性の話です。

 

当初このテーマは、画家のアンリ・ミショーの言う「噴出するもの」、後期では、ウィトゲンシュタインの「語り得ぬものは黙らなくてはならない」、との言葉として、いく子が自身のノートに引用していたものです。「ガーベラは・と言った」の「・」も、語り得ぬ力、を意味しています。

 

私はたしかに、この通訳者の位置に重なるかもしれません。いく子の短編小説では、女のアパートに何かを買ってきてと呼ばれた男はシャワーを浴びたあと、「おまえは用を頼む以外はしゃべらないんだな」と捨てゼリフを吐いて出ていくのですが、その筋の合間に1行、やることはやったし、と挿入されていてなんのことかと思うのですが、セックスでしょう。いく子はクリステヴァという女性哲学者の「サムライたち」という赤裸々の自伝を読んで、「女は感じるのだろうか?」と問うています。読めば、感じまくってる作品なんですが、いく子にはそれでも、女は感じないのではないか、と思わざるを得なかったんですね。

 


いく子が最後の方の入院中、自分で買って読んでいた本は、荻尾望都と竹宮惠子という少女マンガ家の自伝です。彼女たちは、男女ではなく、少年同性愛を描いた作家です。彼女たちの漫画を読んできた1960年前後に生まれた女たちを、民俗社会学的には、荻尾のタイトルからとって、「イグアナの娘たち世代」と呼ばれているようです。いく子が直面していた問題は、他の女性とも共有共感的になる、歴史的な問題でもあるのです。


 ※ 現地部族にとけ込んだ通訳者には聞こえず、白人植民者には彼女の声ならぬ声が聞こえた、という設定はおかしく感じるかもしれません。が、7歳くらいの娘とニュージーランドに嫁いで行った彼女の最初の夫にも、テレパシー(という言い方はしていないが)が通じたので結婚できたが、その関係が怖くなって夫は逃げていったと娘に手話で言い聞かせています。いく子が、最後に関心をもったダンサーは、アメリカのトリシャ・ブラウンで、まだ封を開けていなかったDVDをみると、トリシャは、デビュー時コラボした男性アーティストに、あの当時のテレパシー現象をどう思うか聞いているんですね。男は黙って答えずはぐらかし、トリシャが困惑するシーンがあります。また彼女は、子供を産んで創造力が湧き上がってきたと言っている。これは、竹宮惠子のSF漫画「地球(テラ)へ」もそうで、そこが男のSF漫画からすると異色になり、もっと突っ込んで考えていく余地があると思います。 

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※ この映画の語りは、7歳ころであった娘、なのかもしれない。そしてその彼女も、オシになってしまって、このナレーションは心の声だ、と言っているのかもしれない。となると、娘が口がきけなくなってしまったのは、新しい父が母の指をオノで切り落とすのを目の当たりにしたショックからとなる。となれば、母も六歳のとき(娘も6歳という設定を暗示しているのか?)、両親の暴力を目の当たりにして、その現実が反復されている、となる。むろんこの暴力性は、植民地主義と結びつけられている。白人の男の賢さ・ずるさを、現地の人や主人公は、受け入れられないのだ。それはまた、この映画の女性監督が、故郷ニュージーラーンドで認識したことなのだろう。

ピアノ

 


 慎吾は、鍵盤からはずれた小指と薬指が折れるように曲がって拳のようになると、そのまま叩きつけた。悲鳴のような音が割れて、誰もいない閉めきった居間に響いていって、消えた。グランドピアノの黒光が、なおさら部屋を暗くした照明のように閉ざす。ぼんやりと、消えていった音響が木霊をかえしてくるように、家具の輪郭や置物のたぐいが慎吾の視界に浮き上がってきた。空になった、天井まである備えつけの本棚、そこには箱に入った日本文学や世界の文学全集、思想全集が並べられていた。母に言われるままに、直希が市の清掃局へと持ち運んで処分したら、なんで捨ててしまったの、せっかく読もうとしていたのに、と直希は小言を言われていた。空いた棚のところどころには、その代わりに、お土産で買ったりもらったりした人形が飾られている。上の段には、三人の子供が小さいころに、野球やテニスで獲得したトロフィーが溶けたような金属色でくすんでいる。このピアノも、引き取ってもらう手配ができているとのことだった。箱型のピアノから大きなグランドピアノへと取り換えるさいは、防音設備の整った部屋の庭へ通じたガラス戸の方から入れられることができたけれど、もう庭の木も大きくなって、戸の前をふさいでいる。ふたを開けると竪琴のように大きな羽を広げるピアノは、ピアノ教室のための部屋には入りきらなかったので、居間の真ん中へと据えられたのだった。

 慎吾は、大学生の頃に、独学でやり直し始めたのだ。小学生のころ、母から教わってはいたけれど、ブルグミュラー教科書の最後の、エリーゼのためにが弾けた程度だった。それ以来、やってはいなかった。いまやってみたくなったのは、たたまれた黒い羽の羽ばたきをもう一度目にしたかったからだろうか? 自宅に帰ってくるたびに、ひたすら練習した。ショパンの革命を弾けるようになった。その有名な曲の、下流から上流へとさかのぼる魚群の奔流のような指の動きが上達するにつれ、自分も天へと舞い上がっていくような気がしてきた。高揚した気分そのままなように、文学部だったけれど、バブル真っ最中の銀行へと就職した。地方の銀行だった。それで満足したわけではなかった。もっと俺は上昇できる、現金の最終確認で俺の窓口から十円盗んで揚げ足を取りいじめてくる奴らを見返してやれる。そうして、外資系の会社の経理部長としてトラヴァーユした。それでも奴らは、そのアメリカの大会社と手を組んで俺を追い落とそうとした。尾行し、盗聴をしかけ、悪い噂をながさせる。あいつはバナナだ、中を白く見せたがっている黄色いバナナだ、英語と日本語で、俺の耳に飛び込んできた。鍵盤の音に変わって、声が、洞窟の中の残響のように俺の脳みその中で渦巻いた。妄想なんかじゃない、幻聴じゃない、あれは、ほんとうの話で、ほんとうの声だったんだ!

 母と、弟の直希は、母の実家のあった宮城の方に行っていた。留守宅にひとりでいた慎吾は、久しぶりにピアノを弾いてみたのだ。統合失調症と診断された病気以来、もう弾いてみたことはなかった。ピアノを処分するからね、と直希から確認されていたので、ならばこの誰もいなくなった居間で思う存分弾いてみようという望みのようなものが湧きあがった。が、もう指が動かない。もともと、小さな手だった。その手を思い切り開いて思い切り素早く動かさなければ、鍵盤を渡っていけなかった。まるで自分の人生のように、指は折れた。「音大にいったらどうなの?」学生時代、女友達に言われたそんな言葉が、よみがえってきた。あれは、どんな意味だったろう?

 慎吾は、スプリングのような原理で伸び縮みする椅子から立ち上がった。子供の頃は、丸くて、くるくる回すと高くなったり低くなったりする紫色の椅子だったな、と思い出されてきた。小用をたそうと、居間から洗面所へと通じるドアの方へ向かい、取っ手をつかむ。金属質の冷っとした感覚が、外に目をやらせた。花模様の絵柄の彫られた曇りガラス製の玄関から、日の光が曇り空のように広がってくる。まだ夕刻にはなっていないはずだが、晴れなのか、曇りなのか、わからない。カーテンは、閉め切っていた。雨戸は、その開け閉めは自分の役割として言われていたので、まだ暗いうちの早朝にすませていた。朝食は、近所のコンビニへいって、お結びを買ってくる。そしてすぐに、英語の勉強がてらもあって、映画の『ゴッド・ファザー』のビデオを見る。もう何十度、何百回と見ていることになる。ほぼ毎日、見ている。あきないのかい、と母に言われても、新しい番組は緊張してしまって、見ることはできない。俺は、病気なんだ、それでも一日一日を頑張って生きている、それなのに、なんででできないああしろこうしろって言われなければならないんだ?

 慎吾は廊下にでると、南側をふさぐ半開きのままの襖から、母の寝起きする部屋をのぞいてみた。掛布団がめくれたままの、ベッドが見える。もともとその部屋は、床の間のある客間だったのだが、いつの間にか、炬燵もおかれ、母が過ごす部屋に変わったのだ。西側にある、食卓の置かれた台所の北側の、奥まった部屋を父とともに使っていたのに、そこから表へと出てきたのだ。あの日の当たらない薄暗い部屋に、両扉で開く鏡台があり、子供のころは、内職していたタイピングの機械などもあったはずだ。お父さんは、居間の備え付き本棚が延びている北側の窓のところに机を置いて書斎がわりとしていた。お父さんがいなくなって、まるで岩戸の奥に隠れていたようなお母さんがでてきて、口うるさくなった。父がいない、いつの間にか、お父さんはいなくなった、いや俺は、なんでお父さんがいなくなったのか、知っているじゃないか、抑圧するな! いやそれも俺の幻なのか?……あいつが、ほんとうに、やったというのか? わからない、わからなくなっちまった……俺の病気の、妄想なのか?

 便器の内側には、まるでそんな妄想の破片のように、茶褐色の塊が飛び散って、こびりついている。朝方した、自分の大便の飛沫なのだろうと、慎吾はわかっていた。何度も、母から、そして直希からも、小言を言われていたからだ。当初は俺じゃない、と言い張っていたが、その汚れが、自分の薬の副作用で、便が下痢気味になることからくる汚れであると認めざるをえなくなった。それらは、その散らばった断片は、俺のばらまく現実なのだ。慎吾は小便で、その断片を洗い流そうとする。落ちるものもあれば、落ちないものもある。これも薬の副作用なのか、のどが渇いて、水が欲しくなるのだ。ペットボトルに水をいれて、いつも手元においていなければならない。俺は、何に渇いているっていうんだろう?

 トイレの汚れはそのままにして、慎吾は自分の部屋にむかった。ピアノの脇を通り過ぎて、階段をのぼってゆく。のぼり切った左側の、開け放したままだった引き戸をくぐって、すぐ右わきのベッドの上へと、仰向けに体をあずけた。ベッドのクッションが軽く反発して体を浮かせると、そのまま天井の木目の渦へと、自分が吸い込まれていきそうな感覚になった。

 この子供部屋は、慎吾が大学に通うため上京したあとは、すぐ下の弟の正岐の部屋になっていた。また慎吾がもどってきたときには、誰も使っていなかった、いや正岐の使ったままの跡が残っていた。退院して久しぶりに自分のベッドに横たわったとき、どこか違う感じがした。ベッドの置かれた場所が、違っている、移動していることに気づいた。そう気づけることが、ふと、はじめて自分を安心させて、いままで、自分はやっぱり病気だったんだな、と納得させてきた。入院のあいだ、自分がどこにいるのかさえ、わからなかった。殺風景な部屋の鍵はかけられていた。いや、紐か何かで拘束されていて、身動きもできなかった記憶がかすかにある。何かわめいていたのだろうか? 注射で、大人しくさせていたんだろう。俺は、大人しくなった。病院を移された。お父さんが、入院していたところだとあとで知った。自分がいたところは、一度はいったら出てこられなくなると有名な病院だったそうだ。だけど、俺は出てきた。そして、お父さんが狂って入っていた家から近い病院に俺も入ったんだ。ならば、そのときまでは、お父さんは、生きていたってことになるんだが……そこで、殺されたのだろうか? 遺書があったと、直希が言っていたような気がする。ならば、ほんとうは、自殺だったのか? いや……そうやって、そう見せつけて、あいつらが、そうやったということか? 俺は……とにかく、ベッドを、まえ俺が寝ていた場所に移動した。北側の窓のところから、隣の子供部屋とを仕切る襖の手前のこの場所に、いつもいた場所に……だけど、そこに、もうお父さんは、いなかったんだ……。

 アーメン! と慎吾は渦を巻いた天井に叫んだ。あわれみの神、来れたまえ! 慎吾は怒鳴るように、聖歌を歌う。声を張り上げて、天に、誰かに、聞いてもらいたかった。学生中のころ通い始めたプロテスタントの教会では、賛美歌と呼んでいた。いつくしみ深き友なるイエスは、われらの弱さを知れて憐れむ……もうどちらの歌を歌っているのかわからなくなった。張り上げた大声は、隣近所をもふるわして、苦情が来るからよしなさいと母から言われても、胸が張り裂けてくる。だって、その隣近所の子供たちだって、苦しんでるじゃないか! すぐ東となりの父母世代からみれば孫にあたる娘さんも、市役所に勤めていたのにいまは家に引きこもってでてこないみたいだというし、その隣のお宅の直希より三つ年下の末っ子も、家にこもりきりになって、去年だったか、家の中で暴力沙汰でもおこしたのか、パトカーが来て警察官がきて、通りを逃げるその末っ子を猛然と追いかけていったのをお母さんは見たという。南側の畑の先にあるお宅では、小学校は違ったからとくに仲がよかったわけでもない自分よりひとつ年下の長男も、十年近くまえだから50歳をすぎてから自殺したと近所に伝わっていた。ときおり朝早く、まるで髪を長くしたイエス・キリストみたく、まだ暗い道を歩いて、コンビニで食べ物を買って帰ってくるみたいだとお母さんは言っていた。なんだかあっちにもこっちにも、俺みたいのが家に隠れているじゃないか。老齢化したこの地方の住宅地で、あっちにもこっちにも、世の中で挫折したまま立ち直れなくなったものたちがうじゃうじゃしているじゃないか。俺は、黙ってなんかいられない! だから俺は……俺はもう、活動なんてできないけれど、訴えることはできる、歌ってわめいて、戦ってやる! 花も蕾の若桜、五尺の命をひっさげて、国の大事に殉ずるは、我ら学徒の面目ぞ、ああ紅の血は燃ゆる、ああ紅の血は燃ゆる!

 慎吾の歌は、いつの間にか、軍歌に変わっていった。そしてそれがいつものように、テレサ・テンの歌に変わってゆく……愛をつぐなえば別れになるけど、こんな女でも忘れないでね、優しすぎたのあなた、子供みたいなあなた、あすは他人同志になるけれど……あれは、どんな意味だったんだろうなあ? と、慎吾はまた思い返した。

 おなじテニス部だった。そのサークル活動とは別に、文学の趣味も共有できた。好きな作家は違っていた。慎吾は、川端康成や三島由紀夫のある種の作品が好きだった。彼女の方は、出版されたばかりの村上春樹の『ノルウェーの森』を読んで、好むようになったと言っていた。慎吾は現代文学には疎かったけれど、彼女が読むのだからと、読んでみた。鼠だの羊だのが、なんで出てくるのかわからない。100%の恋愛小説を歌った作品も、慎吾は石坂洋二郎の作品も好きでよく読んでいるのだったが、比べたら、その物語のどこが純愛なのだかわからない。女の子は、病気じゃないか、と思った。結核とか体の病ではなくて、精神病になっていく心の病をとりあげたのが新しいということなのだろうか? だけど男の方は、蜘蛛みたくみえる。中学くらいのクラスの中に、一人はこういう男子がいるものだという気がした。クラスの華である一番手や二番手の女の子にあこがれるのはあきらめて、四番手以下の、あまりぱっとしない普通のような女の子がよってくるのを待っている。わざと軟弱な擬態をして、声かけすいような大人しさでじっとして、細いけどねばねばした網を張り巡らせて、ひっかかってくるのを待ち構えている。かかってきたら、雨に濡れた体を羽織ってやるように粘つく網をからませて、食べきるまでは放さない。それから次の獲物。思春期まえのあこがれの男子は、あんまり女子に興味がいかないで、スポーツなんかに精出している。華ある女子も、なんだか見えを張っているだけのように見える。だから、奥手を捨てて、一番すすんでいくのはそんな普通かそれ以下のような男の子や女の子たち。普通とされる劣等感が、コアな動きを伏流させて、不良とレッテル張られた男女はもう、目に見える塊で底に沈殿していく。本能のようなカーストが、こっそりと、世の中の下地をつくってゆく。大学生ともなれば、そのヒエラルキーは自然体となっている。理想を体現するセレブな男女、普通の壁、落ちこぼれ……彼女は、俺を憐れんで、体を開いてくれたんだろうか? 「音大にいったら?」というのも、世俗の階層に不適応な俺の一途な想いを揶揄しただけだったのだろうか? 俺は……証明してやりたかった、俺だって、二枚目でもないぶきっちょな俺だって、世俗の中で生きていける、だから、二流の大学から銀行に行き、他のエリートと張り合う外資系の企業にいき……俺が、俺自身が病の男の子になっちまった。もう、昭和でなく、平成だったんだなあ。大手会社から内定もらえる基準も、外見を気にする、異性とのコミュニケーション能力がある、ユーモアを解する、友だちが多い、みたいな美的判断が成績以上に重視されるようになったっていうじゃないか。下の階級からの這い上がりは、生まれつきの顔や育ちの振る舞いで選別されてしまうって。セレブ同士の結婚、アスリート同士の結婚、遺伝子なんだか環境なんだかわからない。カネと地位を得ても、顔がよくなければ生理的な本能で疎んじられてしまう。いつの間にか令和になって、俺に近い年頃の男が天皇になって、技術的な能力なんてAIで代用できるんだから、これからはなおさら人間的な魅力ですって……俺は、だめなやつなのか? 一生懸命やってきたのに、それがだめだっていうのか? 遺伝環境的に、はじめから見込みがなかったっていうのか? 父親が狂ったから、俺も狂うっていうのか? ……それがわかってるから、俺は、お父さんをやっちまったのだろうか? いやそうじゃない。俺は、殺せなかった……いやそうじゃない、そんな遺伝のために、俺はあいつらといっしょに活動したわけじゃない……。

 日が沈みかけているようだった。閉めたカーテンから漏れる光に、暗闇がまぎれこんでいる。雨戸を閉めにいかなくちゃな、と慎吾は思った。そう思えるなら、自分はまだ狂ってなどいないのではないか、と思えてきた。しかし、ベッドから起き上がることはできなかった。薄暗さの中へ沈んでいった木目の渦をまた逆巻かせるように、瞬きを繰り返した。それでも、あいつは、やったんだ……慎吾は考えつづけた。「君はもっと表にでる必要がある」なんて、俺と同じようにあいつらにそそのかされたにせよ、総理大臣を撃ち殺してしまったんだ。父親を通り越して……なんで、お父さんじゃなかったのだろう? お母さんを苦しめたのは、総理以前に、親父じゃないのか? 母親たちが大挙して新参の宗教に入っていったのは、家に居座っていた父親のせいじゃないのか? 2世問題とかなんとか言う前に、なんで女たちは、狂ってたんだ? なんで病の女の子たちが、蜘蛛の巣の網に引っかかっていったんだ? ねばねばの網に絡まれて食われるほうが、気楽になれるのだろうか?

 慎吾は慣れないスマホの操作で、テロ決行者を検索してみて読んだツイッターの文というのを思い越した。家族への連絡ようにと持たされた携帯電話の時もそうだったが、慎吾は普段、電源を切っていた。高校の同窓生や施設仲間との間で、フェイスブックやツイッターなどに参加し、たまには自分の意見を投稿してみるくらいにはなっていた。けれど、投稿してすぐに電源を切った。世間にいつも繋がっていることは、そう思うだけで恐ろしいことだった。常に迫害されているような、強迫観念がとりついた。自分から発信したら、引きこもる。断続的というよりは、非接続でなければ、身が持たない気がした。承認されることには、あとから身をすくませる恐ろしさがやってくる。

検索の中で、中年にあたるのだろうその男は、DNAの多様性を認めるように、軟弱な男子も救われるべき、その遺伝子も保存されるべきことを説いていた。これまでの事実として、男女関係はインフラとして機能している。男に女を配給する世界共通の事態として、貧乏子沢山の苦痛が現実だった。その現実の中で、女も生まれてきた。それを一定の豊かさを得た後の世代が無視して、女性こそがどのDNAを残すかの選択肢を持っていると思い込むのは権力的である、そう権力的に振る舞うことで、軟弱な遺伝子を殺しているのだ、世界を貧弱にしているのだ。女性問題が全てではない。憎むべき対象は、男女関係をもインフラの一部として取り込んでいるこの社会全てに対してである。この俺の思想を卑小化するな!

慎吾は、自分が事実、軟弱の部類に入ってしまうということを、認めざるをえなかった。DNAという言い方はよくわからないけれど、自分の子供を世に残すことができないで終わってしまうのは、淋しい気もする。子供の頃は、父親とマンツーマンで、テレビ漫画の『巨人の星』でのように、思い込んだら命がけの特訓を受けていた。少年野球では、ストライクが入らず、ファーボールをだすと、お父さんはタイムをとって俺をベンチに呼んで、気を付けをさせ、ビンタが飛んだ。俺はまだ、あの痛さを覚えている。次男の正岐は黙って交代させられただけだった、三男の直希ともなれば、なんにもなしだ。なんで俺だけ……男子進学高の部活では天文部に入り、大学では、やはり女子のヒラヒラしたスカート姿にあこがれて、テニスのサークルに入った。その選択自体が、俺の育ちに対する反抗であり、だからそのまま、軟弱の道への選択になっていったのだろうか? テニスは上手なほうだったけど、俺は、やはりさえない奴だったのだろう、今現に、こうした病人生活をしているのだから。障害者認定の階級を審査で落とされたら、俺の老後なんてありはしない。いやそもそも、この病気になったものは、六十を過ぎて亡くなっていくのが平均寿命みたいだ。もうこんな弱者の毎日が、三十年! 俺の子孫なんて、俺には残しちゃ悪いような気がしてくる。……だけど、彼は、あいつは認めない……それは、まだ若いからか? 血気さんかな余力があるから、おだてにのってもと総理の暗殺を企てられたのか? お父さんでなく……いや、そういえば、あのメンバーのお父さんも自殺していたんだっけ? エリート土建業の世界で、気がふれて、自殺に追い込まれていった、ならば、俺と同じじゃないか? あいつがお父さんを通り越していったのも、父親を翻弄させたこの世界そのものを変革させていこうと試みたからか? そして俺には、そこまでできなかった……俺は、軟弱そのままだったんだ……

焦点の定まらない慎吾の視線が、部屋をさまよった。壁に備え付けの戸棚つきの本棚にも、机の上にも、床にも一面、この三十年読んできた本が積み重なっていた。部屋を視察に来た施設の担当者によれば、整頓されている方だという。本は、専門的なものではなく、自己啓発や実用的な書籍が多かった。小説の類は、同じものを繰り返し読んだ。淡い、恋の話のもの以外は、受け付けなかった。西日の濃さを滲ませた微光が、本の表紙を照り返させる。厚手のカーテンの隙間から部屋を斜めに区切った光の線は、昼と夜とをぼんやりと区別しているようだった。それは、生と死の堺も、ぼんやりと重ね合わせていることを暗示しているように思えた。実際、慎吾には自殺の衝迫が時おり、昼の明るさの真っ最中にやってきた。一度起こると、数日その衝動は続いて、また昼の光のどこかに消えていった。昼の中に夜があり、そして夜は、睡眠薬の助けがなければ、眠ることはできなかった。ということは、真実の世界は、昼の背後にぼんやり隠れている夜ということなのだろうか?

その夜の壁際が、西日の反射の中で、少し動いたような気がした。目が動いて見て、ぎくりとした。部屋の角には蜘蛛の巣があるようだった。その透明な反射の中で、姿の見えない小さな目が慎吾を発見し、じっと見つめているような気がした。がそうわかると、なんだかほっとするような気もしてくる。このままあの蜘蛛に食べられてしまっても、気楽で、気持ちよいような気がしてくる。「人はむしゃむしゃ食べられることを望んでいるのではないか?」焼き鳥屋で、時枝が言った言葉が思い返されてくる。たしかに、その蜘蛛が雌だったら、なおのこといいに違いない! 軟弱な俺なんか、雌どもの栄養にでもなったほうがましさ! ……でも、餌食にもなれないってことか? いや、そもそも……もしかして、彼女は俺を、つまみ食いしただけなのか?

慎吾は、頭が混乱してきた。もう眠れない夜が、やってきたのだろうか? 雨戸を閉めにいかなくちゃ……いや、あいつらの話は、もっとすっ飛んでいたぞ。人間の性差も、ニモと同じだって。クマノミは、一番大きな体をしたものが雌になる。他はみな雄だ。その雌が死ねば、二番目に大きなものが、雌になる。性の決定は、DNAじゃない。しかし、ならばどうやって二番目に体の大きな雄は、俺が二番だって、わかるんだ? 俺が二番目だから今度は俺が女王だ! って無理やり体重増やして自己主張しその地位を獲得するわけじゃあるまい。この現実は、蟻や蜂の生態でも同じだと。戦闘蟻をのぞいてしまっても、働き蟻の中からまた同じ割合の戦闘蟻がでてくる。そいつらは、主体的に志願したのだろうか? そうでないとしたら、どうやって選択されるんだ? コミュニケーションがあるのか? 俺が雌になるよ、今度は俺が戦ってくるよ、って? そうじゃあない、男女の性差とは両極の磁力であって、人はこの間を生態環境的に揺れ動く、どんな人間もこの両極の磁力の影響のもとにある、LGBTとはその力の差配のことであって、それは絶えず振動している。生きるに必要なのは自己の同一性を確立することではなく、その振動のエネルギーに身を任せることで世界に参加していく意志と、その技術を身につけることである! ……じゃあなんで、王殺しが必要だったんだっけ? あいつは、そそのかし、あいつは、島原は、なんで親父をやる必要があったんだ? それは、主体的な実践ではないのか? 世の中騒がせて、何をたくらんでいるんだ? 男たちの間で、なんで騒いでいるんだ? ……焼き鳥屋での乱痴気騒ぎが思い返されてきた。時枝や島原の議論に弟の正岐が巻き込まれているなか、がらっと開いた店のドアから、がたいのいい男たちがどやどやと入ってきたのだった。