2023年9月23日土曜日

渡辺京二著『小さきものの近代 1』(弦書房)を読む

 


 渡辺京二氏は、水俣病とされた被害当事者の側に寄り添い続けて闘ってきた人だと知られている。その思想的立場は、右・左でいうならば、右側からの国家批判ということになるのだろう。近代以前的な情念の正当性をえぐりだして対置させてきたようにみえる。法的な裁判闘争以前の、こちらで死んでいった者たちと同じ分だけの毒を飲んで会社幹部が順番に死んでいってくれたらそれでええ、という村民の感情にこそ私たちが継承すべき正統性もがあるのだと、その論理を抽出解析して提示みせてきたような気がする。

 

 こんどのこの作品も、幕臣側に立って負けた無名ではないが世間に埋もれていった人物や、無名的な庶民あがりだけどひょんな境遇から名の知られることとなったジョン万次郎のような人物などをとりあげる。そして、彼らが最終的に、黙って処するようになったそこに、本当に知るべき現実があるのではないかと示唆する。

 

<襲撃(桜田門外の変――引用者註)に参加した水戸藩士の中にただ一人生き残りがいて、名を海後磋磯乃介と言う。維新後水戸警察署に勤めた。…(略)…海後は警察をやめたあとは、その前で代書人をやっていたという。毀誉褒貶する者はあり、それは耳に入ったであろうが、一切無視した。本当はこういう人こそ、何を考えていたのか知りたい人なのである。>(「第四章 開国と攘夷」)

 

 二次大戦敗戦後、小林秀雄が述懐したように、黙って処した者は国民規模になった。このブログでも、村上春樹の父をめぐるエッセーをとりあげて、その父の沈黙の姿を喚起させた。渡辺氏は、維新前後のことを扱ったこの第一巻では、庶民の天下国家のことに関心を持たない姿勢に積極的な意味があったことを示唆している。がこれからの巻で、とくに戦後政治において、当時と同列な意義を見出せるのかはわからないような気がする。継承と変質があるだろう。とくにこれから、もし日本がより中国文化圏に従属していくことになっていった場合、今の香港の人々にあるだろう沈黙の姿勢と、戦後の日本のそれを機械的な延長上で把握することはできないであろう、と推測する。

 

 昨日、NHKが徴収にきた。高校時代からテレビは見なくなって、上京してからはテレビを所持してなかったので、結婚後もそのまま、深い考えもなく、契約させようと訪問してくる者たちに退出してもらってきた。が千葉へと引っ越し、一軒家で暮らしているとなると、目立つからか、次から次へとやってきて、嫌になる。押し問答は面倒くさい。

「要はテレビ持ってる持ってない、視る視ないじゃなくて、NHKはおかしいだろう、と意見を持ってるか持ってないかじゃないの? それは思想・信条の自由として憲法で保障されているんじゃないの? もう7割以上の人が払ってるんでしょ。100%になったら、北朝鮮みたいで、おかしくないの? この間若い人が取り来たけど、若い世代はスマホでみんなすんじゃうでしょ。で、スマホでも徴収しますって、他の民主国家なら暴動起きてない? 余った金で今度はネット番組作るって計画したらしいけど、都民共済だって余ったぶん返金しているよ。あんた一軒一軒まわって手間かかるって言ったけど、俺だって一軒一軒まわってチラシ配ってるけど、100枚配って一枚反応あればいい、というのが植木業界で、それはまだいい方だというんだから、他の業種はもっと大変なんだよ。配ったら7割のお客できたなんて、おかしいでしょ。それは儲けじゃやない。上納金と同じじゃない?」そう言うと、中年社員は少し面食らって、「ご理解を」と言う。「女房入院してるから自分ひとりじゃ決定できない。」と言うと「前回もそんなこと言って。来月から値下げになりますから、来月から新規でということにしますから、ぜひこの機会で。」と、申し込みのQRコードの入った不在連絡票を置いていく。前きた若い人との問答もフィードバックされているから、次は、もっと理屈っぽいのがやって来るのか? 私の判断では、そのうち国家権力はそれこそ北朝鮮なみに強くなってくるだろうから、よっぽど運がよくないと逃げ切れないだろう。思想信条の自由をだしての反論に関しても、放送法ではなく、憲法の「公共の福祉」という観点からそれを退ける、という判例があるようだ。国策裁判なのだから、無名庶民が勝てる見込みはない。未払の三倍は罰金をとっていいという去年だかの判決もでている。N党は内紛でつぶれているし。

 

 ともかく、7割の日本国民が、ほぼ黙って処しているわけだ。責任は持たないという製薬会社との契約ワクチンの件でも。マイナンバーカードは、私も金子勝氏が毎日新聞で指摘していたように、もう日本人が技術的にできないという話が本当なのではないかとおもっているので、できないものはできない、と醜態をさらして撤退ということになる可能性もあるかとは思うが。

 

 私が言いたいのはこういうことだ。NHKをはじめとした権力側の一部だか大半の人たちは、日本人が大人しいからって、なめてつけあがっているんじゃないの? そうなると、日本人がどうなるか、むかしの時代劇でもあったよね、「黙ってりゃあいい気になりやがって、てめえら人間じゃあねえ、叩き切ったる!」って。そうなっていいの? そういう日本人に忖度しないの? 権力側への忖度じゃなくて、そうした日本人の共通的なメンタリティーも考慮しないで、何が「公共」なの? そのどこに「おおやけ」があるの? 単にエリートの言葉上のつじつま合わせがあるだけじゃないか。ふざけるな! もちろん、そんなことほざいても、世の中は、変わらない。現場の庶民ができることは、上からの指示を人間的に社会判断し、やりすごすことだ。特攻隊だって、現場の隊長が上官に向けて、まず私とあなたで新人の前で見本をみせましょう、さあ私と一緒に突っ込んでください、と直訴してみせたら、その部隊はとりやめになったという例もあるそうだ。しかしそれは、上官らが敵だということではない。もう一緒なのだ。宮台真司は、入管でのスリランカ女性死亡事件に関し、新右翼の鈴木邦男の「公安は敵ではない」のだという言葉を紹介して、一般とは違う仕方で、アイヒマン問題を解いていた。ユダヤ人を収容所に送ったアイヒマンも、入管の職員も、思いやりのある普通の人で、それぞれの「物語」があるのだ、その相互現実を理解しなければ不毛だと。私も同感だ。『進撃の巨人』を誤解して、プーチンは敵だと殺し合いを煽っているのは不毛だろう。さらに、本当に、中国文明なみに権力が世界を覆ったら、一般的な闘争は難しくなるのだから、現場での闘争しかない。そのうち、そんな体制自体もたない、長続きしない、というのも、自然の現実なのだから、自然を信じて、しぶとくやっていく他ないだろう。

2023年9月9日土曜日

『#ミトヤマネ』(映画)を観る

 


千葉の市原市のTOHOシネマズで、観てきた。

宮崎大祐監督の映画は、『大和(カリフォルニア)』から見てきている。みるたびに感想を、というより考えさせられたことをこのブログでつづってきたが、前作の『PLASTIC』をひと月前だかにみて、とまどってしまい、感想を書き込むことができなかった。今回の『#ミトヤマネ』にも、おそらく同じとまどいをもったが、前回よりもおとなしく、なぜとまどうのかがわかってきた。監督自身の友人たちも「変な感じ」を観賞後に口にしたそうだが、たぶんその感じとかぶるものなのだろうと、予想する。

 

とりあえず、ストーリー的な読解からはじめよう。

が、観賞直後、私は、この映画のストーリー構成が把握できたわけではなかった。スマホで他の人の考察を読み、監督自身のインタビューに触れて、はじめてこんな構想だったのかな、と了解してみたのである。

 

最後、ミトヤマネという若い女性、インフルエンサーとして世界的に名の知られた女性が、都会のしゃれたマンションの自室で、パソコンで検索閲覧していた街角のライブ画像が途切れ、砂嵐のようになったその確認に、不敵な笑いをみせて、終わる。瞳が不気味に光る。最終テロップの終幕の直前では、救急車のサイレンの音響効果が流れるのだが、CineMagサイトの「考察」によると、おそらく、ライブで確認していた場所とは、彼女が紙袋をいれたコインロッカーのあるところで、その紙袋が爆発し、つまりテロを敢行したのだろうと。なるほど、そうだな、と私はそれを読んで了解した。映画全般の印象としては、『ジョーカー』、そして爆発物をしかけた後に彼女がよぎってゆく渋谷のスクランブル交差点での描写に、『バイオハザード』の何シリーズ目かの日本を舞台にしたものを連想していた。たしかそれも、交差点の真ん中で、女子高生らしき人の瞳が光ったような。

 

前作『PLASTIC』も、交差点にあたるといっていい場所で、男女が出会えるかどうか、というところで終わる。この構図は、『Tourism』でも『VIDEOPHOVIA』 でもみられたろう。とくに、『Tourism』の場面では、幼い男の子の声が天井から降りてくるような語りとして導入された。私はそれを妖精なのでは、と感想もした。『PLASTIC』でも、おなじ男の子の声が流れた。そして、私の推論なのだが、この男の子が、『#ミトヤマネ』では、登場してきたように思うのだ。

 

それは、ミトヤマネのプロデューサーが、弁護士と相談している場所でのことである。中国企業からの申し出を受理して、フェイク動画の仕事に参加してみたのだが、それで世界的な炎上騒ぎになって、収拾がつかなくなったのである。彼女は本当は在日だみたいな、ネトウヨからの攻撃が示唆されてもいる。そうしたものへの法的処置の相談が、いったいどこで、もたれたのか? シビアな仕事の話なはずなのに、よその子供がうろちょろしている。図書館か? その子供たちが絵本を読むところか? とにかく、そんな奇妙な場所の、閲覧席でなのか、あるひとりの男の子が、絵本を立てて読んでいる。目が鋭い。耳が、やけに大きい。人間としては、おかしい。『PLASTIC』の冒頭は、『スターウォーズ』のあの宇宙の闇に語りの字幕がとおざかってゆくものの、パロディ的な引用だった。そして、宇宙の話題があった。

 

そういうところから推論されてくるに、その耳の大きな男の子が、天井の声を持つ妖精であり、宇宙人、ということなのでは、と。哲学者カントと同時代の霊能者スウェデンボルグによれば、宇宙人とは霊のことだった。つまり、地球とは違う次元の世界が、ここに重なるように降りてきている、ということではないか? 映画『マトリックス』も、連想されてはくるからである。パラレルワールドの話題も、冒頭部分の会話で、暗示されていたであろう。また、作品との重なりは、『Plastic』の中で、文学作品でのフォークナーにおけるサーガという枠の示唆があったであろう。

 

そしておそらく、ミトヤマネは、マネジャーをしているはずだった妹と、入れ替わったのだろう。いや、妹がミトヤマネになった世界と、姉がミトヤマネのままの世界とが、パラレルワールドになって、分裂している、ということではないかと思われる。ペットの子豚が家から逃げてしまって、交番に届け出た帰り道、おっかけに遭遇し、歩道橋へと逃げ込むのだが、妹が右の階段をおり、姉は左の階段を降りると、おっかけは妹の方をおっかけていった。その手前のシーンで、マンション室内で鏡を前に化粧をしているのが妹で、その妹がまるで召使のように姉に指示して、子豚の行方を捜すように命令していた。それは鏡に映った描写の中でおこなわれたが、その実際の人と、鏡の中の人との位置関係が、うまく頭で処理できない奇妙さがあった。映画『シックスセンス』での霊をリアルに示すための映画上の工夫を想起させる。

 

たぶん、姉がミトヤマネのままの世界では、妹は怒り心頭した左翼過激派のような人物たちの石つぶてによって虐殺され、姉は世間に復讐し、妹がミトヤマネの世界では、彼女はプロデューサーと一緒になってその困難を乗り越えた、ということになっているように思われる。

 

社会テロと霊と宇宙論が重なる構成。

その重なりが、映画的な画像と、スマホの画像と、パソコンのディスプレイと、街角のビデオ映像と、といった多様な様式によってつぎはぎされている。このつぎはぎが、つまりカットとカットのつなぎが、未成熟というか、「変な感じ」を抱かせる。サークル延長的な、素人的な未熟さとも受け取れる。感情転移はできない。むしろ、唖然とさせられてしまう場合が多い。『PLASTIC』ではとくにそうだったのだが、それは、私がいわゆる映画における古典的な感性、個人経験的な趣味に左右されているからかもしれないと、判断を保留していたものだ。そして今回この作品をみて、やはり、保留すべきなのだ、と判断されてきた。

 

CineMagの評者は厳しい。アート系のB級映画としても抽象的なメッセージが弱い、と。よく了解できる意見だが、映画の歴史において、たとえ実験的な映画だとしても、その様式は統一されていたのではないか。ゴダールでも。正面を向いた人物がカメラ(観客)に向かってなように話しかける、その様をはじめてタルコフスキーや小津の映画で直面したときの驚きと新鮮な感動。そこで培ってきた感性からすれば、どこかタイミングや秒数がずれていて、しかもカメラに向けて話していたと思しき人物はカメラをかわすように迫ってきたりする。感性とは、どこか、ずれていて、居心地がわるい。ちぐはぐな感じを受ける。がそれは、映画をみようという、前提があるからではないか?

 

宮崎監督は、インタビューで、こんな疑問を提示している。

 

<サイズ以外にスマホのモニターとスクリーンの違いって最早なんなんでしょう。>(「神戸映画資料館」)

 

そのジャンルが衰えて終わったとおもわれた時や時代に、そのジャンルの固有性に立ち帰るのが、本当のモダニズムとされた。ボードレールやフローベールといった作家も、文学が終わったとされたポストモダニズムな社会にあってこそ、そのジャンルの固有性、小説の小説性とかを反復したモダニズムな作家なんだ、営みなんだ、というのが、かつてあった教養である。浅田彰が口をすっぱくするようにして言い、映画では、蓮見重彦が説いてきたことであったろう。要は、映画らしい映画。

 

宮崎監督は、ドゥルーズをあげたりして映画について語るが、上の問いかけは、映画の映画性にこだわるどころか、映画(芸術)というヒエラルキーを転倒させていくものである。A級高尚芸術と、スマホのライン等アプリの画像と、どこが違うのか、と言いのけるのだから。

 

私はドゥルーズの映画論は読んではいないが、ベルクソンの記憶哲学によるのだったろう。が、宮崎監督は、スマホをスクロールしながら各人のクリックで画面が編集されてゆくようなイメージで映画を作ったという。スマホ閲覧は、各人の趣味をAIで自動的に編纂してゆくアルゴリズムも挿入されてくるのだから、ベルクソンの純粋記憶よりかは手前にあるだろう別次元の、より社会的メディアと身体との関係を再考させるものだろう。その洪水のなかで、私たちは生き、将棋界の藤井聡太も、まだAIの指す手の論理過程が未知のままであるのに、その確率世界(パラレルワールド)を凌駕してゆく手を打っていくと指摘されている。

 

おそらくこの映画監督の根底には、大衆による反逆の精神が息づいている。それがうまく、様式的な昇華として成功していないかもしれない。(ゴダールの編集技術は、やはりあくまで映画としての統一性を維持しているだろう。)あるいは逆に、私たちがすでにそんなちゃらんぽらに感性が寸断された世界を生きているにもかかわらず、それに対応した感性に更新されていないということなのかもしれない。そんな最中にあって、かつて説かれたモダニズムな対応、いわば映画らしい映画を作ることに思想的な意義が本当にあるのか、有効な実践に本当になるのか、ということは、問われなければならない。なぜなら、私たちは、こりずにもまた、三つ目の世界大戦に直面しているのだから。かつて映画がファシズムに加担し、いまはSNSが加担している、と伺える世界の中で、とても、そんな高尚とされるインテリ対応だけが是であるとは、受け入れがたいではないか。

2023年9月1日金曜日

盛可似『子宮』(河村昌子訳 河出書房新社)を読む


千葉市の中央図書館で、頼んだ本を探してもらっている間に、新着コーナーで目にして、借りてきた一冊。

 

中国の女性作家の作品。作者のことはまったく知らなかったが、本を開いてすぐ、四世代にわたる家族の系図みたいのがでてき、「纏足」という文字もみえたので、興味をもった。一世代きりや一人の行動で世の本質的変化など望むべくもないし望んでもいかんなあ、というのがこれまでの人生から思われて来ることなので、やはり近代小説的な枠組みより、何世代もかけて意志をもつとはどういうことなのか、とよくは知らない中国の文学作品を読むことで、考えるきっかけを得られるか、というような期待が脳裏に過ぎった。

 

一読して、びっくりした。

 

タイトルは、もともと作者が『子宮』としていたのを、中国での出版では編集者の意向にそって『息壌』とされたが、台湾での出版にあたり当初の『子宮』に。訳者によれば、「息壌とは、中国の神話に出てくる魔法の土で、自ら増殖する力を持ち」、「洪水を治めるのに用いられた」という説話に由来し、どちらのタイトルも、「本作の含意に合致している」と解説されている。

 

確かに、「含意」には入っているだろう。がこの小説は、神話的ではなく、清朝末期の纏足の祖母から現代の曾孫までの四世代を描いた問題提起な作品である。女性の豊穣さを確認する作品でもなければ、纏足って女性差別でいけないよね、などと主張する作品でもない。おそらく、このタイトルに孕まれた含蓄を、日本あるいは欧米の人々が理解することは、おそらくできないのだろうと思われる。私も、なんていっていいか、わからない。あくまで、女性に対する纏足的な現状は相も変わらずだとの認識前提はあるだろう。がだからそんな社会や歴史にネガティブだというのではない。それを変革していくポジティブな意志を持てているわけではない。しかし、諦めているわけではない。むしろ、告発している。が、たぶん、その変化への意志を、自分だけでは抱え込まない、人の悠久な営み、波長を信頼してそこに自己を埋没させながらも、水の中の一滴の波紋の力に希望をもつことができる、ということを、静かに前提して押し出している。文章の比喩など、現代的なIT用語や性的な用語が、その世間的な含意が剥奪されて、ぶっきらぼうなリアリズムで並置されて記述されていく。その平等な表現は辛辣だが、その世界を突き放していく態度のうちに、冷静な愛がある、といおうか。

 

おそらく、私たちがこの作品の含意が理解しにくいのは、父権的な社会に征服されきった歴史をもつ社会での生き方を、なおそれとの対峙を葛藤できる社会で生きている私たちには、受容できる経験がないからだ。それは、コロナ禍で、強制的に隔離されたり、PCR検査を受けるのに長い行列を徹夜でならばされたり、等のニュースをみて、いったいどんな気持ちになって日々の生活を人々はおくることができるのだろう、と考えてしまうのに似ている。もちろん、そんな強権的な社会の中にも、自由というか、喜怒哀楽というか、そういうものはあるだろう。と、ここで「そういうもの」と曖昧な表現になってしまう。欧米の言語ゲームの中に、そして家族形態的にもなお、核家族と父権共同体家族の中間領域にいる私たちには、中国社会での概念をうまく言い当てる言葉につまってしまうのだ。

 

いや全体主義国家を体験している日本人だって、抑圧統制されて生きることがどういうことか想像できるだろう、との批判は正当ではない。おごれるものはひさしからず、と季節のようにすぐ次の転回になるだろうと高をくくっているのが私たちの習性ではないのか? 昨日の敵は今日の友、とか、のど元過ぎれば暑さを忘れる、とか。

 

いったい、中国の方々は、どうやって生きているのだ? こうやってだ、と、盛可似は提示している。傾向としては、女7人の姉妹のうち、都会で暮らすインテリ階級のものには批判的だ。がそれでも、その離婚することになったその妹夫婦の関係にしても、どこか奇妙であり、作者はこの欧米的観点からすればの奇妙さに、中国の歴史的な厚みが反映されての成熟さがあるのではないかと、冷徹な認識を暗示しているようにも読める。作者自身が、湖南省の農村生まれで、その故郷を舞台にそこでの逸話から想像・構成した作品である。基本的には庶民の、あるいは抑圧されている女性たちの立ち居振る舞いの底力に共感しているだろう。作者の思いに一番近いとおもわれる医師の男と結婚したインテリの六女の初玉は、十六歳にして父がいないことになるだろう子供を身籠った孫世代のヤンキー的な初秀とのやりとりで、「よく考えろ」と諭していた自分が負かされたと認め、若い世代の意識に共鳴する。まわりの農村在住の姉たちは、二人のやりとりは理解できないが、結果として、学のない少女が学識ある妹を負かしてしまって二人の仲が回復したらしいのを見てとり、大喜びし、おろすのではなく産むという選択に傾いたことを歓迎する。

 ※ おそらく、「反」ではないが、「非」me tooなる立場になるのではないか? アメリカ発の中絶首肯の運動とは、出所の違う立場から、違う方向(意味」)を探ってゆく営みになるのではないか?

この作品を読みながら、2015年にノーベル文学賞をとった作家スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチの『戦争は女の顔をしていない』を想起した。このロシア語で書くベラルーシの女性作家は、私の知る限り、リベラル視点からプーチンのウクライナ侵攻を批判している。が、彼女が集めたロシアの二次大戦下の女たちの生きざまを読み知ったら、ロシアの女性たちが、プーチンを超えて、その戦争を支持するようになるのではないか、と私は思わざるを得なかった。軍隊でもトップクラスの男が少女の面接にたちあい、「おじさん私も戦いたい」と訴えてくる少女を、「お嬢さん、ばかなこと言ってないで帰りなよ」みたいなやりとりが成立している官僚社会。このあり様も私たちには理解しにくいことだし、中国の官僚社会には、そんな人間味みたいなものは、ないだろうと予想する。が、その差異をこえた視点で、作家の態度として、スヴェトラーナの(私の知見の範囲では)、この戦争に対する態度は、単純であまりにインテリすぎ、欧米インテリの視点だろう、と思われてきたのだった。そんな態度で、ロシアの女たちを理解できるのだろうか? そこに生きる庶民への正当なる批判的観点を持ち得るのだろうか、と私は思っていた。対等に、お互いが励まし合って変わっていくような言葉をみつけられるのだろうか?

 

盛可似は、そうしたインテリの態度とは違う視点を持っている。肉体として持っている。その肉体が、作家としての自己をも突き放して、庶民の荒波の中に飛び込ませる。そのうえで、知的な冷徹な肉眼が、ヒエラルキーを転倒してゆくようなエクリチュールの運動を波立たせているのではないかと、翻訳でも、思わされて来るのだった。