2023年2月21日火曜日

庭の営み

 


「ここで僕が述べる「庭」とは、人間以外の事物たちの織りなす豊かな生態系が存在し、それに人々が触れられる場のことをさす。そしてサイバースペースとサイバースペースの支配下にある今日の実空間を、SNSのプラットフォームから解放して「庭」に変貌させること、それが僕の最後の提案だ。僕たちはまず、サイバースペースを普及期の、つまり九〇年代後半から今世紀初頭までのインターネットにある次元では回帰することを目指すべきだ。まだ誰もが相互評価のゲームをプレイし、タイムラインの潮目を読むのではなく、自らが書きたい事物について純粋に批評し、それを発信していた時代に回帰することが必要なのだ。」(宇野常寛著『砂漠と異人たち』 朝日新聞社)

 

何かの新聞の何かの記事で、「庭」という概念をキーに論を展開している著作だと知って、購入して読んでみる。上引用のような「庭」の定義は、実は、「にわ」という原語の概念に近い。『万葉集』の中でもその語の古い語義は、まず漁場、そして山の仕事場、そして家の中の作業場である土間、である。いま人びとが思い浮かべる垣根や塀の内側にある植栽された空間のことは、日本の古語では、「その(園)」や「やど(宿、屋土)、あるいは「しま(島)」という言葉の意味の方が近いだろう。

 

要は「にわ」とは、人が営める範囲の境界側、縁=淵のような領域をさしてきた。そこでは、人間ならざる生物たちとの交流が盛んになることから、人間ならざる異界との交通もが想定されるようになっていったのだろう、と思われる。「市場」とは、「市庭」と表記されもしたのである。つまり、サイバー空間が、「にわ」という語義にそもそも含まれていたのである。

 

私自身の、植木職人での文学実践(実験)も、宇野氏のような試みと重なっている。それはまず、デザインや形以前に、人のそんな本源的な、境界的な営みなのである。それをどう現代の世の中で回復し、つまりはまずはこの内側に境界(差異)としての人の営みを見出しこじ開け、押し広げていけるか、そしてそこになんらかの実質的なネットワークなり制作物を痕跡させられえるかの、試みである。そうした立場からすれば、境界の内側で自足した生活、外側の仮想空間での自由奔放な錯覚に戯れる営みとは、ともにいただけないものとなる。

 

宇野氏の文脈に限れば、事実私は「ブログ」までの活動でストップしている。SNSは、夜勤の荷物担ぎの仕事を一緒にしていた南米からの友人たちが国元へ帰る際「これにはいっておいてくれ」と言われたので、フェイスブックには結構早い時期から参加していたが、ツイッターだのインスタグラムだのは、はじめから問題外というか、身体的に受け入れがたい。おそらく、50代も後半になる人たちは、学生の頃はまだ手書きやワープロだったはずだから、ITリテラシーなるものに不慣れということもあるだろう。深い考えとしてではなく、旧い身体の習性が受け付けない。ただ年の割にはだいぶそうしたテクノロジーの進展についていってはいるだろう私には(スマホの導入は息子より遅くとも、その使い回しテクニックは私の方がすぐ上になる)、やはり思想問題として、そんなものをメインに使う気にならない。はじめからすでにそうなのだから、宇野氏の提唱する「遅いインターネット」に格下げするまでもない。年の功、ということか。

 

そして今そのSNSで炎上している話題の一つに、成田悠輔氏の、老人たちへの「集団自決」したらどうだみたいな発言があるらしい。

 

今月初めごろに、柄谷行人氏が始めて頓挫したNAMという社会運動で知り合った摂津さんと、私も千葉市民になったということで、10年以上ぶりだかに会って話をしたのだが、そこでも、それが話題の一つとなった。摂津さんによると、その中学生の頃の成田氏を、NAM会員の飛騨さんが天才だと言って会合に連れてきていたこともあったそうだ。私にも、たしかそういうことがあったような記憶もあるが、はっきりしない。「今ネットでだいぶ顔をみるイエール大の先生だと言うことは知ってるけど、本とかは読んだことはないな。ニヒルというか、頭がいいのはわかるが、あんまりいい感じがしない。」と答えながら、東浩紀氏や斎藤幸平氏とのネット対談の様が脳裏に過ぎったろうか。たしかその両対談で、成田氏はまず探りを入れるような意地の悪い質問をしはじめて、両人が誠実にそれに切り返していくうちに、成田氏も相手を認めざるを得なくなって自分もまた誠実な対応に変化しはじめた。ニヒルではあるが、このまっとうな変化は、好ましいものである、と私は感じもしたのだった。

 

摂津さんとの話では、「集団自決」の件は、私は問題視しなかった。相模原の福祉施設での殺傷事件のように本人が実行するわけもないし、誰かをそそのかす意図でもないだろうし、つまり比喩であることが明白なのだから、むしろ老人たちは、若い世代からそこまでの過激な発言が出てくることをより真剣に受け止めるべき、というのが私の意見だった。ちょうどそのころ、生活クラブ関連の映画鑑賞の活動もあり、パレスチナのガザ地区内での模様を撮ったドキュメンタリーを見て、その感想で、音楽を学んでいる二十歳くらいのパレスチナの女性が海辺で瞑想し自由を思うシーンから日本の漫画『進撃の巨人』を連想した、と言うと、「あっ、わたしもおもった。壁があって戦争があるのはまさにそう」という女性の応答があった。「だけどその漫画は二十歳くらいの若者が書き始めた作品なんですよ。」と私も応じた。「ということは、日本の外側ではなく、この平和に見える日本の内側にも壁があって、若者には、大人の社会が壁のように聳え立っていて、もうそれをめぐって殺し合いしかない、と追い詰められているのかもしれません。テロとか物騒になって、犯罪も狂暴になってきてますよね。」主催者の目を白黒させてこちらを覗き込む表情をみて、やばいこといったのかな、と思ったが、ちょうどそのあと、ユーチューブのビデオニュースでもルフィー強盗事件をめぐる犯罪問題がとりあげられて、日本の貯蓄額は4000兆円あるが、その大半は60代以上の老人たちで占められていること、40代からはマイナス借金への曲線を描きはじめること、これはもう犯罪者が悪いと言ってればすむ問題ではないでしょう、とあり、まともに考えようとすればそうなるよな、と確認したのだった。

 

「集団自決」という文字を受けて、また文字の世界で応戦し、つまり人の営みの外側に安住してものを言っていてもしょうがない。またその言葉を発生させる衝迫に気付かず生活の内側に自足していても埒があかない。だから、庭=境界に出て、人の営みを取りもどし作っていくべきである。

※ 付け加えると、昨年一昨年の日本での年超過死亡者数は16万人を越えることになったそうである。トルコ地震での、ウクライナでの戦争での死者どころではない。死亡者のほとんどが老人らしいが、その原因の推定はともかく、この非常を問題視もしていないとは、体制側や世間は、そんな「集団」死亡を容認、是としてるということではないのか?