2016年2月26日金曜日

方針の今後

「大塚監督の練習メニューにはメッセージがある。最初に練習の意図を選手に伝えられなくても、あとになってみるとハッと気付くものがある。選手たち自身が「気付く」ために種をまくような練習方法と言ってもいい。/ 例えば、30m走。4.6秒で30mを走るメニューを部員全員で100本行う。最初の20本は監督の悪口から始まる。「なぜこんなことさせるんだ」「バカじゃねえの? 意味ないじゃないか。」そんな声が1年生から聞こえ始める。/ 50本くらいになると次第に4.6秒に入らない選手を罵倒する者が現れる。「お前が入らないから本数が減らないんだ」。選手同士のぶつかり合い。しかし、80本くらいから終わりに近づいてくると今度は励ますようになる。不思議なもので「おい、もっと頑張ろうぜ! 負けんなよ! 入ろうぜ!」と後押しするような声をかけられるようになるという。最後には速いやつが仲間の背中を押すようになり、だいたい100本を達成する頃には選手同士が助け合っているのだ。」(『監督たちの高校サッカー』 青柳愛・笠井さやか著 東洋館出版社)

本年度の最後のサッカー大会になる、新宿区ライオンズ杯2部(4年生)準々決勝は、私もコーチのひとりとして参加する学校単位のクラブチームと、Jリーグプロ経験者が指揮する強豪クラブとの対決になった。結果は、0対0の引き分け、PK戦のすえ、わがチームが勝利をつかむ。

見どころは、はじめからはっきりしていた。ポゼッションサッカーとしてのマニュアル的戦術を叩き込まれたエリート集団に、特別には何も教えられていない子供たちの生き生きサッカーが、4年生段階で、どれくらい通用するのか、あるいは、もうこれから差が開く一方になるのか、その方針の差異からくる子供たちの伸びしろ可能性の見当材料、だ。いわば、小学生年代への育成コーチングの在り方の是非が、問われてくるだろう、と。相手チームのベンチに入った4年担当コーチは、東京トレセン代表チームのベンチにも入っているコーチである。去年の対バルサの国際大会でも、ベンチにはいっていた。

私たちクラブでは、校庭も狭いので、4~6年までが、上級生枠として一緒に練習している。本年度までは私がメインに見ていたが、来季以降のコーチ引き継ぎ体制を作っていくためにも、私は2部のベンチには入らない。(私が一希と一緒にこのクラブへ参加したときは、試合までみにきてくれるコーチは一人もいなかった。)その学年のパパコーチに任せて、私は副審判にはいった。

「この子たちがどこまで頑張れるのか?」……少なくとも、ほぼ全員がリレー選手で、足が速い。しかし、まだサッカーらしいことは教えていない。一希が内藤新宿代表を卒業してこちらのクラブにもどってきてからの練習は、スポーツの練習というより、「とんねるず」かなにかのお笑いスポーツ番組のような状態になる。遊んでいるのだか真剣なんだかわからない。相手は、左右に揺さぶりながら縦パスを入れてくるのがメイン戦術とわかっているので、こちらは4-4-2の形で対応を考えたようだが、子供たちがいきなりその意味を理解できるのかもわからない。が、形は大きく崩れることも、崩されることもなかった。たしかに、2人以上の連携となると、相手のほうが上手だった。が、1対1では、必ずボールを先にさわり、かわすアイデアも豊富だった。一瞬先に触ってかわす、が、サポートがないので、また捕られる、がすぐに次の者がさわってかわす、また捕られる、そして短いパス回しをされる。が、逆サイドへの大きな展開は、またすぐに近くのものがボールに触るので、相手の思うような試合運びをさせる暇をあたえなかった。そのうち、相手コーチからの指示が飛ぶようになる、「小さくつないでてもダメなのわからない? ボールをとめるな! ダイレクトで大きく蹴ろ!」……ポゼッションの方針を放棄するような声が上がった時点で、「これは勝つな、勝ったも同然だ、こちらの子供たちは生き生きしていて、見ていて面白い。何をするかわからない。ワクワクする……」――相手ベンチ前をフラッグをもって行ったり来たりしていると、コーチの独り言が聞こえてくる。「なんでレフリーはこちらには厳しいのに、あっちには甘いんだ……」

その翌日にあった、上級生最後の試合まえ、私が子供たちのモチベーションをあげるためにいった言葉(「シナリオ」)は、こんなことだ。――「……相手ベンチのコーチからは、審判が公平でないと文句が聞こえるようになった。副審していた私も、そうおもいました。しかし、ではなんでそうなったか、わかるかい? 主審は、新宿FCの、理事にも入っている〇〇さんだよ。それはね、前の週の1部の試合で、君たちが、強豪相手たちにもひるまず、みんなで声をだしあって、生き生きしたサッカーを貫いたからだ。メンバーもそろわない、弱々しいクラブと思われていたのに、君たちが、そんなことにも負けずに、最後まで戦う姿勢を見せていたからだ、そして、それこそを後輩たちが引き継いでいるのがわかってきた、それが、主審もする理事の心を動かしたんだよ。最後挨拶にいったとき、理事たちの君たちをみる目が変わったのを、気付いてないかい? 審判もロボットがやるんじゃない。人間なんだ。今日、準決勝進出を決めた4年生たちが応援にくる。負けることを恐れるな。結果じゃない。人の心を動かす、そのサッカーをつづければいいんだ。……」

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ちょうど一希のサッカー大会が終わったのと重なるように、私の仕事も暇になって、こんなブログを、平日の天気だというのに書いている。さきほど、冒頭で引用した著作のほかに、『静学スタイル 独創力を引き出す情熱的サッカー指導』(出田勝通著 KANZEN)、高校部活サッカーの監督の話を読み終わったところだ。私も、高校まで野球部を経験しているので、冒頭にあるようなノウハウはわかる。エリート集団のユースチームの育成実情などは、まだ情報少なくわからないのだが、U-23以下の日本代表の様子をメディア観戦しているだけでも、技術・知識偏重の問題点は浮彫りになってくる。おそらく、だからこそ、また高校部活での実際を検討していく著作が刊行されはじめているのだろう。が、たとえば冒頭引用のようなランニング練習法は、たしかに仲間の結束とチーム力をあげてはいくけれど、それはその閉じた関係のなかで完結しやすく、一歩外にでると、別の倫理感で選手が動くようになりやすい。一希が厳しい新宿代表チームから所属チームに戻ってきて、ハメを外すようになるのは、その一例だ。私は、そうして鍛えられた選手が、社会人としても立派になっていくといった見解は、疑わしいとおもっている。薬物でつかまった清原選手は、行き過ぎであっても例外ではないだろう。しかも、この部活倫理復活のような動きは、現政治政権の、イデオロギーとも結びついている。事実、著作で引用された監督が、内閣官房に入る官僚と手をたずさえて、次の現実を動かす体制と方針を決めるに関与するのだ。たしかに、曲がった棒はなおさねばならない。が、どう曲がっているのか、右か左かという単純なものではない、斜めなのか、ねじれているのか、まっすぐなおすとは、ではどんな方向でなのか……が、実はなおよくわかっていない。敗戦後、日本の思想界は、そこを言語化するよう死にもの狂いで究めてきた。私も、それらの著作を読んで、わかったような気になっていたかもしれない。が、こうして子供のサッカーに付き合い、その実情に触れてみると、なおまだ不明瞭で、わからないことがたくさん出てくるのだ。子供のサッカーが終わっても、私はその不明瞭さを意識化していくよう生きることになるのだろう。

2016年2月25日木曜日

4戦全敗



一希最後の大会、全敗で終わる。

チームとしては、とりあえず、ここまでだっただろう。試合だけは、集中してよく頑張った。籤運よければ、決勝トーナメントにいける実力は見せていただろう。一希個人としても、真剣に頑張っていた。いや、3試合目は、フィールドで散歩をはじめた。最終試合は、ボランチにいれて、中学年くらいまで見せていた、ボールを散らせるセンスと、ドリブルでの切り込み、ゴールへの意欲を回復させようと賭けにでようとしたが、本人が、センターバックを希望。コーチとして、父親としては残念だが、すでに自分の道を模索し悩み始めていることは見えてきている。

以下は、その大会途上での、コーチ間でのメールのやりとりの中で、私が送信したもの。

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今日の結果です。対新宿FC 1対5、負け。得点マヒロ。

中心2選手を欠いた10人での試合でしたが、前半こぼれ球からのカウンターで2失点はしたものの、ゲームは優勢に進めてたため、後半は対SKでは出場しなくてすんでいた、ケガでベンチスタートだったエースがでてきた時点で、ゲームを決められてしまいました。それでも最後、リョータのクロスにマヒロのダイレクトボレーという、素晴らしい粘りはみせました。少なくとも、この学年は、この最後の大会に照準をあわせて育成するしかなかったので、ベストメンバーに足らずとも、あきらめずに結果をねらっていきます。そのことで、強いだの弱いだの、が意味のないことを、子供たちに目に見える形で証明できたらとおもいます。

2/14(日)

1)対早稲田、0対2、負け。

2)対落一、0対2、負け。

2試合とも、後半途中まで、一進一退の攻防続くも、Ckから1失点、点をとりにいったところでのダメ押し、でした。シュート数自体はこちらが断然上でしたが、そのぶん、こちらの問題点が浮き彫りになった形です。

以下は、終了後のミーティングで、いったことです。

君たちは頑張ったかもしれない。が、二度、同じ試合が繰り返されたということは、君たちの内に問題があるということだ。何が考えられるか? 「決定力」「決定力とは何?君たちは大会前の練習で、何を注意されていたか?集中と真剣さがともなっていないと、再三いわれてきた。おそらく、どちらのチームも、君たちより真剣に練習にとりくんでいる。それが、シビアな試合になればなるほど、力の差としてでてきている。ちょっとの点差でも、この差を埋めるには、半年、一年、君たちが真剣に練習に取り組んではじめて埋めらる大差です。途中、君たちは我慢できなくなって、ただ蹴っ飛ばす芸のないサッカーになっていった。最後に戦うSKは、早稲田に2対0、新宿に6対0と、負けている。しかし、どんな状況でも、自分たちのサッカー、考え方、スタイルを貫いていくチームです。次は、勝ち負けよりも、サッカーの勉強をするつもりでのぞんでください。」

2/16

現場仕事で、夜は8時には寝てるので、返信遅くなります。

女房の発言にしろ、内藤とう進学問題にしろ、実際には、社会的な不安からきているので、説明機会をもうけることが、その不安を払拭することになるとはおもえません。女房もイツキ4年のとき、落五六のコーチ体制をみかぎって、他のクラブへの移籍と息巻いていたことがあります。事実、三人やめて、三人新しく入って今の六年人数です。子供のたま遊びに自棄になること、書道とかではなく、目先の計算に思考を特化、硬化させようとすることに、私が暴力的に反対したから、イツキも残ったわけです。内藤に子供を送った落一の母とも話したことですが、そんな風潮は、母親が安心感をえたいだけのブランド志向だよね、私は子供が刑務所に入ってもそこから這い上がっていける「エネルギー」をつけさせるために、内藤終わってからも朝練に参加させていると。私の女房はこんな度胸座っていないので、ぎゃあすか騒ぎ、母権制の名残強い日本では、父親は黙っているわけです。が、以上もふくめて、この間の帰り道で〇〇コーチとも確認したように、そんな風潮は、「勝ち組、負け組」という通説に代表されるような、アメリカが一人勝ちしたと幻想されたことからくる新自由主義的な思想の末端での現象にすぎません。が、もうそのうち金融破綻でアメリカのヘゲモニー構造は終わります。道連れにされた日本では、子供のサッカーに金をだす親もいなくなり、外資は引き上げます。だから、目先の風潮に左右されない、地道につづけられる考えでいったほうがいいね、と。

形式的には、上級生の応援や内藤説明会をもうけてみることに反対しませんが、問題の解決にはならないということには、自覚的であるべきです。

2/18

お疲れさまです。

フォーメーションは、荒川区招待大会後に合流してくる新内藤の疲労度、コタロの指骨折と足首の具合、ヒイロの腿筋肉の炎症の具合など(二人はスクールなどで休みがないので、やり過ぎだとおもいます。)、色々あるので、何通りか考えていきますが、コタロのキーパーがなくなった時点で、ベスト布陣はなくなっていますね。

それよりも、大会自体の決着が着いたあとで、どうやって子供のモチベーションをあげるかが問題です。しかも、後輩が皆見に来るということなので、イツキなど、「えっ、マジかよ!」という感じです。勝者のメンタルを味わったことのない学年なので、不安でしょうがないでしょう。そのまま戦ったら、大差で負けます。今回は前審判は〇〇コーチにたのめたので、逆転のシナリオは準備できます。全日本予選も後審判が多かったので助かったのですが、私は相手のチーム情報だけでなく、どんな言葉なら子供が食いついてきて燃えてくるか、組み合わせが決まった時点から、材料を集めて、シナリオを書いていきます。それを、前試合のハーフタイムでのグランド練習からメンバーチェックが終わった、試合十五分前の十分間で、子供の目をみて、どのシナリオ、材料を使えばいいか、取捨選択するようにしています。今回は、「今日君たちは、皆のまえで恥をかきにきた!」ということから始めることになるでしょう。

また、来季SKにいくヒイロがだいぶ迷いためらっているようなので、こちらにもモチベーションを転換するためのシナリオを用意しなくてはと考えています。たぶん、土曜日は怪我ではなく、母親からとめられていけなかったのを、日曜日は強引に自分の意志で出てきたのだとおもいます。ヒイロには、専門的なコーチからのコツ的なワンポイントアドバイスをたくさん受けて個人技を研いたほうがいいとおもうので、私自身がそちらにすすめたかもしれないので、ヒイロの不安を脱ぐってやる必要があると思っています。内藤新宿は、足下技術まだ未熟な選手たちでも、それでも代表として結果をだしていかないといけない圧力の中にあるので、チーム的な戦術やメンタル面で強くなりますね。ヒイロだととまどうでしょう。

2/18

△△コーチのおっしゃることはわかりますが、まず大人のほうが、子供の無意識な不安を言語化して安心させてやることからはじめないと、逆効果になります。後輩のまえで、恥ずかしくないよう頑張れ、ではいけない。全日本予選もそうしてきてます。そうするのは、私には苦い経験があるからです。トーマ君三年生のとき、コーチいなかったので、私がはじめてベンチコーチした、対早稲田戦、大差で負けることはわかっていたが、頑張れと送り出し、18対0で負けたときの、なっちゃんの悲劇的な表情。私はそれ以来、正直な分析から入ることにしています。そこから、モチベーションを高めていくシナリオを考えるようになったということです。ヒイロの件も、すでに敢えて皆の前で来季移籍することを公表してますが、それも同じです。皆の不安を払拭して、事実から建て直していくためです。これまでの経験上、それにネガティブな感情を抱く子供はいません。

2/21

今日はたくさんの父兄、選手たちに応援にきていただいて、ありがとうございました。結果は4対0と残念でしたが、子供たちは、自分たちも大会で優勝していくようなチームとも戦えるのだ、と手応えは感じてくれたとおもいます。とくに、SKのビルドアップを、あそこまで困らせたチームは見たことがなかったです。相手にひるまず、3フォワード同士での撃ち合いを狙いましたが、バイタルエリアからのドリブル個人技で切り裂かれた4失点でした。

上級生の大会は終わりましたが、その生き生きしたサッカーを引き継いで、四年生が準決勝へと駒を進めて頑張っています。よりいっそうの健闘を、上級生も応援していきたいとおもいます。

ご協力ありがとうございました。>>

2016年2月1日月曜日

性的なもの――手相(2)

「そして、<存在の一義性>は、最も普遍的なものとしての<存在>を中心問題とするものでありながら、最も普遍的ではないもの、最も個別的なものとしての個体をめぐる問題としての「このもの性」、つまり個体性と密接に連関するものですから、ここに普遍の問題との関連が当然あるわけです。もっとも、誤解されないように付け加えておくと、普遍の問題は<存在の一義性>が問題圏域にするものと重なるものではありません。なぜなら、<存在>は最も普遍的なものでありながら、普遍ではないのですから。普遍論争の圏域は、実はカテゴリーに収まる範囲と同じです。存在の一義性は、その圏域を越えて登場するものです。アナロギアの場合でも同じです。そこには、<存在>概念に潜んでいるねじれのようなものがあって、そのねじれが実は普遍の問題と、<見えるもの>と<見えざるもの>の問題を重ならないようにしているように思われるのです。私が普遍論争が中世哲学における最大の問題ではないと考えるのも、このような事情があるからなのです。私には、普遍の問題とする圏域を越えたところ、カテゴリーを越えたところにある問題群の方がより大きな問題と思えるのです。」(山内志朗著『普遍論争 近代の源流としての』 哲学書房)

子供にサッカーを教えていて、不思議におもったことがある。
まだ低学年の男の子なのに、参加している女の子を前にすると、人が変わったように肩の力が抜けて、でれでれするというか、ほのぼのしてくるというか、なれなれしくなるというか、奇妙に優しくなるのである。おそらく、ここ4年ほどで、100人近くの子供たちに接しているとおもうが、そういう男の子が、二人いた。割合としては少ないが、その不思議さの印象が強いのである。最近では、13人に一人の割合ぐらいで、見かけの性別と実際的な性向が違う人がいると騒がれたが、となると、だいぶ低い確率である。が、ならば、おかしな話だ。男性が女性に魅かれるのが本能的な多数であるとするなら、あまりにこの本来的であるはずな現象はまれすぎる。というか、低学年の頃など、平気で銭湯や温泉で、父(母)親と一緒に自分の性とは違う風呂場に連れていかれても平気なように、異性への関心など目立たない。そういう傾向が目に見えてくるようになるには、小学の高学年でもませているような感じで、ならば、性愛とは、本能というよりも後天的な、生得的だといったほうが正しいのではないか、と思えてくる。

息子の一希は、赤ん坊から幼少のころ、お世話になるじいさん・ばあさんから、同性愛者ではないかと言われたりもした。なぜか、男性のほうに反応が強く、一緒に行動したがる傾向が見えたからである。が今は、そんなことはない。が、それだからこそ、後天的、生得的な現象に見えてしまう。

とすれば、そういうあとから見えてくる成長とは違い、まさに先天的なともいえる、あの女の子をまえに変貌した二人の現実はなんなのか? 大多数とは違うのだから、先天的ではあっても、本能的ともいえまい。もちろん、私の知らないところで、精神分析的なトラウマがすでに刻印されていたから、と考えてみることもできる。一人は長男で、もう一人は上に歳の離れた姉がいたりで共通点もなく、特別に着目するような家族関係があるようにみえない。だいたい、普段二人が異常で、高学年になってもっと変わった、ということもない。おそらく、相変わらず、普通の男子よりも異性好きである。というか、その接した方が、もうプレイボーイ的だ。急に猫なで声になったりして。いまは低学年のころの突然変貌な強烈さはみせないけれど、やはり私には奇妙なのである。というか、すでにその初めての衝撃のとき、私はこうおもったのだ。「とり憑かれてるみたいだ、……」

新宿代表の新チームの朝練に参加する息子についていったところ、男子にまじって一人女子でも頑張っていた選手の父兄と、――今の子たちは中学受験のために学校休んじゃうんだね、試験日だけじゃなくてずっともう来ないんだよ、学校って、休んでよかったんだっけ? これじゃ小学校はバカにされて荒れてくるよ。俺なんか、俺自身が荒れてたから、中学には行けないで、山の寺小屋に隔離されてたんだけどな、と会話をしだす。それで八戸から津軽へと行かされたんだ、というので、「イタコのところですか?」と私が冗談で応じると、はっとしたように、「そう」という。俺のばあちゃん、イタコだったんだよ。そのなかでも序列があるみたいで、上のほう。俺もばあちゃんも嫌われ者だったから、ばあちゃんに可愛がられたんだ。〇〇クラグのコーチのなかで、見えちゃう人がいるんだよ。その人と最初あったとき、これ以上近づかないでくれ、っていうんだ。なんで? ってきくと、俺の後ろにすごいのが憑いてるっていうんだよ。それ以上近づくと、自分のが食われちゃうから、やめてくれ、と。……そんなふうなぐあいで、雪が降ってきそうな寒い早朝、奇妙な話がつづいた。そこで私も、今年初詣にいって、はじめて手相をみてもらったこと、そしてその占い師に、あなたにはたくさん守護霊がついてる、と言われたことを話したのだった。占い師は、ノートにいくつかの〇を円になるように描きながら、「そのなかに、著名な人がいますね」ともらす。「身に覚えはありませんが…」私が返答すると、「いや、いますね。」……

私には、人が言う性は後天的、生得的なもの、本当の性は、憑依的なものにみえる。