2016年2月1日月曜日

性的なもの――手相(2)

「そして、<存在の一義性>は、最も普遍的なものとしての<存在>を中心問題とするものでありながら、最も普遍的ではないもの、最も個別的なものとしての個体をめぐる問題としての「このもの性」、つまり個体性と密接に連関するものですから、ここに普遍の問題との関連が当然あるわけです。もっとも、誤解されないように付け加えておくと、普遍の問題は<存在の一義性>が問題圏域にするものと重なるものではありません。なぜなら、<存在>は最も普遍的なものでありながら、普遍ではないのですから。普遍論争の圏域は、実はカテゴリーに収まる範囲と同じです。存在の一義性は、その圏域を越えて登場するものです。アナロギアの場合でも同じです。そこには、<存在>概念に潜んでいるねじれのようなものがあって、そのねじれが実は普遍の問題と、<見えるもの>と<見えざるもの>の問題を重ならないようにしているように思われるのです。私が普遍論争が中世哲学における最大の問題ではないと考えるのも、このような事情があるからなのです。私には、普遍の問題とする圏域を越えたところ、カテゴリーを越えたところにある問題群の方がより大きな問題と思えるのです。」(山内志朗著『普遍論争 近代の源流としての』 哲学書房)

子供にサッカーを教えていて、不思議におもったことがある。
まだ低学年の男の子なのに、参加している女の子を前にすると、人が変わったように肩の力が抜けて、でれでれするというか、ほのぼのしてくるというか、なれなれしくなるというか、奇妙に優しくなるのである。おそらく、ここ4年ほどで、100人近くの子供たちに接しているとおもうが、そういう男の子が、二人いた。割合としては少ないが、その不思議さの印象が強いのである。最近では、13人に一人の割合ぐらいで、見かけの性別と実際的な性向が違う人がいると騒がれたが、となると、だいぶ低い確率である。が、ならば、おかしな話だ。男性が女性に魅かれるのが本能的な多数であるとするなら、あまりにこの本来的であるはずな現象はまれすぎる。というか、低学年の頃など、平気で銭湯や温泉で、父(母)親と一緒に自分の性とは違う風呂場に連れていかれても平気なように、異性への関心など目立たない。そういう傾向が目に見えてくるようになるには、小学の高学年でもませているような感じで、ならば、性愛とは、本能というよりも後天的な、生得的だといったほうが正しいのではないか、と思えてくる。

息子の一希は、赤ん坊から幼少のころ、お世話になるじいさん・ばあさんから、同性愛者ではないかと言われたりもした。なぜか、男性のほうに反応が強く、一緒に行動したがる傾向が見えたからである。が今は、そんなことはない。が、それだからこそ、後天的、生得的な現象に見えてしまう。

とすれば、そういうあとから見えてくる成長とは違い、まさに先天的なともいえる、あの女の子をまえに変貌した二人の現実はなんなのか? 大多数とは違うのだから、先天的ではあっても、本能的ともいえまい。もちろん、私の知らないところで、精神分析的なトラウマがすでに刻印されていたから、と考えてみることもできる。一人は長男で、もう一人は上に歳の離れた姉がいたりで共通点もなく、特別に着目するような家族関係があるようにみえない。だいたい、普段二人が異常で、高学年になってもっと変わった、ということもない。おそらく、相変わらず、普通の男子よりも異性好きである。というか、その接した方が、もうプレイボーイ的だ。急に猫なで声になったりして。いまは低学年のころの突然変貌な強烈さはみせないけれど、やはり私には奇妙なのである。というか、すでにその初めての衝撃のとき、私はこうおもったのだ。「とり憑かれてるみたいだ、……」

新宿代表の新チームの朝練に参加する息子についていったところ、男子にまじって一人女子でも頑張っていた選手の父兄と、――今の子たちは中学受験のために学校休んじゃうんだね、試験日だけじゃなくてずっともう来ないんだよ、学校って、休んでよかったんだっけ? これじゃ小学校はバカにされて荒れてくるよ。俺なんか、俺自身が荒れてたから、中学には行けないで、山の寺小屋に隔離されてたんだけどな、と会話をしだす。それで八戸から津軽へと行かされたんだ、というので、「イタコのところですか?」と私が冗談で応じると、はっとしたように、「そう」という。俺のばあちゃん、イタコだったんだよ。そのなかでも序列があるみたいで、上のほう。俺もばあちゃんも嫌われ者だったから、ばあちゃんに可愛がられたんだ。〇〇クラグのコーチのなかで、見えちゃう人がいるんだよ。その人と最初あったとき、これ以上近づかないでくれ、っていうんだ。なんで? ってきくと、俺の後ろにすごいのが憑いてるっていうんだよ。それ以上近づくと、自分のが食われちゃうから、やめてくれ、と。……そんなふうなぐあいで、雪が降ってきそうな寒い早朝、奇妙な話がつづいた。そこで私も、今年初詣にいって、はじめて手相をみてもらったこと、そしてその占い師に、あなたにはたくさん守護霊がついてる、と言われたことを話したのだった。占い師は、ノートにいくつかの〇を円になるように描きながら、「そのなかに、著名な人がいますね」ともらす。「身に覚えはありませんが…」私が返答すると、「いや、いますね。」……

私には、人が言う性は後天的、生得的なもの、本当の性は、憑依的なものにみえる。

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