2012年11月2日金曜日

論理と外交と人間と

「イギリスがインド帝国を征服したとき、これはイギリス本国とインドとの対等合併である、インドはイギリスの植民地でなく、イギリス本国とインド人との間には、全く差別はないなんていうことは言わない。言うわけがない。アメリカの白人が、黒人奴隷に対して、われわれは対等である、何の差別もないなんていうことは絶対に言わない。/ そんなこと、あり得るはずがない。だから、そうは言わないのだ。もし、かくのごとく言うことがあるとすれば、それは実現する決意のあるときだけである。ゆえにそれは、植民地なり奴隷なりの解放宣言になる。/ 論理的にはこのとおりであるが、論理音痴の日本人には、どうにも見えてこない。一方においては解放宣言を発しておきながら、他方においては、平然として解放宣言を無視している。ともかくも論理が身についている彼らにとっては何とも腹立たしいかぎりである。/ ここに気づかず、日本人は何回でも論理無視、論理蹂躙を繰り返す。そして、それが善意だと思い込んでいる。これでは、不信は累積されるばかりではないか。その結果、欧米植民帝国主義諸国におけるよりも、はるかに小さい差別でさえも、この不信あるゆえに、拡大鏡にかけられ、途方もなく大きなものに見えてくる。論理を知らないことによる日本人の損失が量り知れないことをお分かりいただけたであろう。」(小室直樹著『数学嫌いな人のための数学』 東洋経済)

朝日新聞によると(10月21朝刊)、すべての役職から引退するつもりであった中国の胡総書記が、軍事委主席の続投を決めたのは、ウロジオ・ストクでのAPEC会場で、野田総理との立ち話に応じて「日本による『島の購入』に断乎反対する。誤った決定をすべきでない」と迫った翌日に野田政権が国有化を決めたからであるという。「絶対に許さない」と。私はこの記事を読んだとき、愕然とした。おそらく野田総理および外務官僚などは、本当に東京都(石原)が島を購入するよりも国が管理したほうが騒ぎも大きくならず他人(中国)のためにもなるだろう、と、善意の心をもって対応したのであろう。自分たちが、いわゆる日本人の習性で――冒頭引用の小室氏の指摘にもあるように――実際を無視した独りよがりな思い込みに陥ってしまったのはしょうがない。が、野田氏は、こちらの善意が相手にはどうも全く通じないらしいぞ、ということは胡総書記の顔を見てわかったはずである。いや気づきもしなかったのか、ということ、あるいは、気づいてもそこで踏みとどまらず官僚の政策にのってながされてしまったということ、そのことに致命的な人間関係(外交)の欠如・欠落を見せつけられるのである。こんなロボットのような人が総理に居座っていることの恐ろしさ。もしそこで野田氏が、官僚の計画を一時停止させ、あとから電話でもいいから、なんで人騒がせで挑発的な都(石原)よりも、冷静的に対処しようとしている国(野田)が管理することのほうは問題なのか、その論理と心情の解明を求める質問でもしていたなら、胡総書記は、野田氏を盟友に値するかもしれない人間であると認めたのではないか? 少なくとも、日本が段どった立ち話に応じてやったことは、自分が組織の一員としてというよりも一人の人間として降りてきた礼儀を示している。しかし野田は、裏切ったのだ。「絶対に許さない」とは、一国の頭首としての怒りというよりは、一個人として、一人の人間としての怒りである。そして、よくいわれるように、中国は「ほう」という人間関係が大切である。小室氏の言葉をまた引用しよう。……<これが、中国人と深い人間関係を結ぶコツ。人間関係の深さに応じて、相手はこちらの要求をきいてくれるようになっていく。深い人間関係には大きな要求。浅い人間関係には小さな要求。人間関係がなければ、要求は少しも通らない。ここのところを理解していないから、日本企業が、「賄賂をタダ取りされた」などと大騒ぎする事件が頻発するのである。/ これが中国における型だから、いくらお金を贈ったからとて、それによって必要な人間関係が樹立されなければ、そのお金は触媒として機能しなかったことにならざるを得ない。つまり、無駄なのである。人間関係が形成されていないから、いくら要求しても少しも通らない。>(『小室直樹の中国原論』 徳間書店)

都知事を辞任した石原氏は、作家から政治家にデビューするまえ、文芸批評家の小林秀雄との対談で、「政治にでる」と表明すると、小林氏から次のように質問されている。――「あなたのために命をさしだしてくれる人を何人もっていますか?」と。石原氏は、3・4人いる、と答えていたとおもう。それに小林氏は、「ならやりなさい。」と。私は、石原氏が、本当にそうした<人間関係>を知っているか、そこにいたことがあるか、は疑わしいとおもっている。それは単純に、初期の『太陽の季節』や『処刑の部屋』などの作品からの印象でもある。おそらく、そうありたいというキザな思い込みであろう。小林氏は、その作品から政治家としての資質に懐疑的であったので問いただす意味でそういう質問がでてきたのではないか、と今さらにおもう。しかし、小林氏の洞察や、石原氏が願望している人間関係にこそ外交の根幹がある、人間関係の原型がある、と基本認識するのは現代でもなお確かなのだ、と私はおもう。いやむしろ、暴力団に対する取締りといやがらせがせり出してきているご時世の向こうには、「命」をやりとりできる根源的な人間関係が問われる局面があちこちにでてくるのではないか、と私は予想している。