2013年2月23日土曜日

ピータの死

「しかし、学校や学習塾の勉強でいい成績をあげるだけでは、教養は身につきません。/ 他人の気持ちになって考えることができるという共感力や思いやり、自分と違う考えをする人を認めることができる寛容心、自分よりも才能のある人にやきもちを焼かない人間力を持っている人は、尊敬され、信頼されます。そういう大人になるためには、子どものころから教養を身につけるように努力することがたいせつになります。」(『子どもの教養の育て方』佐藤優・井戸まさえ著 東洋経済)

小鳥のピータがなくなった。急に雪の降るような寒い夜がきたので、暖房の切れる部屋で風邪をひいてしまったのかもしれない。体を膨らませて真ん丸くうずくまっている。以前にも似たような症状になったことがあったが、仕事を休んでいた私の体に張り付いているうちに元気を回復した。しかし今回はもっと弱っているのがわかった。子どもの一希も当初いっしょに風邪をひいて学校を休んでいたのだが、よくなって今日は通学するというその朝、ピータは止まり木に立っていることもままならないようで、すぐに籠からだし、毛皮とタオルのベットを作ってやって、そこに寝かせた。出かけ際、まだ蒲団にこもっている息子に、「きょうピータくんが死んでしまうかもしれないよ。早く起きて、みてやって」と声をかけていく。その日の午後3時ごろ、女房からなくなったとメールで知らされる。ちょっとした錯乱が、私の脳髄におこった。植木職人の私が木から落ち骨折してからの2年近くほどの飼育だったとはいえ、もう家族の一員のような存在だった。はっきりとした欠落感が、私をおそってきた。子どものころ飼っていた犬がなくなっても、こんな感情にはならなかった。いや私に、そんな人間がやってこようとはおもえなかった。私は、成長したのだろうか? どうじに、9歳の一希はどうだろうか? と考えた。また新しいインコを買って、といいはじめるのだろうか?

帰宅すると、女房と一希が涙ぐんでいる。女房がでかけている、暖房のきいていない時刻になくなったので、とても寒かっただろうと、ピータをタオルでくるんで、ヒーターの前に寝かせてあたためていた。ピータくんがいないとつまらないな、と夕食時につぶやいていた一希は、寝付く枕元に、棺桶がわりの箱に小鳥の遊び道具だったワインのコルクと飴玉を包んだ銀紙といっしょにその死骸を寝かせて、蒲団にこもった。しばらくして、しゃくりはじめ、大泣きをはじめる。傍らで寝ていた私は、そのままじっとしていた。私が命拾いした2年ほどまえだったならどうだったろう? あのとき、一希は「パパはパンツが梯子にひっかかって助かったんだよ!」と、屈託もなくところかまわず吹聴していた。なお、死の意味が、欠落するということがどういうことかがわかっていない様子だった。それからのこの2年ほどで、成長したということだろうか? 他の小鳥ではなく、ピータという固有名でないとだめになったんだな……いやそういうことではなく、なぜなら、私自身が、愛するものの欠落に泣く、という人間からはほど遠い育ちできたのではなかったろうか? 欠落をいだくほど愛する、それがどんなことか、私は知らないで、教わらないで、子どもから大人へと、その無感動を育んでいったのではないだろうか? 私が成長したのは、そんな自身の成長を否定し、否定していくための教養を青春期いらい数十年をかけて積み立て、結婚し、子どもをもったからではないだろうか?

ファミリー・ロマンスから脱却すること、その冷めた「物語」批判精神をもつこと、学生の頃の教養は、そう若いものに教えていた。いや、その教えが、高度成長期を両親にもつ私のようなアパシー世代には受けがよかったのだ。それは、人間的な意味を教えない親の価値を否定していた、しかしそのことで、批評家の意図には反して親の非人間性、エコノミック・アニマルに通底する反ヒューマニズムを補完していたのだ。世界から逃走=闘争した若者のおおくは、おそらくそのまま孤立し、人間関係を回復する術を身に付けるまでもなく、そんな教養学術も受けつけなくなっているだろう。私がいわゆる脱近代なる批評文学=思想から、親への批判否定はそのままで親を回復する、そんな発想を新しく持つことができたのは、おそらく偶然の境遇によるだろう。そう、私には、ペットが死んで泣く、それは40歳を半ばにして持つことのできた〝新しい感情″だったのである。

そんな意味文脈で、一希はすでに親をこえて育っている、私にできることは、その成長を抑圧しないことだろう。

2013年2月17日日曜日

暴力(教育)と歴史・「見えること、見えないこと、見たいこと」

「新たに少年サッカーの世界に入ってこられた方は、日本の古いやり方ではなく世界基準の指導方法にしてほしいと思います。長くなさっている方は、20年前、10年前のサッカー界とは違うことを認識してほしいのです。/ ぜひ、子どもの力をひきだすための入り口に立ってください。「なぜできないの?」と「できないのはなぜ?」は一見同じ意味です。でも、前後の言葉をひっくり返しただけで、言われた子どもにとっては180度違うイメージ。叱られた印象になりません。/ 叱ることをやめると、選手へ伝える基本的な情報のひきだしが増えていきます。内容の精度も、表現力も磨かれます。そこさえ確立してしまえば、あとは前進するだけ。子どもたちは毎年変わっていくけれど、経験値がプラスされることでみなさんの指導力はどんどん熟成されていくのです。」(池上正監修 島沢優子著『サッカーで子どもの力をひきだすオトナのおきて10』 KANZEN)

小3の息子の宿題。私はまず勉強や学ぶということを面白くさせること、つづけさせること、が一番だとおもうので、子どもからわからないところをきいてくるまで、何もいわない。同じ食卓で、こちらも勝手に本を読んでいる、そのいっしょにやっていることが大切な布石なのだとおもっている。ところが女房、私がいなくなった間に、せっかく一希が調子よく書いていた作文なども、テニオハがどうの、表現がおかしいなどと重箱の隅をつつくように叱責しはじめる。私は女房をぶんなぐるか部屋を壊してしまいかねないので、蒲団をかぶって歯ぎしりしている。私らの母親世代が、子どもや日本をなんとか貧乏・不安(敗戦)世界から脱出させようと、うるさくママゴンになってきたのは仕方がない。が、そのなれの果てがどうなってしまったかしってしまったわれわれ世代が、性懲りもなく同じ態度で、いや縮小再生産な親子(母子)関係を反復させていることは、いくらなんでもばかげたことだ。母親からさんざん泣かされたあとで、その不安をとりつくろうように、寝る前に本を読んでくれ、パパじゃだめだと哀訴するる一希の声をきいていると、私や私の兄がそうであったように(そして多くの若者たちがそうであったように)、青春時の憂鬱をこじらせて、分裂病(統合失調症)になってしまうのではないかと心配してしまう。不安と安心という矛盾(分裂)心理が同居していないと自己が安定しなくなってしまう、そんなダブルバインドな癖を身に着けさせられている。女房のしつけだが教育だかは、要はそういう身体訓練をしているのである。ただ希望的なのは、なお一希が言い返し反抗をみせていることだ。サッカーの試合でも、もう上級生モードにはいるからコーチも親も外から言わないから、自分たちで考えるように、とパパコーチである私がミーティングで諭しても、それを一番に破るのがコーチの女房なのだが、一希も試合中に「黙ってろ!」とどなりかえす。ヘッドコーチは苦笑いしているそうだ。

日本のサッカー界は、野球界に代表されるような根性主義、中央集権主義、独占主義に批判的なスタンスではじめられたのだから、最近の柔道界で騒がれた暴力問題とは遠い地点にまできているのかな、とおもっていたら、そうでもないらしい。冒頭引用の池上氏の著作にも、まだ「3分の1」や「半分」が「厳しく叱る」方針のままだ、とある。サッカー週刊誌などでは、「旧態依然の指導を断つ牽引車」とならんとする野球界の桑田氏のような人物がサッカー界にも必要だ、という記事もでる。野球だろうがサッカーだろうが、もちろん柔道だろうが、もう列記としたオトナの世界で、しかも世界競争をしていこうというレベルで、指導者の位置を仕事として引き受ける者が、教え子というより一人前の選手をぶんなぐって指導していくことがありうる、ということにびっくりしてしまう。なんともおぞましい世界だ、とおもうが、国民的英雄な長嶋茂雄氏など、その体罰指導の率先者のようなものだったことをおもいおこせば、われわれはまだこんな世界というか世間に暮らしているのだなあと、得も言われぬ感慨。さらに、相変わらぬ女房のこともが重なってきてまうと、この日本社会なるものに暗澹としてしまう。

癖なんだから、すぐに直らないのはしょうがない。私も、パパコーチとして、だいぶ古い習性がでてしまう。しかし、それがだめだということはいやというほど認識してきたので、まだそれを修正していく正解というのもはっきりしているので、それを理念として、絶えず自己反省しながらやっている。子どもとサッカー部にはいって2年。私も、少しづつ成長してきている、と感じている。が、その成長という前提、正解な基準自体を日本社会は受け入れようとしていない。その傾向が潜在的に強い、ということだろう。戦後民主主義的な教育流行の陰で、しぶとく潜伏している大勢は、ふとしたことで明るみにでる。自民党に返った政権は、なんとかその潜勢力を表にださせて、もっとふてぶてしくやりたい、ということのようだ。文芸評論家の斎藤美奈子氏によると、6年前の教育法改正のとき、文部大臣は「『毅然とした態度』をとった教師や学校が『児童の人権』という観点で非難されたら困るだろう。そのやりにくさを払拭するのが目的だ」といい、現阿部総理も、「学校現場の過度な萎縮を招くことのないよう、体罰に関する考え方をより具体的に示す」と発言したそうだ。つまり、容認できる体罰の指導をする、ということか。斎藤氏は、「『体罰』はなべて暴力で「よい体罰と悪い体罰」があるわけじゃない」と指摘し、「人権を制限し、究極の暴力の否定である戦争放棄に異議を唱える人たちに、暴力を一掃することができるだろうか。矛盾としかいいようがない。」と結語する。

しかし、この「矛盾」、分裂、ダブルバインド……中国に対して強気にでたいのも、この己の「不安(被潜在・鬱屈)」を解消・解放したいがためだろう。そしてその原因を作ったアメリカ(母)に「安心」を求めてよりかかる。その敗戦という癖。戦後民主主義(人権)という「安心」自体が「不安」と一体化してしか意味(自己安定)をもってこないという病。この精神病にとって、「人権」と「暴力」は同時に必要なのである。「矛盾」を抱え込んでいないと己が安定しないのだ。ならば、斎藤氏の批判視点自体が、病の産物である。

私自身、「厳しく叱る」教育(暴力)に対し、叱られて泣いてたら覚えるどころじゃないなんて、見ればわかるじゃないか、なんでそのわかる(科学)ことに依拠して教育をたてなおさないんだ、とおもう。しかし、この中立的、客観的な技術論自体が、歴史的産物であり、この時期の「矛盾」的位相、どちらもがヘゲモニーを確立できないという空白地帯からうまれてくるのだ。私の反省的な冷静さ自体が、熱狂の効果なのである。だとしたら?

私たちは何を見ているのか? 見えないのか? しかし、いや、見たいものがあるだろう? それがたとえ歴史的な空白地帯によってこそ可能な理想でありユートピアであっても、それをこの時代のわれわれが見た、人間には見えるものなのだ、ということを記述し記憶し、後世に伝えること、伝えようとすることには意義があるのではないだろうか?