2018年7月22日日曜日

進撃の女房

「2007年の夏に働き始めてから1年でスタンフォード大学の学生アスリートたちが、どのように勉強とスポーツを両立しているか、どれだけ勉強することを強いられているかを見てきた。言わずもがなだが、それと比較して、日本のアスリート、特にオリンピックレベルのアスリートが、どれだけ競技に集中できる環境にあるか、すなわち、勉強などする必要がないことを理解していた。もちろん、どちらの国のケースも、全員がそうでないこと、つまり、極論であることは、承知のうえだ。…」「たとえば、日本の学生スポーツを、アメリカのそれのようなシステムに変えようと深く考えていくと、日本の教育制度を変えなければならないという結論に至ってしまう。/日本で「部活の休みを増やして、(アメリカ人のように)家族との時間を増やそう」とするなら、我々が長く営んできた生活や慣習、家族の在り方にまで要らぬメスを入れることになる。そんなことができるわけもないし、それは、挑む相手が大きすぎる。」(河田剛著『不合理だらけの日本スポーツ界』  ディスカバー携書)

認知症で放浪癖のでていた父親が、家の階段からひっくり返って腰椎骨折。動脈も切れていたということで、救急搬送をためらっていたら、死んでいたかもしれないと弟。集中治療室に入って輸血もしたという。これからは、寝たきりになるのかもしれない。すでに母は、父のいる家での暮らしを「地獄」と喩えていたと兄。私は、東京から電話でそんな話を聞きながら、息子とテレビ録画していた『進撃の巨人』を見入っていた。たまに、女房が人食い映像の前をふらふらと行ったり来たりしていると、女房と似ている人食いババアもいるものだから、巨人が画面から出てきたのかと錯覚される。それは突然といつでもどこでも現れて進撃してき、息子を食ってしまうかのようだ。

じっさい、巨人の容姿は、モデルがいるのではないかとおもわれるくらい、一人一人がリアルなので、人とされる主人公たちより人間にみえる。というか、私には、認知症になった老人たちが放浪している世界のように想像されてくるのだった。とろんとした巨人の表情は、最後に残った欲望を赤ん坊のように純粋に表現しはじめる老人たち、父の顔に確認したそれと似ている。放浪しながら、道端になっている果物をとっては食べ、道端に落ちているゴミを拾い、思いついたような動きを緩慢と繰り返す。私の近所にも同じようにゴミを拾う婆さんがいて、植木屋として垣根下などを掃き掃除している私に「きれいになるねえ」と、声をかけてくる。後ろには、息子の嫁がついてあるいている。若い頃、私がよく通った蕎麦屋のおばさんだった。違う界隈へと引っ越ししてからもう20年は経つだろうが、それでも私のことを覚えているようだった。世間知らずの私がアパートを借りて住み始めたころ、近所のおばさんたちから「本当にかわいかったんだよ」といわれていることを、なおその近所の職場に勤める私は聞き知っていた。

女房の父親は、すでに老人ホームに入っている。月30万ぐらいの特養クラスのだそうだ。そうした所得と資金が、高度成長下において、差別されていた地域の犠牲の上に獲得されたものではないか、という疑問はどけておこう。一緒に働いている職人さんの家では、母親が最後数年は寝たきりだったが、老人ホームへなどという発想はでてこない。資金がないこともあるが、自分の親をよそへ送るという考えが内発的にはでてこないだろう。2DKの住まいに、寝たきり婆さんと夫婦、そして子供3人が助け合いながら雑居していても、大変ではあっても嫌悪感や忍耐できないもの、という前提意識は発生しなかっただろう。が、子供の教育(進学)に熱心で、ブルジョワ的な、共同体というより個人・核家族的な価値観を刷り込まされてきた世代・階層には、もう不可能な雑居住まいであろう。女房はすぐに、やってられなくなって共倒れになるのだから老人ホームへ、と言い散らしはじめるが、そんな余裕は、一般的に、高度成長期を通して預金を積み立てられた団塊世代ぐらいまでだろう。若い世代になるほど、そんな余裕は、一握りの階層の家族内でしかなくなるだろう。

そのとき、進撃の巨人がはじまる。丸裸にされた老人たちがふらふらと歩きはじめ、社会資本を、人類の遺産を食い始める。昔のように、おばすて山へ、というわけにはいかないが、選ばれた戦士たちが、人類の悪を引き受けて、老人たちを切って捨てていくのだ。相模原事件や、最近の女性看護師の末期の老人の点滴に洗剤を入れて早まって殺してしまった事件など、そんな来るべき社会の予兆であるのかもしれない。しかしあくまでネガ、消極的な事件にすぎない。将来は、それを「進撃の巨人」の社会のように、社会システムとして積極的に内蔵させ、そしてその悪を不可視にしていくだろう。

私にできることは、覚悟を決めることだけだろうか? そして、こんなふうに、私の理解していると思っていることを書き留め、後世への参考にと願うだけか? プチブルから職人階層の家族に移行した私の家で、他の職人さんたちのような助け合いの共同性は育まれにくい。私は知的にそれを認識し、変容させるよう努力はしているが、巨人には言葉はとどかない。息子は、小学生から受験地獄に飼いならされて目が死んでいく今風・都会風の子供たちに遅ればせながら、ようやく暗くなり、大人しくなり、忖度官僚に近づいてゆく。進撃する女房から、息子だけは逃げ延びて、生き延びて欲しいと私は願うけれども、あがけばあがくほど、人食い母親のシステムの中に内蔵されてゆく。そうやって自らが官僚化した巨人になるか、母親と刺し違えるか……私は、この綱渡りのようなバランスを認めながら、とりあえず期を伺っていることしかできない。児童相談所への相談などは、取り返しのつかない痕跡を子どもに植え付けてしまうだろう。それを考えたこともあるけれど、その手段はある意味、システムを受け入れるという諦めた覚悟をした上での最終的手段である。つまり、私たち固有の関係を放棄して、そこにしかない本当の解決の糸口を離して、巨人のシステムを受容するということだ。それでのいったんの解決とは、問題の先送りプラス複雑化であり、おそらくもはや大人になった子供自身、息子自身の力ではどうにもならない社会的痕跡が、新たに付加されてしまうということなのだ。そして私の判断では、女房と息子との軋轢は、峠を越している。もう少しだが、油断はできない。と同時に、次の局面がくることも予測しておかなくてはならない。高校に入学したらしたらで、また何か過干渉が起きるだろう。結婚したらしたらで、うるさい姑になるだろう。がそこまでいけば、幼少期の問題は移行されている。対処は、より容易になるはずだ。

どこの家庭も、似たり寄ったりだと、少年サッカーチームに関わっていてみえてくる。程度の違いはあっても、女房たちのほうが進学に神経質。おそらく、自分の腹を割って出てきた存在なので、なお子供たちが自分の体の一部なのだ。自分の右手が言うことを聞かなければ、イライラするだろう。が、昔のように右手(子ども)が二つも三つもあれば、言うことをきかないなんてことに慣れて、認識しだす。だから、ほっとく余裕もうまれる。今は少子化で、子離れする自然的条件が少ない。また日本では、父親が割って入る西洋的なエディプス的な契機が文化的に希薄だ。しかしこの母子癒着的な構造は、洋の東西を問わず本源的だろう。子は、母から、女から産まれるのだから。女は、子宮で考えると言われる。進学、といった制度的な観念もが、自分の体の延長として理解される、というか、そういう身体化的理解でしか物事が認識できないように自然条件づけられているのではないか、とおもう。だから、システム(進学)にイロニー的に距離感を置ける男たちとちがって、システムをそれでしかありえない自然的な身体のごとく受容する。その真面目さが、言うことを聞かない子供という存在を前に、いら立つこととして現象される。

そんな女房たちの進撃に、男たちは、どう対応したらよいのか? システム自体を変えなくてはいけない節目の時に。

2018年7月6日金曜日

サッカー界だけがわかっていること(2)

「サッカーの生態系は破壊されてしまった。「今より少し良いサッカー界」を目指す人びとが意気消沈し、反知性主義の時代が幕を開けている。長く競技規則にあった「非紳士的行為」を一九九七年に「反スポーツ的行為」とし、二○一○年代にはとうとうFIFAみずからが立派な「反社会的勢力」になっていた――のだからまったく笑い話にもならない。挙げ句は、そんなFIFAから「いつになったら会長を公明正大な選挙で選ぶのだ」といわれてやっと密室の扉を開けた日本サッカー協会。サッカー・ファミリィーなるものからの離脱感情が芽生えてしまうのは当然の成り行きと言えるだろう。」(佐山一郎著『日本サッカー辛航記』 光文社新書)

凱旋として日本国民から迎え入れられたと言ってもいいだろうサッカー日本代表チーム。起伏あるストーリーを演出して見せてくれて、私も興奮し、楽しんだ。が一方、観客としてだけでなく、実際に小学生チームの指導にもなお携わっているサッカー界の末端にいる実践者としては、複雑な思いにさせられるワールドカップだった。

私は、決勝トーナメント1回戦対ベルギー戦、0対6ぐらいで負ける可能性も出てきしまったのではないか、と判断した。判断の根拠というか、そう感想させた材料は、試合前の本田選手と西野監督のインタビューへの返答だった。本田選手は、「俺はもってる」「俺がここでいいとこもっていっていいのか、というような場面が出てくるのではないか」、というようなことを発言していた。その発言内容自体はいつもの通りなので問題は感じなかったが。そのどこかにやけた表情に、ひっかかるものがあった。そして西野監督は、こう言った、「このチームには、スピリッツ的なところがある」と。その表情にも、どこか本田選手と似たところがあると感じたが、私がひっかかったのは、その「スピリッツ」という用語である。スポーツでよく言われる、メンタル、という言葉ではない。メンタルとはは、mindの形容詞型で、その慣用<in the mind>が「心の中で」と日本語翻訳されるのでややこしくなるが、あくまで人知の頭脳の中で思い浮かぶもの、であるのに対し、spiritとは、人間を超えてより精霊的、妖精的な力の意味合いをもつ。インテリな西野監督は、よりそういう傾向として、この語をあえて使ったはずである。つまりは、中心選手と監督が、最近の日本プロ野球界の俗語でいえば、「俺たちは神ってる!」、と発言したのである。しかも、冗談ではなく、本気・本心を隠すようにどこかにやついた感じで。

私は、せっかく前回のポーランド戦、玉砕的な特攻作戦とは一線を画した冷静な賭けの論理を披露してみせていたのに、つまりは日本運動部的な情理とは違うサッカー界の論理、先発/補欠と固定区別して戦う根性主義ではなくその発想を転倒させる現実政策(先発6人変え)を含めて――を対置してみせてくれたのに、ここにきて、「神風」が俺たちには吹いているというのか? その試合前態度に、私は、不吉な懐疑を覚えたのである。

その不吉な懐疑は、杞憂に終わっただろうか? 確かに、内容的にも結果的にも、日本代表は善戦した。が、冷静にこの試合を振り返ってみれば、というか、リアルタイムで見ていたその時も、いやその時こそ、本当に「神風」が吹いたのではないか、と私たちは錯覚した一瞬を味わなかっただろうか? 柴崎のスルーパスはすごかった、が、あれが本来通ってしまうものなのか? 乾のシュートは冷静で正確だった、が、あの無回転というよりは単なるインサイドキック(浮かしたミドルでは普通にでる)の練習のような間(スペース)が、あんなバイタルエリアで発生するものなのか? パスを受けた原口、ボールを乾にあげた香川自らが、一瞬、ほんまか、というような表情をしている。このゴールへとつながった空白な時間に、まさにワールドカップ・ベスト16で発生していいのか、と問いたくなるような奇蹟、いわば「神風」が吹いた、としかいいようがない現象が起きていたのだ。そして本当に、もし本田の最後のフリーキック、まさにあれこそが無回転のブレ球といえるシュートが入っていたなら、私たちはまさに、「神風」が吹いた、と口にもださずにはいられなかったろう。

が、現実は違った。あれからベルギーは本気をだしたと、選手にも監督にも感じられ、他のベスト16の試合を観るにつけても、そのガチガチな削り合いの闘争の中で、あんな空白な時間が発生する余地など見られない。おそらく、それは「神風」などではなく、単に、対戦相手が私たち日本チームだったから起き得た余白、相手の油断ゆえに、と理解すべきなのだろう。確かに、西野監督は、うまく日本チームをまとめあげた。が、選手が日本人だったからこそできた手腕だろう。彼が、他の代表監督や、ヨーロッパのクラブチームを任せられる、という評価はないだろう。実際、交替をベルギーより早く、そして3人目の交代枠を使っていたら、ロスタイム終了間際でのカウンターを食らう時間はなかったかもしれない。また私は思い出した。前回ブラジル・ワールドカップ前でのコンフェデレーションズ・カップでの対イタリア戦、たしか勝ってゲームを進めていた日本があたえたコーナーキック、日本選手がゴール横で水を飲んでいる間、ピルロは走った、そしてすぐにボールを蹴りあげ待ち受けていたイタリア人選手がシュートを決め、試合の流れが変わり敗戦した試合。こういうレベルの油断、相手の抜け目なさへの洞察・感覚、は、フィードバックされているのか?

西野監督は、インタビューで話す際、「私」は、という主語を使っていない。日本の「サッカー界は」、という。今大会の結果も、これが良かった、という完結的な言い方をしていない。成功させるのも失敗させるのも、これからの4年で問われるのだ、という。私も同感だ。もし、サポーターや末端指導者も含めた日本の「サッカー界」が、「神風」がなお吹いていると錯覚したままなら、おそらく結果は悲惨なものになっていくだろう。今回のワールドカップの成績で、日本代表の世界ランキングは上昇するかもしれない。が、それ自体が、転落と裏腹の関係にあるとは、60位からはじめた今回代表が証明してみせてくれたことだ。

サッカーは、「進歩」してゆく。それは、「科学」の進歩と同じである。平安時代の「蹴鞠」は、いつまでもそのままで、ただテクニックだけが「進化」してゆくかもしれないが、サッカーは、「真理」という目的(ゴール)があるゆえに、それを目指して、追求して「進歩」してゆくのだ。この強迫的な論理、一神教的な現実の実際は、私たちにはわかりにくい。ゴール(ゴッド)に近づてい行く真理を、その法則を探せ、そのあくなき探究に参加するということが、とりあえず、現今の「世界」に参加するということだ。この仮借ない闘争の世界から、降りるという選択肢もあるかもしれない。が、おそらく私たちは、もう降りるには相当な贅沢を世界から享受している。降りることなど、許されていないのだ。ならば、そこで戦いながら、よりよい世界へと誘導していく他ない。「世界の壁」など、私たちはとっくに通り越している。というか、引きずり入れられたのだ。そしてそこで、敗者でいろと、国連憲章でも定義されているのである。が、負けに甘んじたままでいいのか? そんなのはいやだ、という気概はあることを今回の代表は示し、日本人としてのサッカーを目指す道筋をつけられたのではないか、と監督・選手ともどもいう。が、この気概が、神風的な、スピリッツ的な神掛かり作法、島国的慢心に陥ってしまったらもともこうもない。あるいはその近代日本への反動としての、子供天国だったと幻想される近世(江戸の平和)への回帰、楽しければいい、子供ファーストなサッカーへの停滞。

少なくとも、日本の「サッカー界」には、その分裂を理論・実践的に解決していこうとする科学的な知性が挿入されている、と私は認識している。おそらく西野氏は、その知的な試み、作業のことを「サッカー界」という主語に仮託しているのだろうとおもう。マスメディアや末端指導者は、この試行錯誤の文脈と意義を、正当に理解・評価しているだろうか? テレビ報道と、自分の所属するチームを思い浮かべると、私は心もとなくなるのである。目先(のテクニック)にこだわらず、もっとでっかく考えないのか、と。そういうと、批判され、揚げ足とられてきたわけだが。……