2018年7月6日金曜日

サッカー界だけがわかっていること(2)

「サッカーの生態系は破壊されてしまった。「今より少し良いサッカー界」を目指す人びとが意気消沈し、反知性主義の時代が幕を開けている。長く競技規則にあった「非紳士的行為」を一九九七年に「反スポーツ的行為」とし、二○一○年代にはとうとうFIFAみずからが立派な「反社会的勢力」になっていた――のだからまったく笑い話にもならない。挙げ句は、そんなFIFAから「いつになったら会長を公明正大な選挙で選ぶのだ」といわれてやっと密室の扉を開けた日本サッカー協会。サッカー・ファミリィーなるものからの離脱感情が芽生えてしまうのは当然の成り行きと言えるだろう。」(佐山一郎著『日本サッカー辛航記』 光文社新書)

凱旋として日本国民から迎え入れられたと言ってもいいだろうサッカー日本代表チーム。起伏あるストーリーを演出して見せてくれて、私も興奮し、楽しんだ。が一方、観客としてだけでなく、実際に小学生チームの指導にもなお携わっているサッカー界の末端にいる実践者としては、複雑な思いにさせられるワールドカップだった。

私は、決勝トーナメント1回戦対ベルギー戦、0対6ぐらいで負ける可能性も出てきしまったのではないか、と判断した。判断の根拠というか、そう感想させた材料は、試合前の本田選手と西野監督のインタビューへの返答だった。本田選手は、「俺はもってる」「俺がここでいいとこもっていっていいのか、というような場面が出てくるのではないか」、というようなことを発言していた。その発言内容自体はいつもの通りなので問題は感じなかったが。そのどこかにやけた表情に、ひっかかるものがあった。そして西野監督は、こう言った、「このチームには、スピリッツ的なところがある」と。その表情にも、どこか本田選手と似たところがあると感じたが、私がひっかかったのは、その「スピリッツ」という用語である。スポーツでよく言われる、メンタル、という言葉ではない。メンタルとはは、mindの形容詞型で、その慣用<in the mind>が「心の中で」と日本語翻訳されるのでややこしくなるが、あくまで人知の頭脳の中で思い浮かぶもの、であるのに対し、spiritとは、人間を超えてより精霊的、妖精的な力の意味合いをもつ。インテリな西野監督は、よりそういう傾向として、この語をあえて使ったはずである。つまりは、中心選手と監督が、最近の日本プロ野球界の俗語でいえば、「俺たちは神ってる!」、と発言したのである。しかも、冗談ではなく、本気・本心を隠すようにどこかにやついた感じで。

私は、せっかく前回のポーランド戦、玉砕的な特攻作戦とは一線を画した冷静な賭けの論理を披露してみせていたのに、つまりは日本運動部的な情理とは違うサッカー界の論理、先発/補欠と固定区別して戦う根性主義ではなくその発想を転倒させる現実政策(先発6人変え)を含めて――を対置してみせてくれたのに、ここにきて、「神風」が俺たちには吹いているというのか? その試合前態度に、私は、不吉な懐疑を覚えたのである。

その不吉な懐疑は、杞憂に終わっただろうか? 確かに、内容的にも結果的にも、日本代表は善戦した。が、冷静にこの試合を振り返ってみれば、というか、リアルタイムで見ていたその時も、いやその時こそ、本当に「神風」が吹いたのではないか、と私たちは錯覚した一瞬を味わなかっただろうか? 柴崎のスルーパスはすごかった、が、あれが本来通ってしまうものなのか? 乾のシュートは冷静で正確だった、が、あの無回転というよりは単なるインサイドキック(浮かしたミドルでは普通にでる)の練習のような間(スペース)が、あんなバイタルエリアで発生するものなのか? パスを受けた原口、ボールを乾にあげた香川自らが、一瞬、ほんまか、というような表情をしている。このゴールへとつながった空白な時間に、まさにワールドカップ・ベスト16で発生していいのか、と問いたくなるような奇蹟、いわば「神風」が吹いた、としかいいようがない現象が起きていたのだ。そして本当に、もし本田の最後のフリーキック、まさにあれこそが無回転のブレ球といえるシュートが入っていたなら、私たちはまさに、「神風」が吹いた、と口にもださずにはいられなかったろう。

が、現実は違った。あれからベルギーは本気をだしたと、選手にも監督にも感じられ、他のベスト16の試合を観るにつけても、そのガチガチな削り合いの闘争の中で、あんな空白な時間が発生する余地など見られない。おそらく、それは「神風」などではなく、単に、対戦相手が私たち日本チームだったから起き得た余白、相手の油断ゆえに、と理解すべきなのだろう。確かに、西野監督は、うまく日本チームをまとめあげた。が、選手が日本人だったからこそできた手腕だろう。彼が、他の代表監督や、ヨーロッパのクラブチームを任せられる、という評価はないだろう。実際、交替をベルギーより早く、そして3人目の交代枠を使っていたら、ロスタイム終了間際でのカウンターを食らう時間はなかったかもしれない。また私は思い出した。前回ブラジル・ワールドカップ前でのコンフェデレーションズ・カップでの対イタリア戦、たしか勝ってゲームを進めていた日本があたえたコーナーキック、日本選手がゴール横で水を飲んでいる間、ピルロは走った、そしてすぐにボールを蹴りあげ待ち受けていたイタリア人選手がシュートを決め、試合の流れが変わり敗戦した試合。こういうレベルの油断、相手の抜け目なさへの洞察・感覚、は、フィードバックされているのか?

西野監督は、インタビューで話す際、「私」は、という主語を使っていない。日本の「サッカー界は」、という。今大会の結果も、これが良かった、という完結的な言い方をしていない。成功させるのも失敗させるのも、これからの4年で問われるのだ、という。私も同感だ。もし、サポーターや末端指導者も含めた日本の「サッカー界」が、「神風」がなお吹いていると錯覚したままなら、おそらく結果は悲惨なものになっていくだろう。今回のワールドカップの成績で、日本代表の世界ランキングは上昇するかもしれない。が、それ自体が、転落と裏腹の関係にあるとは、60位からはじめた今回代表が証明してみせてくれたことだ。

サッカーは、「進歩」してゆく。それは、「科学」の進歩と同じである。平安時代の「蹴鞠」は、いつまでもそのままで、ただテクニックだけが「進化」してゆくかもしれないが、サッカーは、「真理」という目的(ゴール)があるゆえに、それを目指して、追求して「進歩」してゆくのだ。この強迫的な論理、一神教的な現実の実際は、私たちにはわかりにくい。ゴール(ゴッド)に近づてい行く真理を、その法則を探せ、そのあくなき探究に参加するということが、とりあえず、現今の「世界」に参加するということだ。この仮借ない闘争の世界から、降りるという選択肢もあるかもしれない。が、おそらく私たちは、もう降りるには相当な贅沢を世界から享受している。降りることなど、許されていないのだ。ならば、そこで戦いながら、よりよい世界へと誘導していく他ない。「世界の壁」など、私たちはとっくに通り越している。というか、引きずり入れられたのだ。そしてそこで、敗者でいろと、国連憲章でも定義されているのである。が、負けに甘んじたままでいいのか? そんなのはいやだ、という気概はあることを今回の代表は示し、日本人としてのサッカーを目指す道筋をつけられたのではないか、と監督・選手ともどもいう。が、この気概が、神風的な、スピリッツ的な神掛かり作法、島国的慢心に陥ってしまったらもともこうもない。あるいはその近代日本への反動としての、子供天国だったと幻想される近世(江戸の平和)への回帰、楽しければいい、子供ファーストなサッカーへの停滞。

少なくとも、日本の「サッカー界」には、その分裂を理論・実践的に解決していこうとする科学的な知性が挿入されている、と私は認識している。おそらく西野氏は、その知的な試み、作業のことを「サッカー界」という主語に仮託しているのだろうとおもう。マスメディアや末端指導者は、この試行錯誤の文脈と意義を、正当に理解・評価しているだろうか? テレビ報道と、自分の所属するチームを思い浮かべると、私は心もとなくなるのである。目先(のテクニック)にこだわらず、もっとでっかく考えないのか、と。そういうと、批判され、揚げ足とられてきたわけだが。……

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