「オホーツクの青は マリンブルー? ウルトラマリンブルー?
屈斜路湖は コバルトブルー? シマンブルー?
ブルーの名前がわからなくて、色の手帖をみても やっぱり わからなくて 私たちの議論は議論にならない。」(いく子の日記「はるみNOTE No2」‘89.8.10)
妻の遺品ででてきたアイヌのお土産、少女のシルエットの彫刻が、どのような経緯でここにあるのだろうと思っていた。亡くなってからの1年の間に、狂うことに耐えながら読んだ手紙類に、北海道へと旅した記述があったような気もしたが、不確かだった。が、書き写しはじめた日記の記述のなかで、やはり友達何人かと網走のほうへ行ったようだと知れる。友から来た手紙を再読していけば、もう少し詳しいことも知れるだろう。いく子が、流氷を見たいと和歌山の友達のはるみさんに申し出たのは、中国へと一人旅した直後の手紙(日記にコピー)でだった。‘89年の5月始め、すでに天安門は、人々でごったがえしていた。彼女が日本にもどってきたとき、事件が勃発する。そしていく子は、流氷をみにゆこうと提案した。はるみさんとはいかなかったようだが、おそらく、高校時代の友達と、北海道へ移住した高校の友達の案内のもと、網走の方へ行ったものとおもわれる。そこで、そのアイヌのお土産を買ったのだろう。
それは、津島佑子が、幼い息子をつれて、オホーツク流氷館にちかい資料館ジャッカ・ドフニを訪れてから四年後の夏にあたる。いく子が、アイヌのことを思考した痕跡はいまのところない。が、私は彼女の古い気質、火の国(九州)の「おなご」たちと通称されるかもしれない精神の向うに、縄文時代と総称される「心の文明」(『アイヌと縄文』ちくま新書 瀬川拓郎著)の流路を感じるのだ。両親も、ともに東北出身だ。いつだったか、私の地元の縄文遺跡の多い群馬の博物館を見学したさい、そこの当時の生活を模した人形の姿が、妻に似ていると思ったことがあった。「縄文人は歯が爪切りの刃のように噛みあい、彫が深く、鼻が高い」「ヨーロッパ人」の形質類型をもつ。家族が移住した水俣も鹿児島に近く、そこには、アイヌの言葉が方言として残っているともいう。(ちなみに「武蔵野」のムサシは、アイヌ語だそうである。)
瀬川の『アイヌと縄文』によれば、というか最近までの考古学的な成果によれば、アフリカから移動しはじめた現生人類の古層がアイヌ人に残っていること、「形質的な特異性が大規模な遺伝子分析によって確認された」のだ。言語学的にもそうで、「出アフリカ古層A型」という古いタイプの言語は、バスク語を含め世界に九つ「孤立言語」としてあるが、「その約半数が日本列島の周辺に集中して」いるそうである。つまり、サルからヒトへの移動経路は、ヨーロッパからユーラシアそして日本列島へと到達したが、縄文時代の半ばで氷河期が崩れ、大陸から孤立した離島と化したために、古いままの身体的形質と言語的特性が、この日本に残存している、ということだ。その間、大陸では戦争を含めた交通に覆われたので、古層は改変更新された。旧石器時代的な遺跡はほとんど遺されていない。日本では終戦後、群馬で岩宿遺跡が発見される。おそらく、こうしたことから、右派の主張、日本が世界文明の発祥地であり、それが中国やメソポタミア、エジプトへと伝播していったのだ、という牽強付会な説が出てくるのだろう。さらにそれらの説には、戦争の痕跡が縄文遺跡からみられないことから、そこに平和思想を読み込むものもある。
アイヌと縄文の時代を考察してきた瀬川も、こう示唆してしめくくる。
<イレズミと抜歯という縄文伝統をとどめていた本州の漂海民は、自分たちの補った魚などが銭で買われることを好まず、陸上の知人に贈り物として与え、その返礼として祭事に招待をしてくれることをよしとし、そうした関係を「親戚」とよんでいました。/この「親戚」は、漂海民にとっての「疑似親族」「中立地帯」であり、かれらはこの「親戚」をとおして外部の商品経済との関係を保とうとしていた、といえそうです。/アイヌが守りをとおそうとした縄文思想とは、人びとを「親戚」としてむすびつけるこのような連帯が原理であり、かれらが商品交換を忌避したのは、それが人びとを不平等化し、差別化していく対極の原理だったからにちがいありません。/私たちは、商品交換という禁断の木の実を口にした存在です。その原罪は、日本列島のなかに「外部」が成立した弥生時代以降、列島の人びとを取りこんできました。そしてそれは、本州社会で戦争を常態化させ、王を誕生させ、国家を成立させてきました。商品交換が産みだす社会の非対称化はさらに、程度の差こそあれアイヌや琉球の人びともとりこんでいくことになったのです。/私たちが縄文の思想を知る意味とは、非対称化していく歴史のなかで、源郷の思想である連帯と平等をかたくなに守りとおそうとしてきた人びとが今なお私たちの目のまえにいること、さらには漂海民のようについ最近まで私たち自身のなかにもいたことをとおして、その意義に今一度おもいをめぐらせてみることにある、といえるのではないでしょうか。>
ならば、問いはこうならないか。
交通(戦争)の激しい大陸の間で、その孤島に残った平和的とされる縄文の思想は、成立する現実条件がなおあるのか、可能性は残存しているのか? 通用するのか? 通用しなくてもやるべきという理想=憧れ、想いのなかに、現実的な可能性を夢見てもいいのか? 反復は可能を持つのか?
※ 瀬川が要約してみせた「心の文明」・「縄文イデオロギー」「縄文思想」の背景として、山と祖先の信仰形態の遺跡考察がある。七世紀後半以降の奈良平安時代と平行するアイヌ文化を「擦文文化」と呼ぶそうだが、この時代、本州もふくめ、墓がみつからないのだという。風葬や遺棄葬がおこなわれていたようだという。私(たち)も、もう「墓」をどうしていいのかわからない。妻を、葬ることができないでいる。その想いのなかに、縄文思想の現実的条件、将来への可能性をさぐる糸口が見つかるのだろうか?
*オホーツクのブルーをみて、以後もその青の意味あいに、いく子はこだわっている。それが二年後の、「ニーチェはブルーが好きだったか」という創作ダンスに繋がっていったと思われる。このビデオはあったらしいが、残ってはいない。
