2026年6月15日月曜日

田口ランディ著『水俣 天地への祈り』(河出書房新社)


「中上の熊野、ここ、そんなリアリズム(単純にいいきれるものではないとしても)を、好きではない。中上の、俺は、ここに、いる、この文句だけで読みをすすめている。千葉が嫌いと思ってた。風光明媚ではないし、何だか実体もないし。ここではないところに行きたかったんだ。これが否定されるにしろ、ないにしろ、向き合わざるをえない、私に克服しなきゃならない病があって、それがエクリチュールでいやされるのかどうか(は別にして)、つきつけられ、痛い。」(いく子「はるみNOTE3」’93.8.30.

「結局、今の世の中に希望がもてなくなって、絶望感のなかで狂いに狂っていた一九八五年の秋。そのときに必死に世界を探そうとするわけですよ。自分の本当の世界が必ずあるはずだと思って、四苦八苦しながら、七転八倒というか、とんでもない大どんでん返しのなかで狂ってるわけですよ。そのとき初めて、不知火海の女島という小さな漁村に生まれて育って生きてきた、生かされてきたということが、実は私の命の物語そのものだったという。その「物語に従う」というか、そこからシステム社会のほうに行かないで、どっちかちゅうと俺は、帰ってきたんだと思う。」(「水俣の祈り」 語り手・緒方正人 『水俣 天地への祈り』田口ランディ著 河出書房新社)

 

田口ランディさんにこのような作品があると知り、読んでみて驚く。ちょうど妻の妹さんから、戦争は止まず自民党は国旗だ武器輸出だ男のみ皇位継承だと時代錯誤、AI革命が社会を破壊する力持つらしいぞと、さくらんぼが届くというライン通知で言ってきたので、ランディさんの著作を紹介した。

狩猟採集時代は「遊動」していた、というが、その言語化には、ロマン(近代)が忍び入っている。中上が「放浪」として受容されるように。本当は、世界自体がひとつとして観念され、なお文化的な差異などないのだから、一つの宇宙内を移動しているような感覚なのではなかろうか。アフリカの象だって、そうとう広い範囲を、季節ごとに移動する。いま生きる日本猿でも、アルプスのてっぺんまで季節がくればのぼってゆく。「ここ」、とが、一つの故郷だったのであり、いく子が「流氷」を見たいという衝動に襲われたのも、氷河に覆われ一つになっていた大陸の、ヒトの始原の痕跡(断片)に帰りたいと、故郷を思ったからではないだろうか? その歴史性が、狂気のなかで蘇る。私はこの千葉の家から、一歩もでたくない。

文を改めるのは面倒なので、返信のコピー。

 

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ありがとうございます!
明日は、近所の、食べに行ったお寿司やさんのお宅の手入れです。

現政権は、消費税を一時解除したあとで、9条ふくめた憲法改正に進みそうな。お金で問答を抑えたすきに。そうなると、自動的に徴兵制。憲法は国家をしばるので、軍隊を保持するのが納税と同じ義務に。だけど、マッチョ丸出し化した世界で、女々しい勇気を持つのは大変でしょうけど、現総理は、女のはずなんだが。
明日、たのしみにしています。

 さくらんぼ、とどきました。

とりあえず、真向いアパートの〇〇さんから、春にイチゴをたくさんいただいたので、先ほどお返しにおすそ分けいたしました。お子さん3人の、旦那は土工ですね。奥さんの実家が、四街道のほうのイチゴ農家だそうです。◇◇さんと△△さんにも、少量になるかもしれませんが、もっていこうかなと。明日は、小倉台のお宅の手入れで帰宅は5時ぎりぎりか。

というか、今日、私の59才の誕生日だったのですね。トランプが明後日誕生日というニュースをみて気づきました。ケーキを買って来て、チョコレートが好きだったようないく子に、フジヤのケーキですが供えて。

65歳までは、まだ長いなあ。それまでに、いく子文献を使った共著を仕上げたい。

いま、1959年東京生まれの、田口ランディという作家の、「水俣 天地への祈り」という5年前の作品を読んでいるのですが、これは入門としては一番よさそうです。無知で「バカ」と呼ばれて自称もしてきたバブル経験のフリーターあがりの女性が、どうこの事件に関わり直面してきたのか綴られています。当事者から引き出してきた言葉(対談)もすごい。彼女は最後に、「縄文の思想」を感じ取りますが、いく子も、そうなんですよ。ダンスの芸名に、「やまたいこくの山田いく子」とか、「Nobody」(ジム・ジャームッシュの映画「デッドマン」のインディアンからとった。)とかつける感性に、そこが現われる。つまり、天安門事件直前の中国旅行から帰ってすぐに、「流氷」がみたいと言いだしてるのですが、その二年後にオホーツク海に友達といって、アイヌ少女のお土産を買ってくる衝動。縄文時代、北海道から沖縄までみな同じ思想で生きていたのは、アフリカから放浪しはじめた人類の一番古い感性が、氷河期消えて、孤立島国になったために、この日本列島周辺に残存したままだったからだそう。遺伝子的にも(だからアイヌ人はヨーロッパ人種的)言語的にも(出アフリカ言語の半数は日本近辺に残る。)。そして、東北だけでなく、九州とくには鹿児島近辺には方言としても残っている。(「武蔵野」のムサシもアイヌ語です。)石牟礼や高群逸枝・森崎和江ら九州の「おなご」の思想を言語化した人たちも、弱者によりそっただけでなく、そこにまだあったサルからヒトへの狩猟採集民の倫理(日本の武士道はそのエキスとも言われています。柄谷の交換様式Dも柳田國男の山人(縄文人)の反復の提唱です。)の再発見をしたということです。そしてそこに、AIの進化も関わってくる可能性もあります。本当に量子コンピューター化されると、心理を超えた霊的な繋がりが可視化されるかもと。それは、北海道から沖縄まで、なんでみんなひとつの価値(クマに感謝するような世界)であったのか、その不可思議さに近接してしまう。近代のヒューマニズムは終わる(が、個人が終わり動物化するのか、人間(個人・魂)として進化するのか、と意見が分かれる)。武士道(生きる)とは死ぬこととみつけたり、と水俣患者が到達した倫理が普遍化されてくる。
だけど、島国だから通じるので、人口増えた大陸の交通(戦争)激しい世界で、その倫理が通用するのかな、と、最近の情勢から思わずにいられませんが。

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