2020年1月13日月曜日

多和田葉子をめぐる(2)



(2)日本語をめぐる



漢字を廃止し、日本語をカナかローマ字にした方がいいのではいか、と提言してきた言語学者の田中克彦氏が前提としてまずみるのは、言語の原理論的な有り様なのではない。



<漢文化と直接、濃厚に接触しながら、周辺民族は一つとして自らの言語の表記のために漢字を採用しなかった。このことはくりかえし述べたところであるが、あらためて考えてみると、これは強調してもしきれないおそるべき事実である。というのは、一般に無文字の民族集団が高い文化に接すると、まず相手から文字を学びとる。日本がいい例だ。しかし漢族周辺の民族はその影響を受けつつも、自ら文字を作り出すか、モンゴルやチベットのように、漢字以外の別の文字を採用した。前者はウイグル文字を、チベットはインドからデーヴァナーガリー系文字をとり入れ、変形して用いた。>(田中克彦著『言語学者が語る漢字文明論』 講談社)



 この歴史的、地政学的な一事から、田中氏は、言語の存在様態をではなく、それそのものに、他の諸言語の間で、そして日本語という一言語で、何が起こってきた、起ってきているかを考察しようとしているのである。田中氏の主張上、ポスト・モダニズムなエクリチュール分析を理解しない、文字と音声の考察をいっしょくたにし、音声の優位を巻き返そうとした反動家のようにみえるのかもしれない。これから検討していく『批評空間』(1993,No.11)における、「音声と文字/日本のグラマトロジー」と題した討議での、柄谷氏の発言などは、そうした批判の一つだろう。



柄谷 順序としてはそうですね。国学者に抜けていたのは、あるいはいまでも言語学者に抜けているのは、書くこと(文字)と話すこと(音声)が決定的に異質だということです。文字はすべて、ある意味では象形文字であって、それは音声と必然的に結びついていない。中国では、漢字はそのようにあったし、いまもある。のみならず、漢字は東アジアでそのようにあったわけです。それは、必ずしも漢字の性質によるとは思えない。中世のヨーロッパにおけるラテン語もそうでしょう。各地で違う発音で読んでいたはずです。そもそも本来の音がないわけだし、最終的に書けば通じるのだから。

 したがって、漢字かアルファベットかという差異は、さほど問題ではなくて、そうした標準的な文字の在り方に問題がある。ラテン語や漢文は、各地で日常話されているものと違って、どこでも妥当する「超越的な意味」を担うものとしてあったわけです。近代に起ってきたのは、この「超越的な意味」の否定ですね。>(前掲書 福武書店)



 理論的には、上のような議論前提が正当的・説得的にうかがえるのは、まさに田中氏が主張するように、文字通りカナだけで文章を書いてみれば自明となる。その試みを、上記誌上での山城氏の「訓読について」という論考が、例文を示しながら行っている。



<卑近なところでごく素朴に考えても、一頁全文を仮名文字で書くと、アルファベットの場合とちがい、かえって、意味が読みとりづらくなるのがなぜなのかは容易には知りがたい。たとえば、たった一文でも「くんどくは、かんぶんをよむためにではなく、わぶんをかくためにあんしゅつされたくふうである」と、ひらがなのみで書くことにわれわれはなぜ抵抗を感じるのだろうか。「訓読みは、漢文を読むためにではなく、和文を書くために案出された工夫である」のように、助詞や活用語尾(辞)の表記にはひらがなを配しても、体言や用言の語幹(詞)の表記には漢字の音訓(場合によっては、カタカナ)を要求せずにはいられないのはなぜだろうか。>



 カナだけで実際にやってみれば、その言語理論の不適切さは、理論上の議論など知らなくても、たやすく了解できるだろう。

ならばなぜ、田中氏は、誰もがうなずける有益さを排して、そうまで主張するのか? とりあえず、その柄谷・山城両氏の指摘に応ずるような考察箇所を引用しておこう。



<次には言うまでもなく漢字の知識である。しかもこの知識は単純だから、何字書けたかと知識を点数にできるので、誰にもわかりやすく、学校の試験には欠かせない。教師が試験問題を作る際には、最も頼れる道具である。

 それに、たとえば「みる」は、「見る」「視る」「観る」「看る」「診る」など、漢字で書けばその意味をこまかく区別して把握する力を養うことができるではないか。

 しかし、「みる」の意味は、漢字でこのように書きわけないと区別できないのだろうか。そうだとすれば、日本人は漢字を使うことによって、はじめて自分の母語を駆使できるようになったことになる。そんなことはありえない。漢字で書くことによって、はじめて一人前の言葉になったというのなら、英語なんてどうしたらいいんだろう。

 英語のseeにも、いろんな意味があって、それをいちいち漢字で説明していたら大変なことになる。(略)

 だから私は「みる」を書きあらわす漢字がどれだけ多いかを数えるよりも、日本語のオトのはたらきに気づく方が、はるかにことばについて高級な知識だと思うのである。>



<漢字は結論をあたえた、行きどまりな文字なのに対して、かなやローマ字は、意味にたどりつく前に、まだまだ長いみちのりがある。そのみちのりの中で、ことばについての深い思索や分析が必要とされるのである。>



<それぞれの言語(あるいは方言)が漢字で書かれることによって、オトということばの実体を消し去り、かくし去ったことによって、かぶせられた文字だけが残ったのである。この点から言えば、漢字は、「ことばかくし」「ことば消し」、さらにすすんで「ことばつぶし」の文字だと言えるだろう。(略)さきに述べた突厥、女真、契丹、西夏、さらにチベット、モンゴルのように、漢族と密接にからんで暮らしてきた民族が、一度でも「訓読み」をやって漢字を採用したらさいご、かれらの言語も、漢語のなかに取り込まれて消えていたであろう。

だから、ヨーロッパにこれだけ多くの言語が保存された――もちろん、エトルスキ語が想像させるように、多くの言語が名をもとどめることなく消え去ったが――のは、ラテン文字というオト文字が、それぞれの言語の実体すなわちオトを残したからである。意味ではなく、オトこそが言語を支えることを、日本人はもっと骨身にしみて自覚しなければならない。

私はよく西洋の国際語主義者たちに言うのである。ラテン語が漢字で書いてあったらどうでしょうか。そのばあい、ヨーロッパは中国のように単一であって、こんなに多くの言語を生みだすような不経済はなかったはずですと。>



<音声中心主義だとデリダのしりうまに乗って口まねする人たちは、音声なしで議論してみたらどうだろうか。>



 以上からもわかるのは、田中氏の現場は、言語という理論の上なのではない、ということだ。「議論」というような、実際上の、実践の中での考察なのである。そしてこの「実際」なり「有益」さは、国内向けというよりかは、まだ言語を覚えていない、子供や外国人との間でのことなのである。入試に苦労する子供たちや、床ずれですませられるものを、「褥瘡」という専門用語で暗記していかなくてはならない漢字テストのために、日本の医療現場から閉め出されてしまう「フィリピンやインドネシアからの娘さんたち」が想定されているのだ。山城氏の例文上の差異は、漢字と仮名の区別もおぼつかない者にあっては、あまり意味をもたない。日本語自体が、「言語の国際競争の場にさらされて、その学びやすさ、使いやすさがせりにかけられているのである」という対他的な言語、地政学的な切迫した認識を前提としているのだ。



『批評空間』での討議者たちが射程にしているのは、ナショナリズムな言説である。この討議の副題は、「十八世紀日本の言説空間」としてあるが、そこに、『古事記』や『万葉集』の成立期、日本語の表記システムが確立していった頃に生起し、隠蔽されていった事態が江戸時代という日本史をこえて、世界史的に反復されたことが議論されている。たしかに田中氏も、奈良時代や江戸末期の歴史情勢と同様な、現代が直面している切迫さ、その国際的な危機感から、「日本の国の未来はほかでもない日本語の発展にかかっている」のだと愛国的な表明をするだろう。そのイデオロギー性に田中氏の立場を集約させるならば、この討議者たちの反駁は説得的であるかもしれない。

が私がみたいのは、田中氏の立論である。論理を立てている場所なのだ。そこは、「標準的な文字の在り方」を問題にしていくような一般理論的な場所なのではそもそもない。つまり、真理を問題にしているのではない。あくまで外と向き合っているときの論理の強さが問題なのである。理論も、論理的でなければ、説得的ではない。そういう意味では、他者と向かいあっている。が、論理がすなわち説得する力であるならば、論理的である必要はない。もともと、それが外に向けてのものならば、言葉が通じないことこそを前提とするからである。『批評空間』の討議者たちは、その理論で、田中氏が指摘した、なぜ日本人と成った者たち以外は漢字を排してきたのか、その「おどろくべき」歴史的厳然さに応答しているか? つまり、論理たりえているか? ――いや、依って立っている理論が不備だから、論理的帰結として、カナ文字実践という間違った解決策を唱え、ナショナリズムな言説に回収されていくのだ、と唯物論者の誰彼はいうかもしれない。なるほど、そういうこともあるだろう。人は考えたことを行うものだ、という理論的前提に立つならば。しかしその立論に、どれくらいの説得力があるというのだ?



私たちはのちに、多和田氏の最近作で、日本語が消滅した世界のなか、多言語の音声的な共通項を自身の内で改造し渡り歩く日本の「娘」の姿をみるだろう。彼女は、筆談するのではなく、議論する。作家がそう書きつけた夢想の背後には、田中氏が感得したような危機意識と切迫さがあり、作中においても、世界市場で言語が売買されるエピソードなどが挿入されるだろう。

田中氏は、「キラキラネーム」の現象を、「日本語をゆがめ、コミュニケーションの効率をさげて」おり、「反社会的」だとさえ言っている。事実、それが児童虐待の社会と関連しているようなのだから、そういう向きもあるだろう。その点からは、言葉遊びに近い要素を多分にはらむ多和田氏の活動は、田中氏の立場とは正反対になる。しかしそれは、多和田氏が田中氏より、絶望しているからではないか、日本国土が消滅したヴァーチャルな世界史の方がリアルになっているからではないか、という推定もできるのだ。そしてそうした読後感想こそが、多和田氏の言語活動、文学実践の発生の場所が、田中氏が立った論理の有り様と似ており、重なってくることを証しているだろう。



私たちは、真理を解いた一般言語理論が残り、日本語がなくなることのほうこそをのぞむのだろうか? あるいは、それでも世界は多言語状態なのだから、リベラルでありうるじゃないかと? まさにそう態度してしまうことが、自分のことを他人事と考えてしまう、日本語のカラクリの中にいる、ということではないのか?



がもうしばらく、理論的な有り様を追おう。

そもそも、「文字」と「音声」とが「決定的に異質」だとする理論的立場が、論理的展開として同一的な実践の根拠を提供することが怪しいのは、この1993,No13号の『批評空間』誌上が告げている。



ここでは、文字の外在・物質性を消去していく言語システムが、排外的・排他的なナショナリズムと結びつくイデオロギーを批判していく姿勢を共有する者たちが寄稿している。『万葉集』や『古事記』にまでさかのぼり、その表記発生の現場を緻密に解析した試みとして、先にあげた山城氏の論文などがあるわけだ。

 私が、(1)キラキラネームでみたような、日本語が「不整備な認識装置」として働くのではないかという想定を、山城氏は、「訓読」という行為にみた。中国近辺の諸族が、田中氏の指摘するように、「訓読み」することさえ拒否したのはなぜなのか、という問いには応答できない問題の設定になるということは、ここでは脇にどける。まずは、「装置の不備」の有り様の指摘をきこう。つまり山城氏の分析する「訓読のプログラム」、日本語の有り様とは如何様なものか?



 以下は、先の引用中にある問いへの答えである。



<ひらがなばかりで書いたりせず、漢字とカタカナを適当に使い分けつつ交ぜて書くのは、どんな機制がわれわれにはたらいているからなのだろうか。私が訓読のプログラムと呼んでいるのは、日本文を書くことに、無意識のうちにはたらいているこの機制にほかならない。それは、文字に先立って=書かれたもの(プロ=グラム)であるのみならず、そこから文字を生成しもするプログラム、すなわち漢文を読むテクニックとしての訓読ではなく、日本文を書く装置としての訓読である。

 仮名文字は、それだけでは文を構成しえないという意味において、文の材料(マテリアル)としての価値、文字の物質性、すなわち文字の文字性が半ば以上、奪われているといえる。仮名文字は、アルファベットとかわりない文字であるようにみえて、じつは、半ば以上、文字ではない。文字どおり、仮りの名(字)にすぎない。だから、長文にわたって連続して記した場合には、その非文字性が集積し、読解の障害として露呈するのである。>



 そのような文字性消去装置が、イデオロギーと結びつく、というか、消去(忘却)=隠蔽されることで、利用される。



<私の考えでは、むしろ、それのみでも文を構成できる物質的素材であるという、文字の文字性を仮名から消し去る機制にこそ、宣長の「音声中心主義」は依拠している。つまり、古言の音声がとる身ぶり手ぶりに過大な価値をおく彼の言説は、書くことにおいて訓読がもたらす、あの文字消去の上に成立しているのである。彼にとって音声とは、実際の音声ではなく、たんに、文字による文字の消去、あるいは文字性を消去された文字である。(略)だが、「皇国」のイデオロギーにせよ、「音声中心主義」にせよ、この発想の起源にあるのは、訓読をめぐる不条理な信念である。すなわち、それじたい、書くための装置でありながら、「書く」こと、つまり文語が文字のレヴェルにおいてもつ価値を実質的には消去してしまうという、訓読の作用と効果に対する依頼心が暗黙のうちに前提にもちこまれている。宣長の「皇国」イデオロギーや「音声中心主義」を批判するには、そこから批評し始めなければならない。>(前掲書)



 田中氏が、戦時中の、漢字だらけであった軍人時代の歴史教訓を人々に想起させることを、音声(かな)重視の理論の論理上の説得の一つとしてとりあげるとき、そこには、認識的な錯誤がある。確かに軍人は、難しい二字熟語などを書き並べ、国民を雲に巻いた。「皇国」と書いた、としよう。そして、「みくに!」と叫ぶ。人々は「みくに」がなんなのかわからず、「何か実のある肉のことか」、と思う人もでてくる。「具だくさんな配給でもあるのかな」と不安ながら、集まってくる。勇気をだした人が、「どんな字を書くのですか?」と聞いてみる。「皇帝の皇(こう)に、国(くに)だよ!」とかえってくる。「ああ、こうこく、ですね。」と勇気ある人が言うと、周りの人々も繰り返そうとするのだが、言いずらいので、「国家」が「こくか」ではなく、「こっか」と発声されてしまうように、「こっこく」、さらには、「こっこ万歳!」などと、ニワトリを賞賛するようなことを言ってしまった。その人は「非国民」あつかいされ、ある子供は校長先生から叱られてしまう。……

多和田氏の文学活動では、それ「こっこ」を肯定するが、田中氏は「みくに」なりの日本語として正すのがいい、とするだろう、という点で、軍人(ナショナリズム)に近くなる。が、「みくに」なり「こうこく」なり「こっこ」にせよ、その音声上の差異の発生は、「皇国」という漢字が前提としてあり、それを中国発音ではなく訓読みし、音便変化も、まずは文字が文という長さをもったものを目指す動きにあるかぎりにおいて派生してくるもので、書き言葉の世界に「依頼」しての「こっこ」の成立になるのだ、というのが、山城氏の言うことの例解になろうか。「討議」中の柄谷氏の発言をくわえれば、「言語史の本を読むと、古代の日本語がどう変わったかなんて書いてあるけど、あれは書き言葉であって、まるでそれが話されていたかのように言うのはバカげている」、となる。「令和」を「ぜろなん」と読むのに異化効果が発生するのも、まずは書かれた文字があるからである。はじめから、「ぜろなん」しかなかったら、「依頼」すべき「効果」など派生してこないのだ。だからといって、漢字だらけの文を否定するために、すべて仮名にすれば、単に意味不明に近くなってしまうことは、山城氏が言う通りなのだから、田中氏の漢字批判は、その理論内で錯誤があるのだ、といえる。



漢字を排した他のアジアの諸国では、そもそも「皇国」とは書かないので音声の派生もありえず、それを外来語として一度中国語の発音に近い独自表記でとりいれてしまえば、意図的に変更しないかぎり、違う発音表記が生じることは原理的にありえず(単に間違いになる、「こっこ」の肯定も否定もない)、そのままでいくだろうことは、推論として正しかろう。



しかしだとしても、私たちは、「みくに」や「こうこく」、さらには「こっこ」からも、「皇国」という概念、皇帝にあたるようなものが支配する国、というようなイメージを茫洋としてであれ了解する、教育されるようになる、ということを山城氏の理論は前提としているのだ。つまり、漢字圏という「超越的なシニフィエ」の前提である。私たちが、結局はそこに「依頼」している、甘えておりその甘えをごまかしているというのは、言語レヴェルに限定しての、唯物論的な仮説なのである。

柄谷氏が、「音声中心主義」を、あるいは近代的なナショナルな言説を批判するのは、漢字圏やラテン語圏がはらんでいたような雑居性、たとえば哲学や思想といった堅苦しくも俗な人間の全般的な営みを許容するような文化的な寛容性を、その言説が閉ざしていくからである。しかし言いかえれば、その寛容さは、言語という人間の営みのレヴェルにとどまっているということなのだ。そこを理論の前提として仮説する、ということなのである。



そうした仮説とは違った仮説に依拠する論考として、『批評空間』のその誌上に、前田英樹氏の「『くず花』をめぐる考察」が置かれているのだ。



<ここで語られていることは、万世一系の<皇国=日本>という国学のイデオロギーでは決してない。それどころか、宣長は、『書紀』が出発する「日本」という明確な区分こそ、まず疑われるべきだと言っているのである。さらに「且某年月日と、月日まで記されたるは、まして漢なり」とも言う。注意すべきことだが、「漢(カラ)」は、「異国(アダシクニ)」であるがゆえに排除されるのではぜんぜんなく、音声=文字の結合による区分(シニフィアン)の制度によって、シニフィエの抽象的流通を可能にし、すべてを均一に支配する意味体系を伝播させるがゆえに、拒否されるのだ。「日本」において訓読された漢文は、それが言語的に樹立する区分の制度をとおして、「漢」の「国ノ号」と「某年月日」に「対ムカひたる」抽象的なシニフィエの流通を獲得するにいたった。この制度は、「漢」と「日本」を対置させ、比較する装置として働くかのようだが、まったくそうではない。<ふたつの国>を「対ムカひたる」ものとして区分する音声=漢文は、それらのあいだに実在する質の差異を、ポジティヴで明晰な差異を消し去る装置としてこそ働いている。複数の「国」の区分は、「判明」であることによって曖昧なのであり、これらの区分を等しく貫通する「天地自然の理」という究極のシニフィエの下に、偽の地理化と年代化を引き起こすのである。>



 漢字圏という、音声と文字を結合させる思考を促進させながら規制してくる「究極のシニフィエ」にとどまっていていいのか、と宣長は疑っているというのである。前田氏が示している思考方とは、言語の唯物論的な限定をはずし、さらにその理論を論理的につき進めていく、ということなのだ。



<宣長が見る『古事記』の神典性は、この書物が、たとえば「歌の集(フミ)」などのように音声=文字の制度に依存しつつ、区分なき言葉のさまざまな顕れを示唆する、というだけではなく、これ自身が潜在的な存在それじたいを全的に、一気に示すものだというところにある。あるいは、区分なき言葉の存在を全的に示すことが『古事記』の目的であり、この目的の達成が『古事記』を唯一の神典たらしめる、宣長はそうも主張しえたであろう。そのような言葉の存在が「天地(あめつち)」の潜在的な過去一般を、どのようにして言葉固有の律動へと転換し、捉え込み、順序づけるかは、彼にとって最後の問いであると同時に、ついに『古事記伝』中のあらゆる注釈をとおして霧消させるべき謎でもあった。>(前掲書)



<謎>というよりか、神秘であり、不可能であり、夢想であろう。

だから、前田氏は、宣長は「そうも主張しえたであろう」という仮説だという指示を、露わにせざるをえないのである。科学的に、文献的に検証可能な、唯物論的限定の内にとどまるならば、それもまた仮説を前提としているにもかかわらず、そう断る必要もないという自明的な共通了解のもとに私たちはある。が、前田氏は、その了解のリミッターを外し、さらに理論を論理展開させていったのだ。言葉を使うという人間の営みをこえて、「天地(あめつち)」に生きるより根底的なヒトの営みをも包容しうるよう架設しようと。



 柄谷氏も、前田氏も、「シニフィエ」という言葉を使う。

 これは、ソシュールの言語学からきているというよりは、精神分析のラカンを通した用法だろう。「シニフィエはひとつ」なのだとラカンは言うのだが、この「ひとつ」を、どこに限定するかはわからない、というより、前提たる「科学的ディスクールの効果」に依存するのである。



<もし、わたしたちをしかるべき書かれたものの次元に導いてくれる何かがあるとすれば、それは、シニフィエは耳とは何の関係もなく、読むことだけ、シニフィエとして聞こえるものを読むことだけと関係があるのだと気づくことです。シニフィエ、それは聞こえるもののことではありません。聞こえるもの、それはシニフィアンです。シニフィエ、それはシニフィアンの効果のことなのです。

 そこには、ディスクールの効果、そのものとしてのディスクールの、つまり、それだけで絆として機能するものの、その効果でしかない何かが見分けられます。ものごとをひとつ書かれたものの水準で捉えてみましょう。その書かれたものというのは、それ自体がディスクールの、科学的ディスクールの効果であるもの、すなわちシニフィアンの場所を共示するために作られたSという書かれたものと、シニフィエを場所として共示するsという書かれたものです――この場所という機能はディスクール自体による以外には創られず、各々がその場所に、ということはディスクールのなかでしか機能しません。さて、それら二つのSとsの間に横棒があります、S|s。>(『アンコール』ジャック・ラカン著 藤田博史・片山文保訳 講談社)



 上でいう「効果」のことを、山城氏は「依頼心」と言ったのだとも言える。そして依拠しているもの、そこで前提する「科学的ディスクール」とは、「漢字(ラテン語)」といった検証可能な大文字の文化圏である。しかし、この文化圏を、より「科学」的に、<遺伝子>としたらどうか? 私たちは、すでにそれを、書かれたものとして、読みはじめている。そこには、太古からの声が、「遺伝子のプログラム」が書き込まれている。いや、遺伝子はしゃべらないではないか、私たちは、遺伝子を「聞こえるものを読む」として認めてはいないではないか、と現状での常識として、反駁することもできる。実際、ラカン自身は、上著作で、ジョイスの『フィネガンス・ウェイク』は中国語には翻訳できないと太鼓判を押すのだから、そこまで論理を展開していくことを望んではいないのかもしれない。が、科学技術の進展によっては、遺伝子の声が、聞こえてくる可能性もあると予測することは、空想ではない。最近でも、植物が悲鳴をあげたりしてコミュニケートしていることが、高度な周波解析から知れてきている。当初は理論展開上の仮説でしかなかった量子やブラックホールが検証され、ダークマターという物質の存在もが科学的な射程に入ってき、それゆえ、霊の存在様態などもが、単なるSF小説的空想ではなくなってきている事態になってもいるだろう。どこで線引きし、その向こうを「想定外」として排除するのかが、不安定になってきているというのが、現「科学的ディスクール」の現状ではないか、と言えてくるのである。



 前田氏が、宣長に読み込もうとしている自然と、そこに「潜在」しているとされる「過去一般」という不可思議な「存在」=「言葉」、とりあえず、科学的にはなお検証不可能な神秘世界のもの、であると認めてもいい。ここで確認したいのは、理論というものが、そこでの論理を一貫させていったものであっても、線引きによって、まったくちがった思想の結論を導き出してくるということである。あの『批評空間』誌上でも、相反した線が、ひとつの論理の展開から導きだされてしまうのである。ならば、柄谷氏が示唆しているかのように、音声に偏重した言語学者を「バカ」と呼ぶことは、東京電力的な「想定外」を暗黙しているに等しく、正当ではないだろう。

さらに、同誌上の「ハングルと<女>と」という安宇植氏の論考を加えていえば、なんで日本では仮名が生まれたのに、朝鮮では生まれなかったのか、という問いへの答えは、「科挙」を通して漢字圏に完璧に支配されてしまっていたからだ、というものだろう。だから、たとえハングルが、女性への漢字文化強要のために案出されたとしても、女たちは、それへの抵抗として、ハングルだけの歌を書き始めた、というのである。漢字かな交じりなのは、なお漢字が遠いからにすぎない。田中氏ならば、「濃厚」ではなかったからだ、となろう。漢字が他人事でなく、身に降りかかってくるものであるならば、それを振り払い、自身の言葉を持つ動機も強くなる。しかし、漢字を教養として身につけたインテリ階級は、逆に、保身が強くなり、陸つづきに「密接にからんで暮らしてきた」他の諸族の知識階級では、なおさらであった。そこでは、漢字に呑み込まれて消えるか、それを排して違う文字をもつかということが迫られたのであって、両用併記などという半端はゆるされなかった、ということになろう。私たちが、あくまで文字との他人事な距離をたもっていられるのは、漢字圏との関係が希薄であり、さらに、その関係で生起した日本語というシステムが、文字を無意識に沈ませるのではなく、意図せざる意識として浮上させてしまう装置になってしまったから、となる。文字遊びのように、言葉が主体を超えて、ひとり歩きしていく様を、私たちは、いやでも意識し、見せられてしまう。キラキラネームとは、大衆がそこに魅せられている現象である。言葉と主体との乖離が、中国と日本との海を隔てた地理的な距離なように、私たちの意識を分断し、錯乱させている。



 しかし……たしかに、漢字は海の向こうにあった。しかし、その海が意味するものは、日本を隔てているもの、としてしかないのだろうか? 漢字圏の支配下にあって、私たちはそう観念する。しかし、インターネットで情報が電子記号として飛び交うとき、その「海」という意味するものは、シニフィエを、意味されるものをもまた、変更し、更新し、刷新していかないだろうか? 私のこの日本語の文章が、ネット上のAIによって自動的に翻訳されてしまうとき、それは、日本語なのだろうか? つまり「科学的なディスクール」が、「海」という言葉を拡張しないだろうか? 私が浮かぶ概念の海は、漢字圏なのか、グーグル圏なのか? 電子の、量子の世界には、海などないだろう。いやその海の中を、ケーブルが通り、もし、Google圏とHUAWEI圏との対立が過激になって、それが物理的に切断されてしまえば、電脳空間など、消えてなくなってしまう、のだから、私たちは、漢字圏やラテン語圏といった、「超越的なシニフィエ」の海の中を、泳いでいることに変わりはないのだ……私がこうした思考の拡張によって言いたいのは、線引きが、どこまで「想定」するのかが、揺らいできているのではないか、ということだ。そして理論拡張的には、私たちが、「令和」くんを、「ぜろなん!」と呼ぶとき、それが、そう聞こえてくるものが、人間の言語活動に限定されてくるものであるかどうかも、わからないのではないか、ということである。



多和田氏は、多言語の音声的な編成を空想する。そのとき、その想像力には、唯物論的な批評家の限定活動よりか、もっと夢想的な、よりユートピア的なヴィジョンがないだろうか? それは、そもそも、言語活動によって、実践可能なものなのだろうか?

私たちは、ここでようやく、多和田氏の作品を読解する準備ができた。『献灯使』という原発事故後の、ディストピアから、ユートピアを思考しようとする文学の活動を。いや、ヒトをこえて、ちがうものへと変成していこうとするヴィジョンのあり様を。



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