<正月、群馬に帰省中の散歩から。短歌をやる兄を習って。>
霜おりて土手をいろどる枯れすすき
朝日の花道われひとりゆく
息白く空に散るかや初霜の
枯れ草の土手われひとりゆく
朝日うけ雲に包まる浅間山
姿見せずも立ち現れおり
陽を浴びて光とどまる榛名山
したたる雫の赫くように
赤城山朝日に射抜かれ座りおり
腹あかくして空の屏風に
地にふして刃をかくすか妙義山
空を切り裂きいざ躍り出るために
空と地のあいだに広がる山々よ
坂東太郎をやさしくつつむ
嵐すぎなぎたおされた川べりの
木々を知らぬか玉石と水
青空の下嵐のあとの土手の上
ひとりたたずむ朝の気が過ぐ
※ だいぶしばらく、熊や洪水におそわれる夢を見なくなっていたが、去年の暮れぐらいか、また、あふれるように流れる川がでてきた。身内や過去の友人がいるなか、人助けのために、実際は泳げない私が、飛び込んで水をかいていったりする。そんな葛藤が、短歌にも出てくるものなのか、とおもう。水に呑み込まれたとき、狂うのだろう。
※ 「まだ上州の山はみえずや」とうたった朔太郎。その「帰郷」という詩の一節は、群馬県に帰省する人々だけでなく、山のおおい日本では、だいぶ多くの人が抱きうる感慨かもしれない。
浅間山と妙義山 |
榛名山 |
赤城山 |
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