2020年2月10日月曜日

岡崎乾二郎<視覚のカイソウ>(豊田市美術館)――多和田葉子をめぐる(2)―※付記




 造形作家と称する岡崎氏の展示会タイトルには、「カイソウ」と、カタカナで表記されている。「視覚」という漢字と、「の」という仮名文字によって対置されるこの「カイソウ」が、どんな意味を、つまりどんな漢字が当てはまるのかは、一見的には理解しがたい。「脳」という漢字に対置されてあるのならば、思い出す行為としての「回想」が一番に連想されるだろうが、見る感覚という意味と並べられると、ためらわれてしまう。私自身が、一番に連想したのは、「海藻」、つまり、ワカメやコンブだった。眼の発生が、光の受容に伴うものであるならば、その萌芽が、光合成という植物の運動・代謝によるともいえるし、科学実証的にもそうなっているようなので、葉緑素を生物的に形象化したようなコンブやワカメの、燦然と輝く海中での揺らぎは、最近の岡崎氏のきらきら絵画とでもよびたくなるような動向と、辻褄があうような気がしたのである。いや、それともその文脈の流れで、「改装」か、ともおもいはじめたりする。昆虫の変態のように、視覚器官も、様々に改装されてその形を変えてきたからである。

 NHKの日曜美術館で、その展示会の特集が放映されていたのでみた。そこでは、岡崎氏自身の口から、自分の作品を「回想」していく意図が説明されていた。しかしならば、なんで漢字で、「視覚の回想」と明確に書かないのだろうと、私は訝しがった。もともと漢字系というより、ひらがな趣味みたいなところが感じられるとしても、もっと構想的な意図があるような気がした。それを確かめるために、二月の連休をつかい、昨日、女房と車で出向いてみた。

 美術館の駐車場に車をとめて、入り口の坂をのぼっていくと、展示会の大きな幕がさがっているのが目に入ってくる。ふと、英語で副題が添えられているのに気付いた。「Retrospective Strata」とある。「Strata」の意味がわからない。それをスマホで調べてみたのは今である。「Stratum」の複数形で、「地層、層、階級」の意味があるという。大学院以上の単語水準だとも。しかし、それで、ガッテンした。「視覚」と「カイソウ」の間に入る「の」の意味もわかってきた。それは、「耳」の形を挿入させていたのだ。

   ***

 展示を見終わって美術館のレストランで遅い昼食でもとろうとしていると、これから岡崎氏の講演がおこなわれるとアナウンスがはいる。いったん注文をキャンセルし、聞きに行ったのだが、その内容は、この「多和田葉子をめぐる」で提示されてきた問題群の延長であった。というか、そもそも、その(2)でとりあげた『批評空間』1993,No.11の「音声と文字/日本のグラマトロジー」をめぐる議論には後段があって、岡崎氏はそこ、共同討議「「日本精神分析」再論」(『批評空間』2002Ⅲ―3)で討議者として参加・発言しているのだ。山城むつみ氏も討議相手なのだが、山城氏はそこでは、自分の「論理」が違うというのではなく、甘い、と私が(2)で指摘したような反省を口にし、岡崎氏の実践的な洞察の方に賛同し、柄谷氏本人も、理論的にどうというより、地政学的に日本は島国だからそうなったという方が大きい、そういう文脈に重きをおかなくてはならない時代になったから、実践につながるような議論を作っていかないとしょうがない、となっているのである。もちろんここには、NAMという社会運動を目指しているという背景がある。ともかく、そういう成り行きの討議を受けて、磯崎新氏から、岡崎氏はヴェネツィア・ビエンナーレ第八回建築展<漢字文化圏における建築言語の生成>をテーマとしたディレクターに指名されたようなのである。そして岡崎氏は、『批評空間』誌とは別にも、そのビエンナーレに関わるエセー等をおさめた「漢字と建築」と題する特集を、磯崎氏とともに『10+1別冊』(INAX出版)をだしている。

 豊田市美術館での講演というか、展示企画したキュレーターの女史二名との討議は、いわばそうした議論文脈の延長としてあったもの、と言える。いや正確には、柄谷氏や磯崎氏との議論を読むに感じられるのは、岡崎氏はそれでも何か口ごもっている、言うことを抑圧している、という印象を受けるのだが、今回のでは、女性相手に気楽にもらすところができた、ということではないか、ゆえに、そのかつての議論が拡張されて聞こえて、私には興味深かったのである。端的には、岡崎氏は、私が多和田論(2)で指摘した、本居宣長(音声と文字)をベルクソン方向で読解していった前田英樹氏の神秘主義的な方へとリミッターを外したのだ。それは、大文字としての思想や建築を代表していたような、漢字系的な柄谷・磯崎両氏から、解放されたような趣向なのだろうか。

 まず岡崎氏が、視聴者に配布したプリントは、イケメン・プロレタリア作家として紹介する小熊秀雄の「しゃべり捲くれ」という詩だった。「論理」とは別の経路としての説得力としての、女性のおしゃべりなどをもちあげる「階級」詩である。つまりここに、まずひとつ目の「stratum」がある。鳥のさえずりと人間の言語は同じだし、野原の植物でも神経網的にコミュニケートして集団しているのかもしれない、とも発言したのだが、私も多和田論(2)で、その植物言語の周波解析の新聞記事に言及していたので、びっくりする。人がしゃべるにしても、行為遂行的な言語や身ぶりだけでなく、もっといろいろな、わからないものが背後にあって反応している、と。

 またプロレタリア作家の小熊は、下町の労働者階級が暮らす池袋とも縁があるのだが、自分の父も文芸座の建築設計などをおこなっていて、自分も最近、池袋の劇場都市としての開発の一役を任されて、そこを「ミルチス・マヂョル」と名づけたが、それは小熊原作の火星探検と宇宙人との交流を描いた漫画タイトルからきている。ところで、火星には水があるということがはっきりしたのだから、そのうち生物が発生するか、すでにいるということがはっきりしたということだが、そのことを最初に説いたアメリカ人の学者がいて、日本に何度もやってきている彼は、能登半島の形をみて、ここに何かある、と直感した。それは、火星を望遠鏡でのぞいて見えた縞模様が運河に似ているので、火星人がいるのでは、と考えた思考方と重なる。と、マックのPCから採ったネット画像を見せながら、話をすすめていくのだった。

 で、能登半島の形と、ショーヴェ洞窟のある地形は似ている。そこでは、ネアンデルタール人とクロマニヨン人の絵が並んでいる。しかも、数万年単位を隔てて、断絶を超えて、書き継がれている。言語を超えて、コミュニケートしている。もともとそこは、熊がすんでいたらしく、その骨が整然と並べられていたり、熊のひっかき傷の跡に、熊の絵が描かれたりしている。人や動物とのあいだでも、年代がちがっても、交流している、と。つまり、ここにも層が、「stratum」がある。

 岡崎氏本人が出向いたところとして、メキシコ(?)のなんとかいう洞窟のある地形も似ているのだが、それは、それらは、耳の形をしている。……

 私は、この辺りの話を聞いていて、前夜にみたNHK番組、ブラタモリでの四万十川の特集を思い起こした。四万十川も、耳の形を作りながら蛇行していたからである。そこは、平常ならば、平らな層として蓄積されていくだけの地層が、プレートとプレートのぶつかり合いのために、「メランジュ」と化し、年代と層が破壊され混成されて現在へと生起している。当初は、海へと直近して注いでいた川は、せり上がってきた峻嶮な山のために、大きく内陸へと蛇行させられた。そうした地殻変動のさい、平仮名の「の」のように、あるいは「耳」の形のように、くるっと回る部分もできるのだが、まっすぐ流れようとする川は、柔らかい泥岩に当たった場合はそこをえぐり取り、円形部分を切り離してしまう。しかもそこが今度は隆起などしたため、川との間に崖をもった陸地となり、かつて川床であったそこは、いまは田んぼになって人が暮らし町になっている……。

 その連想が、展示会にあった、岡崎氏の、セラミックの彫刻の解説とつながった。その解説プレートには、創作の速さも異にしたいくつもの塊が、どう重なり合ってつながっているのかもわからない構造でもって組み合わされているのは、まるで地殻変動を起こした地層のようだ、みたいなことが書かれていた。つまり、ここには文字通りな、「stratum」がある。

 しかしならば、と私は講演を聞きながら、考えていた。ヴェネツィア・ビエンナーレに提出した、三角形の構造体は、建築の原理性を端的に造形した、モダニズムのインスタレーションとして提示されていたのではなかったろうか。私があの、地面と一点(一線)で交わるだけで建っている建物をみておもうのは、耐震強度はどれくらいなのだろうか、というものだった。たしかに、柱のように点ではなく、その点の線として、しかも一家屋に2線が引かれるようにそこが地面と接しているわけだから、そうは倒れない。が、活断層の真上の原発でさえ非難されるのが常識になっているのだから、あのモダニズム建築も、地殻変動にはもともこうもない、と考えるべきだろう。となると、原理的に、モダニズム的に考えた、という思考方は、どういう論理で落とし前をつけようとするのだろう? それと、岡崎氏のセラミック彫刻との論理とは、どう関係づけられているのだろう?

 岡崎氏のスライドはつづいた。なんとか聖堂にある壁画の、天使ガブリエルは、神の声を隣にいるマリアに聞かせているんだけど、この神の声を耳そばだてて聞いているガブリエルの形自体が、耳なんだよ。マリアには、神の声はきこえない。ガブリエルを通して聞くのだけど、なに言ってるんだという表情をしている。
 漢字というのは、この四ツ目をもった蒼頡という人が創出したといわれている。馬という漢字があって、足が四ついている。で、あるとき普通の人に、魚と牛という文字をみせて、どっちが牛かあてさせたら、「魚」のほうに足が四つついているから、こっちが牛で、牛の字の方は横にすると魚に似ているから、こっちが魚じゃないか、と言われたから、蒼頡は自分が間違ってた、と認めたというんだね。つまり、漢字が創出されているときはいいのだけど、それを人がコード化しようとすると、おかしくなる。いまの、ビッグ・データを使ったAIも創出過程だからいいとしても、それを人の頭でコード化しようとすると、おかしくなるだろう。
 タルコフスキーの映画『鏡』は、どもりの青年が、「俺は話せる」といって、その通りになる。この映画は、時間に関係なく想起を並べた詩的な映画と言われているがそうでない。必ず神秘的な現象が起きるとき、背景に父親の詩の朗読が流れる。父の魂が、時空を超えて、統制している。最後に子供が叫ぶ声は、しゃべれるようになった青年のどもりと対応している。綿密に、時間は作られている。プルーストの「失われた時をもとめて」も、たんに回想していくのではなくて、いろいろな時間(層)が、現在の中に流れ込んできているという話だ。だけど、小説では、それを表現できない。映画でもできない。だけど、絵画は、同列にそれを描けばいいから、できる。

 これは、ローマ時代の、ネロが母親のために作った神殿の地下に残った壁画で、ここには、ルネサンスの絵画でもできなかったことがなされている。それは、風が描かれている、ということだ。葉が裏返り、鳥があおられているのは、そのためだ。この地下室に、風が吹いている、吹かせている、そういうと、そんなことはない実証してみろとかいわれるんだけど、たぶん、見る人は、そう感じるとおもうんだよね。風が吹いてる、と。なんでネロがそうしたかは、フロイトの理論を使えば分析できるんだけど……

   ***

 そんな話を聞き終えて、私と女房は、レストランへともどった。朝6時半に東京を出てからの、夕刻4時半近くの昼食だ。カレーライスとデザートのセットを頼んでいると、岡崎氏とキュレーターの女性たちがやってきて、私たちの前のテーブルに座った。愛知トリエンナーレでの、いわくの事件をめぐっての話などをしている。食べ終えて会計に席をたつとき、話し中の岡崎氏に声をかけてみた。
「お久しぶりです。」と言うと、こちらに顔をみあげた岡崎氏は、「あっ、覚えてる!」と声をあげる。「スガワラさんだ!」そして前に座った女性たちに、「この人はね、難しい小説を書く植木屋さんなんだよ。」と紹介してくれる。まだ小説を書いているのか、植木屋をつづけているのか、とか少しのあいだ会話したあとで、「どうもありがとう」と気おくれしたように、また話を打ち切るように言うのを受けて、「普段どんな話をしているのかな、(と、隣のテーブルを指さして)、そこで、盗み聞きしてましたからね。」
 女性たちが笑った。

<回想の回想……この絵でマティスが試みたことを、こんなセンチメンタルな言いかたで言うこともできる。異なる時を回想の現在性によって統一する。マティスの絵画が実現した平面性とは、空間というよりもむしろ異なる時間、特定の時間に属す出来事の再現から絵画を解放し、≪いま、ここ≫を絵画で見ている――想起しているという現在にあらゆる出来事を統合することだった……。>(「助動詞的空間」『ルネサンス経験の条件』 筑摩書房)

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