2023年12月17日日曜日

北野武『首』を観る


 この映画『』をみるまえは、侍のリアルを提示してみせることで、戦後の平和ボケ的な日本を批判するような意図をもって制作されているのではないかと思っていた。世界は、現実は残酷であり、民主主義を借り衣裳とした平和主義で、太刀打ちできるものではないと。

あるいは、映画の予告編で、信長の草履とりかと思われるシーンがみえ、その秀吉演じる北野武の演技から、出世美談と子供のための伝記ものでは語られる世間のそれを、逆転してみせているところに批判の観点が集約されてくるのだろうと。一生懸命頑張れば報われるとか、真心をもって打ち込めば心が通じる、とか、そんな人のよい話は現実にはないよと。それどころか、秀吉自身が実は、殿様の草履を懐に温めるという行為が世間では良いように受け取られると知っており、だからしょうがなく俺はやってるんだよ、と思わせぶりな仕草で草履を体で受け止め、おそらくは信長自身も、その人を喰ったような部下だからこそ使える、悪人こそ使える、と判断するような演出がつづくのだろうなと、私は予測していたのだ。そしてそんな演出を、戦争最中のヨーロッパの映画祭でみせることによって、日本人も騙し合いの世界のことなど百も承知しているよ、日本人をなめるなよ、と言ってみせたいのだろうと。

 

が、推論は、はずれた。映画では、家康を懐柔するために家康の草履を懐で温めるのであり、しかもそれは、弟の秀長との掛け合い漫才のように進行するのだった。

 

この映画は、実は、侍批判の映画であり、反戦の映画なのだ。世界のリアルを提示することによる平和ボケ批判ではなく、そのリアルの実態がどんなものであるかを暴露することによって、男たちが鎬を削るあり様を笑い飛ばそうとしているのである。

 

最後、秀吉は、信長に謀反をおこした明智光秀の首実検で、なかなか光秀の顔(首)がみつからないのに苛立ち、「俺は光秀が本当に死んだことがわかればいんだよ、首なんかどうでもいいんだよ!」と、破損して誰の顔ともわからなくなってしまった光秀の首を、サッカーボールのように蹴飛ばしてみせることで、締めくくられた。この最後のシーンは、秀吉が合理精神を持っているということを言っているのではない。侍たちの誰も、目的などもっておらず、享楽のために競っていることが露呈されてきたのだから。

 

タイトルの『首』とは、だから二重の意味になっていて、一つは殿(王、男)という象徴的な意味、そしてもう一つが、その世間上の象徴体系自体をコケにするためにこそ祭り上げられているものとして、ということになる。

 

では、どんな体系だと把握されているのか? つまり、暴露すべき、リアルとされる世界の実態とは、どのようなものとして演出されているのか?

 

この映画と同時に、『ナポレオン』が上映されているのは、面白い。見ていないが、比較してみよう。

映画『ナポレオン』をとった監督は、世間ではナポレオンは天才と受け止められているが、自分はこの男が普通の人物であって、だからなんとかという女性に溺れていったのだ、そこを描きたかった、と発言していた。一方、北野武の映画では、女はでてこず、まったく相手にされていない。これは、北野が、ミソジニー(女性嫌悪)を発揮しているからか?

 

そうではない。まったく逆なのである。

 

ナポレオンに「世界史の精神」をみた同時代の哲学者ヘーゲルは、主人と奴隷、暗黙には男と女の弁証法的な関係、その間に発生する矛盾や葛藤を乗り越えて進むことに、歴史の進歩をみた。女を謎として、真理として見立て、その獲得を目指して男同士で戦うあり様に、歴史と文明の原動力をみたのである。

 

が、北野のみせる、天下取りをめぐる戦国時代には、姫はいない。

 

黒澤明の『羅生門』や『七人の侍』を思い起こしてみればいい。女は謎であり、その真実をめぐり、男たちは煙に巻かれながら争い合う。侍を翻弄するのは、結局は甲高い声で歌いながら田植えをする百姓の、神秘的な笑みを浮かべる女たちではないか。

 

北野は、そういうふうに世界を理解することは、嘘だ、と言っているのである。

 

夏目漱石の、『こころ』を思い起こしてみよう。友と下宿先の娘さんをめぐって争い、その女を獲得した先生は、その勝利にもかかわらず、「明治の精神」を慕って自殺する。この話は、恋愛(男女関係)を焦点に理解されてしまう。が、よくみれば、先生は、女のことなどほっておいて、男を傷つけてしまったことに悩み、死んでいくのである。つまりは、男女関係の背後で、より本源的なものとして、男同士の絆のようなものがあるのだ。「明治の精神」とは、乃木大将や西郷隆盛が体現したような価値、それはむしろ戦国時代の気風が漂う「江戸(侍)の精神」である。それが、近代化とともに希薄になっていってしまった、つまり、文化的なホモソーシャル(男社会……西郷は男の恋人をおって心中した経歴もある)がなくなってしまった、という時代的な認識と個人的な悲嘆が重なり合うところに、先生の自殺が位置するのである。

 

が、なくなっていないよ、と北野武は認識するのだ。いや暴いてみせるのである。

 

外国人記者との記者会見で、外人記者から、ジャニーズ問題に関してどう思うか、と北野は質問されている。スマホ動画でその様子をみると、北野の返答は曖昧である。なぜなら、この同性愛問題は、民主主義的な政治的善悪では裁ききれないからだ。私たちは歴史的になお、あるいは人間生物的な本源性において、この男たちの絆関係から逃れられない。

 

マスメディアでは、ジャニーからの被害男性の告発ばかりの報道に偏重している。が、たしか6チャンの報道特集であったか、その取材で、ジャニーも参加している合宿で、その夜の相手に指名されてしまった少年は、友達からベルトを借りて、下半身をぐるぐる巻きにして出向いていって、ベッドに横たわり、無事生還したことを笑い飛ばして吹聴していた者もいたことを報道している。被害にあわなかったものは、ジャニーさんのために、という思いで歌い、むしろだからこそ、人を感動させる芸が大衆の前で披露できたのだ。これはスポーツ界などで、たとえば長嶋茂雄監督のために戦うんだというプロ選手が出てくるのと同じだ。高度な情念的な関係があってこそ、芸能が発揮でき、観衆の方も、その一流となった芸でないと、満足しなくなるのである。(この情念関係は、男同士とはかぎらないだろうが、差別ということ、つまりは主従関係が背後にあることにはかわらない。が、より根源的なのは男同士だということだ。――この点で象徴的な映画シーンは、信長の首を切るのが、黒人奴隷だったということである。そのセックスの相手でもある付き人の黒人は、「この黄色い人種めなんとか!」と差別言動をわめいて切り落としたのだ。)

 

なんで一流でないと満足しなくなるのか? とりあえず、「定住革命」の西田正規にならって、人の脳みそが肥大してあるから、そこをフル的に活性化していないと身体的にエントロピーが増大してきて退廃してしまうから、としておこう。食うだけでは、ヒトは、生きていけないのだ。

 

やわな芸で、人は、満足しない。ならば、民主主義的な正義がその差別を是正していった暁には、ヒトは、どうなるのか? エントロピーが増大し、日々の退屈に退廃的になって、もちこたえられなくなる、ということだ。北野は、いわゆる日本の芸能も、そうしたところから発生してきているとおさえている。だから、外人記者の質問に、曖昧な返答しかできないのである。

 

世界は、女を相手にしているようでいて、実は、相手にしていない。真理は、女にあるのではなく、そうみせかけて人々をだまくらかし、本源的な男どうしの原動力を隠したところで駆動させている、それが実態なのだ、と北野は暴いてみせたのだ。殿様はハーレムがほしいのではない、殿様になれば、それは簡単に手に入るのだから、力(芸)にならない。女にもてたいのではない。力に必要なのは、男からの、鎬を削るライバルからの評価であり、承認なのだ。

 

この認識は、ヘーゲルの哲学をふまえて「歴史の終わり」を説いたフランシス・フクヤマも洞察していた。戦争(歴史)はなくなった(終わった)のではない、それがサッカーのワールドカップに潜伏しただけだ、とその書で説いていたのが実状である。だから、本当の戦争が始まってしまえば、男たちは、その命を賭けた本気度の高い大会に参戦するのだ。観衆も、そのあり様をみることで、脳内の退廃をリフレッシュする。メディアはそれを促進する。北野は、この現今にあからさまになってきた歴史を、世界史を嘲笑する。馬鹿げていると。そして、侍の首を、サッカーボールのように、蹴飛ばしてみせたのである。

 

哲学のノーベル賞をとった柄谷行人は、『交換様式』で、交換A(氏族社会での交換、つまりは侍の贈与精神、心臓を捧げた関係ということだ)の高次元の回復としての交換Dなるものを提唱した。その物言いにならうなら、北野武は、交換Aをより低次元なものとして披露し、その関係を爆裂させようとしている。が、その先には、何があるのだろうか? 北野演じる秀吉は、毛利家の殿様の船上の切腹の儀式を愚弄する。三島由紀夫のような演出を、笑い飛ばす。光秀の首を取ったのは、刀ではなく、竹やりや鍬をもった農民だった。が、黒澤明のように、農民が実際は歴史を支配しているね、かなわないね、というわけではない。そうではなく、あくまで、この世界を動かしているのは、侍身分的な男たちなのだ。その変わらない現実は冷徹にみていなくてはならない、と言っているようだ。ならば、笑い飛ばすことしか、現状に皮肉な態度で距離を置くことしかできないのだろうか? 他に、そこを抜け出す道がないのだろうか? 芸術に、文化にふれないと、私たちは、生きていけないのだろうか?

 

北野の映画には、そうした突っ込んだ問いは、ないだろう。

 

しかし、この映画が、男たちの実態を暴くことで、現今の戦争のあり様を批判した反戦映画になっていることを、もっと注視したほうがいいだろう。幕がおりる直前の、映画関係者の名前等を流していくテロップの最後に、「撮影に際し動物には危害はくわえてません」という一文がまぎれている。このさっと通りすぎる演出に、北野の、衒いのないような平和主義が主張されているのだ。

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