2019年4月26日金曜日

『名もなき王国』(倉数茂著・ポプラ社)を読む


新聞を読んでいて、倉数さんの作品が三島賞の候補作にあがっていることを知り、その著作のタイトル『名もなき王国』(ポプラ社)から、私は、「令和」という元号を連想し、読んでみたくなった。名もなき王=苗字のない天皇の大和国、すなわち、ゼロの、零和、というわけだ。そして本当に、倉数氏の作品が、元号(天皇制)に迎合するしかない今の時代に抗って書き込まれているものならば、すごいな、と期待したからだ。そして期待通りだった、と言える。むろん、倉数さんが作品を発表したのは元号公表以前でもあるから、著者の意図とは違ったところを、私は読んだのだろう。

実際、目次を読み、読み始めて、すぐに私が訝ったのは、前々回ブログでも論じた、中谷さんの『未来のコミューン』との構造的符号であった。家からはじまり庭でおわる、という。私が両者の著作を手に取ったのは、まだお互いが30歳代ころの、知り合いだからでもあるが、この符号は、どんな偶然によるのだろうか、と思ったのだ。建築専門と、文学専門と、庭専門の符号、と書かれた内容を超えたリアルな人物同士の符号にもなるだろう。それが単なるフィクションの世界での話なら、「近接の原理」という、文芸創作科でテクニカルにマニュアル化されて教えられもするだろう小説の技法の話にすぎなくなる。東海大で創作を教えているそうな倉数さんのこの作品は、その技法の熟練した腕前の産物だ。私は早稲田の文芸科で、最近パワ・セクハラで辞任した渡部直己からよく聞かされていたものだ(私が一番弟子にあたるのだろう)。しかしそれが現実に本当に読みうるという事態は、倉数さんのこの物語のテーマ(素材)の一つでもある、現実(私)と虚構(言葉)をめぐるそんな小説談義や技術と同類なことなのだろうか? おそらく、私が出版業でもなく、研究者でもなく、現場で働いていくことを選んできたのには、議論するまでもない本能で、現実に生きることを選んでしまうからだ、と今思えるのである。

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この著作の、漢字へのルビの振り方、そのあるやなしの法則性、小さなひらがなの出現の様は、どこか身体を変調させてしまうような違和が感じられる、というのが、まずもっての文学(形式)的な読解の感想だった。なんでこんな簡単な漢字にルビが振ってあるのだ? 人の名前には、必ずつけているようだ。毛沢東はいいとしても、高橋、にまで。ほかにどんな読み方があるのだ? ポプラ社が、子供向けの作品がメインで、倉数さんのデヴュー作品が、識字率のまだない少年向けだから、そうした読者を想定しているからか? しかし、「抽斗」、という漢字にはない(普通は、「引き出し」だろう)。また、「納戸」、にもない。そして、植木屋の私にも読めない「夏茱萸(なつぐみ)」という庭木が最後に出てくる。

文学教養が豊かであるのなら、様々な引用・下敷き作品が連想されてくるのだろうが、読み進めてすぐに私が連想した作家は、三島由紀夫だった。私も作中の「私」同様、中学から高校はじめぐらいに、好きで読んだことあって以来、ほぼまったく読まなくなってしまった類いの作家だ。学生のころ、教養として、『豊饒の海』とかは読んだろう。子供(少年)の扱い、同性愛者の男の性質、「伯母」という漢字をとりまく貴族風な雰囲気、つまりはロマネスクな趣味の装いが三島作品をなぞっている。が私が当時好んだのは、三島の漢字の扱い方というか、得体の知れない漢字のリズムと豊穣さだった。そして、倉数氏のルビの振り方は、この三島の文学、ひいては現実(私)と虚構(肉体)をとりまく三島的な思想へのアンチとして意図されているように、私には思えてきたのである。むろん、その三島的思想には、虚弱としての自分をボディブルで鍛え上げた肉体の人工的虚構性、という態度のことだけでなく、天皇という現人神という虚構性を堅持している日本という問題規制もが孕まれる。NAM解散いこう、倉数氏が実際にどんな人生を経験していったのかは私は知らないが、私小説風ともとれるこの『名もなき王国』は、暗い。つまり、氏が描写した「令和=零話」は暗いのだ。これで三島賞とれるのだろうか、と心配になるぐらいだ。しかしそれは、本当の話ではないか? 何を元号で浮かれ騒いでいる? そんな現実を、足場を、われわれは持っているのか?

50歳を過ぎた私にとって、いま、一番評価したくなる日本作家は、三島由紀夫である。なぜなら、腹を切って死んだからだ。千葉徳爾という民俗学者は、三島の切った腹がちょこっとだけだった、敗戦で切腹した看護婦や快楽マニアでももっとたくさん切れてる、と実質批判したが、もはやなんのモチベーションもない平和な時代に、自分を突き放した罵声のあとで、なおも計画通り、腹を切ろうとした。そのちょっとしかなかった傷跡こそが、むしろ三島という私、凡庸な人間、いや人間という凡庸を証している。普通の人が、腹を切ったのだ。虚構の肉体は、切り裂かれはしなかった。だから、リアルなのだ。私たちは、このリアルを、笑えるか? シニックに、なれるか?

<津波のような解放感と喪失感が押し寄せてきた。私はもう何者でもない。空っぽ、無、rien、ゼロ。家族も蓄えも大切な人間もいない。>

『名もなき王国』の「私」は言う。この主題は、三島から中上健次へ、そしてペダンティックには村上春樹などにも継承されている日本文学の問題である。もはやその「ゼロ」を、渡来人が世界先端と哲学的にもてはやしもしなければ、日本文学自体でもまともには主題化できない。それは作品のテーマでなく素材として次元を落としてエピソード的に挿入されるだけだ。この作品も、そうした照れによって、現在の言葉の付置に迎合し、リアリティーを、場違いのなさを担保している。それは、以前のように、まともに天皇制(批判)ができなくなっている現状とパラレルであろう。あくまで現人神を望んだ三島が、退位を表明した天皇の凡庸さ、人間らしさにふれたら、どう思うのだろう? しかしそれは、三島が自身の肉体を切り裂くことができなかったのと同じである。疲れる、痛い、そういうことだ。ならばそこに、「ゼロ」などあるのか?

<チカではなく、私が死ぬ。空っぽの自分に、無をかけあわせる。それはごく自然な算法であるように思えた。ゼロ×ゼロ=ゼロ。小学生だって納得する式である。>

3.11以降の天災は、人に、日本人に、日常の平凡さの大切さを教えた、ということになっている。今の思想言説、風潮も、そういうことだ。戦争のない平和(平成)のころは、「日常を生きろ」とか、逆に、若者は戦争を望んでいる、という談義が起きては消えた。しかし9.11が先行的に、今は議論する余裕もなく、何も起こらないでくれ、と願望だけをはびこらせているようにみえる。ということは、「家族も蓄えも大切な人間もいない」、というか破壊・喪失してきたのがこれまでの軌跡だった、と無意識には目の当たりに気づいてしまった、ということだ。私たちは、本当は、「ゼロ」(文無し)なんではないか、とおびえている。倉数氏のこの作品の暗さは、一見の浮かれ騒ぎの過程・時代の背後を、正直に露呈させてしまった、ということだろう。どんな選考員が三島賞にいるのか知らないが、私が心配になったのは、それゆえ、希望のなさを提示してしまっていると受け止められかねないと憂慮したからだ。しかし、再び問う、ゼロなんてあるのか? それは、たんに、構造的な問題なのではないか? その虚構に囚われているから、ゼロ×ゼロ=ゼロ、と想定し、おびえるのではないか? そのおびえを、新元号で、新しい記号でごまかそうと、まだ(戦争と天災のあとの本音では、「もう」だが)何も起こらないでくれ、とその構造を延命しようとしている、ということではないのか?

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ゼロなんてあるのか? 零話なんてあるのか、というのは私の実感である。もうイチ、一、がある。私たちは破壊し、喪失した。しかし、そうして廃墟になったとしても、その瓦礫が、あるのだ。それが、一、だ。

たとえば、昨日、弟から、こんなメールが届いた。兄が、母を殴った。殺される、と母が言っている、と。私は、兄が、納戸と化した母の寝室へのプロジェクトについて書いた前回ブログなどを読んでいることを知っている。この「知っている」とは、最後の小林秀雄がベルグゾンや本居宣長等を使って伝えようとした、「感じる」と同じ意味でだ、という教示に近い。推論でも、認識でもない。心が、痛いのだ。私は、テレビのリモコンを投げつけられてタンコブを作った母がひとり、誰もいない居間でうずくまっている様子も感じている。兄は、私のブログを読んで、実行に移した。私の物語が、そそのかしてしまい、そそのかされた兄の行為を、感じている。そしてこうブログに書いている私を、雨で仕事が休みで書いている私を、先月から実質仕事もなくほぼ家で読み書きしている私を、女房がどう感じているかも、こちらはなお推論に近い形で、身近に感じている。女房も倉数さんのことを見知っており、私がいま彼の作品を読み終え書き始めたのだろうと知っている。この知と感じに、ゼロが入り込む余地がない。私の現実認識が虚構となり、その虚構が現実となって私の心を痛めてくる。この循環構造とも見えるものは、構造なのか? からくりは感じられても、ゼロという空虚さがない。そんな実感こそが虚構である、という哲学・文学談義じたいが空々しくなる、という生きる方向性以外、私は本能的に、とれないのだろう。その現場作業からみれば、庭から納戸への道筋を作ろうとしている植木屋からみれば、廃墟はゼロではなく、一であり、更地でさえ、疲れと痛みのような一歩を感じることができる。もちろんたぶん、この現場感覚=本能を反復するのは、意識的には、今の私には無理であろう。「この夢が覚めるまで、少しだけ眠ろう。そう思って、瞼を閉じた。」――『名もなき王国』という虚構はこう締めくくられる。「私」には、意識的には無理だからだ。三島のように、虚構=夢をまっとうさせようとする決意=意識は、凡人にはできはしない。しかし三島のように、その決然たる実行が、凡庸さを反復させるのだ。やったが、むりだった、象徴になろうとしたけど疲れた、腹切ったけど、痛かった。首を落としたのは私ではない。退位させるのは、天皇ではない。私を夢から、虚構の制度から目覚めさせるのは、他人なのか? そのからくり自体に、三島は抗わなかった。気づいていても、信じようとしたのか、自らそこに身を投げた。倉数氏は、それを、虚構のからくりを、いやがる。「少しだけ」、だ。「少しだけ眠」るのだ。勇ましく夢から覚めるためでも、ずるずると夢を見続けるためでもなく、それが夢=装置であることを確認するためなように、である。それが小説というジャンルの中でなら、文学という制度を確認するために、となる。だから、凡人が二度寝したがるような逆説的なこのささやかなる処方は、漢字かな交じり文に、さらなる小さなひらがなを付け足す、平易な漢字に振り仮名をつける、という控えめな過剰さと重なる。三島は、ルビなどつけようとしなかっただろう。しかし倉数氏は、ロマネスクな統一性を、虚構の現実性が乱されることも厭わずに、「少しだけ」、付け足していくのだ。
ならば氏の作品は、暗く終わっているのではない。この<令和>という虚構装置の向こうに、「少しだけ」、誰でもできる、何かしらの真っ当な対応が残っていることを暗示しているのだ。ゼロではない、一があるのだ、と。

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