2014年9月25日木曜日

三つの著作から―――<山城むつみ『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社)、柄谷行人『帝国の構造』(青土社)、すが秀実『天皇制の隠語』(航思社)>

最近ようやく、注目する批評家の三著作を読み終えた。山城むつみ氏の『小林秀雄とその戦争の時』(新潮社)、柄谷行人氏の『帝国の構造』(青土社)、すが秀美氏の『天皇制の隠語』(航思社)である。三者三様ともいえるが、前二者の在り方をすが氏が批判的に相対化して時代言説の布置に位置付ける、という構図にもみえる。しかしそれらの関係を私なりの言葉で整理するのにはなにか困難を覚えている。今日は、雨ということで(降っていないのだが…)仕事も休みなので、時間があり、試みてみよう。ただそのまえに、この読書前に友人にあてたメールを引用することで、自分の問題意識がどこにあるのか、忘れないようにしておこう。読書世界のパズルに巻き込まれると、なんで読書などするのか、という動機自体を見失って、いわば象牙の塔にこもってしまう、バーチャルな世界と現実とを混同してしまうことになりかねないので。

――メール引用――

<ちょうどいま、山城氏の近著『小林秀雄とその戦争の時  「ドストエフスキーの文学」の空白』を読み終えて、これから柄谷氏の『帝国の構造』を読もうかな、というところです。
山城氏の叙述や視点は、やはり私には身につまされます。が、時事的に、柄谷氏の『帝国』と同時に読みたく、あるいは書評することで、現在の頭の混乱を整理したくなりました。

なんといっても、「イスラム国」と名乗る現実がでてき、その言葉がマスメディアにもでてくると、そういう構造認識は20年以上もまえからあったとはいえ、自分が何時代に居始めたのか、混乱してきます。そしてその地では、この地で異常といえる残虐さが日常になっていることを、メディアを通して知る 、そのことの媒介的、まだ距離のある混乱と、山城氏のいう、その地での異常がこの地での日常と同列的だとする緻密な論証の助けをかりて、この地もが、その地のような異常が日常となってくるまえに、つまり本当の混乱が、直の思考不能(空白)がくるまえに、考えておきたい、混乱を整理しておきたい……お昼のワイドショーでは、団地で少年たちのたまり場になっていた家庭での少女殺人事件が異常ともてはやされていますが、私も夏休みまえだったか、またもや漢字を覚えない一希に女房が偏執的な暴力をふるうものだから、割って入って首しめていまたが、途中でふとばかばかしくなって、というかそういう観念に襲われてやめましたが、そういうこの地での日常での異常と、その地での異常的な日常が 、同じであるとはわかってしまう……私が殺さなかったのは、殺してしまった場合のと同じ「一つの眼差し」によるといえば、まさに山城氏の、あるいは小林秀雄のドストエフスキー(ラスコーリニコフ)論考になってき、「イスラム国」よりもまえに「大東亜」と騒がした時代をわれわれが通過して9条があるなら、ととれば、山城氏の微分的な著作と、柄谷氏の積分的な著作は重なってくるだろうと。

いったいどうなるのでしょうね? 夫婦喧嘩は子供の勉強をめぐってしかおきないのですが(そしておそらく、これは一般性をもってくると、サッカー部の父兄をみてても推察されてくるのですが)、そんなことで殺人事件などおきたら、ほんとにばかばかしいのですが、このばかばかしい一 点に、何か諸関係の問題が集約しているところがあるのだとおもいます。喧嘩するたびに認識が深まって互いの理解がよくなって落ち着くのならいいのでしょうが、そうはならないことが予測できる。差別的にいえば、相手側が女だからということになる。結果が、つまり子供の成績や就職といった結果だけが、喧嘩を消滅させる。私が一希はもう新宿代表に内定している、みたいな情報をもらしたことで、女房は態度急変する。現体制からの子供の将来が不安だから、現にある勉強にしがみついているような。私は、自分がろくに受験勉強もせずに、早稲田に受かったときの母親の表情を思い出します。女房はその母親をまえに、帰省中、おもわせぶりなように一希に漢字勉強させ、できないとひっぱたきはじめる のですが、今のやさしくなった老人をみて、勘違いして、私の家庭体制(価値観の出自)に抵抗した気になるようです。まさに、そのように私も勉強させられ、その母への対抗として今の私の軌跡があるのに。私がばかばかしくなるのは、すでにかつて、母(女房)に勝ってしまっている(母殺しをする小説を書いたことがある)、家を出て違うところへいってしまっている、そういう自己認識があるからかもしれません。

ながくなってしまいましたが、私生活も時代も何かが具体的に反復しはじめたようです。しかし反復の認識や知識があっても、どうしょもなかった、というのが、小林のいう「歴史の必然」ということなのですね。>

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現今の市民社会運動の限界的な陥没(いかがわしさ)を、今なお暗黙に日本の思想界に支配的な批評家・小林秀雄の言説の変遷を参照にして緻密に推理論証してみせるスガ氏は、柄谷氏の思考の枠組みにも、かつて小林秀雄が依拠したいわゆる「講座派」的な軸が挿入されていると指摘するわけだから、山城氏が肯定的に、小林(柄谷)氏と社会(戦争)との関わりをこれまた緻密に読解してみせるその論証とは、対立的な趣向になるだろう。山城氏自身は、いわゆる現今の、たとえば護憲(9条守れ)のような市民社会運動に、そのままで首肯しているどころではないとは明確なのだが、その明察さは、氏が小林(柄谷)氏の論考を、より内向的に徹底的に読み込むことからきている。となると、この山城氏の内部における差異は、スガ氏が小林氏と柄谷氏の間に見て取ろうとする、あるいは期待する「切断」線と似てくるような気がする。

<より端的に言えば、小林は社会理論としての唯物史観は認めながらも、それが自意識の「内面論理」たりえないことに批判を向けているわけである。ここから、一見トリッキーと見なされた「マルクスの悟達」(一九三一)という視点が出てくることは見やすい。マルクスは、あえて「内面論理」の問題を切り捨てて、人間の「生き生きした社会関係」についての歴史理論を構築することにのみ専念した。これが「悟達」なのである。小林がマルクスに満足せず、ベルクソンに親近した理由も、ここにある。
 しかし、この程度のことであったら、何も今さら問題にするには及ばない。それは、せいぜい社会理論に対して私的な内面を対置するということに過ぎないからである。問題は、一見するとありふれた二項対立に過ぎないことが、小林にあっては、徐々に解消され、リンクしていくということである。>(前掲書「2 小林秀雄における講座派的文学史の誕生」)

そして柄谷氏には、氏の論理に内在する講座派と労農派との複線を認めたうえで、こう言葉を投げる。

<言うまでもなく、「新しい社会運動」の限界は、それが新自由主義の「政治」に抗する政治性を提示できないところにある。そのことも安倍政権の誕生以降、明らかになりつつある。市民社会論に寄り添いながらも、それを切断してきた柄谷の「政治哲学」は、『哲学の起源』以降、どのような展開を見せるのだろうか。>(同書「市民社会とイソノミア」)

このように予期される「切断」とは、宇野理論の「逆説的」な読みによる反復と捉えられているものだろう。科学(マルクス)が「革命の必然」を論証できないと宇野経済学(科学=社会理論)が言うのなら、その社会科学が依拠し、しようとしている市民社会への根拠づけからの解放(「切断」)である。無根拠な切断の理由(根拠)を、科学(理論)から与えられて解放されるというのだから、またずいぶんとエリート的だな、と私などはおもうのだが、この理論づけ(思考過程、密度)がないと、恐らくはロマン主義の機会原因論的な動機に近傍してしまうのだろう。だからあくまで、この無根拠な、市民社会からの乖離を科学的に気にする必要もない、単独的な運動(実践)への飛躍ということなのだ。
ならば、スガ氏の上引用の一文は、次のように言いかえられるだろうか? ――<問題は、一見するとありふれた二項対立に過ぎないことが、柄谷にあっては、切断され、リンクしていくということである。>

私の上のような読みの文脈にあっては、ゆえに山城氏の小林秀雄読解は、この「切断」と「リンク(接続)」を、より丁寧に顕微していっていることにある。そして、その山城氏の読みは、あきらかに初期柄谷氏の、いわば「切断」線にこだわった氏の思考力を自家薬籠中のものにして手離さず、さらに徹底化していることにあるとおもわれる。同書の武田泰淳論なども、柄谷氏がかつて論じた視点をより緻密に説明してくれているようなところがある。柄谷氏の直観的な言い方が、山城氏によって補足追求されるといった関係だ。となれば、スガ氏の小林秀雄に対する論究は、その小林の言表を、柄谷氏の切断線方向で敷衍化していった山城氏の論究と接続されていることになる。つまり、媒介する柄谷行人という思考の在り方自体が、二人の関係を切断しかつ「リンク」させていることになる。それが、スガ―柄谷―山城、という三者三様の関係の中身ということになるだろうか? 図式的に言いかえるとこうなる、<スガ=社会(運動の在り方)批判>――<柄谷=社会/内面>――<山城=内面(運動への動機)批判>

では、もっと具体的に、その関係間の切断と接続とはなにか?

山城氏にとっての「社会」とは、この著作では、「そこ」という言葉になる。いわば、まずは日本海の向こう、大陸における対岸の火事的な戦争の有様、異常時のことである。切断とは、そう他人事と世間では受容されてしまう「そこ」との関係、いわば通念的な社会関係からの切断である。むろん、この関係自体は、実はもっと一般的な話であって、別段戦争のようなわかりやすい異常でなくともいい、というか、むしろ日常的な「ここ」においてある関係が、小林の戦争体験によって露見されたということである。山城氏は、その通念的な「そこ」と「ここ」との社会関係を、次のように内的にえぐってみせる。

<……なぜなら、「そこ」にいた旅行者、小林秀雄の目を瞠らせた真に「恐ろしい」ものはその「ど強い」現実そのものではなかったからである。
 戦時下の検閲が戦後に解除され「ど強い」現実が赤裸々に見えるようになっても、それを包んでいた恐ろしい「空気」が見えるわけではない。おそらく、その「空気」は、当時、かりに検閲がなかったとしても、つまり「ど強い」現実がかりに報道に露出していたとしても、「ここ」にいるかぎり、見えなかっただろう。それはそこの「ここ」が「ここ」しかない「ここ」だからだ。「そこ」があっても、それは「ここ」と同一平面上に位置づけられているため、「ここ」の間尺にあった「そこ」でしかないので、結局は「ここ」しかないのだ。そのような「ここ」にいるかぎり、真に「恐ろしい」ものは、検閲されていなくても見えない。言ってみれば、内務省の検閲以前に、たんに、そのような「ここ」にいるというただそれだけのことで生じてしまっている検閲があるのだ。>

だから切断とは、その見えない検閲、通念的な社会関係への認識的な切断、ということになる。見えないものを見る視差の握持である。そしてその視差が、次のような内省を強いる。

<連中は何と異常で「無惨」な行為に走ったことかという視線で彼らを見ているとき、自分はそうはならないということが暗に前提されてしまっている。しかし、そう考えていられるのは、僕らがあくまで「ここ」にいて「ここ」の日常感覚が「そこ」においても延長し、「ここ」のモラルが「そこ」でも連続的に保持し得ると信じ切っているからにすぎない。もし「そこ」が「ここ」の座標を延長した空間にはないのだとしたら、――もし「そこ」が「ここ」とは連続していない、断層のある、別の空間に属しているのだとしたら、――そう信じ切っている僕らが何かの拍子で「そこ」に置かれたとき、強姦・虐殺・放火に走らないという保証はどこにもない。>

つまり社会関係への認識が、犯罪や戦争への加担、巻き込まれを防いでくれるわけではない。おそらく山城氏が、小林のいう「マルクスの悟達」という言葉を引用するなら、事態を防げないがゆえにその実践から解放されて(切断して)社会科学の純化に精を出すというスガ氏のような意味においてでなく、またその真逆で純粋に自分勝手にすればいい、というのでもなく、不純でも生きざる負えない、という文字通りな達観という話においてだろう。だからここから、「反省」などしないで「黙って処す」国民(=小林)議論の是非の視点が発生する。また、この不純さ、切断によって自己に抱え込んだ社会とのかい離を、飛躍(実践)として架橋するかもしれない散(雑)文思想への注目が発生する。


<小林の「見え過ぎる眼」(「徒然草」)は、ひょっとすると、すでに一九三八年、「満蘇国境」にあって戦争の結末を予め知っていたのかもしれない。だが、見え過ぎる程度の眼、予め知っている程度の知が一体、何なのか。たしかに、事後という地平は、事前にはどうしても見えなかったものを易々と見ることを可能にしてくれる。その「利巧」さが、あのときああしていれば、ああもあり得た、こうもあり得たと「反省」を促してやまないのでもある。しかし、「反省」を可能にするこの明視そのものによって見えなくする死角がある。と言って、事前の光学に戻ればそれが見えるようになるわけでもない。事前の視野にはもちろん、事後からの遠近法によってさえ見通すことのできない絶対的な死角がある。事前と事後との間には時間の結び目が断たれる瞬間が必ずあり、誰もがその死角を、見るまえに跳ぶのだ。「何か知らない一線」を踏み越えるのである。予め知っていたことが、かりにすべてそのままに起こったとしても、そこに生じた諸結果の中に立たされれば、予め知っていたとおりのそのままの諸結果が、全く思いもよらぬこととして経験されるほかない。その落差が、無意識というものの実体であり、人間が生きて何かを為す、やってしまうということの意味だ。悲劇はとは、永遠回帰とは、反復する同じもののこの差異の肯定ではないのか。>

やってしまって認識したドストエフスキーは、ロシアを舞台にした小説を書くという実践を反復した。人が「黙って処す」のは、たんに迎合するときだけではない、むしろ苦渋の選択を強いられているときだろう。ドストエフスキーは、この無言の民衆に言葉をあたえようとした(佐藤優氏と沖縄との関係はこれに似ているかもしれない)。山城氏は、そう小林のドストエフスキーを読むがゆえに、さらにこう氏の言葉を抽出するのである。

<つまり、かつてと同様、今もなお、文学者は、いや俺は、「自分」の心の裡に棲んでいる「黙ってゐるもう一人の微妙な現代日本人なるものに」に正確な言葉を与えていない、それを「日本人の思想の創作」として提出していない、「私は、敗戦の悲しみの中でそれを感じて苦しかった」、「私の心は依然として乱れてゐる」と。「文学と自分」の批評家が問題にしているのは、僕らは、国民という、国家の政治単位としてではなく、個として、「戦争放棄の宣言」を定義するような「経験」(森有正)を自分のうちに確実に育てているか、文学者はそれを「日本人の思想の創作」として言語に結晶化させているかということなのだ。「凡ての大思想は、その深い根拠を個人の心の中に持つという事が信じられなければ、それは文学者たる事を信じていない事である」。小林は、一個の文学者として、「戦争放棄の宣言」そのものをではなく、その「深い根拠」の方を自分の「心」に問い、それに匹敵する実質を自分は果たして「日本人の思想の創作」として析出させているのかと自分自身を徹底的に問いつめたのだ。「苦しかった」のは、そして「自分の名状し難い心情を語る言葉に窮した」のは、そのためである。それは、裏を返して言えば、小林は敗戦以後ずっと、より具体的に言えば、日本国憲法公布の日付で『ドストエフスキーの文学』の再開を宣言して以来ずっと、「戦争放棄の宣言」に匹敵する実質を「日本人の思想の創作」として産み落とそうと苦しんで来たということである。たとえば、すでに見た「「罪と罰」について」がそれである。だが、その緻密かつ周到な読解も、最後には作品読解という位相を超えて出てしまっていた。苦しみはまだ続くのである。>

社会を切断してみせた自己は、その認識(悟達)を握持するがゆえに、社会へと自らの内的動機によって接続を模索する。山城氏が見つめているのは、見かけの「リンク」ではなく、あくまで内省的な動機の力なのだ。

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山城氏は、この社会を切断した自己から社会への折り返し地点における小林秀雄の引用文を引き合いにだすに際し、前置きとして小林がこのように考えただろう、と推定している。――<「日本は単に文明の遅れた国ではない。長い間西洋と隔絶して、独特の智慧を育てて来た国である」と「日本人或は東洋人独特の智慧」について考えただろう。>
私の以上の文脈において、その「東洋人独特の智慧」として、柄谷氏の『帝国の構造』を導入してみせるのは、行き過ぎだろうか? むろん、柄谷氏の論考においては、亜周辺としての日本と、中心(帝国)としての中国(東洋)の智慧(原理)は理論的に区別されているわけだが、われわれ日本人が、西洋の「神」概念より、中国の「天」の観念にむしろ親しみがあるのは経験的事象・事実なのではないだろうか?(私も、そうした私観を無邪気にブログで書いたおぼえがある。) たとえ、中国の民衆のように革命を起こすわけではないにしても。スガ氏の見立てならば、どちらにせよ、それは言説的に小林秀雄の論理枠組みの反復であり、「日本回帰」の事象と同等な論理必然、カラクリ、ということになるのかもしれない。実際、柄谷氏が柳田国男を引き合いにだしはじめたのだから、なおさらそのスガ氏の見立てを実証しているともいえる。しかしこの『帝国の構造』が、社会を切断した自己からの飛躍的な社会架橋としての実践だとしたらどうだろう。これは「大きな物語」というよりは、おおざっぱな、<雑なる小説>だとしたら? かつて蓮實重彦氏は、柄谷氏を「小説家」だと『闘争のエチカ』として論じてみせた。最近の柄谷氏の言動は、たとえそれが小林以来の批評的布置の反復だとしても、やはりどこか生き生きとした闘争の身振りを、読者に感じさせないだろうか。
私は山城氏のように、「反復する同じもののこの差異の肯定」として、柄谷氏を考えてみたくなるのである。たとえそれが、道化(茶番)してるような身振りにうつろうともである。

黙って処している国民の一人として、苦渋に生きている者として、私は柄谷氏の以下のような文、帝国の原理の下地になるような指摘から考えたくなる。

<「無為」とは、「為」を否定することです。「為」は、いわば力による強制を意味します。どのような力か。一つは呪力による強制であり、いいかえれば、氏族社会の伝統である互酬原理です。もう一つは武力による強制です。これは、氏族社会の崩壊とともに露出したものです。老子1がいう「無為」は、それらのいずれをも斥けるものです。この意味での「無為」は、道家(老荘)だけでなく、儒家にも法家にも共通する態度です。無為とは呪力と武力に頼らないことです。「思想」の力が成り立つのは、そこにおいてです。また、そのかぎりで、思想家が力をもったのです。>

かつて若かりし頃の柄谷氏は、正月のお年玉のやりとりへの違和感を表明し、精神科医が金をとることを評価していた。私も、日常的に、そうした互酬原理に従えない性質なので、人間関係的にはつきあい友達は一人もできない。しかも柄谷氏を読んで意識化してからは、まさに意識的に確認しながら日常を生きることになるので、もらってもお返しをしないということに引け目をかじずに、抜け抜けと明るく超然としている。そんな奴が互酬倫理が厳然と残存する職人世界で20年以上も生き延びているのだから、たいしたものではないか? 今さらになって、商品関係的な冷たい関係よりも、互酬的な温かみのある人間関係のほうがいいのだ、それを高次元で回復するのだ、といわれても、そうは問屋がおろさないのである。
私は、あくまで私の動機において、社会と接続する必要があるのである。

2014年9月1日月曜日

息子の事故

「バルセロナってクラブは、”学校の寄宿舎”みたいなもんだってことがわかってきた。選手たちはみんなファンタスティックだし、あいつらには何の問題もない。バルサにはアヤックスやインテルでも同僚だったマクスウェルがいや。だが、どいつもこいつも、スーパースターとしての振る舞いをまったくしていない。それも奇妙じゃないか。リオネル・メッシ、シャビ、アンドレ・イニエスタ、そして他の選手たち誰もが、まるで小学生みたいなんだぜ。世界のトップスターたちが、ここではへいこら頭を下げている。俺にはまるで理解できなかったよ。イタリアでは監督が「ジャンプしろ」と言ったら、選手は「なぜジャンプするんですか?」と質問したよ。だが、ここでは誰もがこっくりとうなずいてジャンプする。まるで調教された子犬と一緒だぜ。なんて居心地悪い場所だ。それでも俺は自分に言い聞かせたぜ。「この状況を受け入れないといけない。先入観をもつな!」と。何とか適応しようと努力し始めたんだよ。そしたら俺は飼い慣らされた子羊みたいになっちまったぜ。あり得ねえだろ。親友で代理人でもあるミーノ・ライオラは、「ズラタンに何が起こった? ズラタンじゃないみたいだな」と言ったよ。」(ズラタン・イブラヒモビッチ著『I AM ZLATAN IBRAHIMOVIC 沖山ナオミ訳 東邦出版)

夏休みの最後の日、息子の一希は自転車事故を起こして救急車で運ばれる。下り坂の途中で人をよけようとして、電柱に激突、後頭部を打つ。仕事途中にきた女房からのメールによると、図書館へむかっているときにだそうだ。脳検査では異常はないが、様子見のためそのまま入院。傷口をホッチキスでとめてあるそうだ。仕事を終えて家についてみると、子供の事故の連絡にあわてて外へでていったような空気がある。勉強机にもなる食卓の上には、夏休みの宿題の読書感想文の、女房の添削した赤鉛筆で直された原稿用紙が広げられたままだ。図書館には、この二日前に、私と一希はいっていて、そのとき息子も何冊か借りたはずだ。ということはつまり、読書感想文の添削最中に喧嘩がはじまり、「それなら違うのを借りてやりなおす!」とでも一希はいって、逃げるように出ていったのだろう……そう、私は推論した。
病院に出向くと、ベッドで寝ていた一希は顔をあげた。ショックで深刻そうな表情をしていた。ベットわきで、女房が看護婦から説明を受けている。女房は、子供の無茶な運転やノーヘルメットが事故とケガの原因である前に、自分が因果をつくっていることを、自覚しているのだろうか? 私は、そんなことを問い詰める気にはなれなかった。3.11以降、学校の勉強をしつこく迫るその態度、それでいて、原発反対だの政府がなんだのと、御託を並べる情勢にはうんざりだった。自然の大きさのまえに、そんな勉強の強要や屁理屈に固着していることが信じがたい。もっと、おおらかでいろ、そう、自然は教えてきているのではないか?

私は、自分があの頃、枝おろし最中に木から落ちて、この同じ病院に入院していたときのことを考えた。なんで神は、息子に事故をおこさせたのか? 私にか、私たちにか、何を知らせようとしているのか? これから、どうしてほしいというのか? どうすべきだというのか? それを読解する、なにか他の兆候が起きていないか? いつしか、そんなふうに、私は考えていた。