2018年4月13日金曜日

映画「大和(カルフォルニア)」を観る――座間事件(2)

「ジェット機はあたりを震わす轟音をあげ、ピカピカに磨かれて滑走路の端に待機している。
 探照灯は高い塔の上に三台ある。恐龍の首みたいな光の筒は僕達を通過した後、遠くの山々を照らし出している。光の束で切り取られた彼方の雨の一塊は、一瞬凝固し、輝く銀色の部屋となる。最も強烈な探照灯はゆっくりと一定の場所を照らして回転する。僕達から少し離れた引き込み線路の上に一定の間隔で回ってくる。僕達はさっきの衝突で意志を失くし、ネジを巻かれ歩く方向を決められた安物のロボットみたいに、車を出て、大地を震わせるジェット機の爆音の中をその線路まで歩いて行った。」(村上龍著『限りなく透明に近いブルー』 講談社)

朝日新聞の映画評で知り、この作品を見てみたくなった。このブログで「座間事件」として言及した、そのときの考察を、もう少し深められるかも、とおもったからである。

私はそのブログで、死臭さえもが単に「変な匂い」・「生温かい匂い」として近隣から素通りされていった日常の異様さを、基地在所の特異性であるのではないかと指摘し、そのこと自体が今の日本本土の一般的様子を象徴している、と述べた。しかし、今年はじめ、たまたま、座間で植木の手入れ仕事をすることになって、基地周辺に居る、ということの特異な厚みを、部外者として目の当たり、というか、耳当たりにしたのである。たしかに、映画の18歳になる少女サクラの口癖で、「はあぁ?」と聞き返さないといられないほどの轟音が、とくに午前9時半過ぎからだろうか、次から次へと発進する飛行機の爆音が1時間以上は続いていく。すぐ頭の上を、つんざくような高音とともに戦闘機が、うなるような低音とともにばかでかい輸送機が、地響きを砂煙のように巻きあげて通過していく。

この強烈な異常さに「慣れる」とはどういうことなのか? 私は、自分でブログに言ったことがわからなくなった。もう一度ブログを書くことによって、整理する。

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この映画の時評をネットで読んでみて、私の着眼点に近い意見は、次のようなものだ。

<『限りなく透明に近いブルー』にも、のちに村上龍が繰り返し描くことになる命題の萌芽がすでにある。それは、「不幸の芽は自分の知らないところでまかれて育ち、ある日、突然自分を襲ってくるものだ」(村上龍『ライン』)というもの。同じ命題は、村上龍と同時代を代表する作家・村上春樹が『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』という作品で、東京の地下に住む”やみくろ”という邪悪な魔物を通して描いたものでもある。映画『大和(カリフォルニア)』から話が少しそれているように感じられるかもしれないが、「『慣れ』と『あえて』によって沈黙している(宮崎)」ことによって日常が成立し、その下で黒々とした”邪悪な”ものが育っていくという状況を描いた点において、本記事で紹介した作品はすべてつながっている。たとえその結末が違っていたとしても。

ちなみに、『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』は、その後に起きた地下鉄サリン事件を予見していた、と言われることもある。

では、映画『大和(カリフォルニア)』は、いったい何を予見しているのだろうか?>(山田宗太朗 映画『大和(カリフォルニア)』都市のすぐそばにある黒いもの

この評者が問う「予見」の私の答えは、「座間事件」、ということになる(日本での映画公開は今でも、創作されたのは事件前のようだ)。しかしならば、1970年代半ばに発表された村上龍氏の時代性とは、その差異も見えてくることになる。そしてそのことの差異については、映画監督自身が指摘しているとおりなのだ。

<…ひとつ具体的なことを言えば、厚木基地の兵隊さんたちはほとんど外に出て来ません。敷地内が広大でそこだけでほぼ町を形成し、事足りるため、外に出てくる必要がないのです。ですから横須賀や沖縄などと違い、地元住民は騒音以外には彼らとはほとんど接点がなく、まさに近くて遠い他者なんです。>(宮崎大祐・パンフレットより)

村上龍の作品、あるいは、その作品が切りとった時代の寓意には、人(日本人)と人(アメリカ人・黒人)とが交流(セックス)していることが前景化されていることが舞台の設定、前提である。が、この映画では、米兵に代表されるべき外人との交流はなく、ただ騒音の空気として、しかもそれが「異常」なことでもない日常的なこととして慣らされてしまった、いわば”存在”と化してしまっている。そして実際の事件は、つまりあの「座間」の殺人事件は、むしろそれのほうこそが不気味であることを露わにしている。『限りなく―』では、米兵が日本女性とレイプまがいに性交しても、殺すことはなかった。顔のみえる相手として、具体的な関係が、抑制として効いていたかのように。が、具体的な人間付き合いが消えてしまった今では、ただメディアをとおして発生した抽象的な関係の慣れの果てなように、密室的な殺人が連続してしまったのだ。
この映画に、そんなどきつい場面が挿入されているわけではないが、あの轟音の存在、バックグラウンドが、今の時代、事件に触れた観客たるわれわれをとおして、不気味な事件を現前させてくるのである。いや、この監督自身の前作の予告だけをみてみても、この不気味さに監督が敏感的、意識的なのではないかと勘ぐらせる。いや、当初は、本人はこの異様な日常音源に意識的ではなく、他のミュージシャンからこのノイズを使おうという提案があったと告白しているのだから、無意識的なのかもしれない。逆に、村上龍氏の作品に戻れば、村上氏は意識はしたが、それを前景化したのではなく、後景として追いやったのである。だから作品の冒頭は、「飛行機の音ではなかった。」なのだ。彼にとってアメリカは、手に届き触れえる友人と化しつつある他者である。が、宮崎氏にとって、それは隣接していても手には触れ得なくなった他者、しかも、私たちの存在の内とも化してしまった他者なのである。まさにその在り方は、「不気味なもの」、身近な者こそが他者である、という精神分析の概念に当てはまる。「自分の知らないところでまかれ育」った「魔物」ではないのだ。

しかし宮崎氏のこの映画では、むしろ、そこから、が描かれようとしている。見えなくなったアメリカが、われわれの内に存在して占領している(それは、サクラの父アビーの不在によってこその存在圧倒、しかも産みの親(戦前)ではなく育て(戦後)の親として、に寓意されている)、だけではなく、それが見えなくなる過程(歴史)において、見出し得る存在をも産み出している、という現実である。端的に、ハーフが、日本語をしゃべる混血児が登場するのである。『限りなく―』では、そういう視点は、まだないのだ。しかも、その混血児、映画で一番その存在感をもって登場してくるのは、サクラの喧嘩相手の、同級生だった女たちであろう。彼女たちは、おそらくラテン系だ。米兵との間というよりは、日本に出稼ぎにきた日系の、またはニセ日系、不法移民なブラジル人、あるいはペルーや他の南米からの者たちの子か、彼ら・彼女たちと日本人の男女との間で産まれた子供たちであろう。私にも、夜の荷物担ぎのバイトで一緒になった南米からの友達がたくさんいた。厚木にアパートがあった。20年以上もまえの当時、基地があることは知っていても、爆音に出会うことはなかった。そんな彼ら、彼女たちの子供たちの存在である。産み落とされた他者たちは、隠れようもなくそこに居る。ヘイト・スピーチに取り巻かれ、または自らが、ホームレスに石を投げながら(映画での一情景)。

いや、おそらく、この映画で使われている音楽たちが、産み落とされた他者たち、なのではないだろうか? 私は、音楽音痴なので知らないが、『限りなく―』で引き合いにだされる音楽は、みなあちらのものである。村上龍は、少なくとも当時、黒人のようにサックスが吹けるわけでもない日本人のまがいものの音楽には批判的だったはずだ。が、この映画こちらの音楽は、コピーというよりも、クリオージョ、なのではないか? 映画中でサクラのいう「サンプリング」という概念を私は知らない。が、あの南米の友人たちに連れられていったディスコやレストランでの、音楽の雰囲気を、私は思い出す。彼らたちの多くは消えていったが、産み落とされて居着く他なかった者たちがいる。目に見える存在として、そこにいる。

そしてそんな現実は、引用した山田氏の時評を参照すると、あの「川崎事件」が起きた川崎という場所でも、可視化されてきた事態であるようだ。

見えない存在と、見えてきた存在――われわれを支配する存在と、そこから逸脱しはじめた存在。
この映画は、存在下にあるわれわれの無意識な闘争の在り方を示唆し、そこから何か新しいものが産み落とされるのではないかと期待させてくる。不気味な事件の予示だけではなく、積極的な予兆をも感じさせる。

*この映画『大和(カルフォルニア)』が上映されているK's cinemaは、二度目の観賞になる。去年の9月に澤田サンダー監督『ひかりのたび』というのを見ている。学生の頃、よく映画をみたが、その頃の、田舎者には変な感じ、今からなら「文化」とも呼べる感じがする。そういう感じのする映画館がいったん衰退していってしまったような気がしたが、人が在るかぎり、復活する、反復されてくるのではないだろうか? 高田馬場にあったACTミニシアターが懐かしい。巣鴨の三百人劇場も。

2018年4月10日火曜日

西部氏の死

身禄の墓
「「我は六十八歳までの寿命なれども、六十三歳にして、丑の六月十三日を命日とし、とそつ天之三国の万ごうの峰の鏡に身を参り候」と意思を表示しているのである。身禄が六十三歳で死を決意した年は、享保十八年(一七三三)である。この社会背景には、日本橋本石町の米屋高間伝兵衛たちによる米の買い占めがあった。高間伝兵衛ほか七名だけに、幕府は上方からの米の荷受けの権限を与えたのであるが、折柄、享保十七年に起った西日本地方の蝗害による影響で、いわゆる大飢饉が発生し、米価は高騰するばかりであった。その元凶を高間伝兵衛の買い占めに求めたのが、当時の庶民の意識であり、享保十八年二月には、江戸における最初の打ちこわしが起こったのである。…(略)…その高間を使っている幕府の役人たちを含めて、この世は末世に至ったというのであり、「ぬめのよし原」つまり泥海に化しているという終末観が示されているのである。
 富士山頂に近い釈迦の割石を、「とそつ天」つまり弥勒の浄土に見立てているのは、彼の入定の行為が、弥勒仏出現を前提にしていることを予測させるものであろう。
 身禄行者にとっては、富士講の主張する終末の到来を表現する予定の行動であったが、社会的には、江戸市中の危機意識が高まっていることと相まって、身碌入定は当時のトップニュースとなったのであった。」(宮田登著『江戸の小さな神々』 青土社)

ニュースによると、西部氏は、腰に建築現場の安全帯を巻き、そこに川辺の木に結びつけたロープの先をひっかけた姿で、亡くなっていたようだ。現場の安全帯は、普通のベルトの締め方とは違うし、留め金を開くのに力も必要になるので、手が弱っていたそうな西部氏本人が、自ら装着したものではないだろう。

具体的に、その場面を想像してみよう。
中年とはいえ精悍そうな男二人が準備を整え、川べりの氏の傍らに立っている。氏は、どんな表情をしていたろうか? 「行ってくるぞと勇ましく!」、であるはずもなく、優しそうな目をしていた氏の表情は、弱々しかったのではないだろうか? 男二人は、黙っていたかもしれない。が、それでさえ、その態度は暗黙に、さあ、先生、準備はできましたよ、行ってくださってけっこうですよ、さあ、先生の思想を果たす準備はできましたよ、さあ、どうぞ、どうぞ!――ということにしかならない。そんな無意識に追いたてられて、リールコードにつながれた老犬は、とぼとぼと、川の中へとよろめいてゆく。

そんな姿をみて、庶民ならば、「やめなよ」、と単にとめるだろう。
安全帯の装着にも慣れている現場の人間ならば、「えっ、まじでこんな格好でいくの? いくらなんでも、みっともなくね?」とゲラゲラ笑いだし、「やめよやめよ、帰るぞ、おいっ」となるだろう。

無意識的な実際では、西部氏は独りで死ねず心中したのであり、幇助した男二人は、殺人を犯したのである。

自分で自分の身の回りのことができなくなった老人に、自死だのなんだのありえない。自殺でも、自然死のようなものだ。認知症になった老人でも、ある瞬間我に返れて、ふと魔がさしたように自ら命を絶ってしまう衝動に襲われるかもしれない。が、それでも、それが老いという自然の力ではないか? 死にたい、死にたい、と老人たちは言っている。ほぼ誰もが長生きできるこんな社会において発生してしまった、人為的な自然現象だ。しかし庶民はいつも、そんな自然の中を耐えて生きてきた。だから、知恵もある。だから、「やめなよ」と、声をかけるのだ。死にたい、という老いの自然に抗うその思いやりこそが人為的な思想に変移するのだ。

西部氏が、当初の決行の日取りをのばしたのは、安倍総理による衆院選挙があったからだとか。がいま、その雲行きはあやしくなっている。大衆とひとくくりにはできない、庶民的な位相は、連綿と伏在しているだろう。

2018年4月7日土曜日

朴石と富士講

鎌倉の佐助稲荷神社の朴石
「富士講は町触れにみられるように「職人・日雇取・軽き商人等」の間で広まっていたわけで、「富士の加持水」により病気を治したり「病人え加持祈祷」する富士行者の霊能が信仰対象となっていた。」(宮田登著『山と里の信仰史』 吉川弘文館)








20年ほどまえに書いた「朴石をめぐる論考」、東京や関東の町植木職人がよく用いた富士山溶岩石で作った庭をめぐる考察を、富士講という民間信仰の方面から再考してみたくなり、文献を読み始めている。きっかけは、前回ブログでも引用した『富士塚ゆる散歩』であるが。

とりあえず、20年前の小論をのせてあとづける。

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ぼく石をめぐる小論考

造園の研究、特には過去に作庭されたものへの考察となると、その様式的な変遷を歴史実証的に物語っていくか、各時代に影響をあたえた宗教的・思想的意味づけによって当時の石組み等を形態論的に分類してみせるとか、あるいは個々の庭園にあたってもその実測図や写真などを掲載したうえで分析者の印象や感想を独断的に付記しておわってしまうのが趨勢であってきたようにおもわれる。
そうした風潮に進士五十八氏が一石を投じるような論考を提出したりしているが(『日本庭園の特質』)、それとて他分野において批判検討されてきた考察から遊離しているため、たとえば「自然」という語彙ひとつとってもあくまで通念的な概念運用に居拠するがゆえに、論の根本のところで信用しがたい、あるいは前提的に論の成立が危ういのである。通念によって通念を批判してもトートロジー的な事態しかうみださないが、実際に氏の科学実証的な考察はこれまでの物語りを追認してやっているだけではないのか? 混同されてきた「形式」と「様式」という言葉の概念を区別する作業は必要だったろう、しかしそれが内輪な論理の内部でなされるかぎり、批判的な検討・検証とはいいがたい。
たとえば歴史・科学主義的な思考の歴史性とそのカラクリを上野千鶴子氏はフエミニズムの分野から徹底的に批判している(『ナショナリズムとジェンダー』)。誰がその「歴史」を「真実」とするのか? 誰がそれを物語ってきたのか? 誰がそれを聞いてきたのか? 強姦の加害者と被害者とではその経験内容に相当な乖離があるというのに、どうしてそれをひとつの「事実」として成立させえるのか? 被害者が思いきって口を開いたその切れ切れの断片、つじつまのなさ、記憶違い、沈黙、……この「圧倒的な『現実(リアリテイー)』から出発するほかない」のではないのか?
このような問いかけは、造園の分野においてもひとごとではない。
いわゆる日本の庭とされるものにおいて、誰がそれを作ってきたのか? いや、誰が作ったとされてきたのか?
中根金作氏は『京都の庭と風土』において、次のように物語ることをはばからない。

 明治時代は、政治権力が全く新しい若者達の手に委ねられたのである。彼等はそれまで文化的に質の高い家庭環境には育っていなかった。このことは日本文化の歴史の上に一種の不幸をもたらした。それは優れた日本の文化財の海外流出であり、伝統技術の低下であった。中には断絶したものもある。そして作庭もこの時期を境として糸がきれたごとく、その技術は低下する。(中略)治兵衛は無隣庵の作庭を契機として日本の庭園史のなかに躍り出た幸運児である。しかしこの時代の治兵衛や植木職はあくまで職人であった。日本の庭園は、古代・中世・近世を通じて作庭の世界に中心的な役割りを果たしたのは、それぞれの時代の文化人であった。貴族・僧侶・画家・武家・茶人たち、そして中世に輩出した山水河原者のうち、僧侶に優るとも劣らない学識を身につけた者であった。この中世初めに活躍した夢窓国師を頂点とした作庭家たちと治兵衛他の植木職とを比較することは無理であり、同じ技術を要求することはできない。そして明治を境として日本の作庭技術は中断する。日本の近世中頃までの作庭家たちは最高の教養とそれによる美意識、広い視野を持って作庭に臨んだ人たちである。

しかし何が「教養」だというのか? どんな「美意識」だというのか? どれが「文化」だというのか? 「伝統」として誰が正当(正史)化してきたというのだ? 「技術」とはなんだ?──要するに、近代以降において自明(=自然)視されはじめた言葉によって庭園分野における歴史を理解(=支配・マスター)していくための物語りをことさらのように流布しているにすぎない。
私がこの小論考で提示してみたいのは、上の引用にみられるような、いわゆる研究者、および兼作庭家と呼ばれる「文化人」からまるで口をあわせたように出てくる支配的な物語りに対する、質的に異なったもうひとつの物語りである。その物語りは「下手趣味の最たるもの」(重森三玲・完途著『庭』)として、そうした京都(の庭)中心の文化人から排除されてきた「墨石」(*)から、そしてその「下等品」を使って作られ東京近辺のあちこちにみかけられる「職人」の庭から語りおこされるだろう。またその資料は私達「庭0」で管理し作庭した身近なものからとることにしよう。しかしあくまでこの物語りは歴史実証的な「真実」ではなく、「現実」から構成されえる仮説であり、また庭を読むという創造行為を通した仮説モデルである。
ボクイシは漢字では「朴石」と書くのだそうだが、私が他著作から引用するにあたり「墨」と書き換えてしまったのか、原文に従ったのか、忘れてしまった。調べがつくまで、そのママにしておくことにする。
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黒ぼくともよばれる墨石とは、火山岩の一種であり、玄武岩質の溶岩塊のことである。庭石として珍重される多くの石が、川の流れに洗われ天ばと面をはっきりさせた固有の顔をもっていると言われえるのに対し、表面がごつごつし、あちこちに気泡の穴をあけているようなこの墨石には、一見しての表も裏もないような代物である。豊富で多様な石を入手できた関西の庭ではまずほとんど使用されることがなく、石という素材に恵まれなかった関東において、玉川の玉石とともに、この富士からの墨石が多用されてきたといわれている。しかし当初その用途はあくまで土留めという目立たぬ技法のうちに閉じ込められてきたにすぎなかった。この「従来述べて来た庭石類に比して下等品扱いされて」(上原敬二著『庭石と石組』)きた墨石が、いつ頃から庭石としてその黒い顔を露にしてきたのかはわからない。軽量で加工しやすく、またブロック積みのように組んでいくこともできるといった機能、あるいは西洋からはいってきたロックガーデンの影響といったこともあったかもしれない。上原氏は「しかしこの岩石にはそれ相応の特徴もあって、そう見すてられたものではない。要は石組の技巧如何にかかっている」と付記して述べるが、しかしこの石の前景化には、おそらく上原氏をも含めたこれまでの造園家や研究者が美学的にとりあげてみる技巧とはちがった、むしろそんな見方を批判していく闘争としての技術が潜在しているのだ。それは戦争という大きな物語り的進行の過程で、「下に、下に」と抑圧されてきたマイナーなものたちの分子的な噴火である。
墨石は美しくはない。それを組み上げて構成されたものが美しくあるわけがない。しかもその石は中国の庭に据え置かれる太湖石のように、捕獲するにもおおごとな貴重で珍重される価値あるものでもない。採取容易で多量であり、安価でさえあるだろう。それはもともとが素材として重宝されるようなものではないのだ。しかしそう価値規定する尺度とは何処からくるのか? おそらく江戸時代までは、庭石は金銭といった交換という神秘性をはらんだモノとおなじく、一種の宗教的な呪術行為として取り入れられてきたにちがいない。戦国の武将たちがひとつの石をめぐって奪いあいのような事態をみせているのも、単に美しいという感性的な見方からかきたてられるのではなく、己の行為を正当化してくれる宗教的な正義といった意味あいをその石が内包していると信じられてきていたからということもあっただろう。つまりなお石には神が宿っていたのである。しかし特には明治以降、単に西洋化というだけではなく、貨幣経済の日常的な普及から、その交換という不可思議な神秘性を平板化させてゆく近代化の進展とともに、神は石から霧散し、ただその形だけを愛でるという美学的な見方が支配的になってゆく。むろん、そんな思考自体が近代の産物にすぎないわけだが、いわゆる造園の研究者や兼作庭家とよばれる者たちの多くは、この近代の所産からそれ以前の庭を裁こうとしているのである。
しかしわれわれの思考自体が日常を支配する生活基盤的なものに従属しているとあれば、そこから抜け出すのは難しい。ひとりいや石には神が宿っているのだと頑張ってみることにもはやどんなリアリテイもない。ましてや形だけ以前の石組みを伝統の継承だと換骨奪胎してみても、単に自堕落になるだけだろう。
ではどんな実践があるというのか? いやあったと読みえるのか? 
再び繰り返すが、それは決して美しいものではない。










上の写真は私達「庭0」で管理している新宿は上落合の月見岡八幡神社の墨石による富士である。造営は昭和37年ということであり、中心となって作庭した人は他界している。先代の親方が手伝ったと思われるが、詳しいことはわからない。私はただ、この富士からの衝撃(「リアリテイー」)から読み考えるだけである。
富士山は美しい。その裾野をしなやかに広げた姿形は、万葉の時代から歌いつがれ、築山としても庭園のなかへととりいれられ、借景としても利用されてきた。しかしその用法はあくまで観賞的な立場からなされるものであり、たとえ宗教的な畏怖心といったものが介在していたとしても、富士は対象としてあったにすぎない。つまりは富士が美しいとされるのは、それを遠くから眺めているからなのである。それを間近でみたら、あるいはその峰の最中にあって直面するものであったなら、どうなるというのか?
八幡神社の富士は、その美しいとされてきた見方を意に介さないかのように、むしろ醜いとされてきた墨石によってごつごつと組み上げられている。富士が排出した溶岩塊によって富士を作ってみせること、この倒錯した造形を前に、ただ眺めるという観賞的立場は圧倒され、苛立たされるだろう。そして実際、この富士は登る、あるいは頂上の祠へと参るという行為を誘うように作られている。この誘惑、あるいは衝迫はどこからくるのか?
富士の山中へと最初に立たされたものが、その出くわしたこともない光景、果てしなく広がる樹海、風化した岩石の塊、砂漠のごとき大地、もしそこで圧倒されたまま立ち尽くすことが許されていないならば、人はこの殺風景な現実の最中を歩きはじめるほかはない。しかし一歩、一歩奮えながら押し出された足が次第に力強くなってその頂上へと至るとき、人は山を征服したというだろう。しかしこれは正確な言い方ではない、征服したのは山という対象物ではなく、その自然の「現実(リアリテイー)」に圧倒された自己自身に他ならない。そのとき富士とは対象としての「美」としてあるのではなく、自己への働きかけを通した「崇高」としてあるのである。
「美」に対して「崇高」を区別し対置してみせること、その必要はまず西洋の近代化過程の最中においてあらわれている。宗教的な畏怖心をはらんだ中世からの戦乱、しかしこの世界が無際限な闇に沈んでいくわけのものではなく、地=球として閉じられた「実無限」であることの発見、この歴史=自然的な「現実(=衝撃)」の直面に、人は無力な自己をなんとかもちこたえさせえる技法を発明しなくてはならなかった。
柄谷行人氏によるカントの読解によれば、この「崇高」という感情の動き、つまりはカントのいう「超自我」の働きとは、「理性を駆り立てる『不死』への欲動」としてもあるものだという。つまりはある形而上学的・理念的ななにものかの永世のために、生物学的な個体の死をも厭わないという感情、それは精神分析学上フロイトが人間の根底に仮説した「死への欲動」と同等なものとしてある、と。死という不快(醜)なものを快楽(美)へと転倒してゆく欲望である。ゆえに「崇高」という技法には、両義的な働きがみだされることになる、ひとつは無力な自己自身をなんとか延命させていこうという技法、そしてもうひとつは平和のための虐殺という近代史上においてはじめて歴史化したナショナリズムというロマンチックな戦法である。しかし近代の言説において、このナショナルな感情は美(学)的に認識され、掲揚されてきた。しかし「死の欲動を抑えるのは死の欲動である」。「美」の範疇としてではなく、「崇高」なるものの次元で思考を策動させなければどんな「現実」への対処・技法をも過たされるのだ。(「死とナショナリズム」・『批評空間』1998・第二期-16号)
八幡神社の墨石による富士は、戦争を生き抜いてきた者による戦後になってから造営されたものである。ある意味でこの富士は、『竹取り物語』においてフジという名の由来が追記されることから推論されえるような、戦没者の「不死」を、つまりはあの世での「無事」を祈るような慰霊碑としても造られているかもしれない。それは鎌倉から由来するこの神社の歴史的文脈においても敷えんしえることかもしれない。たとえば頼朝がまず永福寺の建立を思い立ったのは、蝦夷とよばれた東北征伐にあたって、当地の高度な文化的絢爛さに打たれたということともに、数多の兵士(富士)が亡くなった現実への戦没者慰霊の意がこめられていたという。「庭0」では早稲田の北野神社の手入れにもはいっているが、そこに梅の木が数多く植えられているのも、もちろん実朝が鎌倉の北野神社に梅を植えたという伝説的な由来があるゆえだろう。しかしそうした歴史的文脈は二次的なものにしかならないだろう。このホームページの業務紹介でも紹介してある最勝寺の改造まえの境内には、先代の親方が造営した墨石による庭があった。今はなく写真では紹介できないが、それは戦没者慰霊碑の立つ墓地への入り口とは対称的な位置にあるもうひとつの墓地への入り口、階段の左側には銀杏の大木(ここから異界だということを象徴さすものだろう)、そして右側のツゲの高生け垣で仕切られたその内側=境界にあった。樟の大木(ここが緑の消えることのない天上であることを象徴さすだろう──)の下に繰り広げられたその庭は、八幡神社の構成と同じく、規模は小さくとも墨石による築山であって、そこを歩くことがいざなわれるようになっている。桃ではなくて蜜柑、クチナシ、玉散らしに仕立てられたツゲ、常緑樹に囲われた山の麓の洞窟には、七福人が据えられている。要するには桃源郷が表象されている。しかしそれはあくまで醜い=不快な「下等品」とされてきた墨石によって構築されているのである。墨石とは、地下の溶岩ふきだまる煉獄から排出されてきたものに他ならない。となれば、この庭はまさに地獄(不快)による極楽(快)という両義的な意味を働かされている。すなわち、「崇高」なものとして実存しているということだ。
しかしならば、墨石で構成されたこれらの庭は、どちらへ生き延びようとしているのか? あるいは死のうとしているのか? 国体へか? あくまで無力な自己自身へか?
庭を造った作者へと尋ねてみる必要はない。作品の背後に作者の意図を読み込もうとする近代的な営みは、この世の背後に神の意図を探ろうとする形而上学的な強迫反復に無自覚である。つまりその営み自体が「死への欲動」なのであり、近代の虐殺史に結び付いているのだ。あくまでその庭に直面することからはじめなくてはならない。








上写真は、八幡神社の富士が祭られた敷地のすぐ手前にある筧であるが、ここで考察しようとおもうのはその背後の石の用法である。滝口としてイメージされて立てられた庭石を囲繞するように墨石が組まれている。美観的にみても決してすっきりしたものではない。むしろ奇妙でさえあるだろう。しかしこの奇妙さを、美学的なひとつの趣味として理解=解消させてしまうことはこの作品のもつ「現実(=衝迫)」を見失うことになってしまうかもしれないのだ。なぜなら、この構成では、これまで価値あるものとみなされてきた庭石が主人公であるのか、それを取り囲む下等なと呼ばれてきた墨石の方が主役として据えられているのか、判然としがたくなる厳然さとしてあるからである。いやこれが墨石による庭だということははっきりしている、ならばこの構成が現前させているものは、重宝される石とはこういうものだという伝統的に培われてきた価値体系をひっくり返していく批判の力としてあるということになる。つまり企まれているのは、ヒエラルキーの転倒という政治的・階級闘争なのである。 この作庭者があの戦争をどういう態度で生き延びてきたのかはうかがい知ることはできない。しかしあの戦争にかり出された多くの兵士(富士)たちが、砂漠や雪原やジャングルにおいて、心象風景などという自然主義的な観賞的・美学的態度などでは対処できない、決して内面化しえない自然の「現実」に直面してきた。いや都会の中にあってさえも、上官や同僚、そして人間の顔をもった敵、いや自己自身の内にさえ吹き荒れる自然の「欲動」に直面し翻弄されてきたのだ。そしてたとえば、この「現実」に直面した戦後派と呼ばれた小説家たちが、どんな構成をもつ作品群を提出してきたか? それは不完全であり、奇怪であり、美しくはない。しかしそれが彼等のそうでなくてはならない本領なのであり、意欲なのである。国家のために死ぬ美しさ、そんな支配階級が鼓舞し駆り立ててきた戦法に抵抗する形を、彼等は自らの作品で作り上げようとしてきたのだ。
しかしもちろん、この奇妙な形が、ナショナリズムに連綿としてゆく美学的な見方への批判という闘争の力(厳然=現前)をもつのは、そうしなくてはならぬという意欲があってこそである。つまり「死の欲動」を形而上学的な戦法の内へとなびかせ発散させていくのではなく、それをなんとか抑えていこうとする自己制御的な技法へと工夫しているかぎりである。余談になるが、先代の親方は、常雇いとしてはいっている家の主人が、一服の時間に熱いお茶ではなく、冷たい飲み物を召しだされても、決して口にしなかったという。(現親方の奥さんによると、仕事もしなかったという。)だからもしこの闘争の意欲なければ、それはいつでも美的趣味の形骸と反転するのだ。
この庭石を墨石で取り囲むという石組みは、しかしここで物語ってきている作庭者の独創的な力によって生まれたというのではない。無からの創造などというものがあるとしたら、神のみによるだろう。戦前にさえすでにこうした用法がみられたのかもしれない。しかし私が調べ推論するかぎりでは、その源流は江戸に幕府が開かれ、貧困な石しか採取されなかったとする関東において、はじめてその地方独特な回遊式の庭園として築かれた小石川後楽園にある。
というか、この八幡神社の「富士」という構成自体が後楽園からの引用としてあるのではないか、と推察する。江戸で頻繁に起こった火事、当初のものからの改造、関東大震災、そして戦時中の大空襲、こうした変遷と災害を経て原形をとどめた石組みがどこにどれほど残っているのかは知りえないので確実さはないが、しかしそれは、玉川の大きな玉石らしきものとともに、それと並列されて使われているような単なる土留めとしてある使用からきているのではない。それは琉球山という当時の入り口からは一番の奥に位置するともいえる築山にある。西湖提を渡りこの山に敷かれた延べ段を登っていき、中腹にある大井川を見下ろす見晴らしの敷地を抜け、その頂に着くやと覚えるまっすぐな山道の突き当たりの場所に、登ってくる自分を写す鏡であるかのような表面の平らな石が傾斜の土留めとして埋めこまれている。そしてその周りをより小さな石たちが取り囲んでいるのだ。参観者はこの突き当たりの石に相対したあとで、右の曲がりへと振られすぐにこの山の天上へと立つだろう。この山は、江戸の治保時代には通称「富士山」と呼ばれた。
下1がその石の写真である。この写真と、八幡神社の富士の中腹に窺える石組みとを比べてみるとしよう(下2がその拡大)。後楽園の富士では、鏡を表象しているような石を取り囲む石群は、墨石ではない。ただし、右上で押さえる石が墨石らしきものにも思えるのだが、はっきりとはわからない。しかしこの構図、八幡神社の富士でもこの鏡としての石の据えられた位置から参拝者は右に振られ頂へといたるのである。さらに、後楽園に築かれた山が琉球と名付けられたのには、ツツジがたくさん植えられていたからだという。八幡神社でも山という斜面上で強調させられている植栽はツツジである。(頂には金木犀、峰にはヒマラヤが並木として植えられているのだが──「業務紹介」巻頭写真を参照<註;前回ブログ写真)──、その植栽の存り様はこの山が単なる模倣的引用ではなく、批判的引用だということを現前させている。頂に映える金の後光はここが死者たちの天界であることを、しかし昇天として祈られる場所とは日本的な内輪の表象なのではなく、世界の山峰なのである。しかも、その明治になってから日本に輸入された巨大な樹木は、芯が止められ職人の受け継いだ技術によっていわゆる和風に仕立てられることがめざされる。それはまさに自然の圧倒的な現実を前にした己の無力を、その「死(=不死)への欲動」をなんとか抑えこもうという技法=意欲である。つまりはこの頂へと訪れる者は、あるいはその「崇高」さに直面する者は、日本の神からより普遍的な次元への飛翔を死者からの願い=諭しとして誘われていることになるのだ。)
下1
下2

独創ではなく引用で造られていることが、作品の価値を失うわけではないということを改めて強調する必要はないだろう。重要なのは、先行作品に対する関係の強度である。それはひとつの作品においても、その凄さを決めてくるものが、素材と素材との、あるいは部分と部分との関係や連結の緊密度であってくるのと同じである。しかし引用がただ単に趣味的な美観によってなされるならば、つまり恣意的な折衷でなされるならば、作品どうしの、あるいは素材間の関係は弛緩してくる。引用が力を持ってくるのは、あくまで批判という意欲があるかぎりにおいてである。しかし力なき反復は、作品へのこだわりが形に集約してくるために、洗練されてゆき、それが伝統とよばれるものになってくる。
下の写真は、昨年「庭0」で改造した最勝寺の境内の一部分である。門から入来した者がこの境内を一巡しようとするとき、本殿をよぎるアスフアルトの道はこの鏡を表象するような墨石で囲われた石に突き当たり、右へと振られ、裏の内庭へと回ってゆく。以上三つの写真を見比べてみるとき、その選ばれた石の形といい、構図といい、あまりに似ていることは驚くばかりである。









小堀遠州の庭は、庭園技術の達成的な歴史的現実を前にした、先行作品に対する編集作業としてあったのではないかというような意見が建築家の方から言われたりする。もしそうであるなら、その己のまえに既に提示尽くされたとみた庭の「衝撃(=現実)」からの組み直しとは、批判的引用の作業にほかならない。彼の庭が凄さを、「厳然」さを「現前」させているとしたら、その批判の力が遠州好みとよばれる伝統=様式化した庭とを分け隔てるだろう。そして批判的引用とは、読みなおすという作業のことでもある。だからそこには、どう読んだのかという文脈がなくてはならない。おそらく遠州にあっては、それまで宗教的・思想的に意味づけられて構成された庭から、その政治的バックボーンを徹底的に排除し、純フオルムとして抽出してやるというイロニックな政治性であったかもしれない。彼は様式化しえない多様さとして厳然=現前してある庭の歴史=現実を、形式化しようとしたのである。「形式化」とは、現実として直面する「死の欲動」をなんとか押さえ込もうとする「超越論的(=超自我)」な、自己制御的な技法である。逆に遠州の庭から形だけを模倣した政治的対応を欠いた庭、すなわちは支配権力として自明=自然化した体制=大勢に「欲動」をなびかせるにすぎない庭とは「様式化」としてあるにすぎないのであって、そしてむろん、後者の強迫反復的連綿さが「伝統」とよばれてきたのである。利休や織部といった先人たちが当の権力に殺されてきた戦国を生き抜いてきた遠州の政治的姿勢とは、皮肉なものであったにちがいない。
八幡神社の富士が後楽園からの引用であるならば、その批判的読みの文脈はいまやあきらかだろう。しかも鏡として表象されるような石組みは象徴的な技法でもあるだろう。鏡とは自己を参照させる装置、自然の現実に圧倒されておののく足を一歩一歩踏み出しはじめた自己自身を見つめ直すきっかけである。そう、確かにそれは自己愛的に割り振られた道具仕立てなのではない、人はこの鏡を契機に自己を振り切るように右へと旋回し、山の頂へと立つのだ。そしてその山は、天下を牛耳った権力者たちが周遊する価値ある石で埋めつくされたその形をごてごてと覆い潰すように、下品な物たちが囲蝟している。古代から語り継がれてきた典型的な大きな物語りを、語られることさえはばかられた下等な者たちが占領している。この黒い面(ツラ)も定かでない顔をした包囲網の現前は、しかし「美」しき観賞に己を任せることしか知らぬ連中を圧倒させてやまぬ企みを実存させた「崇高」な厳然さなのだ。
                            1998..
追記  東京は駒込の旧古河庭園は、洋風と和風が上下に並列的に構成された大正初期の庭だが、その和風の方の回遊式庭園は、植治が作庭したものだとされている。そしてその心字池の奥まったところに、枯滝が組んであるのだが、そこでは滝口としてイメージされた豪華な庭石を引きずり降ろすような気迫をもった構成で、墨石が多用されている。高価な庭石を包囲するまでにはいたっていないが、それに迫る勢いとして使用されているのである。それはこの庭の土留めの用法としての墨石についてもいえる。後楽園や六義園などでの用法があくまで目立たぬ脇役にしかすぎぬのに、ここではあるはっきりとした造形力として着眼されているのだ。ここからも植治が自然主義風の作庭家にすぎなかったというのは俗説にすぎないと推論できる。ロマンチストな文化人・山形有朋にその俗説はあてはまっても、激動の余燼の中を生きた職人である彼が、思想や意味などで創作できるわけがないモノとの対応に迫られたはずである。この庭からも、あるはっきりとした階級闘争の意欲を感じ取ることができる。
                           1998.9.13