2013年12月29日日曜日

少年サッカークラブの育成から

「人間は成人期に達するまで、変化する状態の中に、したがって「霊たちの世界」にいるが、そののちその霊魂(アニマ)の方面では、天界か地獄のどれかにいる。なぜならそのとき人間の心は一定の状態になり、めったに変化しないからである。」「他生に入って来たばかりの霊たちも可変的な状態、つまり「霊たちの世界」にいる。彼らの状態に応じて、ほんの短期間だけそこに留まる者もいれば、非常に長期間留まる者もいる。」(『霊界日記』エマヌエル・スェーデンボルグ著 高橋和夫訳 角川文庫ソフィア

少年サッカークラブの忘年会、父兄たちの間で、勝つことにこだわるチームにするのか、楽しむサッカーにするのか、その方向性が話題になる。私自身は、勝つことを目指すが、こだわらない、というもの。負けてもいいという前提から入るなら、子供の態度はなんでもありになってしまうし、目標を実現するためにどう個々人やチームが考え実践していくのか、その過程の方が大事だろう、と私には思えるからである。とくにサッカーでは、その過程に論理の力、という思考力が重要になってくるので、目的を持つことをはずせない、あくまで結果あっての過程になる。「楽しむ」という考えは私にはない。それは、何をもって「楽しい」とするかは人によりけりで、子どもをみてても、ふざけあってることが楽しむ主流になっている子もいれば、自分が試合にでていなくとも親友が活躍してチームが勝っていくことに一体感的な充実を楽しんでいる子もいる。
さらに、サッカーというゲームの本質上、あるいはリーグ戦という形式上、試合数をこなしていく中・上級生クラスともなれば、どういう試合展開になるかがやる前からほぼ読めてしまう。勝てないことがわかっているのに、勝つことにこだわるとは、単なる精神論になりかねない。こういう状態になるから、この子の成長にはこういう起用法がいいだろうと考える。うまい子、というよりも、どういう持ち味をもった子なのかを把握しておくことが重要になる。サッカーにも、野球のポジションとは違うが、相応に役割の違いがでてくるようだ。密集を気にしないタイプなのか、人ごみが嫌いでスペースに逃げたくなるタイプなのか、中央に寄って行く癖があるのか、後ろからの視界の確保でマイペースをつくっていくのか、自分の見たいものを本能的に見ていく・見分けていくタイプなのか、最前列でも最終ラインでもなく2列目や1.5列目付近からの視界確保や飛び出しのほうが力が発揮されるのか、サイドで張っていてぴんときたときだけいきなり動き始めるようなのか、右側が好きか左側がやりやすいのか、体の開き方やその向きにどんな癖があるか、判断は細かいのかおおざっぱなのか、状況におうじて行くのか好き嫌いで行くのか……コーチとしてチェックしてしまう部分はきりがない。相手事情や試合の重なりによって、どう子供たちの性向をポジショニングとして組み合わせていくか、かつその試合ではその性向を生け捕り的に生かそうとするのか、癖を修正させようとするのか、そのために結果へのリスクが予想されたらどうリスク管理を作っておくのか……と、また考えだすときりがない。試合をつくっていく、という前提だけでもこのような複雑さをはらんでくるのだから、上級生ともなれば勝ちにこだわっていくべきだという父兄の考えは、具体的にどういうやり方でということなのかよくわからなくなるし、逆に勝つことにこだわらず子供優先のプレーヤーズファーストでという方でも、いろいろなプレーヤー、相反する態度のプレーヤーをまとめる具体的処方箋をいだいているのか、考えていくレベルで発言しているのかが疑問になる。

とくに、子ども優先、というヨーロッパの思想には注意が必要だと私は考えている。大人は指図しないで子供に自由な発想でやらせようとすることと、幼少の頃からすでに専門的なポジションで育成しスカウティングや競争の激しいクラブチームの現状は、どう整合性がもたれているのか、日本にはいってきている主な情報だけでは理解できない。確かにたとえば、日本での野球だったなら、もう小学生にもなればピッチャーがやりたいとかキャッチャーがいいとか、どこのポジションについている誰のような選手になりたいとかと言える野球好きな子もいる。そうなれば、専門的にのびのび育てる、ということも見えてくる。野球のうまい子、といっても意味をもたない。ピッチャーとキャッチャーを比べてもしょうがない。同様に、サッカーのうまい子とが、ボールコントロールの秀でた子を意味するわけではなくなるだろう。前線の選手とボランチで育成されている選手とは比較できない。この場合、比較しない・できないとは、競争がなくみな平等的に扱われているということを意味してこない。すでにサッカーを知っているかどうか、その延長上でサッカーをやりたいのかどうかですでに子供たちが振り分けられていることを意味している。これは勉強でも同じだろう。ヨーロッパの多くの国では進学テストはないという。ならば楽か、というとそうでない。そんなことをしなくとも、すでに先生はその子の学力やモチベーションをしっているわけだから、進学して勉強するのか、職業学校に行くべきなのか、を振り分けていく、ということだ。もちろん、学力も動機も不十分でも、進学を希望するのは子供本人優先である。が、学校に入れても、授業についていけなければ進級も卒業もできない。そうした元での振り分けがなされた競争を前提にしている。だから、いい加減な動機の子が平等に扱われることはありえないのだ。しかし、この厳しさを、日本で真似しようとしても無理があるだろう。元での階級的な差別はなくても、尾のほうでの学歴差別や社会的評価の問題がでてくるからである。だから、親たちは勉強などしたくない子でも大学にまでいれなくてはならなくなる、そういうバイアスがかかってしまう。

と認識しているので、私はなんでサッカー部にいるのかよくわからない動機の子、あるいはまだその成長や自覚が不十分な子でも、注意はするが、深追いしない、そのきっかけが小学生では訪れず、中学や高校になってから、ということもあるかもしれない、と時間軸を大きくとる。大人になっても自覚できないかもしれない。そういう大人もいる、という情報は子供にあたえ、自分はどういう大人になりたいのか、と問うてみることだけができるだけ、と考えている。ゆえに、なおさら、日本の少年サッカークラブが、勝ちにこだわってはいけない、と結論するのだ。そしてそれで、世界で、勝てるわけがない。しかしその長いスパンでの自己認識だけが、自然成長的に、勝ちを目指しているその結果を呼び込んで来るのだと思っている。これは、逆説だろうか?

U-17日本代表監督の吉武氏の、ワールドカップ決勝トーナメント初戦でのスエェーデン戦敗退後の発言はおもしろい。見事なポゼッションサッカーが目標なのではない、それだけでは世界で勝てないかもしれない、しかし、10年に一人の天才があらわれたとき、そのサッカーはその天才を受け入れ生かすサッカーになるのではないのか、と言うのだ。実際、そのU-17の試合をテレビでみていておもったのは、バルセロナばりのサッカーをしていても、メッシがいない、ということだ。おそらくそこらへんが、メディアで決定力不足という日本の課題をこの世代は繰り返した、と評価された理由だろう。が、吉武氏は、あえて、そうしたメッシまがいの個の強い選手を選考から外して、凡庸に徹したのである。しかもそれは、将来のメッシを日本サッカーが受け入れられる土台を作っていくためなのである。なんと西洋的な論理、ロゴスに合致した発想だろう! と私は感心した。これはもうメシア願望(最後の審判)の下に自己の態度を構築していくキリスト教論理の受肉化である。中学の数学教師だったという吉武氏は、その数学の本質性をよく理解している人物なのだろう。論理(数学)とが、単なる辻褄合わせではなく、信仰なのだ、不合理な力なのだ、ということを理解しているのである。それをサッカーの原理性として根底にすえ実践してみせること。ここには、世界で生き抜いていく日本の子供たちの成長の鍵が秘められているとおもう。日本は凡庸でも、天才=普遍的な存在を受け入れる寛容さを準備する、教育する……昨今の総理大臣にこそ教えたくなるような方針である。