2014年7月20日日曜日

ザック・ジャパンと育成問題

「余談ではありますが、私は近年の日本の育成現場で流行っている「教え過ぎない指導」、「ボトムアップ理論」には少し危機感を覚えます。おそらく、こうした指導や理論は「指導者が常に指示を出して選手を機械的に動かすのを避けましょう」という意味なのでしょうが、私は指導者が選手にサッカーのプレーの仕方を教えなければ選手がサッカーを学ぶことはできないと考えています。」
「私的な意見ですが、日本サッカーの育成年代においては戦術指導への理解と戦術指導のできる指導者がもっともっと増えていくべきだと思っています。スペインでは育成年代から当たり前のように戦術指導が行われ、それが大人になった時のパフォーマンスにつながっています。これは私がスペインで6年間指導をして得た結論の1つです。」(坪井健太郎著『サッカーの新しい教科書』 KANZEN])

ネットなどの記事によると、元サッカー日本代表監督のザック氏は、アジア杯で優勝したあたりからだったか、途中で自分のやり方を選手に指導するのではなく、選手に任せる方向に方針を変えたという。ブラジルW杯後のインタビューなどを考慮すると、私見では、おそらくザック氏は日本人の人柄や文化に惚れてしまったのだろう。誠実で真面目なこの選手たちをまえに、口うるさく言うことから降りてしまったのだろう。しかし、本心は、彼らの能力や真剣さでは世界では勝てない、という認識はあったのだろう。だから、いきなり本番の試合で方針をかえた、自分の色をだした。結局本試合で長い起用をされたフォワードは経験豊富な大久保であって柿谷でなく、終了間際にはパワープレーの指示をだす。「勇気」をもっていつものプレーができる(た)か否か、という視点からザック氏はW杯予選リーグ落ちを評価したが、一番に「勇気」を欠いて普段とは違う方針に転換したのは監督本人だったようにみえる。あるいは、たしかに、相手のドロクバより先に大久保の選手交代がなされていたら、とか、偶然的にも日本が初戦に勝って決勝トーナメントへ進出できた可能性もまるきりなかったわけではないようにもみえる。が、大会全体からみたら、やはり日本の実力は、世界大会レベルで互角に戦えるレベルにはないと、まずは球際での真剣さレベルでそう思わざるを得ない。だから、私たち第三者がとる態度とは、勝った負けたの結果からではなく、勝っても負けても存在してしまうだろうその問題点を認識分析し、それを克服していくよう持続的な方針を理念として握持しておくことだろう。そういう評価の視点からして、ザック・ジャパンのW杯での惨敗は、育成年代でのサッカー指導の問題点、矛盾点をあぶりだしてくれたのではないかとおもう。

要は、ヨーロッパ人のザック氏は、日本にきてプレイヤーズ・ファーストという方針で普段の練習・試合に臨んだ。が、ぶっつけ本番で、監督の戦術的な色をだしたのだ。このブログでも、選手(子供)優先のサッカーというヨーロッパからの指導方針と、その日本少年サッカーをヨーロッパのコーチがみていう、「日本の子どもたちはテクニックはすぐれているが、戦術的理解がない」という評価とは、矛盾しているのではないか、と指摘してきた。自由にやるのと、作戦を理解してやるのと。この矛盾点を、日本のサッカー協会は理論的に解決していない、そのことが、育成の現場でも、各コーチの指導法のちぐはぐさやパパコーチ同志の確執として現れてくる、と。私自身はこの矛盾を、自由とが、算数の問題を解く自由と理解すれば、それは矛盾ではなく、本来的な思考態度として引き受けていく前提なのだ、と理解した。靴紐のリボン結びという例題を比喩に使いながら。そういう見方をしていた、哲学教養が前提にある私には、上の坪井氏の提言や、W杯の分析での指摘は首肯しうるものである。しかし、坪井氏の提言をそのまま日本に輸入するような発想だと、つまりは、例題からただパターンを暗記・習得していくだけの、明治以降の遅れた近代化の日本の態度のままだと、結局は、同じことになってしまうだろうと、危惧する。

<日本人選手は「ボール扱い」に関しては世界でも有数のレベルにありますが、これはボール扱いに関して非常に高いレベルでの自動化がなされているということなのです。
 さらに日本のサッカーがレベルアップするためには、戦術の経験値と戦術メモリーの蓄積を図り、戦術的にも自動化を図ることが必要です。>(同上)

W杯でのドイツの優勝が意味するものとは、この戦術の「自動化」である。社会学的にいえば、それはサッカーのエリート化、「官僚化」を意味する。徹底的にパターン・定石を暗記しておくこと。そのバリエーションのデータ化とそれに対応するオートマティック(組織・集団的)な対応の暗記・訓練化こそが、現在と今後の世界の潮流になっていくだろうと。坪井氏は、そう純粋にサッカー分野でのことを考えているので、この事態にまつわる文脈、とくには日本というアジアあるいは世界の途上国の中でいち早く近代化をなしとげた教育システムにまつわる社会問題上の諸文脈については、無意識であろう。ボール・コントロールといったテクニックのレベルであれ、戦術上のことであれ、それが「自動化」(暗記反復化)される発想を伴ったとき、遅れてそれを学ぶ側には、その動機自体は学ばれない。ゆえにまた、自分の本来性といったものに拘らないで変化できる、できた日本の文化的土壌でこそ、ためらいもなく暗記教育にまい進し、遅れた近代化を見かけ上はなしとげることができた、というのが人文的な一般的教養であろう。そして日本ではとくに、その暗記主義、人間の自動化=兵士化を、世界と戦うという現実的政策として、エリートだけでなく、全国民的に総動員しなければならなかった。日本の運動部や会社の新人教育に、上官―下士官と相似の、先輩(上司)―後輩(部下)的な不合理で暴力的な上下関係が導入というより普及してしまっているのは、そのためである。疑似封建制が、社会のあらゆるレベルではびこってしまったのは、軍隊教育を経た戦後になってこそなのである。(読売巨人軍の桑田選手が、引退後早稲田大学の大学院でテーマとして追求したのも、この運動部における暴力の社会・歴史的な考察である。)だから、もし、サッカーの指導もが、個人テクニックをこえて、チーム・集団的な戦術の暗記、監督の作戦理解、といった位相に移行すると、おそらく、この暴力主義が復古精神的に、日本の地として、露呈してくる、そちらにバイアスがかかっていくだろう、と予想されてしまうのだ。「プレイヤーズ・ファースト」を日本のサッカー連盟として普及させていこうとしている池上正氏は、その方向へ転換するきっかけは、自分が選手に対してしてしまった暴力からだったという。それは、曲がった棒をもとにもどすというアルチュセール的なイデイオロギー対応として正当である。もし日本が、より一層の暗記エリート主義にまい進しようとするならば、近代化過程での特殊文脈としての地にからめとられてしまうだろう。現に、子供への育成現場で、その兆候は表れ増加傾向にあるのではないかと推察される。しかし、暗記しても、そうする動機、モチベーションは獲得されえない。ヨーロッパのサッカーが、たえずフィールド上に真理を、ゴール(ゴッド)へむけての真実を追求していくその科学的な合理精神として進化発展してくのは、まったくの不合理な、キリスト教的な情熱、と呼べるものから出来しているのであろう。結局は、どんなに暗記がうまくいっても、0点におさめられることが理論的な結論であって、ゴールは、つまりは神への信仰は獲得されないのである。

しかも、日本の、日本人の底力として発揮されるかもしれぬ情熱、モチベーションは、近代化の過程での追い付き・追い越せ的な情熱、戦国時代の武将群像によって象徴化される男の通俗的な歴史ロマンにあるだけではない。渡辺京二氏が『逝きし世の面影』で前景化してみせてくれたように、何よりも子供優先の社会であり、庶民文化であった。むしろ、近代においてはじめてなように「子供の発見」をしなくてならなかったヨーロッパと違って、日本の庶民社会の間では、近代的に子供の自由を認めてやれた前近代的な社会だったのである。だから、具体的にサッカーの育成現場でも、パパコーチの近代的な父系的厳しさと、前近代的な双系的(父系と母系の特徴が並列同居的)な甘えが、指導作法として混然としてしまう。私なども実際、「曖昧な日本の私」(大江健三郎のノーベル賞受賞講演タイトル)になってしまう。しかしそれでも、「暴力」にバイアスがかかるぐらいなら、何もしないでほったらかしにしていたほうがマシであろう、とおもう。

だから、理論的な実際は、以上のことを考慮したうえでの、各コーチ自身の内省と各子供への洞察と、それの実践へ向けての手腕ということになる。その個人の力自体が難しいのだ。たとえ、一般的に、理論的な解がわかっていたとしても。アトレチコ・マドリードの監督の戦術を問題とするだけではなく、あのきかん棒な選手たちにどうやってその方針を浸透させてモチベーションをあげていったのか、その監督個人のノウハウこそが問題で重要なのだ、とする指摘もあるように。「プレイヤーズ・ファースト」を実践する池上氏でも、子供に勝手なことをさせているわけではなくて、その現場での洞察に従った、しかも各子供ひとりひとりへの洞察にしたがった、臨機応変な実践力で対応しているのだろう。それは、ハウツー的に、パターンとして学べるようなものではないであろう。

<サッカーをする本当の楽しさは、真剣にプレーして、負けると悔しくて、もっと練習してうまくなりたい! と感じることです。練習中に仲間とふざけ合っている楽しさは、サッカーを楽しんでいることではありません。一生懸命取り組んでいるのなら、ぜひ見守ってあげてください。>(池上正著『少年サッカーは9割親で決まる』 KANZEN)

私は、日本のサッカー現場における(サッカーにかぎらないが)、育成の方針は、やはり上記の池上氏の考えが大枠でいいとおもう。しかし、指導する具体的な内容において、若いコーチたちが勇気果敢に現地へもぐりこんで内側からつかんできた情報をいかしていく、フィードバックしていく更新転換の体制を、日本のサッカー協会はとっていくべきであろうとおもう。

*ほか、サッカー育成問題に関わるブログ
2012.7 「ユーロ・サッカーから――世界とコーチング
2013.5 「サッカーと戦争(ロジックとロジスティック)」/「数と形(サッカーと政治)
2013.8 「夏休みの宿題にみる戦争(サッカー)の論理
2013.12 「少年サッカークラブの育成から
2014.2 「サッカー<プレイヤーズ・ファースト>の自由」