2014年5月21日水曜日

植物とこころ

「私は、植物とは感情のやり取りをする間柄ではないが、植物が生を宿していることを尊重する気持ちには、揺るぎがない。人はしばしば「生きている」ということと、「感情のやり取りができる」ということとを、直接イコールで結びがちなようだ。しかしそれは違う。生きていることと、感情のやり取りができることとの間には、かなりの飛躍がある。このあたり、文化的な問題もたくさんあるし、それこそ人間の脳死問題と直結する鍵でもある。「感情移入できる」ことと「生きていること」がイコールだという発想は、非常に危険だ。裏返せば、これは「感情移入できない」=「話が合わない」ものは、人間であろうと生きていないのと同じ、ということにもなりかねないからである。つまるところ、民族紛争や宗教対立はこれと同じではあるまいか。」

「現在多くの医学系研究者が探している条件、つまりはほ乳類でも体細胞の分化全能性を引き出すことのできる条件が、今後発見されると、医学水準は急激に変化することだろう。…(略)…そのうえ、これら全能性のある幹細胞研究に先んじれば、将来の医療ビジネスでも、戦略的に研究を進めることができる、というわけだろう。いっぽう日本では、ゲノムプロジェクトに政府・民間企業が消極的であったため、アイデアでは先んじていたのに、あっという間に取り残されたばかりか、クローン人間に対する感情的嫌悪感から、この胚性幹細胞の研究までもが、よりによって一時的に禁止されたりもした。願わくは、この措置が、国家戦略の誤算ではなかったことを祈りたい」

「きっと将来は、こうした幹細胞の利用により、ヒトのいのちの見方は、植物のいのちを見る見方に変わらざるを、少なくとも近づかざるを得なくなるはずである。病気や怪我の治療は格段に容易になるだろう。事故で手足を失った人も、自分の体の一部に分化全能性を発揮させることで、自分の手足を取り戻すことができるようになるかもしれない。これを喜ばない人はいないと思う。一方、体の修復が容易、あるいはいつでもやり直しがきくということから、美容のための整形は体の隅々にまで及び、盆栽の剪定なみに気軽に行なわれるようになるかもしれない。いや、それどころかソメイヨシノのように美しい個体は、クローンで増やされる時代も来るかもしれない。それを不気味と思うかどうかは、植物的な生命感をヒト社会にも受け入れることができるかどうか、という一点にかかっている。」(塚谷裕一著『植物のこころ』 岩波新書)

植木屋だからということもあって、15年前に書かれた上引用の植物の本を読んでいると、「スタップ細胞はあります!」と泣き叫んだ女性の背景に、どんな社会的・時代的圧力がかかっているかがうかがえてくる。その万能細胞の発見発表のまえに、製薬会社関連の株売買があって政治家がからんでいたのではないかという疑いや、東大・京大の派閥支配の学者社会の中で早稲田理工の女子が犠牲になったという意見、まして「国家戦略」にまでなる分野だそうだから、追い越され遅れた日本の巻き返しの焦りとアメリカとの思惑との間で、陰謀まがいの政治的やり取りもがあったのかもしれない。真相の全体を知っている当事者は、おそらく誰もいまい、とオレオレ詐欺組織の実態と同様なのだと推察するが、この植物学者の塚本氏の話を読むかぎり、「スタップ細胞」というか、万能細胞がある、というのは「いのち」にの在り方にとって前提的らしい。その潜在能力、才能のスイッチを入れる、発現・発芽・させる人為的条件が発見・発明されたかはわからないが。

去年小学4年のサッカー・トレーニングセンター選抜試験では落ちた一希が、先月の5学年試験ではゴールキーパー候補として合格した。テスト前、所属チームでやっていると申告したフォワードとキーパーのうち、どちらかを選んでとテスト・コーチからいわれて、一度フィールド・プレーヤーとして落ちたものだから、キーパーでなら受かるかもしれないと、そう自身で判断したそうだ。もぐりこんでしまえば、いわばみなとの一緒の練習が中心だから、コーチからも「足先がやわらかくてドリブルがうまいね」とほめられて、フィールドプレーヤーとして調子づいている。周りの上手な子たちを抜きはじめたので、試合でも状況とは関係なく余分なドリブルで仕掛けては失敗する。「試してみたかった」というが、それならまあいいだろう。個人能力や技術に落差の大きいチーム内では、なかなか素早いプレスの中での対応技術がみにつかなかった。環境に必要がないので、いくらコーチングしても、理解できなかったのだ。日本で英語の勉強しても、その生活的な必要がないので、なんでそんなことまでするの、と、モチベーション的なレベルでまずつまずいてしまうのと似ている。一希と一緒にテストを受けたもう一人の子も、前評判は他チームのコーチの間でもよかったのだが、その必要ないところで安泰してしまった必死さのうかがえないプレーで落選してしまったのだろう。一希もテスト中、強いチームの子たちの早く強いプレスの連続にびびったプレーをしていたけれど、自分は受かってみんなと一緒にやってみたいんだという真剣さがひしひしと伝わってくるプレーだった。しかしいまは、というか、たった二回センターの練習に参加しただけで、はやその状況に適応し、そこでの必要な技術を発揮している。もう一人の子も、なんとかもぐりこめれば、一希以上に素早く適応し、自らの才能を発現・発芽させてただろうに。つまり必要なのは、その潜在性を発揮させる環境条件にあるのだ、ということだ。

しかし、人間には「こころ」があるのではなかろうか? もしその子が、プレスのかかった練習環境にある強いチームに入って、コーチからの厳しい指摘も受けながら、たとえそこでの技術を身につけたとしても、内心にはどこか歪みを生じさせないだろうか? 発育にあわない、早すぎた習得は、なんでこんなことまでするのか、という疑問を自身に納得理解させる暇を与えない。いわば詰め込み教育である。トレセン試験中、かつて同じチームメイトで、いまは上手になりたいと強いチームに移籍していった子は、「俺トレセン落ちたらサッカーやめるよ」と、言っていたという。それは、本末転倒した事態ではないだろうか? トレセンの練習中でも、すでに二段階上の地域トレセンにも選ばれている強豪チームのキーパーの子は、「俺キーパーしたくなかったんだよ」、ともらしていたという。サッカーやりたいからと入部して、すぐにキーパー専門として育てられる、というのは、その子の「こころ」に、やはり何か歪みを発生させないのだろうか?

万能細胞が開発されて、つまり、われわれの身体の潜在能力を発現させる適応条件が解明されて実現されるとき、それが早すぎた適応としてわれわれに「こころ」の歪みをも抱え込まさせるともかぎらない。それは社会に対し、歪んだ判断をも根付かせてゆく。いやそもそも、植物にも「こころ」があるとしたら? その「こころ」は、学者が植物のいのちの在り方、継続の仕方から解釈する「生命観」ではなく、われわれにはうかがい知れない「こころ」である。