2008年9月18日木曜日

スポーツと政治と真剣さ


「今日の決定力不足の原因はここにある。/10番がもてはやされる背景には、誤解も多分に含まれていた。10番を攻撃的MF、あるいは司令塔という「日本語」で括ったことにある。そこから連想するイメージは、「決める」ではなく「作る」となる。」「決定力不足を、フォワードの決定力不足や能力不足、人材不足のせいにしている限り、決定力は解消されない。この問題は、フォワードが育まれにくい性質を抱えた日本サッカー界が、永遠に背負っていかなければならない十字架だと割り切らなければ、改善は不可能である。/ゴール前で、決定力のないフォワードに、難易度の低いシュートをいかにしたらきめさせることができるか、そこに英知を傾ける必要がある。発想の始点を自軍ゴールではなく、相手ゴールに求め、そこからフィードバックする形でゴール攻略の図案を描く勇気が持てるか。それに伴うリスクを容認することができるか。その割り切りが決定力不足解消のカギになる。」(『4-2-3-1 サッカーを戦術から理解する』杉山茂樹著 光文社新書)

植木職人としてその世界で働きはじめてまだ2・3年でしかない頃、仕事が終わった後の酒の席で、こんな議論をしたことがあった。「おまえはまだお客さんだ」と親方が呼ぶこの私が、ではどこまで親方や年上の職人の言うことをきくのか、というのである。私はそんな質問自体をなんでするのか怪訝におもいながら、自分では常識とおもう返答を繰り返していた。が、それが通じない、というか噛みあわない。端から聞いていた大工職人が私の話しを解説するように助太刀する。「だから言う事はきくけど、おまえ死ねとか、そんな極端なことには従わない、ということだよ。」と。私が当たり前のようにうなずくと、「えっ、そうなの?」と親方はびっくりしたように聞き返す。私はびっくりされたことに唖然とする。他に、答えがあるのか? 死ねと言われて死ぬ奴がいるのか? ……さらに、そんな議論を平然と聞いていた周りの人たちの様子、というかこの世界の落ち着きは、いまなお不思議なバリアとなって私を「客人」として問いかけてくる。
もちろん一般論的には、親方(社長)の「運命共同体」的な価値=イデオロギー性の欺瞞を指摘するのは容易である。社員を死ぬまで終身面倒をみるという日本的経営思想は、単に不景気ともなればいとも簡単に捨てられて、いまやヤクザ組織でさえパート的な人員ですましていつでも首を切れるように個人をして仕向けているという。死んでもついてくるような侠気=忠義を持つ者など迷惑千万な話になるだろう。しかし、学者の丸山真男が官僚社会と封建社会にみられる忠誠の在り方に区別をしてみせたように、私の目前に落ちた職人的世界の雰囲気には、そうしたジャーナリズム的な一般論では割り切れない説得力が残存しているように思えるのである。つまりそこには、一つの真剣さが、文字通りの<真剣>という語義に迫ってくるような力が伝承されている、ということである。

私は潜在してしまっているかもしれないこの<力>を現実として認める。要は、官僚的なシステム主体、うわべの取り繕いで責任=死を回避して持ちまわっているような形式主義よりはずっとましだと。しかしそれゆえに、やはりその<真剣>さの在り方のもろさ弱さを思わずにはいられない。日本のサッカー界でもいわれる<決定力不足>も、この<真剣>さが孕む両義性に遠因しているようにおもえる。上に引用した杉山氏も、これを日本の伝統的なあり方と結びつけて把握している(『戦う国家』文芸春秋)。サッカーのことはわからないので野球を例にとると、よく内野手で、腰を落として捕れ、とコーチされる。確かにその構えは、ボールを後ろにそらす確率をひくくする。しかしその形だけでは、実はトンネルを押さえることはできないのだ。少年野球などでは、ボールが通り過ぎてからしゃがみこむ姿がみられるかもしれない。日本の場合、子ども相手だったならば、それでも腰を落とすという基本を実践したので叱られない場合が多いだろう。前にでてエラーしたのだからいいのだ、とかも。子どもはコーチから叱られないようにとその形だけを反復する。その結果、捕球率というアベレージはあがるだろう。しかし中学・高校ともなれば、そんな形を保持しても、こんな状況でエラーする奴があるか、と突然結果重視になるだろう。野球でもサッカーでも、日本の子どもの世界ランクは高い。平均的な技術力は高いのだ。しかし大人になると弱くなる。試合を決めるのが技術力というよりは判断力になってくるからだ。この「技術力(うまさ)」と「判断力(強さ)」との乖離を、杉山氏もサッカー界での識者の意見を紹介しながら指摘している。――「角を削って小さな丸にする傾向が指導者には強い。角を生かしながら大きな丸を形成していくべきですが、ストライカーに必要な尖った部分は育成段階で削られている。打って、外して、怒られる。指導者がアラ探しをすることで、子供たちは責任を他人に委ねるプレーに走る。指導者には誉めるゆとりが必要です。」「身体が大きくて足が速い。子供の頃、得点王になるのは大抵そんな子供ですが、それがユース年代に入って壁に当たると、直ぐにDFに転向させてしまう。勝利を目指すには、その方が手っ取り早いですからね。」(「日本スポーツ界にはびこる勝利至上主義」前掲書)。……ここには、子供の時は「過程」が大事、と教えておきながら、大人になると「結果」が大事、となってしまう非論理的な移行=断絶がある。子供はこのああいえばこういうような態度にとまどい、自分で判断することがばかばかしくなってやめることになるのだ。ならば、この「断絶」を架橋していくものはなんなのか? 論理レベルでは、「過程」が大事、と言い続けることだ。つまり、「誉め」つづけることである。がもっと重要なのは、<形>ではなく、<真剣さ>を導入することである。内野手でいう「腰をひくくしてとる」ということの実質的な意味は、ボールを下から見る癖をつけることにある。下から見れてなかったならば、腰をおとしても地面に(下から)バウンドしてくるボールの動きを見る眼に死角ができやすいため、一瞬見失う場合があるのだ。そして下からみれていれば、腰など高くとも捕球はより確実になり、むしろ尻をついてないだけイレギュラーにも反応できるようになる。が、下から見る、とは形の問題ではなく、意志の問題である。その癖をつけるには、一球一球を<真剣>に取り組むしかないのだ。文芸批評家の柄谷行人氏は、数学上の基礎公式の不在を証明したゲーデル問題にかこつけて、スポーツ選手は「形式主義者の悲哀」をしっているはずだ、と言っていたが、その悲哀を乗り越えていかせるのは<真剣さ>である。アメリカのマイナーリーグが日本のプロの2軍とちがって、練習よりも試合をこなすことに重きが置かれているのも、この実質=真剣さと関係しているとおもう。そして勝負強さ(決定力)とは、真剣さの度合いに他ならない。

私は、この<真剣さ>が日本の職人世界に残存していると認めている。が問題なのは、勝負ごとには、何を戦うのか、という目的(相手)がいるということである。練習を真剣にやる、とはほむべき事だが、語義矛盾である。相手がいて、はじめて真剣による勝負が成立するのだから。だから職人世界に真剣さがあるとするならば、そこに相手がいるからだ。それはむろん、師弟関係ということである。日本ではいちおう、封建的な野球部のほうが民主的なサッカー部よりも勝負強いのは、そうした上下関係がはっきりしているからだ、というのが私の意見でもある。しかし子分がおっかない親分を相手に真剣にならなくてはしょうがないとしても、ならば、親分の相手は誰(何)なのだ? 親分は、真剣なのだろうか? 職人がああやるとこういって屈服させているだけなら、それはマルクスが権力関係で指摘していう「放恣の反動」にしかならないだろう。そして私の見聞では、やはりそれ以上でも以下でもない、というところにおいて弱くなる。冒頭引用の杉山氏の著作を読むと、ヨーロッパのサッカーの監督がいかに理想をもった哲学者であるかがわかる。そして私が「やはり」、というのは、このような指摘は、たとえば俗に日本人にはビジョンがない、とかで、よく言われていることでもあるからだ。しかし私は「アラさがし」がしたいのではない。日本人にも<真剣さ>がある、と誉め続けたい、ということである。そしてそれゆえに、次期自民党総裁と思される麻生とうがいう「道州制」議論に、ほんとうに<真剣さ>があるのか怪訝におもう、ということだ。

<米海兵隊のグアム移転や自衛隊の共同使用、嘉手納以南の返還など、在沖米軍基地のありようが激変する要素を盛り込んだ米軍再編。その実施時期が、地方に「自己責任」を強いる道州制の導入や、税制面などの「沖縄特例」が消える過渡期と重なったことは沖縄にとって大きな意味をもつ。>(沖縄タイムス「特集・連載『アメとムチ』の構図~普天間移設の内幕~」)
<さらに医療費や介護費、福祉費や教育費、農漁業費、中小企業の振興費などをつぎつぎに削減してきて、いよいよ市町村もつぶして経費削減をするが、それで借金払いをするものではない。それ以上に、アメリカのグローバル化戦略と、同じアメリカが要求する有事法法制化のたくらみと切り離して考えることはできない。戦争をやるということは財政をともなうことであり、戦時財政の準備をしているとみるほかはない。湾岸戦争でアメリカの戦費を負担したが、いまやろうとしている戦争はアメリカの戦争の下請をやるというものであり、その戦争の戦費調達を考えているといえる。>(長周新聞「戦時国家作りの市町村合併」)

私は、日本に残存している<真剣さ>が封建的なるものと結びついているらしいことから、それは鎌倉幕府に集約されていったような地域性と関連しているとおもう。それは、東国的なものの理念、もののふの道、武士道、といったものと重なってくるのかもしれない。最近では、新渡戸稲造が説いたような「武士道」とは近代的なきれいごと(ロマンス)の見方であって、ほんとうの武士道とは勝つためにはなんでもありというような結果主義、血なまぐさいものだったのだ、と反論されるようである。私としては、こんな現今の日本のスポーツ界のようなエセ「勝利至上主義」の、いいかえれば勝ち組負け組みの新自由主義的な考えをもっともらしく受け入れてしまうからこそ、いつまでたっても「強く」ならないのだと考える。あくまで、いかに勝つか、と考え意志する「過程(論理・思想)」が重要なのだ。しかしアメリカとの「運命共同体」発言の中曽根からはじまって小泉、そして麻生へとゆくかもしれない勝利の方程式は、自分が親分だったらどうするのか、ということを思考しているとは思えない。それでは、勝つのはアメリカだ、と誓っているようなものである。官僚をぶっこわす、というよりは、官僚的なシステム遊戯、形式論で責任=死を回避し逃げ回っているようにしかうつらない。麻生の口調は、小泉同様、じっさいふざけていないだろうか? そのどこに、<真剣さ>がうかがえるのだろうか?