2008年10月13日月曜日

フリーターと職人とマネーゲーム


「かれらは実際の生活のくるしさ(それはすでに何年もたえて来た者が多い)にたえかねたのでなく、時代の気分の動きに抗しきれなかった。時代の気分の動きに流されぬだけの自分の実感の上にたつことができなかったのである。おなじ時代に、生活綴り方運動は、自分たちの生活条件にゆるされた範囲の目立たぬ抵抗をつづけた。」(久野収・鶴見俊輔著『現代日本の思想―その五つの渦―』岩波新書)

先月の給料日、アメリカの大手証券会社がつぶれたという報道を横目に、その現金の入った封筒を女房にわたしながら、「今月は預金しなくといい。」というと、「どうして?」と女房さっそく食ってかかってくる。「いつどうなるかわからないだろう?」と返答すると、「銀行がつぶれるなんて、そんな民間信仰を信じているの?」と啖呵を切ってくる。私はあきれかえる。ローン組んでマンション買おうなどと言っているおまえのほうこそが世のシステムを呑気に信じている輩なのではないか? 私の財布には多いときでも2・3万円しかはいっていない。これじゃ地震災害のときでもさもしすぎることになろう。「こんなの小遣いの額だろが!」と声をあらげると、「日本はすでに金融危機を経験しているからアメリカがバブル期を追随しているだけだ、焦げ付きとは預金が保証されないということではなくて……」と、中高校生程度の優等生的回答をぐだぐだと言い始める。「ヤクザもんはな、」と私は話を打ち切る。「所持金みんなポケットにいれて裸現金で持ちあるいているもんだ。それはシステムなど信じてねえからだ、そっちのほうが利巧だろが!」「泥棒がはいったらどうするのよ!」と女房。「銀行にあずけとくより泥棒にとられたほうがマシだろが!」と私。……そして今月にはいって、株価が8000円台をつけ、またまた日本の生保までつぶれてくるのをみると、やっと女房は大人しくなるのだった。おそらく、親からゆずってもらった株の価値の下落幅に、現実感をもったのかもしれない。私自身は、世界恐慌にでも本当になったら、いまでさえ昼飯時など銀行は混雑するのに、預金を引き出すのにも行列ができるようになって並ぶのが面倒くさくなるだろうな、と考えただけなのだが。

10年以上も前だったら、たとえば、浅田彰氏のような論者でも、今ではサミットなどの世界会議で世界的な協調政策がとられるから世界恐慌をおこさない制度的な枠組みができている、と発言していたりして、カタストロフィーを期待してしまう民間信仰はむしろ抑制されていただろう。がいまその同氏が、同じ発言を繰り返すかどうかはわからないだろう、と私は思う。そういう徴候というより発症として、リーマン・ブラザーズのような証券会社の破綻があるようにみえた。徴候としては、日本のlivedoorの証券商品を、おそらくフリーターと自称するような者までもが購入していた、というところにも現れていたように、株とうの金融商品と関わる必要もない末端的庶民までもが投資世界に参加している、サブプライムローンとやらも、普通なら家など購入できない下層階級者が借入できるようになったことから発している、むろんどちらも、アメリカの新自由政策によって法制度が改定され後押しされて出てきた動きなのだが。要は、社会的信用など持ちようのない人々までもが借金という信用(架空)資金を膨張させて、もはや諸国家が統制できる資金量を超えてしまっているのではないか、とおもえたのだ。先週のNHKの特集番組では、「兆」を越えて「京」とかいう単位にたっする世界の資金量データを提示していたが。それと私がおもったのは、もはや各国の思惑に統制がつくともおもわれない、ということ。各々がサバイバルのために手の内あかさず隙あらば抜け駆けして、と考えはじめているのではないか? 北京オリンピック中におきたグルジア紛争の顛末などは、その症候だ。今回の金融危機のために設けたG7の会議でも、本当に真剣なのかどうかわからないと私はおもっている。今日のニュースをみると、週明けの株価は上昇したということだが、資本主義の世界システム自体が問題(標的)になってきたことが明るみにだされてきたわけだから、もはや延命策にもならないだろう。かつてのソ連を中心とした社会主義圏という資本世界の歯止めがなくなってしまっている今日では、資本主義各国が公的資金を導入して社会主義的政策をとるはめにもなるわけだが、各国首脳は、自分の利害を念頭にその矛盾を利用しようとしているのではないか? アメリカの下層階級の借金というウィールスが世界中にばらまかれてその上層階級のシステム自体を破綻させてしまっているとは、歴史の皮肉ではあるだろうが、それを救う(復原する)、という建前のもとに、またまた税金という庶民の現金を世界中にばらまこうというのは、負け組み庶民の間に普及させた資本信仰をより絶望的に深めてしまうことになるのではないか? 架空に分割された100円株を買っていたフリーターや、借金で買った家をピストルで脅されて出て行かされた移民たちも、自分をなぐさめるように世界システムの安定に安心する。それはちょうど、負けが込み始めた賭け事で、その場を仕切るカジノがつぶれるより、手元に残ったチップが少しでも現金に戻されることにほっとするゲーム者のように。そういえば、ソウルへ旅行したときのカジノでも、他の職人さんは損をみると、これ以上損失をかかえないようにと現金にもどしてやめていくのだった。私は遊びにきているのだからと、つぎ込んだ額がなくなるまでやっていた。生活費にかかわる予算まで、賭け事にまわすわけにははじめからいかないので、割り切って考えることができる。私はそれが堅実だと考えるので、損失がこわくて萎縮する多くの人たちと、それを前提に作られる世の仕組みは、だからはじめから堅実を放棄しているようにみえるのだが、しかし実際は、投資世界に参加して利益(子)を増やそうともしないものは不合理なバカだという自由な風潮があったわけなのだった……ならば、なんでこの資本主義の荒波をサーフィンのように愉しまないのだろう?

<マンションやマイホームなどというものは、カネがある人間がキャッシュで買うものだ。そのカネがない人間は、賃貸暮らしで十分なのである。新興住宅地の小綺麗な建て売り住宅か何かに暮らすことが理想などというのは、かつて国やら住宅産業やらがしかけたキャンペーンにすぎない。/そんな幻想をいまだに追い求めて、あげくにローンを組んでいる場合ではない。毎日二時間ばかり会社まで電車に揺られ、さて老後になって、何のために一生懸命働いたのかと考えたとき、「結局、家のローンを返すためでした」というのでは、あまりにも哀しい。…(略)…一寸先は闇である。人生設計など描くだけ野暮なのだ。プランに従って生きても、面白くとも何ともない。先のことが分からないからこそ、人生は楽しいのである。(宮崎学著『地下経済』青春出版社)>

自分でもドル預金して為替のリスクを抱えていれば、少しは経済の勉強をするだろうと、預金の半分くらいをcitybankにドルで預けたのはもう10数年もまえだ。円高のときだったので、数年かけての円安傾向は、結局20万円くらい差益をだし、その分を円に換金した。いまも同様円高なのだが、ドルを売って円にもどそうとしている人が逆におおい、だからますます円高になるわけだが。株だって、安い今が買いどきなのに、とにかく売って現金を所持しようと大半の人があせっている。私ははじめからマネーゲーム、経済の勉強とわりきったところからはじめているから、セオリーどおり、いまは円高だから、もうけたときに両替した円でまたドルを購入して預金しておこう、と考える。Citybankが身売りなり倒産して預金がもどってこなくとも、それが社会勉強だ。自分の体を使って考える、実験する、私には、それしかできない。というか、やる気が起きない。私小説家、というのが私の立場なのだろう。フリーターになって、職人になって……次に何になろうか、というよりも、やはり世界のビジョンが欲しい、と窒息しそうなのは、マネーゲームに飽きてきた世の通念的意向なのか、私小説家としての身体的渇望なのだろうか?