2018年4月10日火曜日

西部氏の死

身禄の墓
「「我は六十八歳までの寿命なれども、六十三歳にして、丑の六月十三日を命日とし、とそつ天之三国の万ごうの峰の鏡に身を参り候」と意思を表示しているのである。身禄が六十三歳で死を決意した年は、享保十八年(一七三三)である。この社会背景には、日本橋本石町の米屋高間伝兵衛たちによる米の買い占めがあった。高間伝兵衛ほか七名だけに、幕府は上方からの米の荷受けの権限を与えたのであるが、折柄、享保十七年に起った西日本地方の蝗害による影響で、いわゆる大飢饉が発生し、米価は高騰するばかりであった。その元凶を高間伝兵衛の買い占めに求めたのが、当時の庶民の意識であり、享保十八年二月には、江戸における最初の打ちこわしが起こったのである。…(略)…その高間を使っている幕府の役人たちを含めて、この世は末世に至ったというのであり、「ぬめのよし原」つまり泥海に化しているという終末観が示されているのである。
 富士山頂に近い釈迦の割石を、「とそつ天」つまり弥勒の浄土に見立てているのは、彼の入定の行為が、弥勒仏出現を前提にしていることを予測させるものであろう。
 身禄行者にとっては、富士講の主張する終末の到来を表現する予定の行動であったが、社会的には、江戸市中の危機意識が高まっていることと相まって、身碌入定は当時のトップニュースとなったのであった。」(宮田登著『江戸の小さな神々』 青土社)

ニュースによると、西部氏は、腰に建築現場の安全帯を巻き、そこに川辺の木に結びつけたロープの先をひっかけた姿で、亡くなっていたようだ。現場の安全帯は、普通のベルトの締め方とは違うし、留め金を開くのに力も必要になるので、手が弱っていたそうな西部氏本人が、自ら装着したものではないだろう。

具体的に、その場面を想像してみよう。
中年とはいえ精悍そうな男二人が準備を整え、川べりの氏の傍らに立っている。氏は、どんな表情をしていたろうか? 「行ってくるぞと勇ましく!」、であるはずもなく、優しそうな目をしていた氏の表情は、弱々しかったのではないだろうか? 男二人は、黙っていたかもしれない。が、それでさえ、その態度は暗黙に、さあ、先生、準備はできましたよ、行ってくださってけっこうですよ、さあ、先生の思想を果たす準備はできましたよ、さあ、どうぞ、どうぞ!――ということにしかならない。そんな無意識に追いたてられて、リールコードにつながれた老犬は、とぼとぼと、川の中へとよろめいてゆく。

そんな姿をみて、庶民ならば、「やめなよ」、と単にとめるだろう。
安全帯の装着にも慣れている現場の人間ならば、「えっ、まじでこんな格好でいくの? いくらなんでも、みっともなくね?」とゲラゲラ笑いだし、「やめよやめよ、帰るぞ、おいっ」となるだろう。

無意識的な実際では、西部氏は独りで死ねず心中したのであり、幇助した男二人は、殺人を犯したのである。

自分で自分の身の回りのことができなくなった老人に、自死だのなんだのありえない。自殺でも、自然死のようなものだ。認知症になった老人でも、ある瞬間我に返れて、ふと魔がさしたように自ら命を絶ってしまう衝動に襲われるかもしれない。が、それでも、それが老いという自然の力ではないか? 死にたい、死にたい、と老人たちは言っている。ほぼ誰もが長生きできるこんな社会において発生してしまった、人為的な自然現象だ。しかし庶民はいつも、そんな自然の中を耐えて生きてきた。だから、知恵もある。だから、「やめなよ」と、声をかけるのだ。死にたい、という老いの自然に抗うその思いやりこそが人為的な思想に変移するのだ。

西部氏が、当初の決行の日取りをのばしたのは、安倍総理による衆院選挙があったからだとか。がいま、その雲行きはあやしくなっている。大衆とひとくくりにはできない、庶民的な位相は、連綿と伏在しているだろう。

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