2024年2月1日木曜日

山田いく子リバイバル(10)

 


1999911日 江原朋子「孫悟空(エハラ版)」シアターX に出演している。

 

そして、

 

1999116日 <ダンス in 酒蔵 「事件、あるいは出来事」>を発表する。

 

(2) 1999.11.6 山田いく子ダンスin酒蔵「事件、あるいは出来事」 - YouTube

 

これは、いく子自身が、徳島県で暮らす友人のもとで、その協力のもと、企画プロデュースし、実現させたものである。江原先生をはじめ、総勢9人での、大舞台である。一時間を超える大作になる。公演は、大成功だったのではないか、と、動画をみるかぎり想像する。これも、私には、奇蹟的な公演のように見える。まさに、「出来事」だ。

※ 音楽は、音楽界の前衛として活躍している千野秀一の即興のようである。江原先生の音楽も担当していたが、いく子のダンスをみて、自らかって出てくれたのである。

 

が、1年あまりはかけて構想されたこの企画は、一筋縄ではいかなかった。同時に、いく子の、なんで自分がダンスをするのか、という“政治性”が、この企画議論の過程で、よりいく子自身に意識化されることにもなっていったように思われる。

 

いく子は、まずひとつはそれを、個が気兼ねなく存在しえる「東京」と、根回しが必要な「田舎」、という言葉で表明する。「田舎」といっても差別の意図なんかではないのだ、と釈明しながら。都市と地方、とも言い換えている。そして、自分には、そうした「気をつかう」ことはできないのだと。そしてそれは、自分の性格の問題ではあるけれど、それでは済まない問題なのだと、そこの曖昧さに彼女はこだわり、葛藤し、公演の三カ月前でも、やめるというのならやめてもいい、と腹を決めている。

 

この問題は、いく子にあって、そのまま、生徒と先生、稽古と舞台の現場での闘争に直結している。そして、彼女が考える「ダンス」の技術、「ダンス」への志向、思想と重なっている。彼女は、先生であっても妥協しない。上手い下手が問題とされる技術を前提とするところにダンスはない、ならば、先生と生徒とのヒエラルキーがなんで成立するのか、あるのは、個と個の関係性であり、身体という現場であり、そこをどうするのか、を考えて実践していくのが「ダンス」なのだ、というのが、いく子の言いたいことであったろう。だから、徳島の友だちから、「気をつかう」のがいやならソロでいいのではないのか、と提案があったようである。それに、いく子は答える。

 

<一人でもやる。その決意はできた。でも思うんだ。私が踊る理由って。私がみて欲しいものは、私の持ちえるもの、もちえたこと(この「こと」は傍点で強調されている。おそらく、これがタイトルの由来であろう。)、人との関係。>

 

いく子はこの頃、参加していた伊藤キムというダンサーのワークショップに出入り禁止を食らったり、地元の県立美術館の学芸員と解説や批評という問題をめぐっていざこざをおこしたりしている。自身のダンスの評判は、賛否がわかれながらも、江原先生をはじめ、いく子のダンスなら参加してもいい、参加したいというダンサーたちの声も集りはじめている。が、その調子に乗ればのるほど、ハイな緊張になればなるほど、彼女は孤立していっているようにみえる。

 

この頃、中上健次の熊野大学で知り合った、柄谷行人のNAMの創生に関わるコアなメンバーとの関係もより密になりはじめている。その一人から、パソコンを買え、メールを使え、とすすめられている。彼女と友人との文通も、メールを介在したものもでてきたようである。いく子はもしかして、自分が、自分のダンスに近づくために、関係を作り「こと」を起こして来たダンス界から離れ、違った逃走=闘争線を引きはじめることを、予感していたかもしれない。いく子はこの時点ですでに、柄谷の「可能なるコミュニズム」を読み、それは自分がすでにダンスの現場で、実践してきたものだ、と認識している。

 

いく子にとって、柄谷行人という記号は、特別なものになりつつあった。友人に誘われてはじめて熊野大学に参加したとき、そこで柄谷の涙をみ、そこに「軟弱な」少年の姿を投影したが、その日の質問で、中上には熊野があったが自分の千葉には何もない、歴史がない、と中上の地元へのこだわりと自分との差異のようなものをふまえて発言した。彼女はよほど緊張したようで、何いったかが思い出せないんだ、と当時の手紙に書いている。「関係ありません」と、冷たく突き放された柄谷の返事だけは、明確に記憶されながら。つまり、いく子はこの時、「少年」とは別の、超越的な畏怖を喚起させる父性的位相としても、柄谷の像を作っていたことだろう。

 

柄谷は、個と個の「関係」を、「身体」と呼ぶことはない。それを、「交通」なり、「交換」と呼ぶ。『批評空間』から、「身体論」を説く市川浩を遠ざけもするようになるだろう。いく子は、柄谷の次なる代表をくじ引きで選出するさい、執拗にその方策に反対し、柄谷が代表にとどまるべきだと言い張った。(これは、NAM解散への伏線となる。)しかしそれは、柄谷への心理的投影の問題ばかりではない。彼女のダンス実践からくる経験値からだったと、考えられる。彼女にとって、そもそも「代表」なるものは、大き目の個、でしかありえなかった。しかしだからこそ、彼女には小さ目の個としてみえるものには我慢できなかった。なぜなら、衝突の度合いが、組織の、関係の力が弱くなるからである。いく子にとって、NAMにおける「代表制」は、個と個との衝突の場として志向=思考されているのである。つまり、それこそが、いく子の、ダンスの現場だったのである。

 

いく子は、その現場へ向けて、自分を破綻させていくことになるその思想の現場へ向けて、さらなる舞台を提出していく。

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