2024年1月31日水曜日

山田いく子リバイバル(9)

 


1993.9.21 <「クリステヴァ サムライたち」に目を通しながら、フランス思想界の特徴的な雰囲気が鼻につき(それは読みとばし)ながらも、女の人がこんな風にフィジカルに性を話してくれればって思ってた。愛や気持ちじゃなく、女の人が女の人をフィジカルに語っているのって少ないと思う。女の人ってSEXを感じてるのかな。>

 

(1)1998421日 「バレエモダンダンス スプリングコンサート」 ティアラこうとう大ホール

 ・「練習問題」に出演。群舞。

・「逃走する」に出演……おそらく、この仲間4人との演舞のタイトルと振付は、いく子が、浅田彰の『逃走論』を読んでの影響で、制作したものなのだろう。

 1998.8.4 山田いく子他「逃走する」バレエモダンダンス スプリングコンサート ティアラこうとう大ホール (youtube.com)

 ・「月下の円舞」。群舞に出演。

 

(2)1998124日 江原朋子「ガリヴァ旅行記」に出演。

 1998.12.4江原朋子「ガリヴァー旅行記」より抜粋 (youtube.com)

      この公演の、江原先生単独での演舞を抜粋する。にこやかな少女の仮面の裏に、どんな本心、苦渋で女性たちが生きているのか、あからさまに告発してくるような構成である。

 

(3)19994月 江原朋子「WELCOME TO TRICKSTER」に出演。前回ブログで言及した四人の舞台。

 1999.4江原朋子他「WELCOME TO TRICKSTER」 (youtube.com)

 追記;この作品は、いく子の制作であるとわかった。いくつもの演舞を紹介する公演のなかでのものなので、ある意味安定したものになったのだろう。この頃から、江原先生から、「単独リサイタル」を試みるべきだと言われたり、先生の音楽担当の方が、いく子のための音源の相談に自らのりはじめている。


江原先生にとっては、珍しいと思われる、抽象性を志向した作品である。が、椅子4つを、平行に並べる、という冒頭や、ダンサーの配置などにも、壊していくことを配慮する、安定的な秩序が志向されている。おそらくこの場所は、長谷川六さんが主宰していたダンスパス会場なのだが、それでも、無意識なものとして抑制がきく。観客を呼ばなくてならない、会場を埋めなくてはならない、自分を見に来てくれる常連の客の期待を裏切るわけにはいかない、といった、大会場の規範からは解放される条件だとしても、歴史の切れ目や断層に逃走線を引くという思想は、あらわれないのだ。それは、いい悪いの問題ではない。ひとつの時代と、もうひとつの時代がぶつかりだした。先生は、いく子や、ほかの若い世代の生徒との間で、感づいていたこととおもう。

 が、新しい時代と意識に引き裂かれ始めた自分たちが生き延びていくための逃走(闘争)線の引き方は、いく子のような、内省的な批評意識から認識されてくる、外へと出ていこうとする態度や思想ばかりではない、ということを、この江原先生の「WELCOME TO TRICKSTER」が、示唆というか、露呈してしまった。もしかして、このタイトル自体が、先生が、自分とは違う可能性で動き出した、若いダンサーたちへむけて、「WELCOME」、と言ったのかもしれない。

いく子も出演してるようだが、私が「ようだ」とためらわずにはいられないくらい、与えられた振付や枠の中では、彼女の存在感は消される。

が、そんな枠の中でも、それを突き破っていけるということを突き付けたダンサーがいたのだ。いく子の、性格が正反対なのに、大の友人であるのだろう、「ひはる」さんである。マチネ(昼)の部では、まだお客の入りがないからか、集中力は発揮されなかったのだろう。が、夜の、ソワレというのか、の舞台では、江原先生をこえて、舞台を占拠してしまった。おそらく、カメラマンも、その演舞の迫力に引き込まれて、主役が先生ではなく、この生徒であることと思い直してしまったのかのように、その姿を追い始めた。

 いく子が、飛び出していく思想だとしたら、ひはるさんは、飛び抜けていく思想、になるのであろう。いわば、群れから飛び抜けた技術と才能をもっているのだが、それは、振付の熟練の披露というのにはとどまらない射程で突き抜けるのだ。

 私は、いく子のダンスは、自分の教養枠で把握することができる。が、ひはるさんのは、なお把握していくための言語を知らない。比喩的にいえば、巫女的、ということになるが、その言葉の含意が、集団憑依や、無意識的な世界の露呈ということであるならば、彼女の技術は正反対のものであるだろう。相当、理性的に統制されている。イチローの、バットさばきのようなものに近い。ボールのちょっとした変化に瞬時にこちらの引き出しの中からそれに対応できるものを引き出し改変し、応答する。イチローはそうやって、そのままならセンターライナーになるからと、ポテンヒットへと、ボールを芯ではなくグリップに近いほうに打点をずらして対処していく。ひはるさんのも、そういうことを、まわりのダンサーや場の雰囲気、力のみなぎりの流れ、エネルギーの気流を計算的に読み込みながら、その場に連動し、さらに、より気力がみなぎりその効果が発揮されるよう、場を組織し作り直していく。無意識的な憑依にはみえない。場に呼応できるダンサーはいるだろう。がそこを、理性的なように更新していくのは、並大抵ではないのではないか? 彼女は、孤立していない。性格的にも、人の意見を、いつも静かに聞いている。おそらく、口うるさいいく子も、彼女には頭があがらなかったろう。

 身体は、近代にあたって、ナショナリティックに編成されていった。もちろん、体が、そんな百年や二百年の人為的な試みで、矯正しきれるものではないだろう。もうそんな矯正に従って生きることはできない、がならば、もう一度なように、その矯正の立て直しを破り、超え、新しく自分たちの身体を、自分たちの方向=意味へと、この体の中にある地層群を統制していくためには、どうしたらいいのか? イチローは、打つという目的、塁に出るという目的、試合の流れを読んで、ゲームに勝つという目的の下で、自己の技術を統制できた。が、われわれは、ダンサーは? 目的ってなんだ? ただ情念を、地層の亀裂からの噴出を発散させるヒステリー的な自由だけで、いいわけがない。ならば、拘束の向こうに、私たちは、何を夢見るべきなのか?

 

(4) 舞踏作家協会 ティアラこうとう 江原朋子「和」、に出演している。

 

1999.5.1江原朋子他「和」ティアラこうとう (youtube.com)

 

     この作品のタイトルは、イロニーであろう。日本の伝統やイデオロギーを喚起させる「和」。が、そこに、女性はいるのだろうか、入っているのだろうか? 女性も、子供も、入っていける、新しい和を作ろうよ、と、笑える演出で、会場ロビーで、ゲリラ的におこなったのだろう。

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