2024年1月21日日曜日

山田いく子リバイバル(3)

 


19951月より、いく子は、深谷先生のところから、江原朋子先生のスタジオに移っている。37歳の時になる。

 

 この年、いく子は失意のどん底に落ちたようだ。私は、たまたま段ボール箱から落ちてきた、1993年1月から1997年末までと表記された(実際には92‘年末よりの記述)大学ノートだけは、今の段階で目を通している。それは日記というより、他の友・知人へ宛てた手紙をコピーし、貼り付けたものが多い。93’年の夏には、中上健次死去からの2周忌にあたる、熊野大学に、おそらくは四国のダンス友人に誘われて参加している。そこで、司会をした柄谷行人が、四方田犬彦による中上作品を一般的理解へ解消してしまうその読みに怒り、涙を流し、その姿に心打たれている。私と彼女が、柄谷が始めたNAMで出会うことを思えば、契機を刻む年ではある。のちに、NAM創生に関わる幾人かにも、出会っている。95年は、阪神大震災が、発生した年であり、関西にすむ友を案ずる記述もある。が、いく子は、明くる年が迫る中、それどころではない現状に突き当たっていったように見える。それは、このノートからは伺い知れない。彼女の、この年の11月、おそらく自らソロ活動を始めるにあたり開催した、「パフォーマンス」とだけ題された、音羽での公演録画で、その惨状を目の当たりにしてしまう。

 

そのノートの、引用からはじめなければならない。

 

1/4……「昨々年の11月から仕事をせずにいます。小説を書くと両親にはいってアパートを借りたままそこにポツ然と一人でいたわけです。ダンスは続けています。その位が外に出る機会の1年余で。閉塞していますが結構楽しくすごしました。」

その後、「ひきこもり」という言葉がでてくる。6月には派遣労働する友達へのアドバイスをしながら、8月、自ら派遣労働者となり、端末データ入力の作業をはじめる。

9/27……「たぶん、結婚するだろう人とはお付き合いしています。でもどうして具体的に計画をすすめないかといえば、説明不能。その人から強く言われると、けんかになってしまいます。」

そして10月には、公演のための会場の手配をしたはずである。

11月、音羽のどこかの室内スタジオ借りて、舞台に立つ。いや、立てなかったのだ。

 

(1)最初、これがいく子だとはわからなかった。がりがりにやせている。摂食障害のような女性が、歩きはじめる。が音楽は、「ガーベラは・と言った」で使った、「ホテル・カルフォルニア」だ。踊りだせば、彼女の振りだ。しかしダンスは中断し、断絶し、お腹が痛くなるのか、おさえ、涙がでるのか、手でぬぐう。束ねた長い前髪が、目を覆い隠している。彼女は、顔をあげて、客席をみることはできない。立ってもいられない、壁によりかかり、ずり落ちる。椅子に辿り着き、カーデガンをはおって、腰かける。踊らなければ、とまた立ち上がり、倒れ込み、床に手を着いた。椅子をひきずって、舞台を去った。

 

音羽 ソロ - YouTube

※どうもBGMの楽曲が著作権にひっかかり、閲覧できなくなったようである。

 

(2)もしかして、いく子は、自らの主張を作るべく、自ら生徒を集めて、自らのスタジオを始めようとしたのかもしれない。彼女以外は、動きが素人そのままである。しかし彼女は、オーソドックスなダンスの基礎訓練・技術とは違う領域において、自分のダンスを形作ろうとしていた。深谷正子先生から、江原朋子先生へとグループを変えたさい、江原先生の訓練に、バレーでのバーを使った練習が多いことを、その必要性は認めながらも、突き放した視点でみている。この公演では、ある女性たちのグループが、新聞紙をひきちぎって踊る、倒れる、走り回るなどのパフォーマンスがあった。しかし、おそらくは公演間際に、プライベートな関係で失意のどん底に突き落とされた彼女には、もうこのスタジオを維持するモチベーションは折れてしまったことだろう。教え子かもしれない若い生徒ダンサーを、この群舞では、蹴飛ばしたり、小突いたり、自らの欲求の挫折・不満の憂さを晴らすためかのように、いじめたりしている。彼女は、復活できるのだろうか? いく子、だいじょうぶなのかい?

※ 上で言った新聞をひきちぎる女性たちの公演とは、実は、いく子が「チームどろなわ」と自称しておこなったものだった。私は、この音羽公演のパンフを見つけるまで、それがいく子であることに気づけなかった。 

音羽 群舞 (youtube.com)

 

     いく子は、男性との結婚に踏み切れない理由を、「説明不能」と言っている。彼女と彼との幾枚もの写真をみている私には、想像することはできる。この公演まえに決裂したのか、と推定したが、97年にも一緒の写真がある。年上の、ダンサーであろう。ならば単なる「けんか」で、ここまで落ち込むダンスになったのだろうか?

追記;その男性は、ダンサーではなく、中大通信教育で出会った者とわかった。どうも、新入生として入った二十歳のいく子に憧れおっかけをしたことがあったのだろう。家族への謝罪の年賀状が最初である。がその時は相手にされなかったのだろう、すぐに見合い結婚なのか名字がかわる。それでも手紙をよこしている。この音羽公演の頃はもとの名字だか、ならばすでに子供連れだったわけだが、いく子には黙っていた、といことになる。

 

※ しかし、この公演で、みるべきものが、ひとつ発見されていたのを忘れていた。それは、いく子の靴である。黒い、短い、ブーツ。彼女は以後、それを愛用していったのではないかと思う。段ボール箱の中から、まとめ買いされビニール袋に入っていたのがみつかった。それは、いく子が、単独者として立ち上がっていく決意の証しであっただろう。現使用していたものは、いく子の棚に、飾った。

 

(3)暗鬱になってしまったので、1992年の深谷正子「Dance Performance NOMAD」の、最後の演舞、タイトル「洗面器」もアップロードすることにした。彼女と他メンバーとの、洗面器を外したときに現れた生き生きした顔を、見ることができる。いく子の葬儀に参列してくれた仲間の若き姿もみることができる。そして彼女たちは、変わっていないようにみえる。いく子は、結婚し、変わったのだろうか?

 

洗面器 (youtube.com)

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