2024年1月29日月曜日

旅行

 


 ゆっくりと、母は入ってきた。

 手にした杖が、自動ドアのレールにかかった加減なのか、よろめきそうなのを見て、持っていたバックをいったん絨毯の上に置いて、母のもとへともどった。少し元気がでて、ひとりで歩けることに支障がなくなってきたとはいえ、もう、以前の、父が亡くなるまえの状態にはならないのかもしれない。あれから、半年余りがたった。その間、もはや自力での生活は、外見でも無理そうにみえるから、介護認定の検査をしてもらった。もしかして、長男の慎吾が家にいるから、それも難しくなるのか、とも危惧したが、要介護1の認定がでた。兄自身が、障害者の二級の身だから、だいじょうぶだったのだろう。

週に二日ほど、母は、デイサービスに通うことになった。認定検査を受けること自体をいやがっていたほどだから、ほんとうに通ってくれるのか、心配だったのだが、行ってみれば、けっこう楽しんでいるようだった。だいぶ以前から、風呂にはいる数もめっきり減って、むしろめったに入れなくなっていたろうから、毎週ごとに、体をお湯で温められるだけでも、生き返ったような心地がするのだろう。けれど、その道の専門職の自分には、母の靴下を履かせてやるときに目にする足の指先や、その間に、垢や埃がこびりついていることが、すぐに目についてしまう。限られた時間のなかで職務をこなしていくのだから、それは、しょうがないことだったろう。しかしその積もっていく光景は、少しずつ、心の重しになってくる。機会があれば、母を、旅行につれて、自分が風呂に入れて、体をきれにしてあげたかった。

母が、姉に会いに行きたい、と言ったのだ。実家で姉と同居し、面倒をみてくれていた独身の弟が、癌で先になくなってしまって、独り暮らしになることは無理だろうと、もう二人いるうちの弟の一人が、遠方から宮城の多賀城まで車で通いながら、いろいろ手配をしてくれた。姉と同居していた弟は、工場勤めをしていたからか、共産党員で、自分の死後のことを、党員の友人なのか、仲間に頼んでいた。なお身内が生きているうちの処置を他人に任せるのは不安だと、手続きにあたった弟は交渉し、あちこちと奔走した。まず、祖先から引き継いだ墓じまいをしなくてはならなかった。もう誰も、そこを見にゆける者はいない。檀家から抜ける、そう申し出ても、寺の住職は了承しなかった。母の何代か前には、日露戦争で活躍して、海軍の中将にまで出世したものがいた。兄の慎吾が、自分の精神のバランスをとるためなのか、いろいろ調べ上げて、親戚訪問などもしていたようである。ああ、永子の息子か、と、なお権威ある仕事などについているのだろうか、そう代を継承している親戚筋の者は言ったそうだ。母の実家は、当初は、仙台市のほうで、自転車屋を営んでいた。世界恐慌が来るまでは、裕福だったという。当時は、珍しく高級な乗り物だったのかもしれない。それが突然、貧乏になった。戦争が起きると、多賀城市の方へ疎開した。母は、小学校がかわり、そこではじめて鼻を垂らした同級生がいるのをみて、びっくりしたそうである。

手配の労苦を引き受けてくれていた弟の妻が、突然、泣き出したのだ。お姉さんがかわいそうだ! 先祖のひとたちに申し訳ない、ああ! わんわんと泣いた。住職は折れた。墓は、その弟夫婦の近くの墓地に移動することになった。母は、ほんとに演技がじょうずだったわよね、とのちに、回想した。

実家は取り壊され、更地にされた。売却し、入ってきた幾百万円かのお金は、兄弟姉妹で分割された。一番奔走した弟は、俺はいらないんだよ、もう使えきれないほどあるんだから、と言ったそうである。子供のころの記憶では、サラ金の取り立てみたいな仕事をしていて、自分にはあわない仕事でもういやだと言っている、という話を、聞いたことがあるような気がした。

姉も、千万円単位の預金があった。なので、それをもとに、専用の施設へと入居できることができたのだった。父が亡くなる、何年まえのことであったか。母は、その姉と、もう最後になるだろうから、会いたい、と言ったのだった。

ロビーの受付で手続きをすませると、ラウンジのソファに腰掛けさせていた、母のもとへともどった。母は、海に面した、大きなガラス窓の向うを眺めていた。雲のとぎれから、青空がところどころ覗いている下で、青くなりきれていない白い海が、おだやかに広がっていて、その広がりを、緑色の島が、あちこちと、まるで停泊する船のように、足を止めていた。ホテルの庭の垣根が、こちらに広がってくる波の静かな連なりを四角く区切って、その内側に、刈り込まれたばかりの芝が、苔のように覆っているのが見下ろせた。モスグリーンのゆるやかな起伏ある丘には、幾本もの松の木が散在していて、中央に、赤い屋根をもった東屋があった。大きなほんものの海とそこに浮かぶ島と、手前の、小さな、海を模した自然な風景は、どこか不均衡な二つの重なりをせりあがらせて、ここに立つ自分の場所が、まさに人工的に堅固なものであることを思い起こさせてくるようだった。階下から伸びた園路が、子供が砂場で作る細長い水路のように、微妙なくねりをみせて、東屋へと続いていた。

「津波は、その庭のところまでですんだのですよ。」

 いつのまにか、部屋へと案内してくれるのだろう女性が、背後に立っていて、少し事務的なニュアンスを感じさせて、言ってきた。

「島がたくさんあるから、だいじょうぶだったのですかね。」 直希は、人の気配を感じるだけにまかせて、海の方を向いたまま応じた。そうかもしれませんね、と女性は答えながら背をかがめて、絨毯上のバックに手をのばした。母の実家のほうでは、まえの道路ひとつ向うまで、津波が押し寄せて、危なかったそうである。

 エレベーターで何階か上の方へ昇ってから、部屋に通された。一通りの説明をして、女性はでていった。何をするでもなかった、風呂に、母をいれてあげればよかった。もちろん、男湯と女湯とに分かれた浴場になどは、連れていかれない。このホテルの一室の、狭い浴槽が使えればよかった。母は、畳に置かれた机の前で、背もたれのある座椅子に身を預けている。広がった窓からは、やはり海が見えた。向きが違うのか、先ほどのロビーからのものよりも、うかがえる島の塊が一方に偏っている。だから、半分、海が広く続く方向がある。日の出は、どちらからなのだろう。背の低い防潮堤が、浮かぶ島の手前に、くの字を描いている。漁船が走っている。庭が見えないからなのか、そこは、人の住む場所なような気がしてくる。

 夕食の時間までにもなお間がありすぎるから、テレビのスイッチをいれて、お茶をいれた。ここまでくる間、とくべつに観光名所をめぐって、お土産屋によってなどしていないから、口にするものもなかった。袋にはいった名物の笹蒲鉾が、お茶菓子がわりなように、人の数だけ皿に置いてある。母にとっては、それが食べなれたものなのかどうかはわからないが、子供のころ、家で作った味噌汁は、赤味噌だったとは思うが、世間でいわれるような、辛口であったようには思えない。ほとんど、外食などせず、母の作ってくれた食事だけをした。コロッケやハンバーグなど、子供向けの、地方色などないような献立ばかりだったと思うが、母は、料理は上手だった。ポテトサラダなども、食べやすく、食がすすんだ。群馬の山村の地主の息子だった父とは、この母の生まれた地方で知り合ったのだ。父は、自衛隊の事務職についていた。母は、仕事ができたので、そこへ派遣されていったのだという。着物をきて、大勢の人に囲われた、神社のまえでの結婚式の集合写真が残っているが、母の話だと、その日まで、式場に払うお金はなかったのだそうだ。参加してくれる知り合いのお祝いを当てにして、集まったお金を父とその友人たちが数え、その場で決済したのだともらしていた。母は、生い立ちはそれなりの裕福さを持ったのだろうが、テレビドラマの「おしん」を自分と重ね合わせてみているところがあったかもしれない。たしかに、働きづめだった。たぶん、結婚してほぼすぐになるのだろう、父の群馬の平野部の方で、長屋のようなアパートを借りて、そこで、三人の子供たちを産んだのだった。父は、地元の高校の、簿記の教師をしはじめていた。稼いだ金の半分以上が、仲間との付き合いや酒に消えていって、わたされる生活費では、どうにもならなかったのだろう。

 最初は、プラスチックの小さな部品を、プラモデルを作るときのように枠から外したり、つけたりする、内職と呼ばれるものだったかもしれない。そのクリーム色の部品の光沢の山が、記憶の片隅に積みあげられて、意識の端へと、その微かな光を匂わせてくるような気がする。それから、父が、事務型にうつったための、その補佐の仕事なのか、活字印刷のタイプを打つようになった。機織りものとまではいかなくとも、足押しミシンよりかは大きな、いかめしい鉄の塊が机の上に載っていて、一文字ごとに刻まれた鉄の活字を組みこんで並べた鉄板が、別の棚に積み置かれている。よく使う文字の入った鉄板は、すでに機械の中に挿入されているのだろう、片手で持ったレバーを、その鉄板の上に走らせ、必要な文字の上で押して活字をすくい上げ、それを印字する紙の位置にまで走らせなおし、またレバーを叩くように押して、インクを刻み付ける。ピアノを弾くときに楽譜を読むように、目よりは少し上の位置に開かれ置かれたた原稿を見ながら、一字一字、打ってゆく。挿入された鉄板の中にはない文字に出会うと、その文字が他のどの鉄板にあるかを探し出して、機械の中のものと入れ替える。打ち間違えたら、白い修正液でなおし、打ちなおす。打ち込みが、左の行先から右端の行末まで達したなら、印字の用紙が装着された丸い筒を、また左端の先頭から打ち込めるように、移動させる。ピコタン、ピコタン、ピコタン、ジー、と、その音はつづいた。いつまで続いたのだろう。朝から、中学に入るころ、父が倒れたときも、その音は、続いていただろうか。

 しかしそんな父の仕事の手伝いをしながら、母は、ピアノの先生もしはじめたのだった。母は、高校進学までで、べつだん音楽をやっていたわけではなかった。ただ、あこがれて、できるようになりたかったのだろう。とにかく、ひとつ隣の、町のピアノ教室に通ったのだ。どのくらいの年数を経てなのかはわからない。がベートーベンやショパンが弾けるようになり、家で、子供たちを教えることにしたのだ。次男の正岐までが、稽古をしたことと思う。正岐が小学生は中学年のころだろうか、父の教えていた少年野球に集中するということで、自らの子供たちは、生徒にはいなくなった。それでも、いつも十人近くの生徒を抱えて、週に一度になるのか、教室を開いていた。その中からは、実際に音大に合格する女の子もでてきて、将来はピアノ専門ではなくなったようだが、京都の芸術を教える大学の、古代の遺骨から人相を復元する専門の先生になる女性がでて、結婚した外国の夫をつれて、家に挨拶にきたりもしたのだった。

 まだある。着物の着付け。これも一度先生について、毛筆で大書された木製の板の看板をだした。それから、父が退職し、いったん勤め先の付属の幼稚園の園長になってからは、その幼稚園の先生までした。もちろん、保育士の勉強をし、試験を受け、その資格をとったのである。付属大学の学部増設の任務を終えてから、再雇用ということで引き続き事務にあたっていた父だったが、もう時代遅れな知識になるからか、やはり精神的にまいっていたからか、顔だけの園長職務は、左遷だったのだろうという。そんな父を助けるためなのか、母も、子供たちのあいだに、交じっていったのだ。

 母は、お茶をすするでもなかった。テレビの音にさそわれるように顔をそちらにあげたが、すっと、窓の向うの、海をみた。座った低い位置からは、海というより、空しかみえないかもしれない。背も、まがっている。がまがったその背を起こして、またすっと、立ち上がろうとした。座卓に手をついたところで、バックの整理をしていたのをやめて、その台のまわりをまわって、母のところへ寄った。膝をのばすのが億劫そうだったが、自力で起き上がると、窓のまえに置かれたテーブルの方へゆっくりと歩き、椅子に腰かけた。窓の向うの、海をみた。こんどは、はっきりと、海に浮かぶ島々も目に入っただろう。がすぐに母は、視線を下に向けて、テーブルの上を見つめるようになった。

 このホテルへ乗用車で向かう途中、海岸沿いの道路を走り抜けるとき、ここまで修学旅行で歩いたんだよ、と母はこぼした。幹の太くなった何本もの赤松が、その身をくねらせて、道路に、海の方へとかぶさっていた。小さな山のような島が、その松林の間から見え隠れし、切れ切れとなった海が、穴に蓋をするように盛り上がって見えた。訪れた観光客が、いくつかの塊を作って、芋虫が体をくねらすように、もぞもぞと移動してゆく。大変だったけど、おもしろかったなあ、と、母は、何かを思い出したのかもしれない。

 母は次女だったことになるのに、姉よりも、長女のようにみえた。この松島の湾に流れるいくぶん大きな川の河口先端の、見晴らしのいいホテルに来る前に、姉の入った施設に立ち寄ったのだ。用水路のような川の縁に、何棟かの二階ほどの建物が並んでいた。下火になったとはいえ、まだコロナの対策があるので、施設の中までは入れないということだった。出入口を入った玄関口、車いすでも入れるように広くはなっているので、その受付前の広間で、顔合わせ程度の話はできる、そう訪問まえに言われていた。母は、そこで持ってこられた椅子に座ってまち、しばらくして、姉が、施設の人に連れられて、やってきた。それを見届けて、過密な人の群れになるのは避けた方がいいのだろうと、職業意識が動いて、玄関を外にでた。日差しは強かった。梅雨時なはずなのに、雨は、まったく降ってこなかった。母をみたとき、背の小さな母よりさらに小さく細くなった姉は、はちきれたような笑みを皺の表へとみせた。

 10分もたたなかったのではないだろうか。母は、自動ドアをくぐって、外にでてきた。うれしそうだったねえ、帰るのが、かわいそうになってきたよ。お尻をね、まだ自分でふけるんだって。弟がね、あっちの施設をさがしてひきとってもいいって言ってくれてるんだって、タエさんがね、わざわざここまで言いにきてくれたんだって、どうするんだろうねえ……母は、少し、ゆっくりなしゃべり口だったが、饒舌になった。がまた車の後ろ座席に乗り込むと、引きこもるように、押し黙った。

 姉より勝気そうで、はっきりとものを言いそうな妹の母だった。アルバムで、若いころの写真を目にしたとき、土手の草むらの上に、スカートの裾を茸のように広げて座った母の、目をぱっちりあけて、前方をしかと見つめた眼差しは輝いていると思った。白黒の写真でも、その瞳が生き生きしているのがわかる。ベティーちゃんってあだ名だったのよ、といつだったか、まだ中学生の時分だろうか、教えるような口調で言われたた覚えがある。明るい笑みを浮かべて、そう口にしたのではなかったろうか。しかし、東北人だからなのだろうか、対人関係では控えめだった。子供の少年野球の応援では、他の母親たちの影に隠れるように、息子たちを見守った。かかあ天下といわれる上州育ちの、他の母親たちの間では、気後れしてしまうのだろうか。父の実家を訪れ、父の母や親戚たちの話し合いを目にしたとき、まるで喧嘩をしているのかと思った、という感想も聞いたことがあるような気がする。

 手持ち無沙汰になって、母の座っていた座椅子に腰掛け、お茶を飲んだ。笹蒲鉾の包装紙を引き裂いて、口にしてみる。もう何度も、母を実家に運んだついでに、その一帯にある観光スポットのような場所には立ち寄っていた。いや立ち寄るというか、素通りしながら、目にしていた。武将の勇ましい銅像のあるお城あとの公園、流れる川。思い出はかえらない、と、母が、そんなは流行りの歌を口ずさんでいたことがあったことを思い出したりした。しかし子供のころは、母は、実家にほとんど帰省したことはなかったろう。一度だけだ、思い出に残るのは。まだその頃は、母の父も、母も、健在だった。黒い、着物のような和服を着て、母の母は、笑顔をみせて、話しかけてきた。たぶん、正座をして、こちらを見ていた。が話す言葉が、まったくわからない。母の弟の、自分からすれば叔父さんにあたる者の言葉は、イントネーションがこちらとは違っても、その意味を聞き取ることができた。しかし母の母の言葉は、とっかかりがなかった。おそらく、ぽかんとしていたことだろう。不思議な経験だった。何もわからない。がそのなかから突然、「かつどん」という言葉があらわれた。う~ん、と深くうなずいただろうか。しばらくして、出前で、かつ丼がでてきたからだ。

 母の父は、何故なのだろう、たぶん二階からおりてきて、こちらに顔をだしたのだろうが、すぐに背中を向けて、どこかへいってしまった。記憶の中では、鴨居の下の、部屋の仕切りのところで立ったままの、後ろ姿の細長い背中がみえてくるだけだ。顔を、見た覚えがない。うん、とか、何か返事での受け答えを母との間でしたような気もするが、それきり、消えてしまった。昼についたのだから、夜になって、みなで食事をしたはずなのに、その姿をさがせられない。よみがえってくるのは、家の外の小屋のなかにあるお風呂のことで、五右衛門風呂の釜の姿だった。

 夜が、まるみえだった。小屋の上からさしてくるのか、電灯のオレンジ色のもやのような光の向うに、先ほどでてきた家の引き戸がみえる。まるい鉄の湯舟の底には、簀の子がひいてあって、やけどをしないように、その板の上に両足をそろえて、かがみこむ。それも、不思議な経験だった。湯につかっているというよりかは、やはり、ゆでられているような気がしたろうか。丸く縁どられた黒い水面に、顎から先の顔だけをだして、じっと、夜の向うの家の姿をみている。今から振り返れば、まさにゆでられた蛙のようだが、そのときも実際、蛙のようなぎょろ目で、身動きもせず、湯につかったまま、その開かれた目の玉だけで浮いていたように感じていたはずだ。たぶん、小学生も、中学年のころだ。母と二人で、大宮か上野駅まで電車ででて、乗り換えてまた、鈍行電車で七時間はかけて仙台にまでいったのだ。

 その母と、自分の運転する乗用車で、おそらく最後になるのだろう里帰りをしている。米寿で亡くなった父より二つ年下の母も、再来年には、そのお祝いの節目をむかえる。健康的にはそこまでゆきそうだったが、父が亡くなり、気落ちした状態がつづけば、どう転変するかはわからない。父も、ペットで買っていた犬が死んでしまってから、みるみると老化し、痴呆になり、衰弱していった。

 父が、施設に入ってからは、むしろ元気になった。この家を守らなければならない、と思いはじめたのか、となり近所の人たちと、対立するようになった。女だからって、なめてるんだよ、お父さんが人がよかったから、なめてるんだよ、と強い口調で言うようになった。堺を接したお隣の小屋の屋根のへりが、こちらの金網をこえてかかっていて、雨が激しく降ると、小屋の雨どいから雨水があふれだして、家と一体となったようなこちらの物置の中にまで浸ってくることがあった。といが外れてるんだよ、こっちの敷地の上にといがあるなんて、おかしいじゃない。わたし言ってやったのよ、こちら側につけるのっておかしくないですかって。だけど、何もしないのよ。女だからって、なめてるんだよ。たしかに、水の流れがつかえたように、物置のまえで、水たまりができるようだった。しかしそれは、梅雨時でもないのに激しい雨がつづき、雨どいではさばききれない量の大雨が降るからかもしれなかった。しかし雨どいがはずれていることははずれているので、それは脚立をだして直したが、そのお隣の小屋の雨どいの流れをみると、地面に流し落とすその垂直部分のつなぎに、穴が開いていないのが見えた。旦那さん本人が手作りした、小屋なのだろう。母に報告すると、ねえそうでしょ、おかしいでしょ、黙ってちゃだめなのよ、役所に言って、直させなくちゃだめよ、言ってもきかないんだから。

 越境してくる蜜柑の木のことでもそうだった。これもたしかに、金網をこえて、こちらの駐車場のところにまで、枝の山がこんもりと茂っていた。そのまま実がたくさんつくので、たわんだ下枝が頭の上くらいまで垂れ下がってくる。冬には、葉がたくさん駐車場のコンクリの上に落ちた。掃除にきりがないよ、まったく。実が欲しいものだから、枝を切らないのよ、塵取りの葉っぱをばあってお隣の庭に投げてやるんだから。お隣も、母より若いといっても、老夫婦だった。母がピアノを教えてもいた長女が一緒に暮らしていて、その息子たちが二人、家からどこかの職場に通っていた。車がなければ通勤できないとはいえ、みな、老夫婦をはじめ、一台一台、乗用車を所持していた。家の裏の屑屋の跡地を買い取って更地にし、砂利をひいたあと、息子たちの車をおかしてくれないかと声をかけられ、貸してやっていた。が息子のひとりが、遅く帰ってきて、吸い殻をその砂利の上にばらまいていくという。注意するという猶予もなく、母は、もう車をおかせないと言い張った。畑にするから、もうだめですって、言いにいって。そうして、車止めとチェーンを裏の空き地につけてやったのだ。

 母は、何にたいしても、かりかりするようになった。まるでそれは、これまでドラマのおしんのように我慢していたその蓋が、はち切れて、飛んでいってしまって、抑えていた中身があふれだしてくるようだった。女だからって、なめてるんだよ、口癖のようにそう言うのは、もしかして、東北からこの関東地方へと嫁にきた母が、ずっと抱え込んでいた思いだったのかもしれない。いいかい、こっち側の家との境界はね、金網の外側がそうなの、でこちらの家との境界はね、ブロック塀の真ん中がそうなんだからね、覚えておくのよ。それは、意地になっているように思えた。

 母は、窓のほうの、斜め下あたりを、ぼんやりと見ていた。その視線の先には、窓枠のなかにおさまる風景の端が見えるだろうが、母がいま、その懐かしい海と島の姿に物思いにふけっているようにはみえなかった。力のない瞳は、閉じられているかもしれない。

 父の葬儀にあわせて染めた髪の茶色が、透けたカーテンを通して照れる日の光を受けて、白っぽく反射している。もつれて落ちた髪の先が、耳たぶの上にかかっている。頬の膨らみと、染みのまだら模様の落ち着きには、風格があった。

 直希は、腰をあげて、横顔をみせてうつむく母に声をかける。

「お母さん、お風呂にはいるよ。」

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