2024年1月19日金曜日

引用『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑』(ムージル作 古井由吉訳 岩波文庫)

 


「こうして思慮もなく男たちに身をゆだねながらも、彼女をして最後のところでおのれの内にしかと留まらしめたものは、彼女のおこないにかすかに伴うある内面性についての、けっして定かにはならぬ意識だった。現実の体験のあらゆる結び目の背後で、何かが見出されぬままに流れていた。彼女は自分の生のこの隠れた本性を一度としてつかんだことはなかった、そればかりかどうやら、この本性のもとまで行き着くことはけっしてあるまいと思ってさえいるようであったが、それでも彼女は何が起ころうとそれについて客人のよそよそしい気持ちしかいだかなかった。ちょうど知らぬ家の中にたった一度かぎりで入りこみ、考える面倒をやめて、いくらか退屈しながら、そこで出会うすべてに身をまかせる客人の。

 やがて現在の夫を知ったそのとき、彼女がおこない、こうむったすべては、彼女にとって過去へと沈んだ。それを境に彼女は静謐と孤独の中へと入った。今までに何があったかはすでに問題でなく、これから何がそこから生じるか、それだけのためにあったかに思われた。あるいはまるきり忘れられた。なにやら心をしびれさせる生長感が、花咲く山々のように、彼女のまわりに満ちあげた。ごくわずかに、辛苦をしのいできたという感情がのこってひとつの背景をなし、そこからあらゆる感情が、ちょうど暖風の訪れとともに固い氷の下からさまざまな動きが寝ぼけ顔で目を覚ますように、解き放たれた。」(『愛の完成』p19)

 

「そうしてごくおもむろに、自分が現実にはここに存在していないかに思えてきた。まるでなにかしらがひとり彼女の内からはるばるとさまよい出て、空間と年月を抜け、いまどこかしら彼女から遠く離れたところで道に踏み迷ってふと目を覚まし、そして彼女自身はじつは依然としてあのとうに消えた夢の感情のもとにたたずんでいるかに……どこかしらで……ひとつの住まいが浮かぶ……男たちの姿が……恐ろしい、がんじがらめの不安……。それから、顔の紅潮する、唇のやわらかくなる感じ……そしていきなり、また誰かがやってくるという意識、ほつれた髪の、両の腕の、日頃と違う、すでに過去のものとなったはずの感触、自分がこの髪や腕とともにいまだに不実であるかのような……。そのとき、愛する人のために操を守りたいと、小心翼々とすがりつく願いのまっただ中からせつなくさしのべられた両手をゆっくりと力萎えさせながら、ひとつの思いが浮かんだ。《あたしたちは、お互いを知りあうその前から、お互いに不実だった》と。それはなかばしか存在しないものの静けさの中から輝き出る思い、ほとんどひとつの感情にすぎなかった。それは不思議にいとおしい苦さ、ちょうど海から起る風の中にときおり潮の香のそこはかとなく漂う、そんな苦さだった。いや、それは、《わたしたちは、お互いを知りあうその前から、お互いを愛しあっていた》という思いとほとんどかわりがなかった。彼女の内で突然、愛の果てしない緊張が、現に在るものを超えて、はるばると不実の中へ伸びていくかのように。そこからかつて愛が、あたかも永遠にお互いの間にとどまるそれ以前のかたちから、二人のもとへやってきたそのところへ。」(同上p50)

 

「またしても彼女は沈黙を守った。その沈黙を相手がどんなふうに誤解せずにいないかはわかったが、しかしそれも妙に心地よかった。自分の内には、行為には表わされず、行為からは何ひとつこうむらぬものがある。言葉の領分よりも深いところにあるがゆえに、おのれを弁明するすべも知らぬ何か、それを理解するためには、まずそれを愛さなくてはならない、それがおのれを愛するように、それを愛さなくてはならない何か、ただ夫とだけ分かち合っているそんな何かが自分の内にあることを、彼女はこうして沈黙を守っていると、いよいよ強く感じた。それは内なる合一だった。それにひきかえ自分の存在の表面は、彼女はこれをこの縁もない男にゆだねて、男が醜くゆがめていくままにまかせた。」(同上p66)

 

「おそらくそのときでも、彼女は愛する人にこの肉体を捧げたいという願いのほかに何ひとつ心にいだいていなかった。しかしさまざまな精神の価値の根深い揺らぎに戦慄させられて、その願いはあの縁もない男への欲求のごとく彼女をとらえた。そしてたとえこの肉体において、自分を砕き去る暴力をこうむることになろうと、なおかつこの肉体を通じて自分を自分として感じるだろう、とその可能性を見つめ、あらゆる精神の決断を微妙に避けるこの肉体の自己感覚の前で、暗く空虚に彼女をつつみこむものを前にしたようにおののくうちに、彼女はおのれの肉体にせつなく誘われた。この肉体をつきはなしてみたいと。官能に溺れてわが身を守るすべも知らぬまま、無縁の男にこの肉体を組み伏せられ、ナイフで裂かれるようにひらかれるのを感じたい、この肉体を恐怖と嫌悪と暴力と不本意な身悶えとに満たされたい、と。こうして、奇妙にも最後の誠実さにまでひらいた貞操の中で、この虚無のまわりに、この動揺の、この混沌とした拡散の、この病む魂の静けさのまわりに、なおかつおのれの肉体を、まるで現ならぬ傷口、ひとつに癒着しようとはてしもなく繰りかえされる努力の痛みの中から、むなしく相手を求める傷口の縁と感じとるために。」(同上p78)

 

「あのとき、ある思いがひそかに彼女の心をおそったものだった。どこかしら、この人間たちのあいだに、ひとりの人間が暮らしている、自分にはふさわしくない人間が、あかの他人が。しかし自分はこの人間にふさわしい女にもなれたかもしれないのだ。もしもそうなっていたとしたら、今日ある《私》については、何ひとつ知らずにいたはずだ。なぜといって、感情というものはほかの感情とひとすじに長くつながって、お互い支えあって、はじめて生きながらえるものなのだ。生活の一点がほかの一点に隙間なくつながること、それだけが大切なことなのだ。やり方は幾百となくある。夫を愛しはじめてからというものはじめて、これは偶然なのだという思いが彼女の心をつきぬけた。これは偶然なのだ、これはかつてなにやらひとつの偶然によって現実となった。それ以来、自分はこれをつかんで離さずにいると。このときはじめて彼女は自分というものを、その奥底にいたるまで不明瞭なものと感じ、彼女の愛における究極の自我感に触れた。みずから根を断ち、絶対というものを砕き、もはや顔というものをもたぬ究極の自我感に。それはいつもなら彼女をくりかえし彼女たらしめてくれただろうに、いまでは誰からも区別しなかった。彼女はふたたびものぐるおしい、現実とならぬ、どこにも安住できぬ境へ、身を沈めなくてはならぬ気がした。そしてひとけない表通りのわびしさの中を走り、家々の内をのぞきこみ、自分の靴の踵が敷石を打つ音のほかには、どんな道づれもほしくなかった。この音の中に、彼女はただ生きてあるだけのものにまで狭められて駆ける自分自身を聴きとった。あるときは自分の前に、あるときはうしろに。」(同上p82)

 

「そのとき、彼女は自分の肉体があらゆる嫌悪にもかかわらず快楽に満たされてくるのを、身ぶるいとともに感じた。しかし同時に、彼女はいつか春の日に感じたことを思い出した心地がした。こうしてすべての人間たちのためにあって、それでいて、ひたすら一人のためのようにあることもできるのだと。そしてはるか遠くに、子供たちが神のことを思って、神さまは大きいんだと言うように、彼女は自分の愛の姿を思い浮かべた。」(同上p97)

 

「明るくなるにつれて、ヨハネスが死んだということが、彼女にはいよいよありそうにもなく思えてきた。それはもはやかすかに彼女に伴う思いにすぎず、彼女自身そこから抜け出していった。こうして彼への関係がふたたびごく遠いものになり、信じられぬものになるとともにしかし、二人を隔てていた最後の一線までがひらいていくかに見えた。甘美なやわらぎと、このうえもない親しさを、彼女は感じた。肉体の親しさよりも、魂の親しさだった。まるで彼の目から自身を眺めているような、そして触れあうたびに彼を感じとるばかりでなく、なんとも言いあらわしようもないふうに、彼がこの自分のことをどう感じているかをも感じとれる、そんな親しさであり、彼女にはそれが神秘な合一のように思えた。ときおり彼女はこう思った。あの人はあたしの守護天使なのだ。あの人はやってきて、あたしがその姿を認めると、また立ち去った。けれどこれからは、いつもあたしのそばにいてくれるだろう。あたしが着物を脱ぐとき、あたしを見ていてくれる、あたしが歩くと、あたしのスカートの下に隠れてついてくる。そしてあの人のまなざしは、たえずつきまとうほのかな疲れのように、ものやさしいことだろう。といっても、彼女はあのヨハネスについてそのことを思ったのではなかった。彼女がそれを感じたのは、あのどうでもよいヨハネスについてではなかった。彼女の内にさめた灰色に張りつめたものがあり、思いはそこを通り過ぎるとき、おぼろな姿が冬空の前に立ったように、白い輪郭を浮きあがらせる。そんな輪郭でしか、それはなかった。手探り求めるやさしさの輪郭でしか。それは静かに現われ……より鮮明になり、しかもそこにはなく……何ものでもなく、しかもすべてなのだ……。

 彼女はじっと座って、思いをもてあそんでいた。ひとつの世界がある。脇へそれた何かが、もうひとつの世界が、あるいはたったひとつの哀しみが……それはたとえて言うなら病熱と夢想とによって彩色された壁、その間では健康な人間たちの言葉は響かず、意味もなく地に落ちてしまう。またたとえて言うなら、その上を歩むには彼らの立居振舞いは重すぎる絨毯。それはごく薄くて、よく響く世界、その中を彼女は彼とともに歩み、そこでは彼女が何をおこなおうと、それに静けさが伴い、彼女が何を思おうと、それは入り組んだ通路を行くささやきのように、どこまでも走ってやまない……。」(『静かなヴェロニカの誘惑』p165)

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