2024年2月4日日曜日

山田いく子リバイバル(13)

 


(1)2001年2月15日 「(エハラ版)くるみ割り人形」)に出演。

 

・ネズミ役。一定の役割や性格をもたされることに抵抗している。これが、もう江原公演にでるのは最後だと手紙に書いたりしているが、次の、もう一公演参加することになる。ネズミは一匹なので、ソロ役にも近い。堂々とした、ドブネズミ、である。


※ この前年2000年冬に、すでに紹介した「小ダンスだより 冬」を催した。

(2)2001年3月17日  大阪スタジオパフォーマンス

 

2001.3.17山田いく子「ツェラン」(仮題)大阪スタジオ (youtube.com)

 

NAMの創立場所となった大阪スペースAKと関係しているのかはわからない。すでに前年11月に柄谷行人の『NAM原理』は太田出版からでており、東京のほうでもすでに活動ははじまっていたろう。いく子は大阪で活動するダンスグループの誘いにのって、このパウル・ツェランの詩朗読の声をバックにしたダンスを作ったと思われる。

 

織の中のライオンのように、客の前をいったりきたりするのが印象的だ。

 

(3)2001年7月29日 「小ダンスだより 夏」を、仲間とともに、たぶん、銀座の画廊を使ってなのではないかとおもうが、各ソロ舞台の小さな公演を催している。

 

2001.7.29山田いく子「小ダンスだより 夏」spacis33 (youtube.com)

 

(4)2002年2月16日 「(エハラ版)ピカソ考」に出演

 

・これが、江原組での、最後の共演となった。私は、この舞台を、客席でみた覚えがある。いく子とのつきあいがはじまっていたわけではない(それは、解散してからだったろう)。たぶん、NAM東京ではすでに知り合って、見に来てくれ、と言われたのだろう。客席まで案内された記憶がある。

 

そしてこの舞台からひと月もたたない3月3日、東京国分寺はカフェスローでの地域通貨イベントにおいて、私といく子の初めての共演がおこなわれた。

 

このような人生と思想的な軌跡を背景にした女性の前に、私はどんな意味をもって、あらわれたのだろうか?

 

     なお、手元の記録には残っていない舞台もあるようである。二人で作ったジオシティーズのHPでの、いく子紹介ページにて、2000年6月に「スーラ」を、なんらかの発表会で、振り付けを踊る、とある。また2001年10月には、「青空」、という自分の舞台を作っている。「ここに、立つほかありません」、といく子は紹介文を書きつけている。

0 件のコメント: