2021年1月1日金曜日

初夢をめぐって

 


池なのか川なのか、その岸の近くに、枯れ葉で埋まった水のなかに、よくみると、蛇がいるのがわかった。こげ茶の斑点をもってどくろを巻いていて、マムシかもしれないとおもい、蛇がうごいたところで、頭が三角なのがわかり、そうだと確認できた。結構太く、長い。修学旅行にきている感じがし、まわりに、子どもたちがいるようだった。私は蛇を、ほぼ真上から、右下にみている。蛇は、川岸にいた、さらに私の右下の、川岸で立っていた誰か、子供のほうへ体をくねらせて、這いのぼってくる。私は、誰かに、うごいちゃだめだよ、と心でおもう。蛇は、じっとしている子供の体をのぼり越して、今度は、私のほうへきた。私は、何かが正解しているとおもった。昨夜の夢で、おそらくはじめておばあちゃんの、父方の祖母がでてきた夢をみて、そのときも、何かが正解しているという夢だったが、目覚めたあとではもうそれが何だったのか思い出せずにいたのを、この蛇の夢を思い返し反芻しているうちに、何が正解だったのか、つきとめることができた。意識はすでに目覚めているという気がしたが、目をつむったまま、頭の中で、その蛇と正解を突き止めた夢を忘れないように、幾度か、繰り返し思い返して反芻していた。そして反芻しながら、その間に、幾度が寝入っていて、意識がさめるたびに、反芻をしていたのだろうと思い返し、またこのまま寝てしまったら、もう初夢を思い出せないだろうとおもった。目覚ましが鳴る時刻までに、まだ時間があるとおもったが、私は目を開けて、目覚めることにした。そうして枕元のスマホをとって、ワープロ・アプロを開いて、蛇の夢をメモしはじめた。が、しているうちに、何が正解だったのか、わすれてしまった。ただ、そのマムシが、おばあちゃんに似ているとおもった、とおもったのも、夢のなかであったことではないかと思い返した。どうも実家の門近くのブロック塀まえの庭で、洗濯を物干しに干していたら、西隣のお宅の方から、門をくぐっておばあちゃんはきたのだった。洗濯籠をもって、私をみあげた。私が、背が高かったのか、見おろしているような視点だった。おばあちゃんは、にこやかな感じで、わずかに笑っていた。私は、無理をしなくていいよ、といったかもしれない。そしてどう夢がつづいたのか、おもいだせなかったが、何かが、正解だったと気づく何かがあったのだ。そんな夢のなかの、私が見おろした視点、そして蛇が、おばあちゃんが、右下から私をみあげた視点が、似ているのである。その構図と、どこか落ち着いた、静かな雰囲気がである。蛇とおばあちゃんの目の表情も、似ていた気がする。それを、蛇の夢をみながら、私は気づいた。これは、昨夜みた夢と同じ夢なのではないか、と。ならば、蛇とおばあちゃんは、何をあらわしているのだろう? と私は、目をあけるまえの、意識と寝沈みの繰り返され、まどろんでいた状態のなかでか、分析もしていた。川と水がでてきたのだから、子どものころから何度も繰り返されてきた、私を飲み込むようせりあがる無意識の洪水の変相だろうか? だいぶしばらくまえの夢で、私はあふれんばかりの川の中にとびこんで人助けをしにいったり、上流へと泳いでいく夢もみていた。そのとき、もしかして、自分は、精神分析な対象になるトラウマのようなものを、とにかく克服したような心的常態になっているのだろうか、と考えさせられた。その延長で、今回の、おばあちゃんと蛇の夢がでてきているような気がする。なくなったおばあちゃんが呼んでいる、だの、蛇を夢見ると金運がある、などという世俗の伝説が当てはまるような、夢の雰囲気ではない。それは落ち着いていた。が、死者と、毒蛇があらわれたとき、私は、そこに、なにか危機が、危険なものが忍び寄っている、と夢の中でも感じとっていたとおもう。だから、川岸の子供に、動くな、と心でおもったのだ。その蛇も、おばあちゃんも、穏やかだった。私も、落ち着いていた。おそらく、次なる水準の試練に、私は入っているのだろう。それが、何か、どんなものなのか、私には気づけない。その気づきと盲目性が、正解だったが、何に正解だったのか、忘れた、思い出せない、出させない、という心的あり方に、あらわれているのだろう。

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