2012年7月21日土曜日

いじめと反原発運動

「ともあれ、私たちは「外国人化」している、あるいは「女性化」しているという事態は、ずっと以前からそうだったんです。ただし、一〇年前、フリーター労組を準備していたころは、このことの意味の全体がまだよくわかっていなかったのかもしれない。…(略)…いまようやくそのことの肯定的な側面、積極的な意義が、見えてきたような気がします。私自身がそれを確信できたということです。/ 「三・一ニ」を考えるとき、私がある意味でとても解放的な気分になっているとすれば、それは、「日本人ではない者になる」ということの肯定的な力を感じているからだと思います。この力が、あの日私の背中を押して、被曝被害から護ってくれたのです。」(矢部史郎著『3・12の思想』 以文社)
「しかしこれはすでに私たち日本人の”自尊心”の問題なのだ。今後ふたたび私たちが、ずるずると原発への依存に戻るようなことになれば、私たちはもはや「日本人であること」を誇りに思うことはできなくなる。…(略)…要するに、核のトラウマが一国の防衛戦略を決定づけているわけで、自由主義的な立場からすればこれほど非合理的でセンチメンタルな判断もないだろう。しかし私は、これを矜持ある選択と考える。軍備の放棄と核の拒否こそは、「日本人としての私」を思うとき、そのプライドの中核をなすものだ。」(「斉藤環の東北」毎日新聞・夕刊2012.7.18)

一希が同級生をいじめているのを、たまたま早く帰宅したさいに目撃することになったので、最近のその話題にふれてみたいとおもう。
当初は、こう考えていた。団地に遊びにくる子供世界をみてみると、ドラエモン世界でのジャイアンのような、古典的なボスがいるわけではない。むしろ、いじめる側といじめられる側がころころ反転する。これは、たとえば、あるものがあるオモチャをもっていると、その子がボスになり、ちがうオモチャではまた違う子がえばりだし、「貸してあげない」と持たざるをものをいじめだす。たとえ流行のおもちゃがあるとしても、それぞれが面白いおもちゃをもっているので、ころころボスがかわる。つまり、なお中流的な階層社会とテクノロジーの進展状況が、不透明ないじめ世界を作っているのだろう。携帯やネット世界に子どもたちが参加してくれば、単一メディアから支配的な影響を受けるというあり方でもなくなるので、親が何を言ってもつうじなくなるエイリアンのような存在になるのかな、と。ただ大枠の流れは、1980年代に経済力を謳歌した日本体制化で発生した「校内暴力」、その封じ込め抑圧の結果としての「いじめ」への転換、潜伏化、という情勢はかわっていないのだろうな、と。が、実際に自分の子がいじめているのをみて、そんな認識ではすまなくなった。父親としてだからどうするのか、と実践を突きつけられるからである。私は学校の先生や教育委員会の者たちのように、見て見ぬ振りをしなかっただろうか? 私が、あれはいじめだったのだ、と気づいた、あるいは、考えなおしたのは、翌日になってからである。集団で下校した子どもたちから少し離れて、二人の男の子がいた。ひとりのその仕草から、私は彼がそれまでもうひとりの子の首根っこあたりをつかんでふりまわしていたのだろうと推論した。みな同じ学帽なので誰かはわからなかったが、私はある一希の友人にみえた。その数日前、保護者会の席上、クラスの足の悪い子がいじめにあっているという報告を受けたと女房がいい、それが誰かと一希に尋ねると、その友人の名前があがったのを耳にしていたので、そう先入観したのかもしれない。が、次の瞬間、その子が一希であるとわかったのである。そのときはもう、二人は仲良しのような振舞いにもどっていた。私は息子を目にしたうれしさに自転車の呼び鈴をならしたが、一希は気づかなかった。私は「いじめ」という連想のことなど忘れて、コンビニによった。そして団地のエレベーターに乗る際、二人にまたおいついたのだった。一希はその、運動より勉強ができそうで、大人しいが女の子にもてるという友達をエレベータにのせまいと通せんぼしていた。「パパがのれないよ」というと、さえぎる手をおろして中にいれ、こういうのだった。「きみは自殺しそうな人、だいじょうぶか!」額に粒汗をいくつもかいている彼は、いかにも苦しそうか、苦しそうなふりをしていた。「この暑さじゃな」と、私は、暑くて死にそう、というやりとりを二人はしたんだな、と思った。先の階でエレベータを降りる私は、その子の頭をなでて、息子と外にでた。
が翌日の仕事中、何をきっかけにかは忘れたが、ふとその時のこと、エレベータを降りるときのその子の目の表情を思い出し、あれは「いじめ」だったんだな、暑くてかいた汗じゃない、いじめられるのが嫌で冷や汗をかいていたんだ、いじめられているのが見つかったかもしれない恥ずかしさ、気後れと、気づいてくれとあきらめながらも訴えてくる葛藤をもった目だ。おそらく一希は、弱々しいが、バレンタインのチョコレートをクラスで一番もらうというその友達に、嫉妬のような気持ちを抱いているのだろう。そして私は、それが「いじめ」だと瞬時には認識しながら、ゆえに見たくないと否認の作業を無意識にも続けてきたのだ。今はっきりとわかった以上、このまま黙って見すごすのは学校側や教育委員会のものたちと同じになってしまう。しかし、どう息子に話かけたらいい?
……いじめ自体は、子どもの世界でも大人の世界でも、人の集まるところなら自然発生的に生じずる事象にすぎないだろう。しかしここでいう自然とは幼児、ということと同義になり、大人はその社会的意味、効果を前もって了解し、それでもやるぞと責任主体的な残酷さに自覚的だろう。だから問題なのは、そのまま大人、というより、中・高生になってしまうことにある。幼児のまま、面白おかしくすごしていいればいい、それが生きることの普通だ、という意識のままに、である。まがりなりにも、真剣という理念的切断線が生に介入している運動部のシメ、それに近いジャイアンのような古典的ボスの暴力とも違う。人間的に小さいままの、幼いままのふるまい。一希が、夕食まえ、小鳥のピータをつかまえていやがって鳴くにまかせている時をとらえて、「おまえきのう〇〇くんをいじめていただろう」ときりだす。「おまえは、自分がいじめていることを知っていて、だからいじめられるものは自殺するというニュースのまねをして、〇〇くんは自殺するんだ、といったんだろ?」一希は否定して、はぐらかすようにふざけはじめるが、どういえば実践的な説得力をもつのだろうか? 私は、一希が磔にされたイエスに興味をもって、ほんとうにこんな神さまいるの? と問うてくる力を信じて付け足す。「汝の欲せざるところを人にほどこすことなかれ。自分がいやがることを他のひとにやってはいけない、というのがイエスの教えだよ。自分がそうでないとおもっても、相手がいやがっているなら、それはいじめなんだよ。人間はピータ君じゃない。ほんとに死んじゃったら、どうする? いっちゃんは、牢屋にはいるんだからね。」……私は、自分が「リトル・ピープル」になったような気がした。いまはとにかくも、「いじめ」を認識した、という一事を、女房ともに、家庭内で共有してみるだけでよいだろう。問題がもう少し大きくなったとしたら、そのときは担任クラス側と共有していく手立てを試みればいいだろう。しかしその時でも、なんと力のない言葉であるだろう。父親的な権威がまるでない。いやあるのだが、やはり一希は女房をしかりとばす私をおそれて恐縮するのだが、説得的な力がない、というか、その論理が自分でも空々しい。イエスの力を借りるとは! だからその現実的な効能(牢屋)のことを付け足すのだが、私は、宮台氏の、「良いことはもうかる」という世俗論理が説得力をもつとはおもっていない。そんな言葉に説得される人間など信用できるのか? 自分の息子に、そんな人間になってほしくない。

が、父親権威的な論理力の幼児(母子)関係への介入・切断の希薄さ、その歴史的・時代情勢的言説の布置が、自然をのさばらせている、幼児のいじめのまま、中・高生へと、果ては大人になってからの幼児虐待への心情へとつながっているのではないか? ――そして、反原発運動の一面の潮流として、そのような自然ののざばり、ゆきすぎた自然を感じるのである。冒頭で引用した二つのもののうち、私の心情に近いのは斎藤氏のほうである。”恥じをしれ!” それが、厚顔無恥な総理官邸への私の抗議の言葉だ。そしてそういう日本人としての一面もが、官邸前でのデモにも集結していることを私は推論している。

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